人気ブログランキング | 話題のタグを見る

18→81


主なテーマ、最近は映画ばかりになってしまいましたが、この何年か海外旅行にも興味があって、もともとは鉄道旅、高校演劇、本などが中心のブログだったのですが、年を取って、あと何年元気でいられるかと考えるようになって、興味の対象は日々移っているのです。
by natsu
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31
最新の記事
最新のコメント
記事ランキング

映画「青春ジャック/止められるか、俺たちを 2」

映画「青春ジャック/止められるか、俺たちを 2」_e0320083_16061673.jpg
 前作「止められるか、俺たちを」(2018年、監督:白石和彌)で脚本を担当した井上淳一が、この映画では脚本とともに監督も務めている。一応続編のようなかたちになっているが、若松孝二を井浦新が演じた以外は前作とのつながりはない。前作が1970年ごろの若松プロ黎明期を描いていたのに対し、こちらが描くのは1980年代、若松孝二が名古屋に立ち上げたミニシアター「シネマスコーレ」の黎明期(1983年開館)を背景とした群像劇である。
 「シネマスコーレ」という映画館の存在は知っていたが、若松孝二が作った映画館だったというのは知らなかった。前作もそうだったが、わたしは若松孝二という映画監督のことを誤解していたと思った。若松プロのことも、低予算でピンク映画を量産したことに囚われ過ぎて見ていたのかもしれない。井上淳一監督は「シネマスコーレ」を通して若松孝二の「弟子」になった人らしいが、若松プロでの「修行」の日々を数々の失敗談とともに描きながら、「師匠」である若松孝二の「人となり」を見事にクローズアップしていた。白石和彌が描いた若松孝二も良かったが、井上淳一はみずからの才能のなさを若松に容赦なく指摘され、何度も心折れそうになりながら、それでも諦めることなく付いて行ったことで、若松孝二の中にあった「理詰めの優しさ」といったところ、なかなか見えにくい内面の部分を鮮やかに描き出していたと思う。
 実際の若松孝二がどんなだったのかは判らないが、白石和彌も井上淳一も井浦新を措いて若松孝二を演じられる役者はいないと言っているのだから、観る側は井浦新が若松孝二なのだと思っていいということになるのだろう。井浦新は若松孝二の人情味ある人間像を非常に魅力的に演じていたと思う。これなら、何と言われようとみんなが付いていきたくなるだろうと納得した。

 この映画はもともと、「シネマスコーレ」の支配人だった木全純治(東出昌大)と若松孝二を主人公として企画されたものだったらしい。ところが、井上淳一がプログラム(若松プロでは公式ブックと呼ぶようだが、1000円・124ページの力作だった)で語っているように、木全支配人があまりに「ユルい人」だったので、物語に必要な対立と葛藤を作り出すことができず、苦肉の策として自身も含めた初期の「シネマスコーレ」に引き寄せられた若者たちをクローズアップすることにしたらしい。結果的にそのことが、前作同様、若松孝二に引き寄せられた若い世代のドラマを浮かび上がらせ、同時に若松孝二の、人を引きつけて離さない人間的魅力を際立たせることにつながったのだと思う。一見強面で乱暴にも見える言動の中に、意外にも思いやりに満ちた生真面目さが隠れていることを、井上淳一と井浦新は鮮やかに描き出して見せていたと思う。
 去年観た「銀平町シネマブルース」(監督:城定秀夫)の梶原支配人(吹越満)もけっこうユルい人だったが、赤字経営を覚悟しなければならない小さな映画館の支配人は、ユルい人でないと務まらないということなのだろうか。ともあれ「スコーレ」の木全支配人のユルさが、ここに集まって来た若者たちを温かく包んでいたことも大きかったのではないだろうか。そもそも若松孝二が映画館経営を始めると決めた時、現場を任せる支配人としてこの男に白羽の矢を立てたことが慧眼だったということなのかもしれない。井上淳一監督は、映画好きなだけで要領も悪く不器用だった自身のことを映画に登場させるのには躊躇もあったようだが、いざやってみると「自分のことなら、容赦なくどこまでもヘタレに書いちゃっていい」ことが判り、そこを軸にすることでこの映画の基本ラインが定まっていったらしい。映画で井上淳一を演じたのは杉田雷麟(らいる)という若手俳優だったが、ヘタレだけれどへこたれない若者像を上手くかたちにしていたと思った。
 映画の井上は最初、名古屋の河合塾に通う予備校生として登場してくるのだが、予備校生の増加で拡大の一途をたどっていた当時の河合塾の、いまではとても考えられないような型破りな実態が点描されていて楽しかった。愛知県体育館や武道館などで盛大に行われていた河合塾の入塾式で、30分ほどの河合塾紹介映画が上映されることになり、その製作を依頼されたのが若松プロだったというのも信じ難いが本当のことだったらしい。若松孝二に指名されてこれを撮ったのが若き日の井上淳一監督で、若松の容赦のない罵声を浴びながら、杉田雷麟の井上が右往左往するさまがコミカルな感じで写し取られていた。自分のことをこんなふうに距離を取って見返すという作業が、この映画の井上淳一監督の達観したような視点を形作っていったのかもしれない。それはなかなか好ましいことだったのではないか。
 映画好きの若者のもう一人として登場してくる金本法子(芋生悠)も印象的だった。井上が若松孝二と積極的に接点を持つことで曲がりなりにも映画への夢を実現していったのに対し、彼女の方は大学の映研での自主映画(8ミリ映画だ)の頓挫を引き摺ったまま、みずからの「映画好き」がこれからどう進んで行けばいいのかを見つけられないでいる。「シネマスコーレ」での彼女は、いろいろな出来事をいつも間近から目撃する位置にいるのだが、何となく斜めに構えて何かに怒っているような不機嫌な姿勢が目立つのである。実は彼女は在日コリアン(本名は金法子=キム・ポッチャ)なのだが、終盤「スコーレ」の屋上でそのことを井上と木全支配人に告げるシーンはなかなか良かった。プログラムには映画の決定稿シナリオが載っていたが、このシーンは三人三様の思いが見事に交錯して、脚本家・井上淳一の力量が遺憾なく発揮された素晴らしいシーンになっていたように感じた。

 井上監督は映画の中で、撮影時に監督が掛けるカットのタイミングがいつも悪いと若松孝二から怒られていた。実はこの映画で井上監督は、上記の屋上シーンの後に、時空を飛び越えて若松孝二の死(2012年)を暗示したり、本物の木全純治支配人が突然登場したりするという、意図不明の思わせぶりなシーンを付け加えているのである。これらの付け足しは果たして必要なものだったのか。
 わたしは上記の屋上でのやり取りで三人が抱えてきたものが鮮明に見えたし、下の路上で若松孝二がそんな三人を待っているという構図にグッと来ていたので、何だかはぐらかされたような気がして仕方がなかった。わたしとしては、屋上シーンで終わっていれば何とも憎い終わり方だなと感心したに違いないし、この付け足しを若松孝二ならどう評するかを聞いてみたい気がした。もちろん、それでもこの映画が愛すべき佳作なのは変わらないと思うが、どうも井上監督は映画全体のカットのタイミングを誤ったように思えて仕方がなかったのである。
(アップリンク吉祥寺、3月21日)

# by krmtdir90 | 2024-03-23 16:13 | 映画 | Comments(0)

映画「デューン 砂の惑星 PART2」

映画「デューン 砂の惑星 PART2」_e0320083_20275227.jpg
 2021年に公開された「DUNE/デューン 砂の惑星」の続編である(監督ドゥニ・ヴィルヌーヴを始め主要キャストも前作と同じで、当初からこのPART2の製作が決まっていたようだ)。前作は観ているが、それほど凄い代物と思ったわけではないので、別に観なくてもよかったのだが、SF映画はけっこう好きなので何となく出掛けてしまった。前作をちゃんと憶えているわけではないが、今回は大がかりな戦闘シーンなどもあり、格段にスケールアップされたシーンが連続していたように感じた。VFX技術の進化もあり、近ごろでは少々のことでは驚かなくなってしまっているが、この映画では砂漠などの実写シーンの美しさとの組み合わせが見事で、腹に響く重低音を強調したSE・MEも効果的に使われ、非常にスケール感が感じられる映画になっていたと思う。原作を読んでいないが、原作が本来持っていたと思われるSF的な雄大さが、最新のデジタル技術を縦横に生かすことで表現されていたのではないだろうか。
 ただ、まあ、それはそれだけのことであって、ストーリーの方は取り立てて書いておきたいことがあったわけではない。いろんな登場人物が出てきて、いろんなかたちで絡み合っていたのだが、個々のキャラクター設定などはやはり類型的だったし、ストーリー展開も案外陳腐で目新しいところは見つけられない気がした。主人公のポール・アトレイデス(ティモシー・シャラメ)が、前作から続く宿敵ハルコネン家を打倒すべく闘うというのがメインストーリーで、一方で彼の成長物語という側面もあったのだが、ポイントになるところでの彼の葛藤などがきちんと描けているとは言い難い気がした。要するに、登場人物がみんな、これは「いい方」でこれは「悪い方」といった色分けの下で描かれている感じがして、この種の映画ではそれでいいのかもしれないが、思いがけない展開というようなものはここではあまり重視されていなかったようだ。
 土着の民フレメンの娘チャニ(ゼンデイヤ)との恋模様なども、判りやすいけれどあまり描けているようには思えなかった。最後にポールが、この惑星での権力奪取のために、一種の政略結婚にみずから舵を切るところが唯一の意外な展開だったが、それが彼の勝利に向けては必要なことだったとしても、PART3で(製作されるのであれば)そのあたりがどう決着するのかはちょっと気になるところではある。西暦10190年というとんでもない未来を設定しながら、登場する人間たちはきわめて古くさい価値観に囚われているのがこうした映画の常道なのだが、それにしてもこんな強権的な支配体制が続いていることとか、秘密の武器として核弾頭が保管されているというようなことが描かれていたのは、いくらなんでもそれはないだろうと思わないではいられなかった。総じて楽しめたのだから、あまり細かいことは言わない方がいいのは判っているのだけれど。
(立川シネマシティ2、3月19日)

# by krmtdir90 | 2024-03-20 20:28 | 映画 | Comments(0)

映画「カムイのうた」

映画「カムイのうた」_e0320083_21350583.jpg
 特に目新しいところのある映画ではない。映画としてはむしろ古くさい作りの映画だと思う。しかし、いまこの映画が作られた意義というのは確かにあると言うべきで、題材に対する誠実な(生真面目と言ってもいい)アプローチは好感が持てるものだった。冒頭に実話であると字幕が出るが、アイヌの口承文芸ユーカラを初めて記録翻訳し、19歳の若さで生涯を閉じた知里幸惠というアイヌ女性を描いている。
 知里幸惠が生きた1903(明治36)~1922(大正11)年というのは、北海道各地に多くの和人が移り住み、開拓の名の下に原住民アイヌの生活を破壊していった時期である。彼女は登別の生まれで、旭川の近文にあったアイヌ集落(コタン)に住んでいたようだ。学齢となり、最初は和人と同じ尋常小学校に入ったが、ほどなくアイヌの子どもを分離する政策が施行され、そちらの尋常小学校に通わなければならなくなった。ずっと成績優秀だった彼女は、さらに女学校への進学を希望するが、当時の女学校はアイヌに対して門戸を開いておらず、結局旭川にあった女子職業学校に入学することになる。ここも、彼女はアイヌとして初めての入学生だったようだ。
 当時のアイヌは和人から土人と呼ばれて蔑まれ、様々な差別や嫌がらせを受けていた。映画の中で知里幸惠は北里テルという名前で登場してくる(=吉田美月喜)が、彼女が学校生活などで受けた様々な差別やいじめの様子がしっかり描かれている。菅原浩志監督(脚本も)は、歴史の中でアイヌ民族が舐めてきた辛酸の数々を具体的な描写で記録しようとしていた。それは、和人の一人である菅原監督が、ユーカラを始めとするアイヌ文化と謙虚に向き合い、それを誤りなく伝えようとした誠実な姿勢の表れであり、そのリスペクトが画面の隅々から感じ取れていたと思う。
 アイヌということで甘受させられる様々な理不尽に、生きる希望を失いかけていた知里幸惠に、アイヌ文化の素晴らしさを説き、ユーカラの採取と日本語への翻訳を勧めたのは、たまたま近文のコタンを訪れていた言語学者の金田一京助(映画では兼田教授の役名で登場する=加藤雅也)だったらしい。15歳だった知里幸惠は彼の言葉に励まされ、伯母・金成マツ(映画の役名はイヌイェマツ)から伝え聞いていたユーカラのすべてを記録していくのである。彼女が記録したユーカラは金田一の尽力で1923(大正12)年に「アイヌ神謡集」として出版されるが、著者・知里幸惠はそれを見ぬままこの世を去ったのだという。
 伯母・イヌイェマツに扮したのはミュージカルの舞台などで活躍している島田歌穂(わたしは知らなかった)だったが、彼女が再現して歌ってくれたユーカラは素晴らしいものだった。他のアイヌ語の会話などには字幕が入っていたのに、この歌詞に字幕が付いていなかったのは(何か事情があったのだろうか)非常に残念な気がした。この映画の製作には旭川近郊の自治体・東川町が関わっていたらしいが、協賛・後援・協力といったかたちで多くのアイヌ関係団体・道内企業などが後押しをしていたようだ。先住民族であるアイヌについて、こうしたかたちで再確認しようとする動きが実現したのは非常に意義あることだったのではないだろうか。
 なお、「アイヌ神謡集」は岩波文庫に入っているようなので、散歩がてら幾つかの書店で探してみたが、そもそも近隣の書店では岩波文庫自体があまり置かれておらず、残念ながら見つけることはできなかった。
(あつぎのえいがかんkiki、3月11日)

# by krmtdir90 | 2024-03-17 21:36 | 映画 | Comments(0)

映画「テルマ&ルイーズ」

映画「テルマ&ルイーズ」_e0320083_21140306.jpg
 これは1991年公開の映画だが、デジタル化の流れに沿って4Kレストア版が完成したのを機に再公開されたものである。リドリー・スコット監督の映画は「エイリアン」(1979年)や「ブレードランナー」(1982年)を観ているが、この「テルマ&ルイーズ」は観たかどうかはっきりしない。観ていたとしても記憶に残っていないのだから、当時この映画の良さは判らなかったということになるのだろう。
 今回、この映画を観ることができて良かったと思った。30年以上前の映画だが、いまもまったく色褪せていないし、いまに通ずる普遍的テーマが随所に感じられる傑作だと思った。まだ“#MeToo”などもなかったし、女性の生きる環境もいまとは比較にならないくらい困難な時代だったのだと思う。SF映画で名を成したリドリー・スコットが、当初は監督するつもりはなかったらしいが、まったく毛色の違うこの映画で当時の女性の生きにくさを描き、そこから果敢に脱出していく主人公二人のストーリーを、こんなふうに鮮やかなかたちで定着して見せたことに驚きを感じたのである。

 性格も生きている場所も違うテルマとルイーズが、どういう経緯で親友になったのかは描かれていない。テルマ(ジーナ・デイヴィス)は結婚しているが、強圧的な夫ダリルの下で家事全般を担わされていて、そういう生活に嫌気がさしていたのだろう。ルイーズ(スーザン・サランドン)はウェイトレスをしていて、恋人はいるがまだ結婚は考えていないように見える。この二人が週末に、ルイーズ所有の水色のオープンカー(66年型フォード・サンダーバード・コンパーチブルという車らしい)でドライブ旅行に出掛けるのが映画の発端である。
 テルマは一晩家を空けるだけなのに、それを夫に言い出すことができず、メモ書きを残してきたとルイーズに言って笑われてしまう。最初、世間知らずで受け身に生きてきた感じのテルマは、姉御肌で行動派のルイーズに引っ張られているように見えた。だが、念願の二人旅に出られた開放感もあって、テルマは無警戒のまま徐々に歯止めが効かなくなっていく。途中で立ち寄った生演奏付きのバーで彼女は深酒してしまい、一緒に踊った客の男に駐車場に連れ出されてレイプされそうになる。寸前で助けに入ったルイーズが、護身用にテルマが持ち込んでいた拳銃で男を射殺してしまうのである。
 これが二人の逃避行の始まりである。ルイーズは過去にレイプされた経験があり(後半に彼らの会話から明らかになる)それがトラウマになっていたようで、警察に行って事情を話そうと言うテルマに対し、この男とずっと踊っていたのだからレイプと言っても信じてもらえないと主張して、すぐに逃亡することを決断するのである。このあとの展開は細かくは追わないつもりでいたが、結局は追ってしまうことになった。そのくらい面白かったといういうことである。行く先々で遭遇する様々な出来事によって、二人の状況はどんどん後戻りできない方向に転がっていく。
 ルイーズは恋人のジミー(マイケル・マドセン)に電話して、自分の貯金を(当座の逃走資金として)送ってくれるように頼む。心配したジミーが直接金を持って現れたのは想定外だったが、ルイーズは彼の問い掛けやプロポーズにも事情を明かさず、待っていて欲しいと彼を納得させてしまう。一方で、二人は途中で出会ったヒッチハイクの若者J.D.(ブレイク前の新人ブラッド・ピット!)を同乗させてやるのだが、彼に好意を抱いてしまったテルマは誘いに乗って彼と一夜を共にしてしまう。彼女は結婚生活でも知らなかった絶頂を感じたと翌朝嬉々としてルイーズに話すのだが、その間にJ.D.は(仮釈放中のコソ泥だったのだ)ルイーズの逃走資金を盗んで姿を消してしまう。絶望するルイーズを前にして、責任を感じたテルマは、J.D.が自慢していた彼の手口そのままに、拳銃片手に近くのコンビニに押し入り当座の資金を調達するのである。ずっとルイーズの先導で動いてきたテルマが、ここでは自分でも信じられないような大胆な行動力を発揮している。このあとは、むしろテルマがルイーズを励まして逃亡を続けていくことになる。その、どんどん大胆になっていくテルマの変貌具合が面白い。

 この間、警察も動き始めている。事件の発端となったアーカンソー州の捜査官ハル(ハーヴェイ・カイテル)は、テルマの夫ダリル、ルイーズの恋人ジミー、そしてJ.D.らに事情聴取を行い、二人がメキシコを目指していることを突き止めていた。当初ハルは、トラブルに巻き込まれたと思われる二人に同情的だったが、事態がどんどん悪い方向に拡大してしまうのをどうすることもできない。ダリルとジミーの許に盗聴班が張り付くが、二人はそれを察知し、ルイーズからの電話でハル捜査官が説得を試みるが不調に終わる。ルイーズは逃亡の継続に若干の心の揺れがあったようにも見えたが、もう元の生き方には戻れないと気付いてしまったテルマには、夫ダリルが自分を許さないのが判っていたし、逃げる以外にこれからの選択肢はなくなってしまっていたのである。
 このあと二人が遭遇するエピソードは、みずから進んで招いてしまった結果であるとも言えると思う。速度超過でパトカーに停車を命じられ、ルイーズがパトカーの方に乗せられてしまった時、拳銃をちらつかせて彼女を救出したのはテルマだった。テルマは完全に主導権を取るかたちでルイーズをけしかけ、パトカーの通信設備を破壊し拳銃と弾を奪い警官をトランクに押し込めて逃走するのである。もう一つ、途中何度か遭遇したタンクローリーの運転手が、彼女たちに下卑た態度を繰り返したのに対し、ドライブインに誘導して謝罪するよう要求する。男が強気な態度を変えないので二人は拳銃を出し、まずタイヤを撃ち抜いてパンクさせた後、本体を撃って大爆発させてしまうのである。
 これまでずっと理不尽な束縛や抑圧に翻弄されてきた二人の、まるでたがが外れたような反撃と言っていいかもしれない。走行中にテルマが「こんなに目覚めている気分は初めて」というようなことを言っていたと思うが、彼らは一連の経過の中で確実に「新しい自分」を発見していったということなのだろう。二人が後戻りすることはもうあり得ないのだ。
 ただ、彼らが最後まで逃げ切れることもあり得ないのだろう。彼らは近隣の州も含めた広域指名手配犯となり、非常線が張られて次第に追い詰められていく。最初に発見された時は、複数のパトカーの追跡を(思いがけない幸運によって)振り切るが、二度目はヘリコプターも加わった多数のパトカーにあっけなく取り囲まれてしまう。場所は、グランドキャニオンを思わせる雄大な景色の中、大峡谷が眼前に広がる行き止まりの荒れ地である。すべての銃口が二人に向けられ、投降の呼び掛けが繰り返される中で、覚悟を決めた二人は崖の先に向かって車を猛スピードで発進させるのである。

 「俺たちに明日はない」(1967年)のボニーとクライド、「明日に向かって撃て!」(1969年)のブッチ・キャシディとサンダンス・キッドも、逃避行の末に死を免れることはできなかった。だが、テルマとルイーズの死はこれらの死とは明確に異なっている。投降して裁きを受けるのを拒否したのは同じだが、彼女たちは追跡者側の銃弾に倒れることも断固として拒否している。彼女たちを追い詰めた側に女性の姿はまったくない。彼女たちを追い詰めているのは男たちなのだ。彼女たちは圧倒的な力で立ち塞がる男たちを前にして、それに屈することなく自らの意志で死を選択したということなのだ。男たちに屈するくらいなら、という彼女たちの決意が痛いほど伝わってくるエンディングだった。
 飛び出した二人の車が空中に浮かんでストップモーションになるのがラストシーンだったが、リドリー・スコット監督は、彼らの車が落下のカーブを描き始める寸前のところで映像をストップさせている。このあと車は谷底に転落して大破するはずだが、監督はそういう姿を描くことをきっぱり拒否したのだと感じた。迎える結末は死であったとしても、描きたかったのはその直前に彼女たちが見せた決意だったのではないか。お互いの気持ちを確認し、固く手を繋いだ彼女たちの顔は清々しく微笑んでいたように見えた。様々な抑圧の下でこれまで押さえつけられてきた「本当の自分」に気付くことができたという充足感が、彼女たちを満たしていたように感じられた。元の世界に引き戻されるくらいなら、最後までこのままの自分でいたいと思っていたのではないだろうか。リドリー・スコット監督は、そういう彼女たちの思いを、飛び出したままの(落ちることのない)映像のかたちで定着させたように感じられた。
(立川シネマシティ1、3月8日)

# by krmtdir90 | 2024-03-14 21:16 | 映画 | Comments(0)

「在日米軍基地」(川名晋史)

「在日米軍基地」(川名晋史)_e0320083_20345791.jpg
 戦後80年も近いというのに、国内に米軍基地があることをずっと当たり前のようにしてきてしまったことに忸怩たる思いがある。若い頃「戦争を知らない子どもたち」という歌が流行ったことがあったが、そのはしくれとして年月を重ねてきた者としては、基地問題をここまで放置し続けてきたことになにがしかの責任を感じないではいられない。独立国でありながら国土の一部に主権の及ばない外国基地が残されているというのは、どういう理由があるにせよおかしなことに違いない。なぜそんなことになってしまったのか。遅ればせながら、そこのところを一度しっかりと調べて理解しておきたいと思ったのである。この本は「沖縄狂想曲」を観る前に購入してあったものだが、映画を観た後で読むならいましかないと背中を押された気がした。
 この本は基地問題を学習するのに恰好のテキストだと思った。敗戦を経験し、占領から独立へという経過の中で、米軍基地が存続することになった経緯はどのようなものだったのか。その根拠はどこにあり、それはどのようなかたちで作られていったのか。こうしたことについて、筆者は丁寧に順を追って具体的に解き明かしてくれている。締結された条約や協定といったものの記述の細部をどう解釈するのか、その解釈には両国間で齟齬はなかったのかといった、非常に綿密な検討が加えられている。久し振りに試験勉強をするような集中で読み進むことになったが、おかげで基地に関する様々な問題をかなりしっかり理解できたように思った(実際のところは判らないが)。
 これまで知らなかったことも多かった。この本には「米軍と国連軍、『2つの顔』の80年史」という副題が付いているのだが、米軍基地は一貫して国連軍基地でもあったという、この「2つの顔」が問題の所在を複雑にしているという指摘は初めて知ったことだった。われわれは長いこと米軍基地という1つの顔しか知らされてこなかった(したがって理解が欠けていた)わけで、それは事が複雑に(面倒に)ならないよう政府が意図的に触れるのを避けてきた面があったということらしい。米軍は当初から多国籍軍たる国連軍の一員でもあったわけで、どちらの顔を取るかによって、基地使用のあり方が変わってくるような仕掛けになっていたということなのだ。日米安保条約と日米地位協定が米軍基地のあり方を規定しているのは知っていたが、そこには同時に国連軍基地のあり方を定める国連軍地位協定というものが並置されていて、両者の記述の微妙な差異が、基地の位置付けと運用上の大きな違いとなって現れている現実があるらしい。
 また、有事に際して米軍が日本を守ってくれるというのは誤りであることも明らかにされている。日米間の合意によれば、米軍が防衛すると明記されているのは米軍基地とそこにいるアメリカ人であって、日本防衛に当たるのはあくまで自衛隊であるされているようだ。朝鮮半島や台湾有事においては国連軍基地としての米軍基地から米軍および多国籍軍の直接出撃が可能となるので、基地周辺(および日本全土)が反撃対象となるのは避けられないことになる。その場合でも、米軍が守るのは第一にアメリカの主権下にある限定された地域(基地など)と財産なのである。基地を守るにはその周辺地域とその維持に必要な日本の施設が含まれるはずだというのが、日本側の都合のいい解釈になっているのだが、そんなことは条文のどこにも書かれてはいないのだという。
 普天間基地の辺野古への移設が、大きな問題を抱えながらもまったく動かない背景には何があるのか。この点についても筆者は詳細な検討を加えているが、普天間が国連軍基地として位置付けられていることが関係しているのだという。筆者は現状を単純に追認するような姿勢は取っていないが、日本政府が歴史的な節目節目で容認してきた様々な積み重ねが、現在の身動き取れない事態を招いている点はしっかり浮かび上がらせている。過去に何度も高揚したことのある基地反対運動に対し、その対処を優先して事実を国民に伝えてこなかった政府のやり方が、基地の固定化につながってしまったのは隠しようのない事実だと思う。問題解決が容易ではないことがこの本を読んで判ったが、ここに書かれているようなことにこれまで注意を払ってこなかったわれわれの問題も大きいと感じた。非常に得るところの多い本だったと思う。

# by krmtdir90 | 2024-03-10 20:35 | | Comments(0)


カテゴリ
以前の記事
2024年 03月
2024年 02月
2024年 01月
2023年 12月
2023年 11月
2023年 10月
2023年 09月
2023年 07月
2023年 06月
2023年 05月
2023年 04月
2023年 03月
2023年 02月
2023年 01月
2022年 12月
2022年 11月
2022年 10月
2022年 09月
2022年 08月
2022年 07月
2022年 06月
2022年 05月
2022年 04月
2022年 03月
2022年 02月
2022年 01月
2021年 12月
2021年 11月
2021年 10月
2021年 09月
2021年 08月
2021年 07月
2021年 06月
2021年 05月
2021年 04月
2021年 03月
2021年 02月
2021年 01月
2020年 12月
2020年 11月
2020年 10月
2020年 08月
2020年 06月
2020年 05月
2020年 03月
2020年 02月
2020年 01月
2019年 12月
2019年 11月
2019年 10月
2019年 09月
2019年 08月
2019年 07月
2019年 06月
2019年 05月
2019年 04月
2019年 03月
2019年 02月
2019年 01月
2018年 12月
2018年 11月
2018年 10月
2018年 09月
2018年 08月
2018年 07月
2018年 06月
2018年 05月
2018年 04月
2018年 03月
2018年 02月
2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
画像一覧
フォロー中のブログ
最新のトラックバック
メモ帳
ライフログ
検索
タグ
外部リンク
ファン
ブログジャンル