ローカル線の回顧録

1970年代後半から2000年頃までのローカル線の記録

第1175話 1995年近鉄(伊賀):ここも「お荷物!」

近鉄北勢線の220系がなくなり、養老線からも吊掛車がいなくなると、近鉄とは縁が切れてしまいました。ところが、近鉄大阪線に乗ると、いつものように伊賀神戸で見かける変な近鉄電車が無性に気になり、ある日、伊賀神戸で途中下車して変な近鉄電車を追ってみました。

 

1.ク767+モ867 (伊賀神戸~比土:1995年8月)

変な近鉄電車とは、サイズがちょっと小さく2扉車で、大阪近辺では見かけない車両でした。全く私の趣味の範疇ではありませんが、この中途半端な車両の素性を調べると、元近鉄奈良線の車両だったと言うことで、これでも奈良線車両の大型化に貢献した車両だそうです。

 

2.ク766+モ866 (伊賀神戸~比土:1995年8月)

正確には、元奈良線の820系ですが、奈良線はさらなる車両の大型化により、全車が20m4扉車化されると、820系は居場所がなくなり、伊賀の山中に流れ着きました。この時点では伊賀線専属として狭軌化され860系を名乗っていました。

 

3.ク766+モ866 (比土~上林:1995年8月)

近鉄奈良線と言えば、やはり近鉄版湘南電車の800系が有名ですが、820系はその増備車で全く目立たない存在でした。ところが、流れ着いた伊賀線にはジャストフィットした様です。いつの間にか、伊賀線の全列車が860系になっていました。こんな山中を走るのにクーラー付きのカルダン車です。同じ近鉄養老線に比べてこの格差は何なのか?

 

4.ク767+モ867 (伊賀神戸:1995年8月)

しかし、近鉄伊賀線ばかりえこひいきしているわけではありませんでした。やはり、伊賀線近鉄が手を焼く不採算路線だったので、いつまでも大近鉄の隠れ蓑が守ってはくれませんでした。

 

5.モ867+ク767 (上野市:1995年8月)

さて、この頃の伊賀線は、すでに近鉄標準の新塗装になっていましたが、なぜか前面の塗り方が2通りありました。このモ867は前面窓周りが白く塗られていました。これは本線車両のスタンダードでした。

 

6.モ863+ク763 (上野市:1995年8月)

一方、モ863は前面窓回りが白くありません。手抜きなのか塗り忘れなのか?しかし、こちらの方が落ち着いていて好ましいです。どうせなら、元の近鉄マルーン一色が一番似合うと思うのですが・・・。

 

7.モ863+ク763 (上野市:1995年8月)

まあ、塗装はどうであれ、この頃の伊賀線はこの860系しかいませんでした。本当は860系が配属されるまで主役であった5000系が魅力的な電車だったのですが、1985年にいなくなりました。

第1174話 1997年南部縦貫:オッと、続行運転!!(その3)

この日の撮影は午後からでしたが、坪川から西千曳まで歩きながら撮影を行いました。そして、予期せぬ続行列車のお陰で、予定よりも多くの写真が撮れました。

 

1.キハ101 (西千曳~後平:1997年4月)

後平から西千曳までは、鬱蒼とした森の中に線路が敷かれていました。人家もなく無人地帯でした。坪川では大勢の同好者がいましたが、さすがに、この無人地帯を歩いていた人は私くらいでした。しかし、この周辺は開けた場所がほとんどありません。そろそろ列車が来る頃です。何とか陽の当たる場所を見つけて、キハ101を撮りました。

 

2.キハ102 (西千曳~後平:1997年4月)

森を抜けるともうすぐ西千曳です。線路は築堤となり並行する道路から撮影ができました。

 

3.キハ102 (西千曳~後平:1997年4月)

どの列車も大盛況で、続行運転は続きましたが、たまにはレールバスの2連も見てみたいものです。レールバスは機械式なので、2連の場合も各車に運転手さんが乗務することになると思いますが・・・。

 

4.キハ101 (西千曳~野辺地:1997年4月)

東北本線区間を走るキハ101です。西千曳~野辺地間は元々東北本線でした。かつて、南部縦貫鉄道の起点は東北本線の旧線の千曳でした。この近辺の東北本線が新線に切り替わった際に、新線に新しい千曳駅ができ、旧線の千曳駅東北本線と切り離されてしまい、南部縦貫鉄道東北本線の接続ができなくなりました。よって、旧線の千曳駅は西千曳駅となり、この西千曳~野辺地間の旧東北本線南部縦貫鉄道が借用して運行を続けました。

 

5.キハ102 (西千曳~野辺地:1997年4月)

写真のレールバスの右側には駅のホームらしき構造物が見えますが、ここは旧東北本線千曳駅のホーム跡です。さすがに元東北本線の駅なのでホームは長いですが、レールバスは通過です。

 

6.キハ102 (野辺地~西千曳1997年4月)

この長いホームは、以前は南部縦貫鉄道の西千曳駅として使用されていましたが、この時点の西千曳駅は、旧駅より少し七戸側に移転して、小さな停留所になっていました。さて、この日はもう日没なので、野辺地のビジネス旅館に投宿です。翌日以降の撮影状況は何回かに分けて、別途お伝えします。

第1173話 1997年南部縦貫:オッと、続行運転!!(その2)

この日の南部縦貫鉄道は乗客が多かったとは言え、レールバスを続行運転していたとは驚きでした。そんなに人が集まるとは、改めてレールバスの人気を実感しましたが、私も含めて、なくなる時に集まっても意味がありません。

 

1.キハ101 (道ノ上~坪川:1997年4月)

結局、続行のキハ101も先行のキハ102と同じような撮影となりましたが、ヘッドマークなしの微妙な違いが何とも嬉しかったです。私的にはヘッドマークなしの方を歓迎します。

 

2.キハ101 (道ノ上~坪川:1997年4月)

しかしながら、南部縦貫鉄道は列車本数が少ないので、この日は午後の3往復の撮影しか撮れないと思っていましたが、続行運転があると言うことは、最大で6往復分の撮影ができることになります。大阪から高額を払って飛行機で来た甲斐がありました。

 

3.キハ101 (道ノ上~坪川:1997年4月)

天気も良く、撮影に気合が入ります。さて、続行列車が行ってしまうと、いよいよ次の撮影場所探しです。今回は初めて野辺地方面に歩いて移動です。

 

4.キハ101 (坪~後平1997年4月)

坪を過ぎると広大な原野?となります。折り返しの列車も、間違いなく続行でやって来るはずなので、思わず欲張って撮影ポイントが目移りしてしまいますが、続行間隔は5~10分程度でしょうか、そんなに移動はできません。手堅く先行列車は線路際、続行列車は少し離れた場所から撮影、そんな程度です。

 

5.キハ102 (坪~後平1997年4月)

続行列車はノンストップ運転なのか、まだ撮影ポイントが定まらない状況でしたが、先行列車を追いかけてすぐにやって来ました。慌てて撮影したものの、高圧線が興覚めする不本意な写真となってしまいました。撮影チャンスが増えても、これでは意味がありません。

 

6.キハ102 (坪~後平1997年4月)

そして、リカバリーの連写です。「後の矢を頼みて・・・」とは、まさにこのことですが、そのような写真が上手く撮れたためしはありません。今回もご覧の結果です。

第1172話 1997年南部縦貫:オッと、続行運転!!

南部縦貫鉄道が営業運転を休止したのは1997年5月でした。早いもので、もう27年前のことです。あくまでも休止と言うことで廃止ではありませんでしたが、走れば走るほど赤字が膨らむので、やむを得ない判断だった様です。とうとう「メルヘンの世界」は現実に負けてしまいました。その後の休止期間は、野辺地~西千曳間の軌道用地(=国鉄清算事業団からの借用地)購入など、東北新幹線の青森開業を目論んで水面下の復活活動は続きましたが、なかなか実現しない新幹線開業に痺れを切らして、2002年8月1日をもって正式に廃止されました。

そんな南部縦貫鉄道の休止目前だった1997年のGWに、元祖レールバスの最後の活躍を見に行きました。

 

1.キハ102 (道ノ上~坪川:1997年4月)

この日は大阪から飛行機で青森へ向かい、南部縦貫の午後の運行に何とか間に合いました。最初の撮影は坪川です。勝手知ったる「禁断の路線バス」で出向いてみると、やはり休止間近の連休だったので、結構多くの同行者がいました。

 

2.キハ102 (道ノ上~坪川:1997年4月)

この場所で、こんなに多くの人を見るのは初めてでした。初っ端からうんざりでしたが、幸い皆さん同じような場所で撮影していたので、お互いを撮ることもなく、落ち着いて撮影できました。

 

3.キハ102 (道ノ上~坪川:1997年4月)

最初に現れたのは、サヨナラのヘッドマークを付けたキハ102でした。なんと小さなレールバスの車内はギュウギュウ詰めの大混雑です。まるで耐久試験をやっている様です。

 

4.キハ102 (道ノ上~坪川:1997年4月)

この日は、「乗り鉄」も「撮り鉄」も大挙してレールバスにたかっていました。果たして、このレールバスにこんなに人が乗ったことがあったのか?老体のレールバスが最終日を目前にして壊れてしまわないか心配です。

 

5.キハ102 (道ノ上~坪川:1997年4月)

レールバスは坪川橋梁を渡り、野辺地へ向かいました。さて、折り返しが戻って来るので撮影場所の移動ですが、皆さん動こうとしません。折り返しもここで撮影するつもりなのか?

 

6.キハ101 (道ノ上~坪川:1997年4月)

・・・・と、思っていたら、続行でキハ101が来ました。慌てて撮影です。キハ101はヘッドマークなしです。まさか続行で来るとは思いませんでしたが、ここに居た皆さんは続行運転を知っていた様です。レールバス1両では運び切れないほど混雑していたわけですが、連結運転ではなく続行というのがなんともアバウトです。

第1171話 1994年野上:撮影禁止令布告(その4)

朝のラッシュが終わり、日方に戻りました。今回は車庫の様子です。しかし、この頃になると、車庫内の立ち入りは許可されず、日方駅、列車内の「撮影禁止令」が布告されていました。ならば、車庫の外から撮影です。

 

1.モハ31+モハ32 (日方:1994年2月)

この日は土曜日だったので、ラッシュ時の2連は1本しか運行されず、この元阪神の明かり窓コンビはお休みでした。正直、どこまでが日方駅なのか、よくわかりませんでしたが、勝手な解釈で、撮影させて頂きました。

 

2.日方構内全景 (日方:1994年2月)

ここから先は立ち入り禁止!!連絡口から車庫を覗くと、こんな感じでした。モハ27とデ13以外の車両が昼寝中です。この光景もまもなく見納めです。

 

3.モハ25+モハ26、デ11 (日方:1994年2月)

車庫に入れないので仕方なく、頑張ってズームで撮影です。この電車たちはいずれも先ほどまで走っていました。

 

4.クハ104、モハ24 (日方:1994年2月)

クハ104とモハ24(アーモンドチョコ)は、車庫の奥に突っ込まれていました。クハ104はもう使われていないようです。モハ24は、やはりアーモンドチョコ塗装のまま最後を迎える様です。

 

5.モハ25+モハ26 (日方:1994年2月)

さて、野上電鉄が廃止されると、これらの車両はどいうなってしまうのか?野上電鉄は会社解散となるので、会社として車両を保存する余裕などあるわけがありません。願わくば、地元の自治体や有志者に1両でも多く引き取ってもらいたい・・・。

 

6.モハ27 (日方:1994年2月)

あと1か月少々で野上電鉄は廃止となり、会社自体が解散となります。この日はまだ、サヨナラムードではなく、マニアの姿もほとんどありませんでしたが、3月になるとマニアが押し寄せました。私もその一人ですが、なにやらマニアと電鉄が不穏な雰囲気になってきました。

第1170話 1994年野上:撮影禁止令布告(その3)

野上電鉄の廃止まで、残すところ1か月ほどでしたが、この日は意外にもマニア風の人を見ませんでした。いつもと変わらぬ日常を撮影できたので、それは結構なことですが、誰からも相手にされていない様で、逆に哀れに思いました。

 

1.モハ27 (動木~野上中:1994年2月)

こんどは撮影場所を少し下って、動木周辺の渓谷です。モハ27が再び現れました。この渓谷周辺は以前からさんざん撮影をしてたので、何か変わり映えを求めて、周辺を歩き回りました。お陰で動木の地形に詳しくなりましたが、何の役にも立ちません。

 

2.デ13 (動木:1994年2月)

ここは動木駅です。少し高い場所から見ると、模型を見ているようです。カーブしたホームの先には小さな鉄橋があり、猫の額の様な構内には、小さなき電変電所がありました。

 

3.デ13 (動木:1994年2月)

窮屈な駅に小柄なデ13がお似合いです。動木駅の周辺は狭い平地に住宅や農地が密集しており、独特の景観でした。最近はこのような地形を見ると、自然災害が気になってしょうがないのですが、この辺りは大丈夫なのでしょうか?

 

4.デ13 (動木~野上中:1994年2月)

動木駅を俯瞰した場所から渓谷をズームすると、先ほどのデ13が見えました。その傍らには無駄な投資に終わったコンクリート柱が転がっています。これは転用されたのか?

 

5.モハ27 (動木~野上中:1994年2月)

この日は、モハ27が日中の運用に残った様です。ならば、夕方までモハ27を追いかけたいところですが、天気予報は午後から雨。天気の良いうちに撮影です。

 

6.デ13 (動木~野上中:1994年2月)

新たな撮影場所を求めて、あちこち歩き回ったあげく、結局河原に降りてしまいました。この時期は水量が少なく、河原でも撮影が可能でしたが、この場所では以前にも同じような構図で何回も撮っています。そろそろ飽きてきたので日方に戻ります。

第1169話 1994年野上:撮影禁止令布告(その2)

早朝から下佐々周辺で撮影していたので、少し休憩をとるため撮影の合間に、終点の登山口へ行ってみました。

 

1.登山口駅 (登山口:1994年2月)

登山口は閑散としていました。この駅は、ここから紀伊山地の山間へ向かうバスの中継地ですが、電車が廃止されたらバスは海南へ直通するのか?しかし、この頃は道路が狭く、小型のバスしか通れない状況でした。

 

2.クハ101+クハ102 (登山口:1994年2月)

登山口の引き上げ線には、相変わらずクハが2両留置されていました。この2両は、朝の3連がなくなり余剰となったものの、まだ廃車ではありませんでした。もう十分に朽ちていますが、このまま終焉です。

 

3.モハ27 (登山口~下佐々:1994年2月)

再び下佐々に戻り撮影の続きです。こんどは本日初登場のモハ27ですが、2連ではなくまた単行です。この日は土曜日でしたが、乗客がいないので、やはり2連の本数を減らした様です。

 

4.モハ27 (登山口~下佐々:1994年2月)

まだラッシュ時間帯ですが、もう2連は来ない様でした。先程から、単行が3列車確認されましたが、このモハ27とデ11,デ13です。このうち、2両がラッシュ後の運用に残りますが、さあどれなのか?

 

5.デ11 (登山口~下佐々:1994年2月)

富山育ちのデ10形は、野上電車の中ではまだ若い1951年製でした。しかし、もう転職先はなく、保存の引き取り手もなさそうでした。同系車が34両も製造された電車でしたが、最後は加越能鉄道万葉線)に残ったデ5022だけとなってしまいました。

 

6.デ11 (下佐々:1994年2月)

下佐々を去るデ11です。こんな日常光景もあと1か月少々でした。

 

7.デ13 (竜光寺前~動木:1994年2月)

動木の切通しを行くデ13です。この辺はまともな道路も作れないほどの山峡の地形なので、鉄道用地もこのように削って作られました。野上電車がなくなると、小型バスしか交通手段がなくなりますが、道路事情も悪く、小型バスでは混み、時間通りに走れるのか、とても不便になりそうです。