それはなんでも救うのだろうか。

理想の教育ができなくなっている現場,という記事を読んだ。

果たして「理想の教育とは?」

と思い浮かんだので考えてみたい。

学校の熟議に出入りするようになり,地域や教職員が共に話し合う場が設けられるようになった。それ自体は素晴らしいこと。

学校は学校内の人だけではなく広く他者の目線でも語られ,それを聞くことが大切だから。

そして「理想の学校」や「理想の教育とは」「幸せとは」のような抽象的な問いが出てくる。

理想を教職員一人一人が持つことは大切だが,その理想は隣の人とはおそらく違っている。

概ねおんなじかもしれないけれど,まったく同じで重なっている,ということもないだろう。

例えば,将来幸せに生きていけるようにと願って,あれをしておかないと将来困る,それは将来のためにするべきだと子どもに指導する方。

今ここが見えなくなっているように見えることがある。一方で,先に生まれた人だから知っていることもあり,伝えたい気持ちも分かる。

あなたが理想とする教育は受け手である子どもたちから見た時にどのように映るのだろうか。

子どもたちからも受け入れられるものなのだろうか。これは子どもたちに聞いてみなければ分からない。

子どもたちにとって理想の先生とは?

理想の学校とは?

理想の教育とは?

結局エンドユーザーは誰なのか,なのかもしれない。

残念なのは発散の質か

お久しぶりの投稿です。ご無沙汰しております。

いやぁ 久しぶりに残念な会議に出くわしましたよ。

分析してみるとそもそも企画に対する考えのない人ばかりの集まり。

聞けばどの人もふわっとしたことしか出てこない。階層?エピソード?

んー。なんだろうね。

学んだことと実践がつながらないなら何のために学んでいるのかとさえ思う。

ダメな会議は打ち切る勇気を持つことも大切。

リスケして何を考えてくるかちゃんと指示しないとね。

先日いただいた生のさくらんぼパイは美味しかったよ。

時代錯誤なもの

神事だそうですが残酷な結果になった馬上げ。

https://news.yahoo.co.jp/articles/cea08449129b493eab864bcde92260b29d712f76

ニュースで知りましたが馬の末路があまりにも残酷。動物虐待ではと声が上がるのも無理はないかなと。

SNSで動画が拡散されて私も知ることになったのですが騎乗している人も大怪我や死もありえるような神事。

馬は本当にかわいそうでした。

自分の馬ならばそんなことをさせるのかしら。

ずっと続いてきた神事とはいえ,世の中の感覚が変わってきて,もはや馬は道具ではない。

競馬はトレーニングされた馬がレースに出るように,神事の馬はどうだったんだろう。

神事は簡単にはやめられなさそうですが改善は必要ですね。

意味はあるのかないのか。

興味深いことを聞きました。

高校生がプログラミングでコードを書いた時にそのままを入力できていなくてエラーになる,エラーの理由は見直せば分かることなのにしない,など東大を目指す生徒が数多くいる学校で起きているのだと。

ほかにも,カンマやピリオドがない英文を書く,不規則動詞の書き写しが難しい高校生が進学校にもいるとか。

いわゆる音読や視写のような活動が減ってきた結果なのかなと想像します。

もちろんLDや見え方の特性によるものもあると思いますが。

「音読カードなんて無意味やろ。」

たしかにそうかもしれませんが,音読は一文字ずつ正確に読む力や言葉の感性を身に付けますし,視写は目の使い方や内言語の操作の練習になっています。

マス目を指定して同じように書いていくノート指導もそう。おんなじようにならないと気付けばどこでズレたのか考えるわけで。

なんでもいい,どっちでもいい,寛容さなのか教師の怠慢なのか。

忙しくて時間に追われると,視写などは細やかな指導が求められるため,手間を省きがちに。

こういった積み重ねが将来的にプログラミングでつまづくんだなと。

DX化により端末を使用した学習は増えていく一方でこれまでのアナログな学習形態がプログラミングには大切な力を育んでいるんですね。

身体予算は有限

ある教員の方が体調不良で受診したという投稿を見かけまして思ったんです。

単純に身体予算の計算ができてないから不調が起こるんだよね。

ご本人のすべてを存じ上げているわけではなく見えているものだけで想像しているので正しくないとは思いますが。

小学校の保健で習う健康のためには「食事・運動・休養及び睡眠の調和」とあります。

非常に端的でどれも健康には欠かせない要素。

意識するのはシンプルなことなのになかなか難しい。

休養が足りないからだと思う。

なにか突き動かされるような熱い思いを持つことは素敵だ。それと健康が保てないのは別のこと。

熱い思いで何かしようとするならばまずは自身と家族の健康を第一に考えてその余力でやることが大切。

本務の他にあちこち飛び回って具合悪いとか言ってるのは茶番。今は令和。人の力や他のリソースを使ってチームでやるのが大切だよ。

君子危うきに近寄らず

なんかこう,んー,難しい世の中だなぁ。

ある芸人の方が女性タレントには話しかけないようにしている,とのこと。

無用なトラブルを避けるためという理由ですがこれってこの方に限らないことなのかも。

異性間や世代間など何かしら違いがある場合(人として同じだとは思いますが一旦脇におきます)

「そんなつもりはない」のにも関わらず意図してない受け取り方をされてしまうことがあります。

その誤解をコミュニケーションで乗り越えられる人はコミュニケーション力が高いわけですが皆そうではないわけです。

パワハラだ,セクハラだと言われて嫌な思いをする。

だから,先の「話しかけないでおく」というのが無難で安全策になるんですね。

そうすると今度は「話しかけにくい」「壁がある」と言われたりする。

さじ加減が難しい。アウトにならないコミュニケーションの取り方はありますからね。

押さえておくポイントがあります。異性間コミュニケーションの講座でお伝えしていますよ。

メロンのフラペチーノ飲んでみました✨

月のはじまり読書会

今朝は久しぶりの週末読書会。

4月1日なので月のはじまり読書会と名付けました。

月の初めに本の力を借りてなにかの指針やヒントを得るがコンセプトなんだけど

やってみたら私にはかなりのインパクトありました。

大きくてシンプルな問い

「どんな人になりたいのですか?」

キャリア教育を進める上での大きな問いはコレかなぁと閃きました。

ずっとモヤモヤしているのは,将来=仕事の考え方。

もともとフリーターやニートの増加でこのようなキャリア教育の施策をとってきたわけですがワークライフバランスもバカバカしい。

Work is in my life 仕事は人生の一部でしかない。

仕事で1日を埋め尽くされて「忙しい忙しい」とアピールしてるのは仕事をコントロールできない人ということ。

祖父母に子供見てもらって深夜まで働く教員。

たくさん働いて昇進している管理職。

家庭の時間やライフを仕事で埋め尽くさないと昇任できないシステムや考え方では教育は変わらないどころか害しかないのでは。

今朝読んだ本はズバリ言ってくれて痛快。

本当にワクワクすることに時間を使う。

時間外もたくさん働いて成果を出そうとする人はずるいと言われて

時間内で精一杯努力してる人が評価されるようになっていく。

そうでなかったら女性の管理職など増えるわけはないし,女性活躍と言ってるうちは男性中心の社会ということ。

教師のリスキリング

国キャリ界隈などビジネス領域ではシビアに語られているリスキリング。

「学び直し」と訳されていますが「生き残り」でもあります。

アップデートしていかなければ仕事がなくなるからです。

たくさん飛び交っているのでホットでキャッチーな言葉「リスキリング」

教育現場においてはいかがでしょうか。

もちろんこの数年でICT 端末が1人一台導入されて変革は余儀なくされていますが,親御さんは「使われているのだろうか?」「家庭では見ない」などの声。

わかるんですよ。

持ち帰りして翌日忘れてくるのもいやですし破損も怖いし。

前からランドセルよりタブレット買って入学とずっと言ってきた私としては端末代の予算を人件費に充てればいいわけで。話が逸れたな。

活用されているとは思われてないということ。

この時期は人事の配置や分掌のことなど新体制が見えてきますが

「あれはできません。」

「これは無理です。」

などと管理職に掛け合ったものがちみたいなところがあって,組織の一員なんだから職務命令ならやるでしょと現職の時は思ってました。

明日仕事がなくなるわけでは無い公務員は世の中がそのような激しい動きにあることを知った方がいい。

リスキリングよりもマインドのアップデートが必要なのかもなぁ。

学校が時代遅れな場所だと思われているのはつらいです。

共生社会をつくる

先日飛行機に乗る際に手荷物を預けることになりまして列に並んだときのこと。

列は長くて,だいぶかかるかなと思ってました。

よく見ると機械に荷物を入れるセルフ式。初めて見たのでびっくり。

機械の後ろには職員が2人ほどいて空きが出ると誘導の声がけをしています。

結局人は必要になるのだろうけれど天井にランプが付いていて色で分かるようにすればいいのにと考える。(シンガポールの駐車場などはそうなってる)

別な話で,車椅子の方がエレベーターに乗れなくて困っているという話。

バギーや車椅子の人はエレベーターでないと移動できない。歩ける人は階段やエスカレーターの選択肢もあるけれどやはりエレベーターを使う。

混んでいるエレベーターに乗れず「譲ってください。」とも言えず。

専門家は「勇気を出して言おう」と言っていて,それはもっともなのかもしれませんが当事者にしてみたら満員のエレベーターの中に向かって譲ってとは言いにくい。

単純にエレベーターのドアが空いたら

「車椅子やバギーの方は周りにいませんか?このエレベーターはその方をまず乗せてください。」

とアナウンスが流れるようにすればいい。

健常者に悪気はない。しかしながら,気付きにくい。双方が不快な思いをしないようちょっとした工夫で解決できるのではと思う。

今どき

電話でお伝えしたいことがあったらしく3日ほど続けて着信が入る。

一度はこちらから折り返したが不在。

3日前にメールでお願いしたもののその件があってまだ手続きに入らない。

結局Eメールで用件を伝えてきた。

ならば最初からEメールで良いのでは??

こんな古い体質で会を運営してるのかぁと暗澹とした気持ちになる。

何時代かしらね。