プラトン『法律』第九巻メモ(2)

プラトン『法律』(プラトン全集 (岩波) 第13巻) 第九巻を読んだときのメモ第2弾です。

前半の (1) では,神殿荒しに始まり,不正を犯した人間に与える罪について色々言われていました。特に不正というのは,故意によるものか,そうではないのか,ということで異なるのか?という議論など,刑事罰の根本的なことが言われて面白かったところです (勿論量刑的なところは現代とあまりにかけ離れていますが)。

後半はその続きで,では具体的に殺人事件や傷害事件における罰則はどういうものにすべきかが述べられます。そのため単調な感じもあるところですが,動物を裁判にかけるという話など,サラッと度肝を抜くような話が出てきたりします。

以下読書時のメモと引用です。第7章以前はメモ(1)を参照。

(第8章)

以下の数章では,(A) 故意によらず殺人を犯した場合,(B) 激情にかられて (計画性なく) 殺人を犯した場合,(C) 故意に (計画的に) 殺人を犯した場合,の大きく3通りに分けて,罰則を定めた法律が述べられます。そういうわけなので,引用して感想を述べる,というスタイルは難しいので,大雑把なまとめと感想を述べるようにします。正確な内容は,本を参照してください。

(A) 故意によらず殺人を犯した場合

このケースは,競技中,戦争中,軍事訓練中,医者が患者の治療を行っている時,という場合が挙げられています。
また,殺した相手が,他人の奴隷である場合 / 自分の奴隷である場合 / 自由民の場合 / 外国人の場合,で分かれています。

内容的には,第6章で言われていたように,故意ではないため「不正」ではなく,浄めを受け賠償は行うが死刑にはならない,という感じです (なので相手が自分の奴隷だったら賠償の必要はないみたいなことも言われます)。但し相手が自由民や外国人の場合は,1年間は被害者の住んでいた土地から離れなければいけない,ということも入っています。

但し犯人が規定に従わずに戻ってきた場合は,被害者の近親者が告訴しなくてはならない,そして告訴しなかった場合は,その近親者に殺人の汚れが移っているので,誰でもその近親者を告訴して祖国から5年間立ち去らせるようにしなければならない,とも言われます ((A)-(4))。
この後半は仰天ですね!被害者の近親者が逆に訴えられなければならないとは。犯罪は告訴する義務があって,その義務に背いたら罰則があるというのなら多少分かりますが,それが (故意ではなく) 人を殺したのと同じ以上の罰を受けないといけないというのはよく分かりません。

(第9章)

(B) 激情にかられて (計画性なく) 殺人を犯した場合

このケースは,殺そうとは思っていなかったのに突発的・衝動的に殺してしまい,後ですぐ後悔する,というような人のケースとして挙げられています。
故意であるとも故意ではないとも限定するのは難しいのでその間のものとして,計画的かどうかという観点で,より計画的であれば故意に近く,より計画的でなければ故意でないに近い,という判断がなされています。 玉虫色な感じもしますが,それだけ当時でも動機を断定するのは難しかったということでしょうか。

日本での刑事事件の裁判についてのニュースでも,よく「計画的犯行だったという検察側の主張が認められるかが焦点だ」,みたいな解説を聞きますが,ここで述べられているのと同じで,突発的であれば,悪の度合いがより小さい (なので弁護側はそう弁護しようとする),ということなのでしょう。

ここでも条文?のケースとしては,計画性の有無 / 奴隷を殺した場合 / 奴隷が主人を殺した場合 / 父・母親が息子・娘を殺した場合 / 夫 (妻) が妻 (夫) を殺した場合 / 兄弟を殺した場合 / 親を殺した場合 / 正当防衛の場合 (ただし親や (奴隷にとっての) 主人が相手の場合は適用されない),ということが書かれています。

前述の (A) に較べて詳細になっています。男女での区別はありませんが,奴隷と主人,子と親,に対しては不平等な内容になっています。

(第10章)

(C) 故意に (計画的に) 殺人を犯した場合の法律の「序文」

アテナイからの客人「では,まず最初に,この種の殺人の原因となるものがどれだけあるかを,わたしたちはもう一度,言えるだけ言ってみることにしましょう。さて,そのなかでも最大のものは,貪欲にかられて荒々しい状態になっている魂を支配している欲望です。そしてこの欲望は,多くの人たちにとって最も大きな,また最も強い憧れの的になっているものに対して,とくに向けられているのです。つまりそれは,金銭のことですが,この金銭が,生まれながらの卑しい性質と間違った教育による無教養のために,それを飽くこともなく際限もなしに獲得しようという数限りない欲求を,人びとのなかに生みつける力をもっているのです。」(870A)

ということで富への欲求が故意の殺人の最大の原因ということが言われます。ちなみに第二の原因は名誉欲 (とそれが生む嫉妬心),第三は臆病や不正に基づく恐怖心,と言われます。

ある意味実感しやすい動機ですが,最近の殺人事件を考えると,テロ・無差別殺人,通り魔や「誰でもいいから殺してみたかった」みたいなものが多いようにも感じます (報道されやすいからというのもあるかもしれませんが)。社会が複雑になったり,技術が進歩するとそれに伴って動機も変わってくるのかもしれませんが,法律を制定していた時点で想定していた動機と変わってきたら,罰も見直すべきなのか,それとも殺人という結果は同じなので必要ないのか。プラトンなら恐らく前者でしょう。

(第11章)

(C) の「本文」

誰かを殺した場合,人々が日常出入りする場所 (神域,市場,港など) から締め出され,裁判で有罪になったら死刑になり被害者の国土に埋葬されてもならないと言われます。
また,自ら手を下さなくても,計画を立てて人を殺させた場合も同様。相手が奴隷の場合でも同様と。

ちなみに,「殺された者の近親者が,犯人を告訴すべきなのに告訴しない場合,殺人の汚れを自分自身がかぶり,神々の憎しみも受ける。またその人は殺された者のために復讐したいと望むだれからも告発されてよい」(871A) と言われています。
第8章にも同様のものがありましたが,犯人の代りに告発されるというのは,ちょっと変な話ですね。ただ,例えば今の日本では,刑事事件は検察つまり国家が起訴することになるので,事件を起こしたのに起訴されないとなったら問題だと思うような気もします。あるいは,警察にも言わずに事件化しなかったケースなども当てはまるかもしれませんが,だからといって犯人の代りに告発されるというのもやはり変な感じはします。
本文で書かれているように,「汚れ」というものを適切に処理しないとその人にかかってくるという考え方があったのでしょうか。第1章の神殿荒しの話でも,遠い昔から人々の心に植え付けられている狂気がそうさせている,ということが言われていました。

(第12章)

故意の親族殺人,また自殺について。ここはなかなか印象的な部分が多いので,引用も多めです。

アテナイからの客人「父や母の,あるいは兄弟や子供の生命を,計画にもとづいて故意に,その身体から敢えて奪い去った者たちに対しては,公共の場所への出入りを禁ずる旨の警告が発せられるべきであるし,(中略) 裁判官たちの下役として働く係りの者たちが,その者を死刑にした上で,これを市域外の三つの路が交叉している指定の
場所へ,裸にして投げ棄てるべきである。そして役人たち全部が,国家全体に代わり,それぞれ石を手にとって,これをその死骸の頭に投げつけ,こうして国全体を汚れから浄めなければならない。そしてそのあとで,その死骸を国土の境界のところへ運び,法律に従って埋葬することなしに投げ棄てておくべきである。」(873A)

確かにひどい罪ではありますが,仕打ちもひどいものです。この前に,同族の者を殺めた場合,必ず同じ目に合わなければならない,という神話の例が出されていたりはしますが,「目には目を」的に,ひどい犯罪の場合には刑もここまで残虐にしないといけないものなのでしょうか。「石を手に取って投げつける」という部分は,「罪を犯したことのない者だけが,この女に石を投げなさい」という『ヨハネによる福音書』の有名な言葉を連想します。

逆説的に考えると,こういう考えが広くあったからこそ,宗教が生まれたのかもしれないとも思います。すぐ前に言われたように (870A),無教養や貧困が犯罪 (殺人) に繋がるというのは事実としてあった (ある) と思いますが,それって当事者にはどうしようもない部分が大きいと思います。同時に殺人を厳罰に処すことも必要なのは確かです。
すると法律 (刑法) というのは,本質的に,強者に有利になるように作らざるを得ない,とも考えられます。でもそれは例えば『国家』第1巻の「ノモス」と「ピュシス」の対立の議論と矛盾しますね。まあ刑法だけ引き合いに出すのも違うのでしょうが。

現代では平等を確保するのも法律・行政の役割だと思いますが,それがなかった時代,少なくとも心の平等を実現するためには,宗教しかなかったのかもしれない,と思いました。

アテナイからの客人「さて,それでは,「誰よりもいちばん身近かで最愛の者」と言われている人 (自分自身) を殺した者は,どんな処罰を受けるべきでしょうか。
わたしが言っているのは,天から定められている寿命を無理やりに奪い去って,自殺した者のことです。つまりそれは,国家が裁判にもとづいてこれを科したのでもなければ,またひじょうに苦しく逃れることのできない運命に見舞われて,やむをえずにそうしたのでもなく,さらには,救われる見込みもないし,生きてもいれないほどの辱しめを何か受けたからというのでもなくて,怠惰や男らしさに欠けた臆病のために,自分自身にこの不当な罰を科した者のことなのです。」(873C)

自殺について。この後には,墓には誰ひとり一緒に葬ってはならないとか,荒れ果てて名前もないところでなければならないとか,墓石も立てずその墓が誰のものなのか分からないようにすべきとか,まあ厳しいです。当時の (プラトンの) 自殺に対する考え方が端的に表れているともいえると思います。

いわゆる精神分析というか,自殺をしたくなるような心の動きみたいなものがあって,それは別に怠惰とか臆病とかではなく真面目さの故にも起こりうるが,それを理解しようという発想が当時は全くなかったのでしょうか。これは皮肉でも何でもなく,恵まれている人の論理としてはそう考えることもできそうなところで,現代が進歩しているなと思えるところです。

アテナイからの客人「もし動物が,荷を運ぶ動物でも,その他の動物でも,誰かを殺した場合は,――ただし,公に催される競技において,競技中にそのようなことが起こった場合は別として――,近親者は,その動物を殺人のかどで訴えるべきである。そして (中略) 裁判を行なって,その動物に罪がある場合は,これを殺して,国土の境界の外に投げ棄てるべきである。」(873E)

動物を訴えて,裁判にかけられる,というのはものすごく新鮮で,やや滑稽ではありますが,なぜ現代はこうなっていないのだろう?とも思います。
現代では,動物が仮に人間を殺した場合,有無を言わさず殺処分されるのでしょう――その動物を虐待していて (それ自体は動物愛護法か何かに違反でしょうけど),その仕返しに殺された,という動物側からすれば正当防衛のような場合だったとしても。でも動物にも意識は恐らくあり (動物にもよりそうですが),人間の悪意との考量は,できるとも思えます。人間と全く同じ法の適用は無理としても,少なくとも裁判にかけることができない理由は,ないようにも思えます。勿論裁判官は,現実的に人間が務めるしかなさそうですが。

なお,最近たまたま書店で『動物裁判』という本を目にしたので読んでみました。実際に動物が裁判にかけられる場面なども紹介されていました。
中世では割と動物を裁判にかけることは行われていたようです。著者はそれらを「愚行」と締めくくり,現代の国家はそれを乗り越えた,と書かれていました (ちなみに1990年の本です)。
確かに現実的には,犬や猫といったペット,豚や牛といった家畜,ハエとか蚊みたいな虫など色んな動物がいて,人との関係や危害を加えられる恐れ,意識のレベルなども様々だしそれらに対して裁判をするというのは,そもそも裁判が法に基づいて行われる以上は難しく,「物」として扱う (動物の所有者が管理者責任を問われる) しかないのかもしれません。外で何か食べていて,それをサルに奪われた場合,窃盗になるのか?スズメならどうか?虫なら?ウィルスなら?など考えるとキリがありません。
しかし,現実として動物は「物」ではありません。何らかの意図 (意識) をもって行為することは必ずあるので,その意図を無下に扱ってよいとはどうも自分には思えず,完全には納得できていないところです。日本的なアニミズムのような感性からしても,また猫とか動物を可愛がる慣習からしても,逆に動物から損害が与えられた時だけ「物」扱いというのはどうかしてる,と思います (←恐らく少数派なので,鵜呑みにはしないで下さい)。

まあ私が素人なだけで,法律の専門家などが過去に色んなことを検討した上で現在のようになっているのでしょうけど。
この辺りは,今後 AI がどんどん人間に近づいた時にも似たことが問題になるのかもしれません (あるいは既になっているのかもしれません)。

この後さらに,物体!の場合についても言われます。また,家に入ってきた泥棒を殺してしまった場合,近親者が性的暴行された場合の相手を殺してしまった場合など,無罪になるケースも挙げられ,正当防衛は許されるということだと思います。

(第13章)

傷害について話されますが,その前に以下のようなことが言われます。

アテナイからの客人「もっとも,神の恵みによって,世の中に誰か,生まれながらに充分な能力をそなえた者が現われてきて,そのような絶対的な支配者の地位につくことができたとすれば,その人は,自分自身を支配すべきいかなる法律をも必要としないだろう。なぜなら,いかなる法律も,いかなる規則も,知識にまさりはしないし,また知性が何ものかの従者や奴隷であるということは許されないことだからである。いな,知性はすべてのものの支配者であるのが当然だからである。もしその知性が,その本来のあるべき姿どおりに,ほんとうに真正なものであり,自由なものであるのならだね。しかし現実には,そのような能力をそなえている者は,どこにもけっして見出されはしないのである。ただし,いくらかそれらしい能力をそなえている者はいるけれども。だから,それゆえにこそ,わたしたちは次善のものとしての規則や法律を選ばなければならないのである。これらのものは一般的な原則に目を向けていて,個々のこと全部には目の届かないものではあるにしても。」(875C)

話の流れとはあまり関係ありませんが,本物の知性を持った者が国家の支配者になるほうがよい,という急に法律を否定するようなことが言われます。
しかしそんな人は存在しないので,次善策として法律による支配しかない,という背理法のような論理で法律による支配を肯定します。

この考えは,『国家』~『政治家』~『法律』という順での,プラトンの考え方の変遷が表れている,といえると思います。当然『国家』の哲人政治家なら上記の要件を満たすでしょうし,『政治家』でもそういう能力を持った政治家の支配術が述べられたと思いますが (かなりうろ覚えですが),しかしここでは,明確に,そんな能力を持った者は存在しないと言い切ります。何度もメモで書いていますが,プラトンが実際に政治に携わり,上手くいかなかったり絶望したりといった経験が,自らの理想と現実の妥協点を見出させたのかなと思います。

(第14章)

アテナイからの客人「法廷は可能な限り正しく構成されているし,また裁判にあたるはずの者は立派な教育を受けているうえに,きわめて厳重な審査も経ている,というような国家においては,有罪になった者たちがどんな刑罰に処せられ,どんな罰金を支払うべきかを,たいていの場合は,そのような裁判官たちの判断にまかせるのが正しいことであるし,また適切で立派なことでもあるわけです。
そうだとすれば,いまのこの場合も,ひじょうに多くの重要な規則を裁判官たちに対して法律で定めないとしても,わたしたちは非難されることはないでしょう。そういった規則は,もっと劣った教育しか受けていない裁判官たちでもよく理解して,被害者が受けた損害と加害者の行為との,その両面からみてふさわしい刑罰を,それぞれの犯罪に適用することができるでしょうから。」(876C)

この前には,ダメな裁判官ばかりの場合には,もっと明確に法律を規定する必要があるとも言われていました。

法と裁判の関係について考えさせられるところです。確かに相対的に見て,法を細かくして裁判の裁量を減らす方向と,法は大雑把にして裁判の判断の幅を大きく持たせる方向があるように思います。少し前に言われた,本当の知性を持った者が支配者になるほうがよい,というのと,結局は同じで,裁判官が毎回理想的な判断をできると仮定すればその方が優るがそれは現実にはあり得ないので次善策として法律を…ということになる気がします。

また,「判例は法律とほぼ同じ効力がある」というのをどこかで読んだことがあります。前述のように,あらゆる背景が違う裁判で,裁判官が間違うこともあると考えると,それでいいのかなと思う所ですが。詰将棋で,同じ形なら同じ手順で詰む,というように,誰が考えても正解があるような法解釈があるということでしょうか。

まあともあれ,今考えている国家では,裁判官も十分教育を受けているので,「たいていのことは彼らの自由裁量にまかせるのでなければなりません。」(876D) と言われています。その割には法律の細かく退屈な内容がこの後も続きます (まあ実際の法律の細かさはここで述べられるものの比ではないのでしょうけど)。

以下,「傷害に関する法律の条文」が続きます (引用は略)。まずは (A’) 故意による傷害です。

誰かを殺すつもりで (しかし実際には未遂に終わった) 意図的に行った傷害は,相手が (家族以外の) 市民の場合と配偶者の場合には追放,相手が親,子ども,(奴隷にとっての) 主人,兄弟姉妹だった場合には死刑にすると言われます。
殺害の場合もそうでしたが,つまり血のつながりがある場合が重いとみなされている,ということでしょうか。
ただ,ここに述べられている内容だけでは,傷害の程度が一切示されていないので,兄弟にかすり傷を負わせただけでも死刑になるのか?という疑問もわきます。殺す意図があった場合なので,結果ではなくその意図が問題なのだということは分かりますが,事件として見た場合に意図は必要条件ではあるが十分条件ではないので,立証が難しそうな気もします。
また,追放や死刑になった場合に,国から与えられた 5040 分の 1 の分配地をどう相続するのかということも言われます。また 5040 が出てきました。

(第15章)

(B’)怒りに基づいた (故意と故意ではない場合の中間の) 傷害についてまず言われます。
引用は省きますが,有罪になった場合,傷が治りうるものかどうかで損害の2~4倍の額を支払うべきと言われます。ただ,やはり親族間での傷害の場合は別の規定があり,特に子供が親に対して傷害を与えた場合は死刑もありうると言われます。犯人が奴隷の場合も別の規定があります。

続いて (C’)故意ではない傷害について言われますが,

アテナイからの客人「いかなる立法者も偶然の事故には勝てないからである」(879B)

ということであたえた損害に相当する額の弁償のみとなります。

ところで現実世界では,故意ではない場合に損害を弁償してもらうというのも結構ハードルが高いという気はします。
殺人や傷害の場合はさすがにそうも言ってられないですが,物が破損した場合などには,第一に,誰が損害を与えたということを証明するのが難しい気がします。
また第二に,弁償を要求せずに赦すことが有徳者の行いのように見られがちな気もします。
まあ軽微なものについては,あまり弁償を求めたりしないほうが世の中上手く回ると自分も思うし,わざとではないことに弁償を求めるというのも,それは利己心からくるという感じはしてしまいます。でも権利は当然あるし,線引きは難しいですね。そういう意味では,本対話篇のどこかで言われてもいましたが(忘れた),法律以前の慣習のようなものの方が人の行動を規定しているので,法治国家というのもある意味建前にすぎないのかもしれません。

(第16章)

暴行について述べられます。傷害と暴行の違いを知りませんでしたが (汗),簡単に調べたところでは,ケガをした場合に傷害になるようですね。
前文として,年長者には手を出してはならない,外国人にも手を出してはならない,というようなことが言われます。

アテナイからの客人「(1) もし誰かが,自分より20歳ないしはそれ以上も年上の者を殴っているなら,まず第一には,そこを通りかかった者は,もしその人が,[殴られている者と] 同年輩でも,年下でもない場合は,なかに入って,両者を引き離さなければならない。さもなければ,その人は,法の上で臆病者とみなされることになる。
またもしその人が,殴られている者と同年輩か,年下の場合は,あたかも自分の兄弟や父親,あるいはもっと年上の身内の者が不正な目にあわされているかのように考えて,殴られている者に加勢しなければならない。」(880B)

もし居合わせても見て見ぬふりをしていたら,(この後にも言われるが) 罰金を科されると。
現代では,罪にはならないと思いますが…見て見ぬふりをする可能性は高そうな気はします。
また,この暴行事件の法廷は,「将軍,部族歩兵隊長,部族騎兵隊長,および騎兵隊長によって」(880D) 構成されると書かれています。なんだか軍法会議みたいですが,何故なんでしょう?(ここまでの他のケースでは親族だったり護法官だったりという言及はありました。)

(第17章)

「両親に対する暴行」

アテナイからの客人「さて,死刑は,刑罰として最終のものではありません。あの世でこのような人たちを待っていると言われる苦難の方が,[死を始めとする] この世の苦難よりももっときびしいものなのです。だが,それがどんなに真実な話であっても,このような人たちの心には何の抑止的な効果をもあげていないのです。
(中略) それゆえ,このような犯罪に関しては,それを犯した者たちが生きている間にこの世で受ける懲罰は,できることなら,あの世で受けるそれに少しも劣らないものにする必要があるわけです。」(881A)

厳しい刑罰を科す理由のようなものが述べられます。生きている間に正義を追求するのは,死後の世界およびその後の転生した人生のため,という話は,『国家』第10巻などでも述べられた,「善く生きる」理由の根本的なものだったと思いますが,ここでも「あの世」が引き合いに出されています。しかしそれもあまり抑止力になっていないので,現実の刑罰も必要だと。

「抑止力」というのも難しいテーマですね。核兵器ですらも,抑止力のために合法的な所有が認められている (但し戦勝国のみ) くらいで,当時の人がどうすれば抑止力を実現できるのかと頭を悩ました結果,神や死後の世界に頼り,法的には死刑に頼った,ということなのでしょうか。

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第九巻のメモは以上。

現在でいう刑法の話が続きましたが,被害者の親族が犯人を告発しない場合には,その親族に罪が移るとか,自殺した人はまともに葬ってはいけないとか,今の目で見ると首をかしげたくなるものもあります。ただ,そこに共通するのは,メモ (1) にもあったものと関連すると思いますが,故意に誰か (自分を含む) を殺めたり傷つけたりすることは「悪」または「呪い」に汚染されることであり,そういう半実体的なものが魂に宿ったり他の人に移動したりするようなイメージがあったのではないかと思わされます。そういった迷信的なものと,法治主義という現代にも通じるものが同居するというのが,ある意味新鮮です。法治主義というのも,人間が作った虚構という点では同じなのかもしれませんね。

また,動物が人間を殺した場合,その動物を裁判にかけるべき…という部分もかなり興味深い話でした。私個人としては,先進的に思えました。自然主義というか,科学万能主義の現在とは状況が異なるし,神話では神が動物の姿を取っていたりするということもあるわけで,動物に対する尊敬の念のようなものがあってナチュラルな形で人間と動物の魂を同列に考えられていたのかもしれません。プラトンも,アテナイからの客人にそこまで逡巡させて話させてもいないですし。

最後に抑止力としての刑罰という話がありましたが,そもそも本巻を通じてずっと語られた刑罰については「悪」が存在することが前提の話で,「消極的善」の担保のためとでも言えるものだと思います。本質的に,法律というのはそういうものなのかもしれません。プラトンには,ソクラテスの対話や教育論,イデア論 (『国家』),宇宙論 (『ティマイオス』) などの「積極的善」の追求の方が似合うと自分は思います。しかし老年に至るにつれ,法律論を書かざるを得なかったというのは…勿論現実を見たというのもあると思いますが,本巻途中でもまた理想的な支配者に言及したように,ここから理想 = 「積極的善」を再度投影しようとしたようにも思えます。

プラトン『法律』第九巻メモ(1)

プラトン『法律』(プラトン全集 (岩波) 第13巻) 第九巻を読んだときのメモ第1弾です。

前巻では,割とこまごまとした法律案が列挙されて終わりましたが,本巻は刑法というか,神殿荒し,殺人,傷害といった犯罪を犯した場合の刑罰についてがメインの内容ということになると思います。その法案が淡々と述べられるのは退屈ですが,合間には,裁判手続きについてや,故意である場合とそうでない場合に刑罰 (法律) を別々にすべきか?ということや,「正」と「不正」とは何か?動物も裁判にかけるべき?といったことが言われ面白いです。
自分にもう少し法律に関する知識があれば,現代の法律やその考え方と比較できるところですが,如何せんそういった教育も受けたことがないし法律を読む機会も殆どない怠惰な市民のため,あまり深入りできておらず我ながら勿体ない感はあります。その分,2,400年前のアテナイ市民と比べても進化してなさそうなので当時のレベルの人間として読むには丁度良いのかもしれません。

ここでは章ごとにメモを書いています。本文を引用せずに自分で要約しただけのものもあります。また本巻は長くなってしまったのでメモを2つに分けます。

(第1章)

アテナイからの客人「たしかに,わたしたちが建設しようとしている国においては,――それは,わたしたちに言わせるなら,立派な政治が行われて,徳を実行するのによい条件をすべて備えているはずなのですが――わたしたちがいま定めようとしているようなことすべてを法律に定めるということ自体が,ある意味では,恥ずかしいことなのです。
つまり,そのような国のなかに,他の国々で見られるような邪悪さの最もひどいものを身につけた者が,誰か生まれてくるかも知れないと考えて,そこで,そのような者が現われる場合に備えて,法律によって機先を制し,脅す必要があるのだとか,また,そのような人間は必ず現われてくるものと想定して,彼らが現われるのを阻止するためにも,また現われてきたなら懲らしめるためにも,彼らに対する法律を定めるべきであるとか,ということがそもそも,いまも言いましたように,ある意味では,恥ずかしいことなのです。」(853B)

悪い人がいるということを前提にして,犯罪に対する法を定めるということに幾分かの逡巡があるようです。ただ結局,アテナイからの客人は,昔の立法者は神々の系譜を引くものだったが,現在は死すべき人間が作っているので当然だということを言います。

アテナイからの客人「そこで,そういった連中のために,――「ために」といってもよい意味にではありませんが――,わたしはまず第一に,神殿荒しに関する法律について語ることにしましょう。」(853D)

神殿荒しの罪について語るようです。意外な犯罪ですが,当時としてはかなり問題だったのかもしれません。

アテナイからの客人「「いいかね,君。いま君を駆り立てて神殿荒しへと向かわせている悪しき衝動は,人間の生まれながらの本性に根ざすものでもなければ,神に由来するものでもないのだ。それは,遠い昔に犯されて償われぬままになっている犯罪にもとづいて,人びとの心に植えつけられている一種の狂気なのだ。これが親から子へと巡り廻って,破滅をもたらす呪われたものとなっているのだ。だから君は,全力をあげて,それを警戒しなくてはならない。」」(854B)

神殿荒しをしようとしている人に向かって語り掛ける場面なので括弧を二重にしています。
遠い昔の犯罪によって人々の心に植えつけられている狂気が,呪いとなって現われていると。
神殿荒しをする動機を素直に考えれば,価値がありそうなものが神殿にありそうなので,それを盗る,と考えそうなところですが,この「呪い」の考え方は後々の刑罰の議論でも前提にされているようです。
続きます。

アテナイからの客人「「もしも君に,何かそういった邪な考えが起こった場合には,汚れを浄めてくれる秘儀に参加することだ。禍を防いでくれる神々の社に,歎願者として詣でることだ。君たちの間で徳が高いと評判されている人たちを訪ねて,彼らと交際することだ。そして,ひとはだれも立派なこと,正しいことを尊重しなければならぬと彼らが言うならば,それに耳をかたむけるとともに,自分でもその言葉を口に出して言ってみるようにしたまえ。そして,悪しき人たちとの交際からは逃げて,後をふりむいてはならない。そうすることによって,君の病気が少しで和らぐなら,それでよいし,もし和らがないようなら,死ぬことの方がよりよいことだと考えて,君はこの人生からおさらばしたまえ。」」(854B)

もし徳の高い人の言葉に耳を傾けたりしても和らがない場合,「君はこの人生からおさらばしたまえ」と,自殺を奨励しています。これは峻烈です。例えば仏教の悪人正機説などとは異なります。
考えてみれば,日本のような法然や親鸞に根差した仏教が広く親しまれている国に死刑制度があり,かく言うプラトンの伝統が根付く西洋諸国に死刑制度がない国が多い,というのは不思議だとふと思いました。まあ歴史を見れば,どの国もたやすく人を死刑にしてきたのは同じだと思うので,倫理観の発達度合いの方が,死刑制度の有無に寄与しているのかもしれません。
また以前読んだ新聞記事で「民主主義が発達しすぎた国では,死刑が廃止されづらいことがある」ということが書かれていたのを読んだことがあります。日本国が当てはまるのか当てはまらないのか正直分かりませんが。

(第2章)

アテナイからの客人「神殿荒しをしていて捕まった者は,それが奴隷か外国人である場合は,額と両手に罪人の烙印を押され,裁判官たちが適当と考えるだけの鞭を加えられた上で,国境の外に裸で追い出されるべきである。おそらく彼は,そのような刑罰に処せられることで,分別を取りもどし,より善い人間になるであろうから。というのも,法律にもとづいて科せられる刑罰はどれ一つ,人を害することを目的にしているのではなく,次の二つの効果のうちのどちらかを目ざしている,と言ってよいからである。すなわち,刑罰を受けた者をより善い人間にするか,あるいは少なくとも,悪い程度のより少ない人間にするか,そのどちらかなのであるから。
しかし,もし誰か市民が,何かそのような行為をしているところを見つかった場合には,すなわち,神々や両親や国家に対して,口にするのも憚られるほどの何か重大な犯罪を犯しているのであれば,裁判官としては,その者をもはや治療の見込みのない者とみなさなければならない。だから,その者に対する刑罰は死刑である。これは,彼にとっては,もろもろの不幸のなかでもいちばん小さなものではあるけれども。」(854D)

外国人や奴隷と,市民の場合で,量刑が異なるのも変な感じはしますが,まあそれはよいとしても,市民の場合に神殿荒しで死刑,というのは重過ぎると感じます。
しかし量刑の「相場」というのはどうやって決まるのでしょう。例えば今の日本では,人を故意に殺すようなことをしなければ,どんな巨大な悪意に基づいても死刑にはならないはずです。
それは,罪の「結果」に着目していると言えると思います。対してここでは (そしてアテナイからの客人の根本思想として)「心の善悪」に着目していると言えるでしょうか。ただ心の中の善悪がどれだけ定量的に測れるのかとも思います。
中国や東南アジアでは,麻薬を密輸しようとして死刑になった,というのはたまに聞かれます。重過ぎると思ったりしますが,それも麻薬が意識や健康にもたらす害悪をそれほど重く見たから,と言えるのでしょうか。そしてこれは,先進国では見られない (と思われる) ため,遅れた考え方ということでもあるのでしょうか。

アテナイからの客人「わたしたちがここでなすべき仕事は,[判決の] 投票に関する規則を定めることです。
さて,投票は公開で行なわれねばならない。だが,その投票に先立って,裁判官たちは原告と被告に相対しながら,年長順に,互いにできるだけ接近して着席すべきである。また,市民のなかで暇のある者はすべて出席して,熱心にこの種の裁判に耳を傾けなければならない。」(855D)

裁判手続きについて。この後もう少し詳しく語られますが (原告と被告が一度ずつ陳述して裁判官が尋問していくなど),省略。ただ「市民のなかで暇のある者はすべて出席」というのは面白いです。
言われてみれば,自分たちが裁判について何をどうやって知るのか?というと,新聞やテレビで報じられたものを通じてしか知りません。しかし実際には,報じられない裁判も無数にあり,それらの裁判の過程や判決の中には,自分にとってもっと身近で重要なものがあるのかもしれません。もっと裁判 (司法) に直接参加することが,今の三権分立の国家の成熟には必要かもしれないと思います。まあ立法も行政もそうだと思いますが。

(第3章)

今度では国家転覆罪みたいなものについて述べられます。

アテナイからの客人「他方,このような犯行のどれにも加担してはいないが,国家の最高の官職にありながら,これらの犯行に気づかぬか,あるいは気づいていても,臆病なために,自分の祖国を守って犯人を罰しようとしない者,このような市民は,邪悪さの点で前者につぐ者とみなされるべきです。」(856B)

これは厳しい。例えば予見できた津波の対策をせず原発事故でもあろうものなら,電力会社のトップは自分で事故を起こしたかのように有罪になるのかもしれません。

アテナイからの客人「なお,ひと言でいうなら,父親がこうむった汚名や罰は,彼の子供たちの誰にも及ぼされてはなりません。ただし,父親ばかりでなく,祖父や曾祖父までもがつぎつぎに死刑の判決を受けた者の場合は別です。そのような場合には,国家は,その子供たちに自分の財産を持たせて,――ただし,分配地に充分な設備をほどこすに足るだけの財産は残させて――,彼らの [家族の] 出身地である国や町へ送り返さねばなりません。」(856D)

昔の日本や中世のヨーロッパなどでも,一家全員打ち首のような罰が普通に下されていたと思うので,それに比べればかなり人道的に思えます。

(第4章)

アテナイからの客人「いまかりに,理論はもたずに,経験だけにたよって医術を用いている医者の誰かが,なにかの折に,自由民の医者が自由民の患者と話し合っているところに行き合ったとしてみましょう。そしてこの自由民の医者はそのとき,哲学者が使うのに近いような言葉を使って,病気をその起源から問題にし,身体の本性一般にまで溯って論じているとします,すると,先の [奴隷の] 医者の方は,たちまち大声をあげて笑い出すことでしょう。(略)「なんと非常識な人だろうね。君は患者を治療しないで,教育しているのだよ。まるで相手が願っているのは,健康になることではなくて,医者になることであるかのようにね」」
クレイニアス「そのひとがそのようなことを言ったとしても,それは正しい言い分ではありませんか」
アテナイからの客人「たぶん,正しいでしょうね。もしもその男が,なおその上に,法律についても,いまわたしたちが行なっているようなやり方をする者は,法律を制定しているのではなくて,国民を教育しているのだと,そんな風に考えているのでしたらね」(857C)

なんか含蓄のある部分のような気がしました。法律を制定するということは,どうしても具体的な作業です。少なくとも特定の人間が意思決定をし,特定の言語で表現する必要があります。
しかし本当に法律が目指しているのは,特定の人間 (の経験) にも言語にも依らない,抽象的な,書かれた法律の延長線上の「実在」または「理想」である「法」そのものでしょう。
ここで「教育」と言っているのは,その「法」そのものを掴ませようとする,ということなのかなと思いました。

それはともかく,前後との関連が必ずしも明確ではないのですが,この後,「最善のことと,最低限に必要なことと,どちらを我々はここで実現すべきか」みたいなことが言われ,時間に追われているわけではないので前者だと言われて話が展開します (引用は略)。
考えてみれば立法に関して時間の概念も重要という気はします。よく「熟議が必要」ということが言われ,時間をかけた方が優れた案が出せると思われていますが,どういうことなのでしょうか?
反面,審議が一瞬で,即日発効するような立法が普通で,SNS のタイムラインのように毎日目にする形で新しい法律をみなが認識できるのなら,刻々と変化する現実との距離を可能な限り小さくできるという気はします (逆に時間がかかっていれば,例えば発効する頃にその立法事実たる現実が変化している可能性がある)。つまり微分可能のようなもので,変化する現実に追従し,理想である「法」に限りなく近づけるように思います。2020年~のコロナ禍が典型かもしれません…なかなか法的根拠を持った適切な対策ができないと言われていました。君主制でなく民主制であっても,全国のありとあらゆるデータが常にリアルタイムで取得できて,国民の意思や法への賛否も常に何らかの方法でリアルタイムに反映できるなら,法律もリアルタイムで変える,というのもあり得るのでしょうか。

但しその具体的手段は当分なさそうだし,人間の感情や思考や生活が追い付かない気はしますが。たまに「なぜ,考えるということは,時間がかかるのか?脳内の神経細胞は電気的な仕組みで動いているのなら,殆ど時間はかからないはずなのに」ということを思いますが,理由は何であれ時間がかかるのは事実なのでしょうがないですね。

アテナイからの客人「ホメロスや,テュルタイオスや,その他の詩人たちにとっては,彼らがその作品のなかで,人生や人生の営みについて下手な書き方をしたなら,より多く恥ずかしいことになるけれども,リュクルゴスや,ソロンや,その他およそ立法者としてものを書いた人たちにとっては,下手な書き方をしても,恥ずかしさはより少なくてすむのでしょうか。いやむしろ,こう考えるのが正しいのではありませんか。国々に流布しているすべての文書のなかでは,法律について書かれたものが,それを開いて見た場合に,はるかにずっと立派で善いものに見えなければならないし,そして他の人びとが書いたものは,これを範にして見習ったものでなければならぬか,それとも,これと調子の合わないものなら,ずいぶんと滑稽なものになる,ということなのです。
ですから,国家の法律を文書に書き記すにあたっては,次のようにすべきだとわたしたちは考えることにしましょうか。つまり,書かれた規則が,愛情と分別をそなえた父親や母親の姿をとって現れるようにすべきだということです。それとも,独裁者や主人の流儀にならって,命令や脅迫の形でその規則を壁の上に書いてしまえば,それでもうすんだことにする,というやり方をすべきでしょうか。」(858E)

法律というものが,詩と同じように「美しい」(←これは私の解釈ですが) ものでないといけない,というのは新鮮な思いがします。自分のイメージでも,法律というのは読みづらくて,別に面白くもないとは思います。恐らく,読み手にその内容を正しく伝える必要がある,という法律の性格上,そうなるような気がする一方で,読んだ人が守ろうと思えるような法律の書き方というものがあれば,それは有効なのかもしれないとも思います。
というかそもそも法律を読む習慣がないことも問題で,現実には「法律を誰かが解釈したもの」を何となく守っている,という感じですものね。間接民主制ならぬ,間接法治主義なのかもしれません。プラトンの当時はメディアなどもなかったので,法律自体を読むことの重要度が高かったのでしょうか。
自分もたまに図書館で加除式の法規集を眺めながら,本来こういうのも法治国家の市民として本当は読んでいないといけないんだよなぁ…と思いながら全く読んでいません(笑)。本対話篇と同じで,読めば意外と文学として面白いのかもしれません (可能性は限りなく低いですが)。
さはさりながら,とりあえず前者の線で行こうということになります。

(第5章)

アテナイからの客人「もし,正しさをそなえているものはすべて立派であるとすると,その「すべて」のなかには,わたしたちに対してなされることも含まれていて,それは,わたしたちが他のものに対してなすことと,数の上ではほとんど等しいだけあるでしょう。
(中略)だがもし,わたしたちに対してなされることが,正しくはあるけれども,見苦しいものであることを認めるとすると,その場合には,「正しいこと」と「立派なこと」とは一致しないことになるでしょう。正しいことがこの上なく見苦しいことであると言われたわけですから。」(859E)

この後で「神殿荒しなどを死刑にするのが「正しい」と規定したが,そういった刑罰を受けることは同時に「見苦しい」ことでもあることが分かった」ということも言われます。
たまたま傍註で『ゴルギアス』が言及されていましたが,確かに『ゴルギアス』では,罪を犯した場合に刑罰を受けることは善いことであり,罪を犯しながら刑罰を受けないことが最悪である,と言われていました。他方で刑罰というのは見苦しいものであると。
確かに現実を考えてみると,少なくとも今の日本では,前科というものに対してかなりマイナスの印象を持たれることが多いと思います。でもそもそもそれは正しいのでしょうか?
次の引用にもつながってきます。

アテナイからの客人「不正な人は,たしかに悪しき人であるが,その悪しき人は,不本意ながら悪しき人になっているのです。ところで,自発的な行為が不本意になされるということは理屈に合いません。だから,不正を不本意なものとみなす人にとっては,不正を行なっている者は不本意に不正を行なっているのだ,というふうに見えるでしょう。そしてわたしとしては,今もまたそのことを承認しなければなりません。というのは,ひとはだれも不本意ながら不正を行なうのだ,ということにわたしは賛成するからです。」(860D)

『ゴルギアス』でソクラテスが述べたこととほぼ同じことを,つまり誰も不正をすすんで犯すわけではない,ということを,ここではアテナイからの客人が踏襲しているように思えます。
これがプラトンの変わらぬ信念ということでしょうか。
現代でもなかなか受け入れられない説かもしれません。虫歯になったので治療した,というのと同じように,前科を考える人はいないでしょう。理性的にはそう考えるべきと思うかもしれませんが,感情的には多分簡単には受け入れないことも多いと思います。

前科というものは治療歴であって,虫歯になったのに歯医者に行かない人がいるように,前科がなくても悪いことをしている (した) 人はいるはずです。寧ろ先に述べたように,前科自体をマイナスにとらえる社会では,罪から逃れるために悪事を隠蔽する方向に人は動きがちだと思います。
そういうニワトリが先か卵が先か?(罪を認めて更生したいがそうすると社会的に生きていけない) という状態で,結局は自分の悪事は隠蔽し,他人の罪は糾弾する,という平衡状態になっていて (法的な犯罪だけではなく道義的なものや SNS での攻撃なども広く含む),それが悪しき「自己責任論」というものに行き着くのかもしれません。
当然,病気を放置するのと同じで,たとえ犯罪率が下がっていても,本当の「悪」というのはそこら中に温存されていて,総和の量としては寧ろ増えているのかもしれません。

それはともかく,以下のようなことがテーマになってきます。

アテナイからの客人「「それならあなたは,マグネシア人のために,故意によるのではない (不本意な) 犯罪と,故意による (自発的な) 犯罪とを区別しようとしておられるのだろうか。そしてわたしたちは,故意による過失や犯罪には,より重い罰を科すべきであるが,そうでないものには,より軽い刑罰を科すべきだろうか。それとも,故意による犯罪というものはまったく存在しないと考えて,すべての犯罪に等しい刑罰を科すべきだろうか,どちらにしたものだろう」」(860E)

アテナイからの客人の自問自答の部分なので括弧を二重にしています。
ということで面白くなってきました。今の日本でも,法律に関しては素人中の素人である自分でも,例えば過失致傷 (故意ではない) と傷害 (故意) というように,故意ではない罪と故意である罪に分かれているくらいは知っています。それは何故か,のような根本的な話がプラトンから聞けるのならこれほど面白い話はありません
(その前に法律を学べという気もしますが(笑))。

(第6章)

アテナイからの客人「わたしたちは法律を制定する前に,犯罪には二種類のものがあるけれども,この両者を区別するものは,一般に理解されているものとはちがうということを,何らかの形で明らかにしなければならないのです。それは,この二つの犯罪のそれぞれに対して罰が科せられる場合に,誰でもがわたしたちの定める規定についてくることができて,科せられた刑罰が適当なものであるかどうかを,何とか自分で判断できるようにするためなのです。」(861C)

アテナイからの客人「ひとが誰かに何かをあたえるとしても,または反対に奪うとしても,そのような行為を無条件に「正しい」とか「不正である」とか言うべきではないからです。いな,ひとが正しい性格や品性にもとづいて,誰かに何かの利益なり損害なりをあたえているかどうか,その点を立法者は観察すべきであり,そして不正と損害という,この二つのものを分けて見なければならないのです。」

アテナイからの客人「こんなふうにするのです。ひとが大きなことでも小さなことでも不正行為を犯したときには,法律は,あたえた損害の賠償をさせたうえに,その人を教えたり強制したりしながら,二度と再びそのようなことを自らすすんでは敢えて行なわないようにさせるか,あるいは,そこまではいたらなくても,そうすることが以前と比べてはるかに少なくなるようにさせるべきです。そのための手段としては,行動を用いてもよいし,言葉を用いてもよい。あるいは,快楽や苦痛,名誉や不名誉,罰金や褒章を用いてもよいし,また総じて,不正を憎んで正義を愛するようにする,あるいは少なくとも正義を憎まないようにする何かの手だてがあるなら,そのものによってよい。とにかく,そうすることこそがまさに,最も立派な法律のなすべき仕事です。」(862D)

途中はところどころ省いていますが,アテナイからの客人は,「不正」と「損害」を分けるべきだと言います。例えば誰かに損害を与えたとして,その大小にかかわらず,「正しい性格にもとづいて」いるかどうかで「正しい」か「不正」かを分けるべきだと。
そして (1) 「不正」とはいえない場合でも,損害は賠償させる必要がある,(2) 「不正」である場合,(1) と同様の賠償責任に加え,その「不正」を行なわせた魂を治療すべきである,ということを言っています。

これはかなり明快な論ですね!ただ,少し前には,「誰もすすんで (故意に) 不正を犯すのではない」と言われていたので少し混乱します。
ここには「故意とは,故意ではない」とでもいうようなパラドックスが潜んでいるのだと思います。つまり故意で何か不正をなさしめたところの,その魂の無知自体は,故意ではないということなのでしょう。
…と思いましたがこれについては以下でまた話されます。

(第7章)

アテナイからの客人「では,「正」と「不正」ということによって,わたしが何を言おうとしているかを,複雑な言い方をしないで,いまあなたにはっきり定義することにしましょう。激情 (怒り) や恐怖,快楽や苦痛,嫉妬や欲望が魂のなかで独裁的に支配している状態,――それが実際に何らかの損害をもたらそうともたらすまいと――,すべてそのような状態を一般的に,わたしは「不正」と呼んでいるのです。
これに反して,最善は何かと考える分別,――国家や個人がその最善はどのようにしたら実現されると考えるにせよ――,そのような分別が魂のなかで勝利を占めて,その人の全体を秩序づけているなら,よしときに何らかの過失を犯すことがあるとしても,そのようにしてなされる行為のすべてと,そのような分別の支配に服している各人の状態が,「正しい」のであり,そしてこれこそが,人間の生涯全体を通じて最も善きことなのだと言わなければなりません。もっとも,多くの人たちは,いま述べたような[過失による] 損害行為を,「故意によるのでない不正行為」と考えるかも知れませんが。」(863E)

今度は「不正」についての定義ですが,ここは個人的には本巻のハイライトに思えます。「正」「不正」という大きなテーマなので当然かもしれません。(本当は他の対話篇との比較でもすべきかもしれませんが,そこは専門家にお願いするとして…。)

ここでの,魂の状態としての「不正」とは,「正しい」とは,というのは見事な描写で,人間として本当のことだと自分も思います。「正しい」の説明で「よしときに何らかの過失を犯すことがあるとしても」というのがまさに同意するところです。何か失敗をして損害を出したとしても最善は何かと常に考えで実行した結果であれば「正」で,逆に失敗して損害を出すことを恐れたり (つまり恐怖に支配される),結果として良いことであっても誰かに対する僻み妬みや私利私欲が動機であったりすれば「不正」に分類されることになりますが,その通りに思えます。まあ (私利私欲などはともかく) 恐怖のゆえに「不正」になるというのはちょっと違和感もありますが。

ただ,過去のプラトンであれば,「最善のもの,正しい知識をもったものは間違えない」と言っていそうなところではありますね。ここでは法律を守る (守らせる) べき市民の立場で言っている,言い換えれば完璧な人間などいないという前提,というのが分かります。それは『国家』以後,プラトンが現実で噛みしめてきたことなのでしょう。

さてこの後で,犯罪を犯すことになる原因のまとめがあり,(1) 苦痛 (激情 (怒り),恐怖),(2) 快楽や欲望,(3) 無知の3種類があると言われます。さらに,(3) 無知は (3-1) 単純なもの,(3-2) 知らないことについて知恵があると思い込んでいて,さらに力と強さを伴うもの,(3-2) 知らないことについて知恵があると思い込んでいるが,弱い力しか伴わないもの,とブレイクダウンされます。

但し,これらのどれが故意でどれが故意ではない…という言われ方はなされていません (と思います)。「不正であれば故意」というのが単純な1つの仮説ですが (逆は成り立ちそう),上にも書きましたが恐怖や快楽に支配されている状態が常に故意,というのも違和感はあります。

プラトンを含めたこの時代に,「意志」(デカルト的な?) という概念が見られない,という話をどこかで読んだのを思い出しました。「意志があれば故意」というのは逆も含めて成り立ちそうに思いますし,現代で罪に問える必要条件も「意志」があることと言えるのかもしれません。しかし,「意志」と「正」「不正」の関係となると,一筋縄ではいかないという気がします。ある種の倫理観みたいなものは,「意志」なのかどうか,とか。

ひとまず以下では,故意かどうかで別々に,殺人や傷害といった犯罪を犯した場合の刑罰案が述べられていくことになります。

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メモ (1) は以上。もう少し軽く飛ばすつもりだったのですが,余談が思いのほか多くなってしまいました。
市民で暇な者は全員裁判に出席すべきとか,法律は詩人が書いた作品よりも美しいものでなければならないとか,市民が法律や裁判に直接関わるべきとプラトンが考えていたことが分かります。翻って現代では,なかなか法律や裁判に直接アクセスすることはないように思います。
また,犯罪の要件とは「故意」「故意でない」ものに分けられる?という話から,「正」「不正」まで遡るのが,いかにもプラトンといったところ。こういった話は,小中学生向けの話くらいでとどまっている感があり,大人になったら普通は聞かれませんが,これ以上大切なものはないくらいに思うのは私だけでしょうか?ともあれ『国家』などともまた違う市民目線と思いました。

メモ (2) に続く…。

プラトン『法律』第八巻メモ

プラトン『法律』(プラトン全集 (岩波) 第13巻) 第八巻を読んだときのメモです。

なかなか掴みどころのない『法律』篇ですが,本巻もそんな流れの中で,祭礼や体育競技,軍事訓練などについての話題から始まります。
途中では愛,同性愛,近親愛みたいな内容になって少し引き込まれます。そういったものが法律とどう関わってくるのか,というのは少し考えさせられるところですが,どういう法律にするか,というよりも技術的 (?) な部分が結構印象に残る部分です。
終盤では土地の境界とか,水とか,果実を勝手に取った場合にどう処罰されるのかとか,ある種牧歌的で退屈な話題で終わります。

ここでは章ごとにメモを書いています。本文を引用せずに自分で要約しただけのものもあります。

(第1章)

アテナイからの客人「つぎにすることは,デルポイの神託の助けを借りて,さまざまの祭礼を定め,それを立法化すること,つまり,どんな犠牲を,どの神に捧げるのが,国家にとってすぐれた,幸いなことであるかをきめることです。」(828A)

冒頭の言葉。祭礼に関する話が展開されます。12柱の神々に対して,12の祭礼を設け,それぞれの季節にふさわしいものにする,等々。
また同時に,戦闘の訓練についても話題にされ,そこで賞讃や非難に使われる詩歌は国家において尊敬されている人でないと作ってはならない,そして「何ぴとも,無許可の音楽作品を,たとえそれがタミュラスやオルペウスの賛歌より甘美であっても,敢えて歌うことは許されません。」(829D) といったことも言われます。
第7巻で言われていた,歌や踊りは国家が認可したものしか許されない,というものの延長線という感じでしょうか。

(第2章)
戦闘の訓練についての話題が続いています。

アテナイからの客人「「ではどうだろう,もしかりに,ボクシングやパンクラティオンや,何か別のそのような競技の競技者たちを養成している場合であれば,あらかじめ毎日練習試合をすることなしに,本番に臨んだであろうか。いや,もしわれわれがボクサーであるとすれば,試合の前に何日も何日も戦いの仕かたを学び,練習を重ねるのではないだろうか,いざ勝利を争って戦うその時に,用いるつもりのあらゆる技を試してみながら。そして,できるだけ本番に近いようにして,打撃を加えたり,打撃を防いだりすることを,できるかぎり充分に練習するために,ボクシングの競技用グローヴの代りに練習用グローヴを手にはめるのではないだろうか。」」(830A)

立法者が自問自答するという形で言われるので括弧を二重にしています。
この自問自答はまだ続き,軍事についても,小規模な訓練は毎日行いつつ,より実戦に近い模擬戦を毎月1回行うべきと言われます。
結構面白いと思ったところで,当たり前といえば当たり前のことが言われているとも言えますが,例えば災害対策とか現在のようなパンデミック対策のようなものでもそうあるべきなのでしょう。

(第3章)
しかしそういう実戦訓練は現在の国々では全然行われていない,とも言われます。その原因は2つあると言われ,1つは,富への執着であるということが言われます。
そして,幾分かの逡巡を感じさせながら,もう1つが語られるのが次です。

アテナイからの客人「これまでの議論でたびたび語ってきた似而非国制,つまり民主制,寡頭制,僭主制が,原因だとわたしは主張します。じっさい,これらのどれも真の意味の国制ではなく,すべては,派閥制とでも呼ぶのが最も正しいでしょう。というのは,どれも支配するものとされるものとの合意の上に立つのではなく,支配することを欲するものが,支配されることを欲しない者を,つねに何らかの力によって支配するのですが,支配者は被支配者を恐れて,被支配者が,立派に,豊かに,強く,勇敢になることを,そして何よりも戦闘的になることを,自分からはけっして許そうとはしないからです。さて以上の2つが,ほとんどすべての悪の重要な原因であり,とくにわたしたちがいま問題にしているこれらの悪のまさに重要な原因なのです。」(832C)

これはかなり強いことが言われていると思います。民主制も寡頭制も僭主制も,実態は「派閥制」であると。全てを否定しては,そもそも国制についての議論が成り立たない気もしますが,これは『国家』篇の理想を描いた後で,色んな困難を体験してきたプラトンが現実を喝破したものなのでしょう。そして支配者が,(支配されることを欲しない) 被支配者が豊かになることを恐れた,というのも,現代でもかなりリアリティを持った説だと思えます。国家での支配ー被支配の関係ではありませんが,資本主義下の格差を考えた場合などには,低賃金で働いている人がいて,マージンで儲けている人がいて成り立っているところがあり,富裕層の本音として潜んでいるかもしれません。

支配者が被支配者を恐れる,というのは,似たような話は,『国家』篇で民主制が僭主制に移り変わる話の中でも出てきたように思いますが,ここでは (現実の) 寡頭制や民主制であっても,被支配者を恐れると言われます。もしそういうものがあれば,例えば民主制であれば,全市民が自分以外の全市民の豊かさを恐れる,ということになり,誰も他社の幸福を願わない,ということになります。もはや既存の国制が解決できる問題ではない,とも思えます。

続きます。

アテナイからの客人「しかしわたしたちがその法律を制定しつつある目下の国制は,わたしたちが述べている悪を2つとも免れているのです。たしかに,わたしたちの国家は,最大の余暇を享受し,市民は相互に自由であり,その法律の結果として,思うに,彼らは金銭欲に取りつかれることが最も少ないでしょう。」(832D)

ここで語られている,クレイニアスの国では,自由で金銭への執着がないので大丈夫だろうと。
現代の議論でいえば,ベーシックインカムみたいなものを想像します。確かに生活に必要なお金のことを考えなくてよいというのは,お金それ自体と同じくらい,精神的な負担・疲弊が減るという気がします。考えてみれば,日々の労働というのは,人の悪意にさらされる可能性が信じられないくらい多いと思います (そうでない人もいるのでしょうが)。金銭への執着がそれらの悪意を全て説明可能にするとも思えませんが,大部分は元をたどるとそうという気もします。

(第4章)
体育競技について,どんなものを取り入れるように法律を定めるべきかということが語られます。
色々言われますが,一貫しているのは,戦争に役に立つものであるべきだ,ということに尽き,そのための武器・武具を着用して行えということのようです。
例えば競走については短距離や中距離や長距離などのいずれも,重装備をつけて走らなければならないと言われます。同様に,力の競技 (レスリングやパンクラティオン) に該当するものも重装備をしたり軽装歩兵の武器による試合をするとか,乗馬についても騎兵のように武装を行うべきと言われます。

(第5章)
吟誦詩人や祭礼の際の歌舞団の競演について前半に語られますが,後半は「少なからず重大な事柄で,それを人びとに納得させることが困難なことがあります。
それはまさに神さまのお仕事なのです」(835B) と言われる問題があると言われます。それが以下です。

アテナイからの客人「では,そのような国家で,多くの人びとをしばしば極端に走らせるもろもろの欲望,理性が法律の形を取ろうとするとき,それから遠ざかるようにと命じる欲望から,いったいどんな仕かたで遠ざかることができるのでしょうか。そしてそれらの欲望の多くを,すでに定められた諸規則が抑制するとしても,それは何も不思議ではありません。」(835E)
アテナイからの客人「しかし,少年少女のあいだの,および成人した男女のあいだの愛,そこから個人にとっても,国家にとっても,数え切れないほどの出来事が起こってきたのですが,それに対しては,どのような用心をしたらよいのでしょうか。また,どんな草を刻んで薬をつくりだし,各人にこのような危険から逃れる道を見つけてやれるのでしょうか。それはまったく容易ならぬことです,クレイニアス。」(836A)

端的に言えば,「愛」というものを国家はどう扱えばよいのか?ということでしょうか。随分と法律っぽくない話という気もしますが,考えてみれば,今でいえば内心の自由をも侵害するようなことはこれまでも度々言われてきました。

アテナイからの客人「もしひとが自然の本性に従って,ライオス以前の法律を制定しようとし,女性に対するのと同じように,男性の若者たちと愛の交わりをともにするのは正しくないことであると言い,動物の習性を引き合いに出して,それが自然に反することであるがゆえに,そのような目的をもって雄が雄に触れることはないのだと指摘するならば,たぶん彼の用いる論証は [一般的には] 説得力を持つでしょうが,あなた方のお国では,けっして賛同されないでしょう。」(836C)

男性の同性愛については,反対ではないと言っているようです。これはちょっと意外ではあります。というのはこれまで結婚や子育て,教育というものが,国家の繁栄のためになされるべきもの,というような流れでずっと来ていたように思うためです。であれば,現代における各国の右派勢力のように,同性愛には反対しそうなものですが。
他方で,この時代は少年愛のようなものは普通に行われていたはずなので,経験的に悪いものではないと考えていたのかもしれません。
この話題はこのあと結構続きます。

(第6章)

アテナイからの客人「肉体に愛着し,熟れた果実に飢えるように,青春の華に飢える者は,それを満喫することを自分自身に勧め,愛されるものの心のあり方など見向きもしません。しかし肉体的欲望を二義的なものとし,相手を欲するよりもむしろ観る者,魂をもって真に魂を欲する者は,肉体が肉体に堪能することを非行であると考え,そして節制,勇気,度量,知恵を尊び敬って,清らかな恋人とともにつねに清らかな交わりを持つことを願うでしょう。しかしこれら両者の混合である愛,それはわたしたちがさきほど第三の愛として述べたものです。」(837B)

友愛の3つの種類などは省略しましたが,「肉体より魂」というところは何となくプラトンらしいところです。

この後,なぜ近親相姦は法律を無視するような人でも回避されるのか,というような生々しい話もされます。生々しいので引用は控えましたが,その理由は,喜劇や悲劇などを通じて,不敬虔で恥ずべきことであるという世論?ができているからだ,というようなことがメギロスとともに語られます。そして,この世論操作が法律制定の基礎として使える,ということが考えられていたようです。何となく現代のメディアや SNS を使った世論形成みたいなことを連想します。
実際のところ,ここで言われているようなことの抑止力は,生物学的な何かがあるのではないのか?と自分は何となく思っていました。それを踏まえても,正しいか正しくないかは別にして,何か理由を説明されれば,それがパズルのピースのようにはまると感じられて,信じてしまう,というところが人間にはあると思います (Belief echos というものが結構近いでしょうか)。ここでの世論形成みたいなものが説得に有用,ということは言えるのでしょう。

(第7章)

アテナイからの客人「しかし,もし誰か精力絶倫の血気さかんな若者がわたしたちの傍に立って,この法律が制定されるのを聞くならば,おそらく彼は,馬鹿げた,できもしない規則をきめるといって嘲り,あたり一面をそのわめき声で一杯にすることでしょう。(中略) つまり,それが可能であるということ,およびいかにしたら可能であるかということを知るのは,いともたやすいことです。(中略) しかし事態は今日,それが実現可能であるとは思われないところに来ているのです。それはちょうど,共同食事の制度が可能であるとは,つまり,国全体が永続的にそれを実行することができるとは考えられないのと同様です。」(839B)

前の章の続きで,親族間での交わりを禁止するための「仕組み」のようなものが,他の事柄に利用できれば,法律を守らせる強力な力になるだろうということがまず言われます。しかし,それは (理論上は?) 可能でも,それが実現可能と思われていないものは,法律として確立するのは困難だと言われます。
人の心に「傾き」のようなものがあり,それに沿った規則であれば守られやすいが,それに逆らった規則であれば守られにくい,というのはあり,一方でそれを克服するのが理性である,とも思えます。あまり理性に期待して法律を作るべきではない,ということになるでしょうか。

アテナイからの客人「わたしたちは誰でも,タラスのイッコスがオリュンピアの競技や,その他の競技のために,どんなふうにしたかを話に聞いて知っていますね。彼はそれらの競技に勝利を得ることを切望し,また専門的知識をわきまえ,節度ある剛毅な性格の持ち主であったので,聞くところによると,鍛錬の最中はけっして女にも少年にも触れなかったと言います。また,クリソンやアステュロスやディオポンポスやその他多くの人びとについても,同じことが言われています。」(839E)

身体が健康で,何かの競技のための鍛錬を積むことが,快楽に勝利し,遠ざかることになると言われます。
何か身体を動かして打ち込むことがあれば邪念が遠ざかる,というのは実感として分かります。

(第8章)

アテナイからの客人「そして,あの性格的に堕落してしまった人びと,それを一つの種族として,「自分自身に負けた者」とわたしたちは呼ぶのですが,彼らを三種類の力が取り囲んで,法律に違反しないように強制するでしょう。」
クレイニアス「どんな種類の力ですか。」
アテナイからの客人「神に対する畏怖の念,名誉を重んじること,身体ではなく魂の美しいあり方を欲すること,この三つです。いま言われたこれらのことは,おそらく夢物語での祈りに過ぎませんが,もしそれが実現されれば,すべての国家にとって,この上ない善きものとなるでしょう。」(841B)

性の問題について話題が続きますが,その中で言われる一節です (提示される法律案自体は常識的で,どうということもありません)。

法律というのは器であって,本来はそれを守らせるべき民こそが,国家の本体である,ということはプラトンも考えていたのだろうと思います。なので法律を作るだけではなくて,いかにその法律が守られるようになるか,ということにも腐心していたことが十分に感じられます。

または,法律というのは理想であって,それを守らせることによって「魂の美しいあり方」が追求されるような法律こそが優れたものだ,という逆説的な見方もできるのかもしれません。いずれにしてもこの周辺では,法律を定めてそれを上から目線で守らせればよい,という単純な考え方ではないということがよく感じられます。

(第9章)
共同食事についてまた言及があり,その食料の調達のために,農夫や牧羊者,養蜂業者などのための法律が必要ということが言われます。その中で,土地の境界を変えてはならない,ということが割と強調されます。

アテナイからの客人「これらの事柄については,多くの立法者たちによってすでに充分に語られており,わたしたちは彼らの法律を利用すればよいのであって,わたしたちの国の偉大な建設者に,普通の立法者でも扱えるような多くの細々した事柄まで,すべてを立法するように要求する必要はありません。たとえば農業用水については,古くからの立派な法律が定められていて,それをわざわざ,わたしたちの議論の中に引きいれる必要はないのです。」(843E)

既に優れた法律があるものは,それを流用して使えばよいと。
関係ありませんが,現代でも法律の著作権とか特許みたいなものはあるのだろうか?とふと思いました。まあないのだろうとは思いますが,もし法律によって国家が定まるのなら,優れた国家の法律を模倣すれば優れた国家が作れることになるので,最初にその法律を作った国家が独創性を主張したり,または別の国家が勝手にその法律を用いることで相対的に自国が利益を得られなくなるため,法律のライセンス料を徴収しようとしたりするという発想もあり得るかもしれない,とちょっと思いました。ただその場合,著作権法や特許法自体もまた法律なので,著作権法の著作権は何に守られるのだろう?と思ったりもします(笑)。まあなので著作権法に著作権はないのでしょうけど…。

(第10章)
果実についての法律案。上等な葡萄・無花果は,自分のところから収穫するのはよいが,他人の木から許可なく取った場合には罰を受ける…というようなことが言われます。
ただ,外国人の場合はもてなしの印として取ってもよいとか,梨,林檎,ざくろなどは (外国人でなくても) こっそり取ってその場で食べてもよいとか,30歳未満はその場合も鞭を打ってやめさせるとか,正直奇妙な法律案です。ある意味では当時の慣習が分かる部分かもしれません。

(第11章)
前半は,誰かが所有権を持つ水に損害を与えた場合の罰,また収穫物を搬入する際に誰か (の財産) に損害を与えた場合の賠償について言われます。
そして,ふと以下のようなことが言われます。

アテナイからの客人「刑がそれに従ってきめられる,これらの無数の細々した諸規則,訴状の提出,被告の召喚,証人――その数を二人にすべきか,それとも何人にすべきか――,すべてこのような事柄については,法律に定めないでおくわけにはゆきませんが,それはまた老齢の立法者の仕事に値するほどのものでもありません。ですから,それらは若い立法者たちが,先人の法律を手本にして,彼らの大きな規則に則って,自分たちの細々した規則をつくるべきです。そしてそれらを必要に応じて実験的に用いてみて,このようにしてすべての法律が充分に整ったとみなされるまで,彼らは努力すべきです。そして充分に整ったならば,それらの法律を不動のものとし,もはや正しい形をとったものとして,それを用いて生活しなければなりません。」(846B)

常識的なことを言っているように思えますが,「先人の法律を手本にして」作るべき「細々した規則」,というのとそうでないものとの境目というのはどこにあるのだろう?とも思えます。その部分にこそ,国家の根幹がある,という気もします。だからこそ「老齢の立法者」の仕事なのでしょう。

アテナイからの客人「さて,職人一般については,次のようにすべきです。第一に,市民は誰ひとりとして,職人の仕事に従事してはなりません。市民の家僕も同様です。なぜなら,市民たるものは国家公共の秩序を確保し維持するという,充分な仕事を持っており,それは多くの訓練と,同時に多くの勉学を必要とし,片手間に行なうことを許さないものだからです。二つの仕事なり,二つの職業なりを,徹底的に遂行することは,ほとんどの人間の能力を超えたものであり,さらに自分が一つの職業に従事し,他人が別の職業にあるのを監督することは,力にあまることなのです。」(846D)

後半に言われている部分については,そう思うこともあり,もしそう決められていたらと若干羨ましさを覚えたところです。
日本の会社では,上司からの無茶振りなどで,自分の専門にないことをやらされがちで,それは必然的に質の低下を招きやすいところです。
または最後に言われていることの実例として,管理業務と開発業務を一緒にやらされたりします。もしここで言われているような考え方が浸透していれば,そういう無茶振りをされても “That’s none of my business.” と毅然と言うこともできるのでしょう。

それはともかく,最初に「市民は職人の仕事に従事してはなりません」と言われ,また市民の仕事は「国家公共の秩序を確保し維持する」と言われますが,この市民は公務員のことではないかと連想します。公務員じゃなくて本当の意味で市民なら,じゃあ職人は市民ではない,ではなんなのか?ということにもなります。『国家』篇その他,職人というのはしばしば登場してきましたが,身分が市民と違うのかどうなのか?ということはあんまり考えてはこなかったと思いました。

(第12章)
収穫物の供給と分配について言われます。特にメモはありません。

(第13章)
市場で売られる商品について,また売られ方について。それと外国人の居住について。特にメモはありません。

メモは以上。
一番印象に残ったのは,6章~7章あたりの愛や性の話題で (生々しくて印象に残りやすいというのもある),特に近親を性の対象としないということが心に起こらないのは何故か,という理由を考察し,悲喜劇などによる世論の形成に帰した上で (それ自体は若干違和感もありますが),逆にそれを,人の欲望を制御するための仕組みとして使えるのではということに敷衍した場面です。実はこれは,広告などの手段で現代に実現されているとも思えます。特にネット時代の今,Cookie を使ったトラッキングや SNS などで,広告のターゲットが絞りやすいので,神話や悲喜劇に頼るしかなかった当時よりも効率的なのでしょう。
その前には,戦闘訓練の話題の中で,既存の国制を「派閥制」とこき下ろして,支配者が被支配者を恐れるがために,被支配者が裕福や勇敢になるのを許さない,という部分もありました。この辺り,建前ではなく本音というか現実ではそういうふうに考える人や時がある,ということを経験からプラトンは思い知っていたのかもしれません。
後半の方は,「こまごまとした事柄まで新たに立法する必要はない,すでに他の国家の優れた法律が存在するのだから」というようなことが言われている部分もありますが (843E),それにしても細かい話が続いて退屈ではありました。果実の収穫や水,農産物,市場といったものについての取り決めの話題で,殆どメモに残さなかったのですが,外国人については法律の内容が分かれるものが結構あるというのが印象に残りました。

プラトン『法律』第七巻メモ

プラトン『法律』(プラトン全集 (岩波) 第13巻) 第七巻を読んだときのメモです。

第七巻は,子供の養育・教育という話がメインになっていると思います。右手と左手を同じように使えるようにすべし,とか,戦争に関わることでもできるだけ男女同じことを教えるべき,というのは,ある意味動物として冷静に人間を見ていたプラトンの一面が垣間見られる印象で,回り回って割と現代的という印象を持つところです (『国家』篇でもそうでしたが)。
また合間には,法律と慣習・しきたりの関係や,神と科学の両立?の話などかなり興味深いことが語られています。

以下読書時のメモです (2つに分けたくなかったので,かなり長くなってしまいました)。

アテナイからの客人「さて,男女の子供たちが生まれたので,そのつぎには,養育と教育とを語るのが,わたしたちにとって最も正しいことでしょう。
この問題は,語らないで済ますことはとうていできませんし,そうかといって語るとすれば,教えるとか勧告するとかいう形を取る方が,法律で規定するよりも,適当なようにわたしたちには思われます。なぜなら,私的な家庭生活には,人目につかない多くの細々した事柄が生じ,これらは個人の苦痛や快楽に左右されて,立法者の勧めるところに反するものとなるため,市民たちの性格を種々雑多な,互いに似ていないものにしてしまいやすいのです。しかしこのことは,国家にとって悪なのです。」(788B)

養育・教育がテーマとなるようですが,その基本的な思想は,やはり市民の性格・性質を同質なものにするべき,ということのようですね。これは第6巻で言われた結婚の問題などとも通じています。

アテナイからの客人「それなら,身体が最も多くの栄養を取って大きくなるとき,そのときに最も多くの運動を必要とするわけです。」
クレイニアス「何ですって,あなた。生まれたばかりのごく幼いものたちに,わたしたちは最も多くの運動を課そうというのですか。」
アテナイからの客人「いや,そうではありません。それよりもっと前に,母親の胎内で養われているときにです。」
クレイニアス「これは何ということを,あなた。胎児にとおっしゃるのですか。」

この前から,小さい頃の成長は急激であるということは言われていたのですが,さらにアテナイからの客人は,母親の胎内にいる時からそれは始まっていると言い,運動を与えることで「健康と美,その上,力までも」(789D) 与えることができると言います。鳥の雛を育てる例も言われますが (戦わせるため?),自力であろうと他力であろうと運動が影響を与えると考えていたようです。
生まれる前からクラシック音楽を聴かせると良い,などよく聞きますが,プラトンの時代でもそういう考えがあったのは新鮮です (とはいえ運動を主眼としていますが)。

アテナイからの客人「国家の中で主人で自由人である性格の持主は,それを聞けば次のような正しい認識におそらく到達するでしょう。すなわち,国家において個人生活が正しく規制されないかぎり,公の生活にとって確固とした法律が制定されることを期待しても無駄であろうということです。そしてこのことを理解した人は,さきほど述べられた諸規則を自ら法律として用い,そうすることによって,自分の家庭も国家も,ともに立派に整え,幸福に暮らすことでしょう。」
クレイニアス「まったく,もっともなお言葉です。」(790B)

色々養育について語られますが,違反したら罰則を与えるような法律を作ってもどうせ守られないだろうと上記引用の前に言われます。家庭内のことについては,制定して守らせるのではなく,言い聞かせて自主的に守らせる,というスタンスのようです。これは第6巻でも似たようなことが言われていました。
まあ国家の繁栄を願わないとしても,子供の健やかな成長を望まない親はいないはずなので,妥当だという気がします。

アテナイからの客人「ご承知のように,母親がなかなか寝つかない子供を寝つかせようとするときには,彼らに静止をではなく反対に運動を,――腕に抱いて絶えずゆさぶってやるのです――,沈黙をではなく歌を与え,そしてバッコスの狂気にとりつかれた人びとを癒すように,あの踊りと歌との結合という形での運動を治療に用いて,子供たちに文字通り笛の音による呪(まじな)いをかけてしまうのです。」(790D)

子供が泣いてしまって寝付かない時にあやす光景は,今も2,400年前も全く変わらないようですね。
ここで,なぜ小さい子供がぐずってしまうのか?というのをいきなり分析しだします。いかにもプラトンらしい面白いところです。詳細は割愛しますが,「元にあるのは一種の恐れで,外から与えられた運動が恐怖と狂気という内なる運動に打ち勝ち,心臓の苦しい鼓動を沈めて,魂に静けさと安らぎを生じせしめる」というようなことが言われます。勿論科学的ではなく経験的なものだと思いますが,一定の尤もさも感じます。

アテナイからの客人「ではどうでしょう。もしこの3年間,あらゆる手段を尽くして,わたしたちの子供が,できるだけ悲しみや恐怖やあらゆる苦しみを経験することのないように計らうならば,この間に子供の心をより快活な,明朗なものに育てあげるとは思われないでしょうか。」
クレイニアス「それはもちろんです。そして,あなた,もし彼に多くの快楽を与えてやれば,とくにそうすることができるでしょう。」
アテナイからの客人「これは驚きました。そこまではもうわたしは,クレイニアスについてゆけません。じつは,そのような行為が,わたしたちにとって,すべてのなかで最大の破滅なのです。」(792B)

子供を乱暴に押さえつけるような養育をすると,自由人らしくない偏屈な人間になると言われますが,しかし多くの快楽を与えるというクレイニアスの言葉には真向から反対します。まあこれは予想できたことですが,ではどうすべきなのか?という問いには,「中間」を目指すべきだとこの後で言われます。これは誰にでも当てはまるが,特に生まれたばかりの赤ん坊やそれ以前の妊婦にとっては重要ということが言われます。

アテナイからの客人「わたしたちがいま問題にしているこれらの規則はすべて,世間の人びとが書かれざる掟と呼んでいるものだということです。そして父祖の方と彼らが呼んでいるものは,このようなものの総体に他なりません。さらに,さきほどわたしたちが付け加えた言葉,つまり,それらを法律と名づけるべきではないが,それらに言及せずに済ませてもならないという言葉は正しかったのです。なぜなら,これらの規則は国制全体の紐帯であり,すべての,すでに文字に書かれ,交付されている法律と,将来成文化されるであろう法律との中間にあって,文字どおり祖先伝来の,すこぶる古い掟とも言うべきものです。ですから,それらが立派に定められ,慣習となるならば,それまでに書き記された法律をまったく安全に包み護る役をしますが,もしそれらが誤って正しい道から外れると,ちょうど大工の建てた建物の支柱が中心から外れたときのように,すべてを崩れさせ,重なり合って倒れさせるのです。」(793A)

養育の話題は続いていますが,その中で唐突に語られます。話の筋と関係ないところにいきなりプラトンの本音 (のようなもの) が出てくる,というのはプラトン対話篇あるあるですね。
プラトンの法律観がよく表れていると思います。それは,『国家』篇や『政治家』篇よりも現実的になって,法律の必要性を認識したとしても,やはり書かれていて安定した法律が全てではなく,書かれざる「掟」「慣習」「しきたり」といったものが「紐帯」となって,より「法」として良いものとなっていく,ということだと思います。何となくイギリスのような法律観という気もします。
では「掟」「慣習」「しきたり」といったものの正当性をどう判断し行動すればよいのか?とも思います。法律であれば,立法府が承認し,行政が執行し,裁判所が判断する,ということになると思いますが。そこは,行政にせよ個人にせよ,「倫理」とか「道徳」ということになるのでしょうか。そう考えると,やはり「哲人政治」の要素が出てきますね。
国民が法を定める,という民主主義で,ともすると法律さえ守れば何をしてもよい,となりがちな面の弱点をカバーするには,法を守るという前提条件を守った上で,行政や個人が倫理的に行動する,ということが必要なのかもしれません。…こう書くと至極当たり前のことですが(汗)。

アテナイからの客人「ところで,6歳以後は男女を別々にすべきです。――男の子は男の子と,同様に女の子は女の子同士で,時を過ごさせます――。だが,どちらも学習に向かわせなければなりません。男の子は,馬術,弓,投槍,石投げの教師のもとへ行かせますが,女の子も,もし彼女たちが同意するならば,これらのことを学ぶだけはさせるのがよいでしょう,とくに槍と楯の使用に関してはね。」(794C)
アテナイからの客人「人びとの考えでは,わたしたちの手に関するかぎり,右と左とではすべての行動において生まれつき相違があるとされています。だがそれでいて,足や下肢に関しては,その働きに何の差異も見出されていません。わたしたちは誰も,乳母や母親の愚かさのために,手がいわば片ちんばになってしまったのです。なぜなら,自然の能力から言えば両の手足はほとんど等しいのですが,わたしたちがそれらを正しく用いないで,習慣によって違ったものにしてしまったのですから。」(794D)

どちらとは書かれていませんが,現代でも基本的に右利きの人が多いと思われるので,それは昔からそうだったのですね。それに対して,自然本来では右と左は差がないので,同じように使えるべき,というのは,ダイバーシティ尊重というよりは,科学的・生物学的な見方という感じがします。

その後,学習は身体に関する体育と,魂をよくするための音楽・芸術に分かれ,さらに体育は,踊りとレスリングに分かれる…ということが言われ説明があります。

アテナイからの客人「ひどく変った耳馴れないことというものは,語る側も聞く側も充分な注意を払わなければなりませんし,いまの場合はとくにそうなのです。というのは,わたしは,これからお話しすることを口にするのがためらわれるのですが,何とか勇気を出して,怯まないようにしましょう。」
クレイニアス「何のことを言っておられるのですか,あなた。」(797A)

アテナイからの客人が何かひどく逡巡していますが,以下のことが言われます。

アテナイからの客人「同じ子供たちが,同じ仕かたで,同じようにして,つねに同じ遊びをし,同じ玩具を喜ぶようにすれば,真剣な事柄に関する規則も,変らないでいることが可能でしょう。しかしもし,これらの遊びが動かされ,新しくされ,絶えずさまざまの変化をうけて,子供たちが同じものを好ましいとはけっして言わないならば,そして自分たちの身のこなしや持ちものについても,何が美しく何が醜いかという一致した規準を持たず,むしろつねに何か新しいものを作りだし,形,色その他において従来とは違ったものを導入する人間がとくに尊重されるならば,このような人間以上の悪疫は国家にとって存しない,と言っても過言ではありますまい。というのは,彼はそれと気づかれずに若い者たちの性格を変え,彼らに古いものを軽蔑させ,新しいものを尊重させるからです。」(797B)

遊びやファッションについて,新しいものを取り入れると,古いものを軽蔑することになるからいけないと。そんな無茶苦茶な,という感じですが,既に最善の状態である,という認識だと思われるので,まあ仕方ないところなのでしょうか。アテナイからの客人に随分と躊躇させていたので,プラトンとしても突拍子のないことだという自覚があったのだと思われます。
復古的な,または例えばゲームに否定的な日本の一部では,こういう考え方に親和性が高いと思わなくもありませんが。
例えば将棋,サッカー,スマートフォンが出てきても,ここで建てようとしているクレイニアスの国では,それを受け入れないということになるのでしょうか。

それはともかく,プラトンがそう考えた理由としては,以下のようなものがあるようです。

アテナイからの客人「どの立法者も,先に言ったように,たとえ子供たちの遊びを変化させても,要するに遊びであって,それから最も重大で真剣な害悪が生じるとは考えていないのです。ですから彼らは,変化を防がないで,むしろ変化に屈し,追随しているのです。そして彼らは,次のことを考慮にいれていないのです。つまり,遊びに変化を持ち込む子供たちは,以前の世代とは違った人間になり,別の人間になるがゆえに別の生活を求め,別の生活を求めるがゆえに違ったしきたりや法律を欲するようになる,ということをです。そしてその結果として,いま言われた,国家にとっての最大の悪が訪れるであろうということを,彼らは誰ひとりとして恐れていないのです。」(798B)

遊びが子供たちの思考・考え方に与える影響というのは軽視されがちだが大きいものだ,というのは同意です。
何かしら変化があれば人も変わり,それで法律に適応しなくなることを恐れた,というのは,ある法律の立法者としては尤もな懸念にも思えてきます。それが養育の場面でも言われたように,影響を受けやすい子供であればなおさらのことかもしれません。ただ,時間的にも長い目で見れば,人の生活は外的な要因によって変わることがあり,そのために法律も変わるべきだとは自分は思います。でないと立法者がいる意味がありません。
まあそれにしても頭が固すぎるとは思いますが。やはり,変化を受け入れるか,それとも法律 (理想) が上か,ということにどうしても帰着してしまうように思われます。

アテナイからの客人「わたしたちの国の子供たちが踊りと歌とにおいて別の作品 (模倣) に触れたいという欲望を持たないように,また誰かがさまざまなたのしみを提供して,彼らを誘惑することのないように,あらゆる工夫をこらさねばならない,とわたしたちは言うのではありませんか。」
クレイニアス「ほんとうにおっしゃるとおりです。」(798E)

アテナイからの客人「(引用註:その目的のためには) すべての踊り,すべての歌を,神に捧げられた聖なるものとするということです。それにはまず祭礼を整えるべきで,一年を通じていかなる祭礼を,いつ,そしてどの神,神々の子およびダイモーンのために行うべきかの暦をつくるのです。」(799A)

アテナイからの客人「何ぴとも,公の神聖な歌や若者たちのすべての踊りに違反してうたったり,踊りの動作をしたりしてはならない。これは他のどんな法律に違反してもならないのと同様である。そしてこれに従う者は罰を免れるが,従わない者は,いま述べたように,護法官並びに男女の神官がこれを懲らしめるものとする。」(800A)

歌や踊りについてですが,それは優れたまたは劣った人間の在り方を模倣するものであるので,前に挙げた遊びと同様に好き勝手行わせるわけにはいかない,ということで引用のようなことが言われます。そのためには祭礼として許可する歌や踊りを定め,違反したものは罰されたり追放されたりするようです。
これもトンデモな説という感じを受けますが,「伝統」というものはこのようにして成り立ち,受け継がれていくのかもしれない,とも思います。

アテナイからの客人「詩人は国家が認める合法性や正当性,美や善に反しては何ひとつ作ってはならないし,またその作品を,この仕事のために任命された審査員や護法官たちに見せて承認を得ないうちは,いかなる個人にも見せてはならないということです。」(801D)

前に言われていた歌と踊りの話の続きの中で語られますが,完全に「表現の自由」がないですね。全ての歌や踊りは,神に捧げられた神聖なもの,とすぐ前に言われていたわけですが,ここではそれが,(詩人に対してではありますが) 国家の認可ということになっています。この辺りは今の価値観からするとコメントをするのもバカバカしいといったところですが,じゃあそれを何故プラトンが敢えてアテナイからの客人に言わしめたのか?とも思います。
詩人の (政治的な?) 力というものが,それだけ大きかったということなのかもしれません。今で言えば新聞のようなものだったのでしょうか?元々,当時の詩人というものは,神々の言葉を人々に伝えるもの,というような話は『イオン』などでも言われていたと思います。本当に神々の言葉を伝えるのなら,ここまでの下りによると寧ろ国家としては歓迎しそうなものですが,結局国が認めるものしか許可しないということなら,国家は神々を恣意的に利用しているということにしかならない,とも思えます。

アテナイからの客人「女性にふさわしい歌と男性のそれとを,何らかの型によって区別し,それらに適したハーモニーとリズムを与えなければなりません。
(中略)女性にふさわしい歌は,男女の自然的性の相違そのものをもとにして,それによって男性の歌との区別を明らかにせねばなりません。たしかに,豁達さと勇敢さへの傾向は男性的というべきですし,礼儀正しさと慎み深さへの傾向は法律の上でも,理論の上でも,とりわけ女性的だとみなされるべきです。」(802D)

神々に捧げる賛歌・頌歌の話題の一節です。そもそも声の質が違うので,男女で歌の傾向が違うのは分かりますが,そこを (事実かどうかはともかく) 男性は豁達さや勇敢さ,女性は礼儀正しさや慎み深さ,という男女間の性質 (性格) の違いに帰そうとするのが面白いところで,現代ではどうでしょうか。それでも「男女の自然的性の相違そのものをもとにして」という注意深い言葉は,プラトンが差別的な思想を持っていたわけではないことを感じさせます。

アテナイからの客人「わたしの言う意味は,真剣な事柄については真剣であるべきだが,真剣でない事柄については真剣であるなということ,そしてほんらい神はすべての浄福な真剣さに値するものであるが,人間の方は,前にも述べましたが,神の玩具としてつくられたものであり,そしてじっさいこのことがまさに,人間にとって最善のことなのだということです。」(803C)
アテナイからの客人「ですから,各人が,最も長く,最も善く過ごさなければならないのは,平和の暮しなのです。では,正しい生き方とは何でしょうか。一種の遊びを楽しみながら,つまり犠牲を捧げたり歌ったり踊ったりしながら,わたしたちは,生きるべきではないでしょうか。そうすれば,神の加護を得ることができますし,敵を防ぎ,戦っては勝利を収めることができるのです。」(803D)

急に話が脇にそれて,第一巻で言われた「人間は神の操り人形」論への言及とともに,戦争ではなく,遊びを楽しみながら平和に暮らすべし,ということが言われます。プラトンの最晩年に書かれた本対話篇ですが,プラトンの波乱の人生に基づいた実感なのでしょうか。
それと,そのように神にすべてを投げ出した,他力的な考えだからこそ,ここまで言われてきたように,犠牲を捧げる儀式や神々への賛歌などは国家として明確に定めなければならない,ということなのだろうか,と思いました。そう考えると,国家というより宗教という気もしますが,そもそも国家と宗教の違いとは何か?とも思います。
勿論全然違いますが,ここまで言われてきたものについては,宗教,また法律は教義,と置き換えてもあまり違和感がないようにも思います。また現代でも国家というのは,多かれ少なかれ宗教の影響を受けていると思われます。
まあなんにせよ,この話題が,この『法律』篇で,プラトンがアテナイからの客人に言わせた話,というところに深い意味があるように思います。

アテナイからの客人「子供は,父親が希望する者のみが通学し,希望しない者は教育を免除されるというのではなく,俗に言う「猫も杓子も」できるかぎり強制的に教育を受けなければなりません。子供は両親のものであるよりも国家のものであるのですから。また,このわたしの法律では,女性に対しても男性に対するのとまったく同じことが要求され,女性も男性と同じ訓練を受けるべきだとされるでしょう。」(804D)

義務教育について考えられていたようです。「子供は両親のものであるよりも国家のもの」という一文が不気味ですが…まあこの考え自体は『国家』篇から言われていることではあります。

アテナイからの客人「すべての男女が心をあわせ全力を傾けて,同じ仕事を遂行するのでないということは,何よりも愚かなことである,とわたしは主張します。ほとんどすべての国は,こうして同じ経費と労力をもって,ほんらいはいまの二倍であり得るのに,実際はほんらいの力の半分しか発揮していませんし,将来もそういうことになります。だがこれはたしかに,立法者にとって驚くべき過ちだということになるでしょう。」(805A)

当時でも狩りをしたり戦争に行ったりする女性がいる種族 (サウロマタイ人) を引き合いに出して,上記のようなことが言われます。男女を区別しない,ということも『国家』篇から言われていたことではありますが,ここでの言明は非常に先進的に思えます。かつ,物事を根本的に考えるプラトンにとっては当然なのだろうとも思います。
特に後半の「ほんらいはいまの二倍であり得るのに,実際はほんらいの力の半分しか発揮していません」という言葉は,女性が男性と平等に活躍していれば GDP がもっと増えるはず,みたいな最近ネットのどこかで見た意見と同じです。

ここからは (疲れてきたせいか) メモした部分が少ないので章ごとに見ていくことにします。

(第13章)

生活必需品は支給され,奴隷を使え,食事も用意されているような生活をする人は,家畜のように太って生き,苦労を厭わない他の動物の餌食になるしかないのでしょうか?いや,そうではなく,ひたすら身体と徳の育成をするべきだと。また,睡眠は必要最小限にしろと。

アテナイからの客人「睡眠を取りすぎることはわたしたちの身体にも魂にも,またこれらすべての公私の活動にも,ほんらい適当でないのです。じっさい,誰でも眠っているあいだは何の価値もなく,屍も同然です。」(808B)

(第14章)

子供の教育と罰,学ぶべき内容について。特に読み書きと竪琴について。

アテナイからの客人「これらの作品の学習について言いますと,多くのこのような人びとによって残された作品のなかには,わたしたちに危険なものがあります。」(810B)

過去に作られたものには,国家にとって有害なものがあると。その回答が次に言われるということで,何となく流れ的には,国家篇にあったように,北朝鮮を連想させるような言論統制的なものが言われるのかと思ったのですが…。

(第15章)

アテナイからの客人「私たちが,明け方からこれまでつづけてきた言論の跡を振り返ってみますと,――わたしたちはどうも神的な霊感に恵まれなかったわけではないようにみえますが―,それがわたしには,一種の詩作にまったくよく似た形で語られたように思われました。」(811C)

ということで,(省略したので分かりづらいですが) 本対話篇でここまで語られたことがお手本であり,これ以上のものはない,と言われます。
正直,ちょっと何を言っているのか分からない,という感じですが。もっと有体に言えば,「私の書いた対話篇を読め!」とプラトンが言っているということでしょうか。

(第16章)
竪琴の教師,教え方について。

(第17章)
体育で教えるべきこと…本章序盤で言われた体育の内容と,中盤で言われた男女を区別しないという内容の復習のようなもの。

(第18章)
踊りについて。2つに分ける:戦闘の踊り=ピュリケー(勇敢な魂を表す)と,平和の踊り=エンメレイア(節度ある魂を表す)。戦闘の踊りの説明は面白い。

(第19章)
喜劇と悲劇について:喜劇については物真似の劇という位置づけらしい。
また悲劇については,異国の悲劇作家に以下のように語るという場面が仮想されます。

アテナイからの客人「「おお,異国の人びとのなかで最も優れた方々よ,わたしたちは自分たち自身が悲劇の作者であり,しかもできるかぎり最も美しく,最も優れた悲劇の作者なのです。じっさい,わたしたちの全国家体制は,最も美しく,最も優れた人生の似姿として構成されたものであり,そしてこれこそまことに,最も真実な悲劇であると,わたしたちは主張します。ですから,あなた方が作者であるように,わたしたちもまた同じ種類のものの作者であり,しかも,最も美しいドラマの制作者かつ役者として,わたしたちはあなた方の競争相手なのです。そしてこのドラマは,もともと真の法律だけが作りあげることができるものなのだと,わたしたちは信じています。」」(817B)

比喩なのかもしれませんが,この対話自体が悲劇なのだと。この後,その相手の悲劇作家の作品が優れていたとしても,国家にふさわしいと役人が判断しなければ上演は認められない,ともクギを差します。

(第20章)
残りの3つの学問がある,と言われ,それは(1)計算と数,(2)線,面,立体の測定,(3)軌道を運行する諸星相互の関係に関するもの,と言われます。
ただ,それぞれの,どうしても必要なもののみを学べばよいと。他方,すべてを詳細にわたって究めるのは,「夜明け前の会議」の会員でよい,とも(これは傍注より。12巻に出てくるらしい)。

また「神的必然」という言葉が出てきます。「神でさえ必然と戦う姿は見られない」(818B) とも言われます (註によるとシモニデスの言葉らしい)。今で言えばこれは自然科学,または物理法則のことを言っているように思えます。何となくちょっと嬉しくなってくる流れです。

クレイニアス「では,あなた,これらの学問の持つ,人間的でない神的必然とはどんなものなのですか。」
アテナイからの客人「わたしの見るところでは,その必然というのは,それを実践することなしに,あるいはまたそれについてまったく無知であっては,神もダイモーンも半神も,人間に対して責任をもって人間世界を監督することができないようなものです。1も2も3も知らず,一般に奇数と偶数の区別もできず,数を数えることもまったく知らず,夜と昼とを数え分けることもできず,月や太陽や星の運行についても無知であるならば,そのような人はとうてい神的人間にはなれないでしょう。ですから,最高の学問についていささかなりと知識を得たいとする人にとって,すべてこれらの学問が不可欠であると考えないのは,この上なく愚かなことです。」(818B)

神が自然科学について全能である…というより,自然科学について全能なのが神(的)である,ということが言われていると思います。
これは面白いと思います。神というものが,自然科学とは無関係な存在なのではなく,自然科学と同じフィールドに立っていて,それを観測できる者というイメージが湧きます。
プラトンが宗教を作ったら,教義は自然科学になったのかもしれません。或いは,自然科学を含む意味での哲学でしょうか。

(第21章)
3つの学問のうち(1)計算と数,(2)線,面,立体の測定,について子供たちに教えるべきだ,ということが言われます。
その中で,線は線と,面は面と,立体は立体と,通約可能であるが,別々のものは通約可能ではない…これを多くのギリシア人は知らないが,それは恥ずべきことである,ということが言われます。
「通約可能」という意味がよく分かりませんが,例えばある線分の長さが2倍である場合に,その線分による面の大きさは2倍ではなくて4倍で,その線分による立体の大きさも2倍ではなくて8倍になるので,線分と面と立体は通約可能でない,というような感じでしょうか。
そういえば『メノン』で,ソクラテスが召使に出した問いで,ある正方形がある場合に,面積が2倍になるような1辺の長さを答えさせる場面がありました。

(第22章)
3つの学問のうち(3)軌道を運行する諸星相互の関係に関するもの,つまり天文学について。何を学ばせるか…という話になるかと思いきや,ある意味割と衝撃的なことをアテナイからの客人は口にします。

アテナイからの客人「わたしたちのところでは一般に,最高の神と全宇宙とを探究したり,その原因を究めることに忙殺されたりしてはならない――それは神を冒涜することであるから――と言われていますが,じつはそれと正反対のことが正しいように思われます。」
クレイニアス「それはどういう意味でしょう。」
アテナイからの客人「わたしの言うことは逆説的で,老人にはふさわしくないと思う人もあるでしょう。しかしもし誰かが,ある学問を美しく真実であり,国家にとって有益で,神にとってまったく好ましいとみなしている場合,それを言わないでおくことは,いかなる意味でも不可能です。」(821A)

まさに罪状が神を冒涜したということでソクラテスが処刑された当時でもそうだと思いますし,その後長い時代でも,キリスト教世界のヨーロッパであれば,間違いなく宗教裁判で死刑になっていた (そして本対話篇は出版はされなかった) でしょう。少し前の「神的必然」とも当然つながりますが,裏を返せば,当時としては先進的だったと思えます。

アテナイからの客人「ですから,メギロスにクレイニアス,まさにこういう理由で,わたしはいま,わたしたちの市民や若者たちが,天の神々についてそれらのことすべてを学ばなければならないと主張するのです。神々について冒涜的な言辞を弄せず,犠牲を捧げ敬虔な祈りをあげる際に,いつも神を敬う言葉を口にすることができるところまではね。」(821D)

それでも,確かにこれまでずっと神を祭り犠牲を捧げると言ってきていて,神を軽視するわけではありませんでした。いや寧ろ,まさにそのためにこそ,天文学つまり科学を学ぶべきであるとここで言っています。これも唸るところです。
普通は逆だと思いますよね…科学とか何だか分からないので助けて,というのが神への祈りだと思ってしまうところですが (私は宗教の信仰者ではないと思うのでどうしても分からないところはありますが)。他方で現代では科学を全く無視することは到底ありえません。なので科学と神を同じ方向に見ているというか,科学と宗教が対立するわけではないというのは,非常に先進的で,宗教対立や宗教と科学の対立が続く現代においても有効な見方であるように思えます。

アテナイからの客人「最善なる人びとよ,月,太陽,その他の星が彷徨うものだというこの考えは,正しくはないのです。その正反対が本当です,――これらの天体のおのおのは同じ軌道を回転しており,いくつかの軌道を通るように見えますが,じつは多数のではなく,つねに一つの軌道を回転しているのです――,そしてまたそれらのうち最も速いものが,間違って最も遅いと思われ,最も遅いものが最も速いとみなされています。」(822A)

太陽ではなく地球が回っている,とは考えられていなかったことは分かりますが,速いものが遅い,遅いものが速い,というのはよく分かりません。ただ,地球以外が回っているというだけでは説明がつかないことが分かっていたのだろう,という含みは感じられます。

(23章)
狩猟について。人間の狩り (つまり戦争や略奪など) も含む。
(法律にすべきものとすべきでないものがある,しかしいずれにしても文字にされたものを守る人が善き人である,という話も間に入る)

メモは以上。
基本的に教育・養育についても,国民を均質にすべしという思想に貫かれているとは思うのですが,右手/左手を区別しないとか,男女の区別をしないということについては,イデオロギーではなく生物学的な見方を冷静にしているという印象があり,他方で何でも与えられて家畜のように生きていればよいというのではない,とも明確に言っているところもあって (これは徳を修めるべしというこれまでの話からも当然なのですが),現代から見てもあまり古く感じられません。国が認可しない歌や踊りは禁止,というようなものはさすがにどうかと思いますが,今だから言えることで100年前はどうだったのか?とも思います。

また神々を祭ったり犠牲を捧げるということが前巻までずっと言われてきたわけですが,本巻では,「人間は神の操り人形」論が少し復活してきて,幸福とは神々の為に歌ったり踊ったりして楽しむことである,といった他力的で意外なことが言われたりしました。またその神々を祭るための定められた歌や踊り以外のものを歌ったり踊ったりすれば国によって罰せられるとか,詩人の歌は国家に認められたものしか許可しないといったことが言われ,国家と宗教の違いって何?と思わされたりしました (根本的なところでは違いは結構曖昧なのでは,と思います)。

他方で,正しく神に祈りをささげるためにこそ科学を学ぶことが必要だ,という面白いことも語られ,神 (宗教) と科学の関係 (共存) ということについてプラトンは既に考えていたのだなぁ,ということも思わされたりしました。

現代というのは,科学についても神 (宗教) についても,私のような末端の人間であっても,何か超越的な視点から考えがちで,かつそれが合理的だと思ってしまうところではありますが,当時は本当の意味で境界が曖昧で,かつ人々はその曖昧な世界の中に確かに生きていた,ということなのだと思います。自分が本当に超越した存在でない限り,本当はそちらの方が正しいのかもしれません。国家,というものの曖昧さが,それを証明しているようにも思えます。

プラトン『法律』第六巻メモ(2)

プラトン『法律』(プラトン全集 (岩波) 第13巻) 第六巻を読んだときのメモ第2弾です。

第六巻は,国における役職の話がずっと続いてきましたが,後半は結婚に関する話題が大部分を占めます。また合間に,奴隷に関することや女性についての立法に関することも話題になります。この辺りは当然,人権意識が現代とはかなり異なるので割り引いて読む必要はありますが,実はあまり変わっていないのでは?と思わされるところでもあります。

以下読書時のメモです。

アテナイからの客人「さて以上につづいて,わたしたちの法律は,次のように神聖な事柄を出発点として,そこから始めることにしましょう。つまりまず最初に,わたしたちはもう一度あの5040という数を取りあげて,それが全体としても,また各部族の戸数としても,どれだけの便利な因数を含んでいたか,また含んでいるかを考えてみなければなりません。各部族の戸数をわたしたちは全体の12分の1としましたが,それはちょうど21の20倍にあたります。そしてわたしたちの全体数は12で割ることができ,部族の戸数も12で割ることができます。ですから,それぞれの部分は1年の各月と,万有の回転に対応し,神聖なもの,神の賜物と考えられなければなりません。」(771A)

以前にも出てきましたが,また 5040 という数字が出てきました。
ただ,この「神聖な」数字に基づいて,月に2回祭壇で犠牲を捧げる集まりを催し,そこを婚活パーティのようにも利用?するつもりのようです (その部分は省略)。
考えてみれば,今のように時計やカレンダーもなく,会社も学校もないような時代に,国のようなところが,何かを定期的に開催する,ということの重みは今よりもずっと大きかったのでしょう。かつそれを結婚の機会に結び付けるというのは,今から見ると突拍子もないように思えますが,後で出てくるように当然の要請だったのかもしれません。
この後,第16章からの結婚の話題が続きます。

(第16章)

アテナイからの客人「さて25歳に達した男性は,お互いに調べたり,調べられたりした上で,自分の意にかない,協力して子供を持つにふさわしい娘をみつけたと思ったなら,35歳までのあいだにすべて結婚しなければなりません。だが,適当な,似合いの相手を探す方法について,彼にまず聞かせておかなければなりません。」(772D)

ここからは割とストレートに,いつ誰と結婚すべきか,という話がなされて,本対話篇の中では比較的読み易いところです。
前述の「婚活パーティー」としての集まりもそうですが,何となくお見合い結婚のようなものが前提になっているようにも思えます。

アテナイからの客人「「息子よ,お前は思慮ある人びとにとって評判のよい結婚をしなければならない。彼らはお前に,貧しい人びととの結婚を避けたり,金持との結婚をとくに追い求めたりせずに,もし他の条件が同じなら,つねに劣った方を選んで結婚するようにと忠告するであろう。」」(773A)

アテナイからの客人「「すなわち,各人は,国家にとって利益をもたらす結婚を求むべきであって,自分にとって最も快適なものをではない。ところが,すべての人はなぜかつねに自分に最も似た性質を持つ者の方へ引かれるもので,その結果,国全体に,富の上でも性格の上でも不均衡が生まれる。ここから,わたしたちの国では起こってもらいたくないことが,たいていの国ではじっさいによく起こるのである。」」(773B)

「つねに劣った方を選んで結婚するように」というのは (前提として自分が裕福で優れているということがあると思いますが) かなり意外な言葉です。
つまり結婚とは国の利益になるべきであって,そのためにはできるだけ国民が均一になるようにすべき,と考えられていることが分かります。他にも,せっかちな人は物静かな人を迎えるように,などとも言われます。
別の見方をすると,結婚によって格差が縮小するようにしている,とも言えます。翻って考えると,現代では,裕福な人は裕福な人と結婚するケースが多いようにも思われ,それはどうしても格差が拡大する方向のようにも思われます。だとすると,それを是正するのが国の役割という気もしますが,流石に現代では結婚相手を制限するのは自由の侵害という面が大きく無理なので,課税や給付によって行うということになるのでしょう。
なおこの辺りは,「これらのことを法律の条文によって規定すること (中略) は,滑稽なばかりでなく,多くの人びとの怒りを買うでしょう。」と言われ,法律化はさすがに考えられていなかったようです。

(第17章)

アテナイからの客人「もし誰かが故意にそれに従おうとせず,国のなかにあってよそものとして他人と交わらず,結婚しないままに35歳になるならば,彼は毎年罰金を払わねばなりません。」(774A)
アテナイからの客人「ところで,結婚を欲しない者は,金銭的には,以上の罰を科せられますが,尊敬という点では,彼は年下の者から受けるいっさいの尊敬を奪われ,若者たちも誰ひとりとして自分から進んで彼に従ってはなりません。」(774B)

独身者に厳しいですね。表向きは「子孫を残し,つねに自分に代って神に仕えるものを提供することによって,永遠のいのちに参与すべきだという先の言葉にあわせて」と言われますが,やはり「国家の利益」のためというのは間違いなさそうです。この辺りは,たまに日本の政治家の失言に現れますが,税金や国民の労働で成り立っている現代の国家でも本音は同じなのでしょう。

アテナイからの客人「婚約の権利は,第一に父親,第二に祖父,第三に父を同じくする兄弟に属し,これらの人びとが一人もいない場合には,つぎに同じ順序で母方の親族に移ります。」(774E)

本人の意思ではないのですね。まあ時代が違えば,それも当然と考えられていたのでしょうか。父権的というか,日本でも100年前は似たようなものだったのかもしれません。

(第18章)

ここでは結婚披露宴について,人数はどのくらいが良い,といったことが言われます。
また子供を作ることについて,酒に酔った状態でできた子供は,「性格も身体も真っすぐでない子供」(775A) になるということも言われます。科学的根拠はなかったと思いますが当時でも経験的に知られていたことなのか,それとも酒を戒めるための口実だったのか。

(第19章)

アテナイからの客人「つぎに所有物としては,どんなものを持っていたら,最も適当な財産を持っていることになるでしょうか。その多くは,考えることも,手にいれることも困難ではありませんが,奴隷のことになると,あらゆる点でむずかしいのです。」(776B)
アテナイからの客人「もちろん,わたしたちは誰でも,奴隷はできるだけ気立てのやさしい,できるだけ立派なものを所有すべきだと,言うであろうということは分っています。なぜなら,奴隷の方が兄弟や息子よりも,あらゆる徳性において優れていて,主人やその家財や家族全体を救ってくれたことが,これまでに数多くあるのですから。たしかに,こういうことが奴隷について言われていることをわたしたちは知っています。」(776D)

奴隷の所有について語られます。最初の言葉から,当時から微妙な問題ということは認識されていたことが分かります。
「奴隷の方が兄弟や息子より,あらゆる徳性において優れている」ことが数多くある,というのはかなり意外な言葉です。ただ直後には「また反対に,奴隷の魂には健全なものは何ひとつなく,道理をわきまえた人なら,こんな輩を何ひとつ信用すべきではないとも言われていますね。」(776E)とも。続きます。

アテナイからの客人「ひとが,見せかけでなく心から正義を敬い,真に不正を憎む者であることが明らかになるのは,自分が容易に不正を行なうことのできる人びとに対するときなのです。ですから,奴隷に接するときに示される性格や行為において,不敬や不正に汚されていない者は,徳を育てるための種を蒔く能力を,誰よりも充分に具えていることになりましょう。そして,主人にせよ,僭主にせよ,あるいはおよそどのような権力にしても,自分より弱い者に対して権力を行使する人について,同じことをしかも正しく言うことができます。」(777D)

これは至言だと思います。
プラトンは奴隷制度を否定はしていないし,懲らしめるべきは懲らしめ,付け上がらせてはいけない,とも述べています。また,いっそ別の国の言葉が分からない人たちを奴隷にすべきである,という案も出していて,後の帝国主義,植民地主義を予感させます。
しかし何というか,悪気があまり感じられません。それは,前に挙げたように「奴隷の方が徳性が優れている(ことがある)」と率直に認める面もあり,奴隷に対しても人格をはなから否定しているわけではない,と感じられるからのように思います。そういうふうに互いに接しているのであれば,会社の社長が平社員より幸福とは限らないのと同じで,奴隷も不幸ではないのかもしれません (職業選択の自由の面からは無論許されないでしょうが)。晩年ではありますが,プラトンにたまに感じる前向きさ,明るさのようなものがここでは出ているのかもしれません。
今の日本でも,外国人や低賃金の労働者,ブラック企業の社員など,実質的に奴隷のように扱われている人たちがいる,ということを認めない人は少ないと思います。寧ろ,プラトンが奴隷を見る目よりも,ずっと当人の尊厳を蔑ろにするケースが多いのではないかとも思います。なのでここで悪い意味で言われていることは今でも通用してしまいそうな気もします。

(第20章)

アテナイからの客人「新しく建設され,いままで住居というものがなかった国では,建造物のいわばすべてについて,それらのいちいちを,とくに神殿や城壁を,どんなふうにするかを考慮しなければならないようです。」(778B)

住居や建造物についての話題です。こういう話の勢いになると,『ティマイオス』の国家建設版,という印象がますます強くなってきます。
この後具体的に,神殿は高いところに立てて,隣接して役所と裁判所を,ということなどが言われます。

アテナイからの客人「城壁については,メギロス,少なくともわたしはスパルタに賛成し,城壁を地中に横たわったまま眠らせておいて,起こしたりはしますまい。(中略) 城壁というものは,第一に,国家にとって健康上少しも益がありませんし,またそのなかに住む人びとの魂に,一種の意気地のなさを植えつけるのが常です。城壁は,人びとを誘って,敵を防ぐよりもそのなかへ逃げ込ませ,夜も昼も絶えず誰かが見張りをすることによって国の安全を確保する代りに,城壁と城門に守られて眠りこけているのが,真の安全を得る手段だと考えさせるのです。まるで彼らは苦労を免れるために生まれてきたかのように,そして真の安楽は苦労を通じて得られることを知らないかのように。」(778E)

城壁についてのここは面白いところです。スパルタに賛成し,と言われていますが,理由がまさにスパルタ式ですね…わざわざ住民に苦労させるために城壁を作らないと。冗談なのか本気なのか分かりません。
ただ,城壁の必要性も認識はしているようで,作る場合の構造も述べられています。

(第21章)

アテナイからの客人「彼が個人生活に関しては強制の必要をいっさい認めず,各人はその欲するままに日を送ることが許されるべきであって,けっしてすべてを規則ずくめにすべきではないと考えるならば,どうでしょうか。つまり,個人生活は法律で規制せずに放っておきながら,公共の生活に関しては,市民が法律に従って生きるであろうと期待するとしたら,このような考えはけっして正しくはありません。」(780A)

何気なく書かれているところですが,個人の私生活をかなり規制するようなことが言われています。ただ,公的な場でちゃんと法律を守って生活していくには,プライベートでもそれなりにちゃんとしていないといけない,というのはある程度当たっているという気もします。それは,法律の延長線上 (または起源) にある「法」というものが,人間である限りは公私関係なく普遍的なものであるからだろう,という思いがあるからかもしれません。
ただ国家全体の利益を優先し,人権というものを考慮しなければ,こういう発想になるのも分かる気はします。現代の国家と「国力」というものの位置づけが違っていて,やはり特に戦力というものが重視されるので,規律が重要視されているのでしょうか。

この後で,結婚後も夫は「共同食事」をすべきである,ということが言われ,次の引用に続きます。
「共同食事」というのは『国家』篇や本対話篇でも何度か出てきて,すっかりおなじみの感があります。

アテナイからの客人「しかし,女性の方はまったく不当にも,法律の規制を受けずに放置され,彼女たちの共同食事の制度は日の目をみるに至りませんでした。わたしたち人間のうち,生来その弱さのゆえに,よりいっそう隠しごとを好み,奸智にたけた種族,すなわち女性は,立法者が不当にも手を引いたため,無秩序のままに放置されているのです。」(781A)
アテナイからの客人「すべての制度を女性にも男性にも共通に実施することが,国家に幸福にとってより好ましいことでしょう。」(781B)

確かに「共同食事」というのは国の守護者を対象にしたもの (暗黙的に男性),というのが『国家』篇での前提だったと思いますが,少し前に男性は常に適用されるべきと言われ,さらにここでは男女関係なく適用させるべきだと言われています。
引用の前者の女性に対する偏見はともかく(引用は省いたが,女性は男性より徳性が劣るとも),後者だけ見ると男女平等に少し近づいたともとれます。まあこの制度自体どうなの?とも思いますけど。安全のため,という記述が前にありますが,計画経済的なメリットがあるというのはあるでしょうか。
また,「女性に人前で公然と飲み食いすることを無理強いしようとすることなど,どうして嘲笑を招かずにできましょうか」(780C),「女性は引きこもってひそやかに生きることに慣れている」(同) ということもアテナイからの客人に言わせています。現代でもイスラム教の地域などは,これとあまり変わっていないのではと思われます。
そこで「共同食事」の説が,そういう状況を変えるために,男女関係なく同じ制度を適用すべき,と言っているのなら良いのですが…。そうとも取れる箇所はありますが,ただどうもそうではなくて,女性の方が徳性が劣るために法の支配を強めるべきだということを言っているように思えます。或いは,もっと合理的な理由をプラトンは持っていたのでしょうか?

(第22章)

アテナイからの客人「たしかに,今日でもなお多くのところに,人間がお互いを生贄にするということが残っているのが見られます。しかし別のところでは,これとは反対に次のようなことを聞いています。つまり,人びとは牛肉を味わうことなど敢えてしなかったし,また神々への供物も生きものではなく,麦粉菓子とか蜂蜜漬けの果物とか,その他これに類する清浄な供物であって,肉を食べたり,神々の祭壇を血で汚したりすることは敬虔ならざることであるとして,肉を遠ざけ,いわゆるオルペウス教徒の生活を当時の人びとは送っており,すべていのちのないものだけを口にし,反対にいのちあるもののすべてから遠ざかっていたのです。」(782C)

この部分,今でいうヴィーガン?を連想します。オルペウス教徒というのはあんがい先進的に思えてきます。
さて何故こんなことが急に言われているか?というと,何か深いところが考察されているように思うのですが,自分には理解できているか分からずうまく説明できません。ただ,「人間の種族はその生成の初めもなければ終りもなく,つねにあったし,また将来も絶えずありつづけるものであるか,あるいは人間が初めて生まれて以来,経過した時間の長さは測り知れないほどであったか,そのいずれかだということです」(781E) で始まる本章では,人間の欲望3つ:食べること,飲むこと,生殖の欲望,ということも言われ,それらを,恐怖と法律と真なる言論とによって快楽から善へと向け変えられる,ということも言われます。
正しい法律や支配がなく本能の赴くままなら,人間は共喰いをして生きていくようにもなりえるが,そうでなければ人間以外の生物を粗末にすることもない,ということでしょうか。

(第23章)

ここでは新婚夫婦の子作りに関することが言われます。省略しますが,監督者がいて,夫婦を監督し,定められたこと以外に目を向けている者がいれば報告するということも言われます。以前の巻でも思いましたが,ひどい監視社会です。

アテナイからの客人「子供をつくる機関と子供をつくる者たちを監督する期間は,子供が生まれやすい場合には10年とし,それ以上にわたってはなりません。しかしもし誰かが,この期間が過ぎても子供ができなかった場合には,身内の者たちや監督の役にある婦人たちとともに,双方に都合のよい条件を協議して離婚させます。」(784B)

子供ができなかった場合は離婚させる,というのを国としてさせるのはすごいですね。やはり「国力」を考えた場合には何としても子供を産ませる,ということでしょうか。

アテナイからの客人「しかし法の定めるところに従って子供を設けた後に,もし男が妻以外の女性と,女が夫以外の男性と同様の関係を持つならば,相手がまだ子供をつくる年齢にある場合には,子供をつくる年齢にある人びとについて言われたのと同じ罰を与えるべきです。しかしその年齢を過ぎると,このような事柄に関して自制心のある男女は大いによい評判を受け,反対の者は反対の評判を,というかむしろ不評判をこうむります。大部分の者がこのような事柄に関して節度を守るならば,規則などつくらずにそっとしておくべきですが,風紀が乱れている場合には,いま定めた法律に従って規則をつくり,それを実施しなければなりません。」(784E)

いわゆる不倫に関してでしょうか。ここまでの流れであれば,子供が沢山作れるのであれば不倫も不問に付す,とでも言いかねないところですがさすがにそこまではなく,そこは節度を優先させるようです。

アテナイからの客人「結婚年齢の限界は,女性は16歳から20歳まで,男性は30歳から35歳までとすべきです。」(785B)

婚期が短いですね…。特に女性はなんでこんなに短いのだろう,とも思いますが一昔前の日本もそんな感じだったのかもしれません。寿命も今とはだいぶ異なったからというのもあるのでしょうか。前には男性は35歳を超えたら罰金とありましたし…。

アテナイからの客人「役職につくのは,女性は40歳,男性は30歳からとします。軍務に関しては,男性は20歳から60歳までとします。しかし,女性については,軍務に関して女性を用いる必要があると考えられる場合にかぎって,子供を生んでしまってから50歳に至るまで,各人に可能な,また適当な仕事を課すべきです。」(785B)

女性も (男性と身体能力的な面以外では区別せずに) 軍務に就かせる,というのは『国家』篇でも言われていたことで,結婚・出産を前提にしてはいますが社会復帰のことまで考えられているのは結構進んでいるような印象も持ちます。

第6巻のメモは以上。
主に結婚に関する話題が多くを占めましたが,やはり支配者の立場として「現実的」な見方をしているのかなぁという印象です。かつ個人の自由というかプライベートがあまり考えられていません。ここまで結婚・出産を強いるような法律は,子供を生ませて少なくとも人口が減らないようにしなければならない,という国の将来を考えれば,立法者の立場としてどうしても必要だと考えたのかもしれません。
勿論,個人の自由や尊厳が認められている現代から見ればありえないものが多いわけですが,明文化されていないだけで,国を支配する人びとの意識がそこまで変わったわけではない,とも思えます。
奴隷に関することも同じで,今は制度的には勿論奴隷制はあり得ませんが,特に低賃金で立場の弱い人の,人としての尊厳が守られていない例は多くあると思われ,実質的にそういう扱いを受けていると思います。民主主義/資本主義の現代でも,プラトンの当時と同じことが実質的に起っているのは,どう考えるべきなのでしょう。まあそう思うのは日本人だからであり,欧米やそれに倣った新興国では,立法者や為政者の意識はもっと変わっているのかもしれません。

法律というのは,元々,ある意味「理想」に似ていると思いますが,理想をあらゆることについてこまごまと書こうとすると,理想たりえなくなる,という矛盾のようなものがあるように思います。そこに苦しみつつ書いたのがこの『法律』ではないか?とも思います。

プラトン『法律』第六巻メモ(1)

プラトン『法律』(プラトン全集 (岩波) 第13巻) 第六巻を読んだときのメモ第1弾です。

第五巻までと割と大きな転換で,ここでは役人の役職について前半~中盤で述べられます。ここまで法律の必要性やその内容について色々語られてきたわけですが,それを実際に執行するための手段として,どう役職を作って選出するか,ということがかなり詳細に語られていきます。この詳細さは,『クリティアス』でのアトランティスの国土づくりを少し思い出します。また,裁判制度について語る部分もあり,これは短いですがかなり面白いと個人的に思いました。
後半では,結婚に関する規定が色々述べられますが,長くなったのでメモ(2)に。

以下,読書時のメモです。

アテナイからの客人「さて,これまでいろいろと述べてきましたが,次の仕事は,おそらくあなたの国のために役職を制定することでしょう。」
クレイニアス「まさしくそうです。」
アテナイからの客人「国制をととのえるのには,次の二つの段階があります。第一は役職の制定および役人の任命,つまり,いくつの役職があるべきか,またどんな仕かたで任命がなされるべきかという問題です。それが済んだらつぎに,それぞれの役職に法律を付与しなければなりません。」(751A)

ということで,国の為の役職についてです。これは面白そうなテーマと感じます。なのでメモも少し多めかもしれません。
今で言えば,公務員について,どんな職種があり何を行なうか,ということになるでしょうか。こういう政府・行政の業務に着目した描写というのは『国家』には見られず,『法律』で法律による国家機構を考えて行く上で考えざるを得なかった観点なのかなと思います。

アテナイからの客人「立法の仕事というものは大事なものではありますが,立派につくられた国家が,立派に制定された法律の施行を,不適格な役人の手に委ねるならば,立派な法律から何の利益も得られず,天下の物笑いになるばかりでなく,おそらく国家にとって最大の損害と不名誉とがそれから生じるであろうということは,誰にも明白だということです。」(751B)

前述のテーマの前にちょっと別の話として言われる言葉ですが,これは今でも (今だからこそ?) 通用する至言だと思います。
ただ,これは「理想」と「現実」という難しい問題という気もします。確かに法律というのは「理想」(言葉で表せる限りの) といえると思いますが,それを「現実」に落とし込むために,どうしても役人がいる,ということになるので,うまく役人を登用できないと,仏作って魂入れず,になります。

アテナイからの客人「役人の地位に向かって正しく歩む者たちは,彼ら自身もその家族も,子供のときから[その地位に]選出されるに至るまで,充分な吟味をうけていなければなりません。つぎにまた,選挙人たるべき人びとも,法を重んじる習慣のなかに育てられ,それぞれにふさわしい候補者を,あるいは嫌悪をもって,あるいは好意をもって,正しく退けるなり受けいれるなりできるように,充分に教育されていなければなりません。しかしこの点については,最近一緒になったばかりで,互いに知り合ってもいないし,そのうえ教育もない人びとが,どうして役人を間違いなく選ぶことができるでしょうか。」(751C)

この国家では,役人は「選出」されるもの,つまり選挙で選ばれるもの,というのが新鮮に思えます。しかし確かに,どうやって役人は選ばれるべきなのか?とも考えさせられます。今の日本で言えば,公務員試験によって選ばれるわけですが,当時はそもそもテストの概念があったのかどうか。
アテナイからの客人は,いきなり法律を受け入れて役人を適切に選び出せるようになるのは難しいが,子供のときからその法律に親しんで充分に受け入れていれば,適切に選び出すことができるだろう,ということをこの後で言っています。
以下,細かい規定は殆ど省いていますが,37人の護法官のうち,19人を入植者,残りをクノソス人から選ぶということがまず言われます。
また,役人(護法官)を選出する具体的な流れも語られます (753B~D)。

アテナイからの客人「クノソス人は入植者のなかから,できるだけ最年長で最善の人びとを,少なくとも100人選んで,彼らと協力して,これらすべてのことを取りしきらなければならないと言います。そして他にクノソス人自身のなかからも100人を選びます。これらの人びとは,新しい国へやってきて,役人が法律に従って選ばれ,選ばれた上で審査が行なわれるようにと,協力して配慮しなければならない,とわたしは言うのです。そしてこれらのことが済むと,クノソス人はクノソスに帰り,新しい国は自分で自分を守り,繁栄するように努力すべきなのです。」(754C)

アテナイからの客人「しかし,あの37人のなかに入った人びとは,現在も,また将来もずっと,次の目的のためにわたしたちに選ばれたものとします。第一に,彼らは法律の番人でなければならず,ついで市民各自が自分の財産の額を役人に申告する,財産登録の番人でなければなりません。ただし最高の財産階級は4ムナまでで,第二は3ムナ,第三は2ムナ,第四は1ムナまでは控除されます。もし誰かが申告以外の余分なものを持っていることが明らかになると,そのような財産はすべて国庫に没収されます。」(754D)

アテナイからの客人「誰でも望む者は,彼を不当利得のかどで告発し,護法官自身の前で裁判にかけることができるのです。」(754E)

ということで,護法官の仕事3つが語られます。今の日本で言うと何なんでしょう?「法律の番人」というのは,奇しくも日本では内閣法制局の通称として知られていると思います。財産登録の番人というのは,税務を取り仕切る国税庁やその上の財務省になるでしょうか。最後のは裁判官にも思えますが。

この後,将軍,騎兵隊長,部族騎兵隊長,部族歩兵隊長の選出が語られます (第4章)。かなり詳しく選出手続きが述べられています。ここでも,将軍と騎兵隊長を選出するのは,「戦争に参加すべき年齢のときに参加した者や,現に戦争に参加する者すべて」ということが言われます。

アテナイからの客人「政務審議会は12の30倍の人数から成り,――360という数は,これをさらに分けるのに好都合でしょう――,それを90人ずつ4つの部分に分け,おのおのの財産階級から90人ずつの審議員を選出します。最初に,最高の階級からの候補者指名には,全市民がかならず投票しなければならず,従わない者には定められた罰金が科せられます。」(756B)

次に政務審議員の選出について。財産階級別に選ばれるようです。以下,第2~第4階級の選出過程も同様に言われます。

アテナイからの客人「たしかに「平等は友情を生む」という古い諺は真実であって,まったく正しく,適切に語られています。しかし,この友情を可能にする平等とはどういう平等なのかということがすこぶる不明瞭であるために,それがわたしたちをすこぶる混乱させるのです。というのは,二種類の平等があって,それらは名前は同じですが,実際は多くの点でほとんど正反対のものだからです。」(757A)

「二種類の平等」というのは何なのか,というのは以下の引用で言われます。結構根本的なことを言っているように思えます。

アテナイからの客人「一方の平等は,どんな国家,どんな立法者でも,栄誉を与える際にそれを容易に導入することができます。これは尺度,重量,数による平等で,分配に籤を用いることによって,それを適用することができます。しかし最も真実な,最もよき平等は,誰にでも容易に見分けられるというものではありません。なぜなら,それを判定する能力はゼウスのものであって,この能力が人間の助けになるのは,いつもわずかだからです。しかし,国家なり個人なりにとって,それが助けになるかぎり,すべての善きものがそこから生みだされるのです。なぜなら,それは,より大きなものにはより多くを,より小さなものにはより少なくをと,双方にその本性に応じて適当なものを分け与え,とくに栄誉については,徳において大いなるものにはつねに大いなる栄誉を,徳と教養とにおいて反対のものにはそれにふさわしいものを,双方に比例的に分け与えるからです。じっさい,政治というものも,わたしたちにとってはいつも,まさにこの正義のことなのです。いまもわたしたちは,クレイニアス,この正義を目差し,この平等に眼を向けて,現在誕生しつつある国家を建設しなければならないのです。」(757B~D)

量的な平等と質的な平等,という感じでしょうか。
ここは,プラトンの中でかなりの葛藤があったのか?と思わされるところでもあります。実際,この前に示された政務審議員の選出過程は,「君主制と民主制の中間に当たる…」と言われますが,どちらの長所も短所も知っているために考え抜かれた過程なのだろうと思います。
また,政治における「正義」が,徳を多く持てば多くの栄誉を与えること,ということだと言われていますが,徳ではなく「功績」とでも置き換えれば現在でもそう変わらないかもしれません。本当は,困っている人に多く分配することこそが「正義」では,と思わなくもありませんが,そういう「国民は法の下に平等」という意味での「平等」は当時全然なかったのだと思われます(今もあるかどうかはよく分かりませんが)。

アテナイからの客人「審議員の大部分は,ほとんどの時間自宅にあって,家の仕事に精を出すのが許されます。そして彼らの12分の1を12の月のそれぞれに割り当て,1か月交替で守護者の役につかせ,外国からの,あるいは国内からの来訪者に迅速に応待させます。」(758B)

このくらいの (1年に1か月くらいの) 非常勤であれば,自分も役人をやってみたいと思いました(笑)。

ここまでは国家 (都市) に関する役職の話で,ここから先は地方に関する役職が述べられます。込み入ってくるので引用とは別に章ごとに少し内容をまとめます。

(第7章) 神殿の神官,都市保安官,市場保安官といったものがあると述べられます。
男女の神官の選出方法に関しては,引用はしてませんが「世襲だが,いなければ籤」ということが言われます。これは少し面白いと思いました。「神的偶然に委ねる」,という言い方もされていますが,言い方を変えると偶然性と神は同じ,と考えられていたということでしょうか。

アテナイからの客人「すべての神事に関する法律は,これをデルポイからもってきて,それに対して神事解釈者を任命した上で,この法律を用いなければなりません。」(759C)

政教分離なんて当然ない時代,神事が法律に出てくるのは当然だったのでしょうか?ただ,後世の宗教政治の萌芽という気はします。

(第8章) 保安官の仕事について。地方の防衛がメインテーマで,警察みたいなもの?と思いましたが,それだけでもないようで,後で示す引用のような面白いことも言われます。防衛については,

  • 1つの部族あたり5人の地方保安官もしくは監視隊長
  • 5人組のそれぞれに25~30歳の12人の若者
  • 国家の(12に分かれた部分の)いずれかが籤によって割り当てられ,1か月交替で各地を回る

といったものです。加えて,

アテナイからの客人「まず第一に,国土が敵に対してできるだけよく防衛されるように,必要なかぎり,堀をつくり,溝を掘り,砦を築いて,何にせよ,国土や財産に危害を加えようとする者を,できるかぎり防がなければなりません。」(760E)

アテナイからの客人「また雨水が山の高みから山あいの落ち窪んだ谷間へと流れ込むときに,国土に害をなさず,むしろ利益をもたらすようにと,水の溢出を堤防や堀で防ぎます。こうして谷が雨水を受けいれ,呑みこんで,下流のすべての畑や土地のために,流れや泉をつくり,最も乾いた土地にさえ,たくさんのよい水を供給するようにします。」(761B)

アテナイからの客人「またこのような場所にはどこにも,若者たちは自分たちやまた老人たちのために体育場をつくり,老人向きの温浴場をしつらえ,よく乾いた薪を豊富に用意し,病に苦しむ人びとや,百姓仕事に疲れきった人びとの身体を癒すべく,やさしく受けいれてやります。これは,下手な医者にかかるよりもはるかに役に立つものです。」(761C)

ということで警察のようなものかと思いきや,地形を利用して防衛に利用したり,生活用水を供給したり,保健施設を作ったりすることも含まれています。ちゃんと老人をいたわっているのが意外なところ(笑)。まあこの執筆当時はプラトンも立派な老人なので,色々大変さが分かっていたということでしょうか。

(第9章) 続き。こちらの方が不正の摘発など,警察のような業務のことを言っているかもしれません。

アテナイからの客人「ところで,王のように最終決定を下す人たちを除いて,いかなる裁判官も役人も,裁判や職務の遂行に関して,執行監査を受けないですますことはできません。とくにこれらの地方保安官の場合,もし彼らがその管理下にある人びとに対して,不公平な賦役を課したり,農業の収穫を同意を得ないで奪い去ろうと企てたりして,不当な振舞いに及ぶならば,またもし賄賂として贈られたものを受けとり,あるいはそのうえ不正な判決を下したりするならば,誘惑に屈したものとして国中に恥をさらさせます。」(761E)

不正に厳しいですね。行政に監査が必要,という考えが既に示されていることに驚きます。当然あるべき姿だとも思いますが,一方で,役人には古今東西を問わず賄賂が付いて回っているのも事実だと思います。なぜこの目標が未だに果たせていないのだろう?とも思います。

アテナイからの客人「隊長と部下の地方保安官たちには,在職中の2年間を次のように過ごさせます。まず,それぞれの地域ごとに共同食事があり,全員がそこでいっしょに食事をとらなければなりません。」(762B)

『国家』で言われていた共同生活でしょうか。他にもかなり厳しい制約が言われます。共同食事を1日でも欠席したら,その人を「誰でも鞭で懲らしめても罰を受けません」とか。いやいや普通に傷害罪でしょ…と突っ込みたくなりますが(汗)。

(第10章) 都市保安官,市場保安官の役割について。
都市保安官については,特に水に関して,清潔な水が引かれるように管理するのが任務だと言われます。他に市街地の道路,幹線道路,建造物が法に違反していないか?の管理など。最高の財産階級のなかから6人が選出され,選挙管理人のくじによって3人が選ばれると。
市場保安官については,市場に対して,都市保安官と概ね同じ内容が言われます。ただ選ばれるのは第2と第1の財産階級から5人と言われます。

(第11章) 音楽と体育の役人について。いずれも,教育の担当者と,競技の担当者 (=審判官) があると言われます。
ここでは,その道の専門家である候補者の中から籤で選ぶと。詳しく言われるのは競技の審判官で,選ばれたあとの資格審査が割と強調されていると思います。

(第12章) 「男女児の教育全般にわたる監督者」について。この役職の資格は,50歳以上で嫡出子を持つ父親であると言われます。
かなりその教育は重要視されているようで,
「その役が国家における最高の役職のなかでもとくに最も重要なものでもある」(765E),「人間はたしかに温和な生きものだとわたしたちは認めますが,しかしながら,人間は一般に正しい教育と恵まれた資質とを得てこそ,最も神的な,最も温和な動物になるのであって,もし不十分な,あるいは立派でない育てられ方をすると,大地の生みだすもののなかで,最も獰猛なものになるのです。」(766A),「国中の人びとのなかで,あらゆる点で最善の人を子供たちの監督者に任命すべく,できるかぎりの努力を傾けなければならないのです。」(766A) と,当然とはいえ力強い言葉が並びます。

アテナイからの客人「政務審議会とその執行部とを除くすべての役人が,アポロンの神殿に赴いて,秘密投票を行ない,護法官たちのなかで,教育に関する事柄を司るのに最も優れていると各人が考える人を選びます。そして最も多くの票を得た人が,護法官を除く他の,選挙母体たる役人たちによって資格審査をうけた上で,5年間その任にあたり,6年目には,同じ方法で別の人がその役に選ばれるべきなのです。」(766B)

他の役職は,自分が読み間違えていなければ,(階級の制限はあるにせよ) 市民から選出していたと思いますが,これだけは (「秘密投票によって」) 役人が護法官の中から選出している,ということになるのでしょうか。今の日本では教育委員長のようなもの?
例えば現代でも,ある特定の思想団体・宗教団体をバックに持つ政党があったりします。仮に市民から国や地方の教育者や教育行政の担当者を選出するとなると,その思想団体・宗教団体の思想・教義に偏重した人が選出される可能性があります。そこを民主主義の範疇ととるか,教育の中立性が守れないととるか?と考えると結構難しい問題のような気がします。
もっとも,仮に役人から選出するにしても,今の日本で議会のチェックが全くないとは考えにくいので,多かれ少なかれ市民のバックにある団体の影響を受けているとも思えます。というか2018年頃からの○○学園問題など,「行政のプロセスをゆがめられた」と言われた問題は,まるっきりその構図かもしれません。行政 (役人) と立法 (政治家) のどちらが民意なのか?一義的には後者なのでしょうけど,現実に遍くそうなっているとも思われません。

(第13章) 法廷の設置,裁判官・裁判について。これは面白いです。引用を多く省略しているので分かりづらいですが,公平な裁判を行なうためにどうすればよいのか?というプラトンの苦心を見ることができ,現在につながるものも多く見られます。

アテナイからの客人「つねに双方の争点が明瞭になることが必要であり,時間をかけてゆっくりとたびたび審議を行なうことが,争点を明瞭にするのに役に立ちます。ですから,互いに争う人びとは,まず隣人や友人や,争われている事柄を最もよく知っている人びとのところへ行くべきです。しかし,もしそれらの人びとのところで十分な裁決を得られなければ,別の法廷に赴かなければなりません。そしてこの二つの法廷が解決をすることができなければ,第三の法廷がその訴訟に決着をつけるべきなのです。」(766E)

ここは日本での三審制を想起します。ただ最初の審判は,知人などで解決を図るべきだと。ちょっと違いますが家庭裁判所や簡易裁判所を連想します。

アテナイからの客人「その他の場合にとっては2つの法廷があります。1つは誰か個人が個人を,自分に対して不正をなしたとして告発し,裁判に持ち込んで決着をつけようと望む場合であり,もう1つは公共体が市民の誰かによって不正を加えられたと,誰かが考えて,公益を擁護しようと欲する場合です。」(767B)

ここは,完全に一致ではないが,現在の民事と刑事を連想します。プラトンを読んでいると,こういう今では当たり前で考えることもないような,根本的なことを考えさせてくれるのが面白いとつくづく思います。
なお,第3法廷の裁判官については,引用は省略していますが,役人の各役職のそれぞれから最善の人を選ぶ,と言われています。元々,当時のアテナイは陪審制であり,ソクラテス裁判のように一般市民が判決を決めていたわけですが,素人ではダメだという問題意識があったのだと思われます。一長一短だと思いますし,次の引用とも関連しますが,これは現在の日本の裁判員制度にも通じる部分があるのかもしれません。

アテナイからの客人「しかし,国家に対する罪の告発では,まず一般大衆が裁判に参加することが必要です,――なぜなら,誰かが国家に対して不正を行なった場合には,被害をうけるのは国民すべてであり,彼らがそのような裁決に参加しないならば,不平を抱くのはとうぜんでしょうから――。」(768A)

アテナイからの客人「しかし私的な訴訟にも,できるだけすべての市民が参加すべきです。なぜなら,裁判に参加する権利にあずからない人は,自分が国家の一員であるとはまったく考えないからです。」(768B)

陪審制に (当時のアテナイの) 問題を感じながら,やはり市民参加に意味がある,とも思っていたことが窺われます。この部分は現代でも有効なのだと思います。また,国家に対する訴訟という,今で言う刑事事件を連想させる方の訴訟に,一般大衆が参加する必要性を重く見ていたことも(とはいえどっちも参加すべきとも言っているのですけど),今の日本の裁判員制度が刑事事件のみを対象としていることと繋がる部分があります。そこは,刑事事件がある意味国家に対する不正で,それに対して国家が量刑を下すものだから,と考えるとなるほどと思います。

13章の裁判制度 (の役職) の話は本当に面白いと思います。ただまだ語り残された部分があるらしく,「立法の仕事の最後になされるのが,最も正しいことでしょうから」(768C)と言われて終わります。続きが楽しみなところです。

(第14章) 法律の改善の必要性について。画家が描いた絵を例にしたりして,法律も悪くならないように,かつ良くなっていくようにすべきということが言われます。

アテナイからの客人「ところで目下のところは,役人の選出のところまで来たわけですから,序論的部分はこれで充分に終ったとして,法律の制定を始めるのに,もはや何ら遅滞したり,逡巡したりする必要はありません。」(768D)

ということで,役人選出の話題についてはひとまず終わったようです。

アテナイからの客人「彼は最初に,法律を厳密さにおいてできるだけ欠けるところのないように書こうとするでしょう。ついで時が経ち,自分の善しとするところを実地に試してみて,次のようなことに気づかないほど愚かな立法者がいるとお思いですか。つまり,自分の築いた国家の体制と秩序とが,だんだん悪くなってゆくのではなく,つねにより善くなってゆくためには,必ずや自分の善しとするものの多くが,誰か後につづく者の手によって改善されねばならないようなものとして残されている,ということにね。」(769D)

この少し前に,「後継者は,その絵が時の経過により損なわれた場合に,これを修復し,また画家自身の…完成に近づけることができるのです。」という言葉も言われたりしていましたが,やはり『国家』第7巻~第8巻で言われていた時とは違っているなぁ,と思わされた部分です。その時は,善というのは不変であり,真の理想国家も不変であると言われていたと思います。しかしやはり時間というものがあって,また現実の変化というものがあって,法律も,あるいはその法律を適用した現実も,(1)経年劣化することがある,(2)技術的な未熟さゆえに最善ではないことがある,とプラトンは考えていたと。それを受け入れて付いていく必要性をここでは言っていると思います。理想は理想で変わっていない,ともとれますが,とにかく現実的です。

アテナイからの客人「わたしたちは法律を制定しようとして,すでに護法官も選んだのですが,わたしたちは人生の黄昏にあるのに対し,彼らはわたしたちに比べれば若いのですから,いまも言うように,わたしたちはただ法律を制定するだけでなく,これらの人びとが護法官であるとともに立法者でもあるように,できるかぎりの努力を傾けなければならないのです。」(770A)

ということで前述の,法律をメンテナンスしていく役割を,護法官に担わせようと言います。つまり役人が立法家も兼ねるということ?…と考えると今の日本ではそう驚くようなことでもないのでしょうか?実質的には官僚が法律を作っていますし。

ということで第6巻では主に役人の職や業務の制定が語られました。現代から見てもそれほど違和感を覚えるものは少ないと思います。特に裁判制度については,当時のアテナイにおける問題意識を反映して,より良いと思ったものを描いていると思いますが,驚くほど今の日本に通じるものがあると個人的に思いました。
プラトンも全くの想像でこれらを書いたのではなく,現実における国家や都市の役人の役職や仕事の中で,本当に必要で良いと思ったものを書き出し,悪いと思ったものを採り入れなかった,という感じではないでしょうか。であるなら,プラトンの (理想とまではいきませんが) 目標として描いた国家の延長線上に,我々は確かにいる,と言えるのかもしれません。

この後,主に結婚の話に移っていきますが,長くなったので一旦切ります。メモ(2)に続く…。

プラトン『法律』第五巻メモ

プラトン『法律』(プラトン全集 (岩波) 第13巻) 第五巻を読んだときのメモです。

まず第四巻の終わりにクレイニアスが「序文」の最初からやり直そうと提案したため,その内容について検討されます――といっても何のことはなく,徳性論のようなものがまた語られます。
後半に行くにつれて,土地や財産の分配といった,国のありようが語られてきますが,意外なことに?最善の国家については,『国家』篇で述べられた,「共同所有」の考え方が基本的に踏襲されています。『国家』を執筆した時からプラトンは色々挫折を経験したはずですが,それでも死の直前に書かれたと言われる本対話篇まで,理想は不変だったのか,と思わされるところです。

以下,読書時のメモです。

アテナイからの客人「「自分のもののうち,支配するものは隷属するものより,つねに尊敬されなければならない。こういうわけで,わたしは自分の魂を,主である神々とそれにつづく者たちのつぎに,第二のものとして尊敬すべきだと主張するが,この勧告は正しい。しかるに,われわれのうちいわば誰ひとりとして魂を正しい意味で尊敬してはおらず,ただ尊敬していると思っているに過ぎない。」」(726)

第四巻での,詩人 (に成り代わったアテナイからの客人) が立法者に問いかける,という場面を再開したので,かぎかっこを二重にしています。
魂の方が (身体より) 神々に近いため,「魂を尊敬せよ」ということが盛んに言われます。ではそれは何なのか?ということが色々例示されます。

アテナイからの客人「「またもしひとが不正な方法で富をてにいれたがり,あるいは,そうして手にいれてやましさを感じないならば,そのときにも,このような贈物によって自分の魂を尊敬していることにはならない,――いやそれどころではない――,魂の価値と美とを,彼はわずかの黄金で売りわたすのだから。しかもじっさいは,地上および地下のすべての黄金をもってしても,徳に等しい価値は持ちえないのだ。」」(728A)

アテナイからの客人「「要約して言えば,立法者が一つ一つ取りあげて,これは醜く悪いもの,また反対に,これは善く立派なものと定めたものに対し,前者からはあらゆる手段をつくして遠ざかり,後者をば,あらゆる力を傾けて実行しようと欲しない者は,知らないのだ,人間は誰でもそのような態度を取ることによって,最も神的なものである魂を,最も恥ずべき,最も無様な仕かたで扱っているということを。」」(728A)

アテナイからの客人「「われわれのみるところでは,尊敬とは,一般的に言って,優れたものに従い,劣ったものをば,それがより善くなることが可能ならば,できるかぎり善くすることである。」」(728C)

色々言われますが,一言で言うとソクラテス流の「善く生きる」ということかなぁと思います。そのくらい,特に目新しいことがないなあと思いましたが,ただ「立法者が善いと定めた」ものに近づくことが,魂を尊敬すること,というところが微妙に初期対話篇などと違ったニュアンスを感じます。

アテナイからの客人「「思うに,彼はこれらの尊敬を次のもの,ないし次のようなものとして示すのではないだろうか。すなわち,尊敬されるべき身体とは,たんに美しいものでも,強いものでも,速いものでも,大きいものでも,健康なものでさえもなく,――世間一般にはそう思われているであろうが――,そうかといって,ましてこれらと反対のものでもない。これらすべての性質を適度に具えた身体こそ,他にぬきんでて最も節度もあり,健全なものでもある。なぜなら,極端なものは,一方は魂を思いあがった向こうみずなものにし,他方は,卑屈な意気地のないものにしてしまうからである。」」(728D)

「第三に来るのは身体に対する尊敬」(第一は神々,第二は魂) ということで,どんな身体が善いかということが語られますが,身体の性質については中庸がよいと。金銭や物の所有についても同様のことが言われます。

アテナイからの客人「「思慮ある立法者なら,むしろ老人に向かって,若者に対して恥を知れと戒めるであろう。とりわけ,自分が何か恥ずべきことを行なったり口にしたりするのを,誰か若者に見られたり聞かれたりすることのないように注意させるだろう。老人が恥知らずな振舞いにおよぶところでは,若者たちもすこぶる恥知らずであるのはとうぜんなのだ。」」(729B)

年長者 (老人) に対する思いがけぬ厳しさを見せます。といっても極めてまともな内容ではあります。

アテナイからの客人「「またもしひとが,友人や仲間たちの自分に対する尽力を,彼らが考えるよりも大きく重大なことだとみなし,自分の友人に対する親切を,友人や仲間が考えるよりも小さなことだとみなすならば,人生の交わりにおいて,彼らの好意をうけるであろう。」」(729C)

ここは個人的にとても印象的な言葉です。

アテナイからの客人「「さらにまた,外国人に対しては,彼らとの契約をとくに神聖なものとみなさなければならない。すべて外国人に対する罪は,同国人同士のそれに比べて,復讐の神にいっそう深いかかわりを持つと言えよう。なぜなら,外国人は仲間も身寄りもいないのだから,人間からも神々からも,いっそう同情されてしかるべきなのだ。」」(729E)

外国人に対する優しさが感じられる一節です。といっても前述の年長者に対するものと似た感じではあります。人間は「神の下に平等」という感じでしょうか。

アテナイからの客人「「何ら不正を行なわない人間も尊敬に値するが,不正を行なう者に不正行為を許さない者は,前者よりも倍以上に尊敬に値する。前者は一人分の価値しかないが,後者は他人の不正を当局者に知らせるので,他の何人分かの価値があるからである。しかしさらに,当局者の行なう処罰にできるかぎり協力を惜しまない者は,偉大な申し分のない市民であり,徳の栄冠は彼にありと宣言されなければならぬ。」」(730D)

なるほど,と思いますが,こういう「善意」の発想が SNS によるさらし行為や炎上への加担,監視行為を生むのだろうか?とも連想してしまいました。法律違反を警察に通報する,という人や実際に法に基づいて取り締まりを行なう人,という意味ならその行為が国全体の不正を減らすのは間違いないと思うので,尊敬に値するというのは当然といえるとは思います。

アテナイからの客人「不正を行なうが,矯正可能な不正をなす人びとの場合には,不正な者はすべて,自らすすんで不正をなすのではないことを,まず知るべきである。なぜなら,最大の悪のどれひとつも,何ぴとも自らすすんで獲得することはけっしてないであろう。まして,自分の所有するもののうちで最も貴重なもののなかにおいて,そうすることはない。」(731C)

誰しも自らすすんで不正をなすのではない,というのは,『ゴルギアス』だったと思いますがこれも初期対話篇を思い出します。「自分の所有するもののうちで最も貴重なもの」というのは魂のことだと直後に言われます。

アテナイからの客人「「すべての悪のうち最大のものは,多くの人びとの魂に生まれつき具わっており,ひとは誰でも自分にそれを許し,それから逃れる手段を講じない。これは,『およそ人間というものはもともと自分が可愛いのであり,またとうぜんそうあって然るべきなのだ』という言い方に含まれているところのものである。しかしほんとうは,このあまりにも自分を愛しすぎることが,各人にとってそれぞれの場合に,すべての過ちの原因なのである。なぜなら,愛する者は愛の対象について盲目であり,自分のものを真なるものよりもつねに尊敬すべきだと考えて,その結果,正しいもの,善きもの,美しいものについての判断を誤るからである。」」(731D)

すべての悪のうちの最大のものは自己愛,悪くいえば自惚れと。最大,といわれてもあまりピンと来ませんが,確かに何か過ちがなされたケースを想像すると,根本にこれがあるのかもしれない,と思います。
この直後に,これが文字通りの「無知の知」,つまり『ソクラテスの弁明』で知られるいわゆる「無知の知」(または「不知の自覚」) ではなく,無知を知であるという思い込みをもたらす,ということが言われます。

この後暫くは快楽・苦痛・欲望という「人間的な側面」について語られますが (第5章),「大きな快楽を伴う小さな苦痛は望むが,大きな苦痛を伴う小さな快楽は望まない」など当たり前のことが書かれていて,特に目新しさはありません。またその後も,勇気・思慮・節制・健康というものが快苦の感情を減らす,ということが言われたりします(第6章)。この辺りは何となくアリストテレスの『ニコマコス倫理学』に似てきた,と思うのは気のせいでしょうか。

アテナイからの客人「さて法律の「序文」としてこれまで語られてきたことは,これで終りとしましょう。序文のつぎにはとうぜん法律 (ノモス) が来なければなりません。いや,より正確には,国家の法律の下図を描かなければならない,と言った方がむしろいいでしょう。織布やその他何にせよ,編んでつくられたものの場合,横糸と縦糸とは同じ種類の糸からつくることはできません。縦糸の材料はより優れた性質をもっていなければならないのです,――それは強くて,その性質に何かしっかりしたところがありますが,横糸の方はもっと柔かで,適当な順応性を持っています――。」(734E)

やっと序文が終わりました。第四巻では,説得的な序文に対して,本文は強制的であると言われていました。縦糸,横糸という例えは『政治家』篇を思い出しました。

アテナイからの客人「たとえば,国家の浄めについてですが,それはこんなふうにするのがいいでしょう。浄めの方法はたくさんありますが,あるものは穏やかであり,あるものは厳しいのです。同一人が僭主であるとともに立法者でもある場合には,厳しくて最善の浄めを行なうことができるでしょうが,立法者が僭主の権力を持たないで,新しい国制と法律を制定する場合には,浄めのなかで最も穏やかなものでも行なうことができれば,それだけでけっこう満足するでしょう。最善の方法は最良の薬と同様に苦いものです。それは罪を伴う裁判によって懲らしめるやり方であり,最高の罰としては死や追放を科すのです。というのは,最大の罪を犯した者で矯正不可能な者は,国家にとって最大の害悪として,排除してしまうのが普通だからです。」(735D)

「浄め」とは,この前に羊や牛の例もあるのですが,善いものと悪いものをふるいにかけるものというような意味で,今でいう刑法のことだと思いました。確かに刑事罰というのは,国家の構成員を選り分けるもの,という見方もできるのかもしれません (現代感覚でいえば,犯罪者にも人権はあるわけで,どうかなあと思ってはしまうところではある)。
立法者と僭主が,同一人である場合と別々の場合,で分けるのは何気に新鮮な気がしました。立法権と行政権という感じでしょうか。今で考えれば分かれているのが当たり前ですが,プラトンの著作で,これらを明確に区別して語るところがどのくらいあっただろうか,と思います。

アテナイからの客人「この国の市民になるために集まってこようとする人たちのうち,悪い人びとは,わたしたちはあらゆる説得の手段と充分な時間とをかけて,徹底的に吟味して,入ってくるのを防ぐでしょうし,善い人びとは,できるかぎりの好意と親切とをもって迎えいれることにするでしょうから。」(736C)

移民・難民問題を連想します。似たことをマルクス・ガブリエルが言っていました (『未来への大分岐』p.220)。

アテナイからの客人「改革者のなかには,自ら莫大な土地を持ち,数多くの債務者をかかえながら,正義感から,これらの困窮している債務者たちに対し,負債の帳消しとか土地の再分配とかによって,自分の持っているものを彼らと分かち合おうと欲する人びとが,必ずあるものです。このような人びとは,何らかの仕かたで中庸を堅持し,貧乏は財産を減少することにではなく,欲望を増大することにあると考えているのです。この考えが国家の安全の最大の基礎となり,それを確固とした土台として,その上に今後,上述の条件にかなったどんな国家構造をも建てることができます。」(736D)

ここの前半で言われているのは,現在の資本主義社会の格差で苦しんでいる人たちを何とか救えないか,と苦悩している政治家を連想します (現実に存在しているかどうかはともかく…)。つまりプラトンは既にそういった状況を想定していたのだと思います。「貧乏は財産を減少することにではなく,欲望を増大する」というのも,欲望に歯止めがかからない資本主義社会に対する新しい尺度の示唆にも読めます。
但し「負債の帳消しとか土地の再分配とか」が必要なのは,古くからある国家の場合の話で,新しい国家 (ここで言われている空想上のものも含む) ではそういった土地の権利の問題などはないとも言われています。
この後,5040 という数が急に出てきます。1~10のすべてで割り切れる数ということで,色々解説されますが端的に言うと分割の単位に便利ということだと思います。

アテナイからの客人「新しい国を最初からつくるにせよ,滅びてしまった古い国を再建するにせよ,神々と神殿とについて,つまり,それぞれの神のためにどんな神殿を国内に建立すべきか,またどんな神やダイモーンにそれを捧げるべきかについて,心ある人ならば誰も,デルポイやドドネやアンモンの神託が,あるいは古い言い伝えが,何らかの仕かたで――たとえば,神々がお姿をあらわされたとか,神々のお告げがあったとかいって――人びとに信じこませたものを,変えようと試みたりはしないでしょう。」(738B)

神々の伝統は変えないと。次に続きます。

アテナイからの客人「その目的は,それぞれの地域がきめられた時期に行なう集りが,あらゆる必要をみたす機会を提供し,また犠牲の祭りを通して,人びとが互いに挨拶をかわし,親しくなり,知り合うことにあります。国家にとって,市民が相互に知り合う以上に大きな善はありません。」(738D)

決められた時期の祭りというものが,「人びとが互いに挨拶をかわし,親しくなり,知り合うこと」を目的にしていると。これはしごくまっとうに思えますが,プラトンの著作に現れると妙に新鮮な感じもします。悪く言えば現世利益的というか。
それと,何か「定期的なもの」というのがあるとしてそれは何か?と考えると,そこ (「祭り」) に行きつくのか…?とも思ったところ。

アテナイからの客人「さて,法律の制定にあたって,わたしがつぎにとる手は,将棋で神聖線から駒を動かすように,普通行なわれない手ですから,初めて聞く人をおそらく驚かすでしょう。」(739A)

「将棋」と訳されたのは一体何なのでしょう?(ギリシア語を調べる能力と気力がちょっとありません…。)勿論,今の日本の将棋ではないのは確かですが。

アテナイからの客人「そこで,あの昔からの諺が国中で最もよく行なわれているところが,最善の国家であり,最善の国制,最善の法律なのです。その諺とは「まこと友人のものは共同のもの」というあれです。もしこのことが――つまり,妻たちが共同のものであり,子供たちが共同のものであり,全財産が共同のものであるということが――現にどこかで実現されているか,あるいは将来実現されるとするならば,そしていわゆる個人のものが,生活のあらゆる面から,あらゆる手段をつくして,すっかり拭い去られ,ほんらい個人のものとされるものでさえ,何とかして共同のものになるように,たとえば,目や耳や手が共同のものとして,見たり聞いたり働いたりするとみえるような,さらにすべての人が,同じものに喜びや悲しみを感じ,称賛にも非難にもできるかぎり一致するような,あらんかぎりの工夫がこらされるならば,つまり,何らかの法律が国家を可能なかぎり一つのものにつくりあげるならば,このことが法律の持つ卓越性の規準であって,何ぴともこれより正しく,これより優れた他の規準を定めることはできないでしょう。」(739C)

『国家』でも語られた,妻,子供,財産の共有が,最善であるということが改めて語られます。理想はやはりそこなのですね。しかも今回は,目や耳や手のような個人のものもなんとか共同のものになるような,さらに喜びも悲しみも同じになるようなものが「法律」の卓越性と。
法律というものが国家を決める,いいかえると国民1人1人を1つの法律に抽象化する,という見方もできるのかもしれません。仮にそうだとすると,人間1人1人が法律に近い,換言すると全体として分散が小さい,ことがよい国家・法律である規準になる,と言っているようにも思えます。まあ変化が少ない方が真理に近いというのはプラトンがずっと書いていたことですが。でも国民1人1人の幸福というものを考え,多様性を尊重し,その総和 (または総和ではない別の指標?) が国の利益であってほしい,と自分なんかは思うので全く賛同はできません。多様性を尊重するというのは,上述の言い方をすれば分散が大きくなるということで,やはりプラトンが書いている理想とは真逆なのでしょう。

アテナイからの客人「子供が生まれやすい人びとに対しては産児制限をし,反対の場合には,名誉や不名誉をあたえたり,年配の者の若者に対する警告の言葉によって戒めて,熱心に多産を奨励し,これらの工夫によって,わたしたちのいうところの目的を達成することができます。そしてそのようにしてもついに,五〇四〇という家の数を保つことがどうしても困難になったならば,つまり,夫婦の和合の結果,わたしたちの市民が増えすぎてどうしようもなくなった場合には,これまでにたびたび述べた,あの昔ながらの方策が残っています。つまり適当と思われる人びとを,送る方も送られる方も親愛の情をもって,植民として送り出すのです。」(740D)

人口を一定にするための方策が言われます。
今の日本では,少子化が叫ばれて久しいですが,だからといって国策として多産を奨励したりして人口を維持することは今後も恐らくしないし,さもないとこのまま国が亡びるとしても,亡びを選ぶという気もします。今の日本の「大衆」はその亡びより自由を守ると考えると思います。そう考えると日本も成熟しているなと思います (私が勘違いしてなければですが)。ただ「国」として困るのも確かではあり,その立場の本能的な面をプラトンが推量して描いている,と捉えることもできると思います。
それはともかく,人が増え過ぎたら植民として送り出す,というのは,「昔の先進国の植民地政策というのは,こういう側面があったのだろうか」と思いました。考えてみれば当然かもしれませんが。
この後で,逆に災厄で人口が減った場合には,賤民を市民に受け入れるべきとも言われます。

アテナイからの客人「何ぴとも個人的には金銀をいっさい所有することを許されませんが,日常の交換のための貨幣は別です。」(742A)

「財産の私有は禁止」と言われていたが,貨幣はよいと。自分には「財産=貨幣」という認識があったため割と新鮮です。

アテナイからの客人「わたしたちの言うところによれば,心ある政治家の意図するところは,大衆の主張とは違っているのです。大衆は,よき立法者とは,彼が叡知を傾けて立法するその国が,できるだけ大きく,また金鉱や銀鉱に富み,海陸ともにできるだけ多くの人びとを支配して,できるだけ富裕であることを意図すべきだと主張します。彼らはさらに,真の立法者は,その国が最も善く,最も幸福であることを意図すべきだと付け加えるでしょう。しかし,これらの意図のうちあるものは実現可能ですが,あるものは不可能なのです。ですから,国の建設者は,実現可能なものの方はこれを欲するが,不可能なものに対しては,空しい望みを抱いたり,実現を試みたりはしないでしょう。」(742D)

確かに現実の政治家を考えるとそうかもな…と思った一方,プラトンは理想を追求するのが哲学者であり,政治家でもあるべき,とも言っていたはずとは思います。
ただ,別に政治家が理想を持っていない,と言われているわけでもありません。あるいは,ここで言われているような「国としての大きさ・富の豊かさ」をもとより善いものと思うべきでない,ということでしょうか。
その後の「非常な金持ちが同時に善き人であることは不可能」という部分も面白いです。

アテナイからの客人「最大の病気,これは内乱とよぶよりは分裂とよんだ方がいっそう正しいでしょうが,この病気に冒されまいとする国家では,国民のどこかの部分に,極端な貧困や富があってはならないからです。この二つが内乱や分裂を生むのですから。」(744D)

アテナイからの客人「まず分配地の評価額を貧困の限界とすべきである。そしてこれは不変でなければならず,いかなる役人も,誰に対しても,その財産がこれ以下に下るのを見逃してはならない。また役人以外でも,有徳の評判を得たいと願う者は誰でも,同じようにすべきである。立法者はそれを尺度として,その二倍,三倍,四倍までは持つことを許す。しかし,もし誰かがそれ以上を所有するならば,財宝の発見によるにせよ,贈与によるにせよ,金儲けによるにせよ,あるいは何か他の類似の幸運によって限度以上を手にいれたにせよ,それを国や国の守護神に献ずるならば,彼は評判を保ち罪を免れるであろう。しかし,もし誰かがこの法律に従わない場合は,誰でも欲する者はそれを告発して,限度以上の財産の半分を貰うことができる。そして有罪とされた者は,自分自身の財産のなかからそれと同額を別に罰金として支払い,また,先の限度以上の財産の残りの半分は神々のものとなる。すべてに染みんの,分配地以外の全財産は公に記録され,法律の任命する役人の管理下におかれなければならない。」(744E)

前から私有財産の禁止ということは言われていましたが,ここを読むと完全なる平等を強制するわけでもないようです。が,分配地の評価額の4倍というリミットを設ける,という社会主義と資本主義の折衷案のようなことが言われます。
現代の感覚では,「なかなかすごいことを言っている…」という感じです。ただ現代における格差の問題が,(行き過ぎた) 資本主義に由来するものであること,政治とは資源を再分配するものであるということを考えると,一理あるという気もしてしまうのは確かです。

この後の部分(14章)では,都市を国土の中央に置き,他の国土も含め12分し,5040の分配地を配分する…という話が言われます。

アテナイからの客人「ところで,わたしたちはぜひとも次のことを考慮しておく必要があります。それはいま述べたいっさいが,言葉どおりすべて実現するような好機にめぐりあうことはとうていないだろうということです。」(745E)

アテナイからの客人「「諸君,以上の議論のなかで,いま言われた批判がある意味で真実であることに,わたしが気づいていなかったなどとは思わないでいただきたい。そんなことはないのだ。というのは,将来の計画をたてるときには,いつでも次のようにするのが最も正しいとわたしは思う。つまり,計画が目差すべき理想を示す者は,最も立派な,最も真実な点を何ひとつとして落としてはならず,他方,それらのうちに実現不可能なものがあることを発見した者は,それを脇にのけて実行せずにおき,残されたもののうち,理想に最も近く,なすべきものに最も似た性質を持つもの,それを実現すべく工夫をこらさねばならない。しかし,立法者にはその意図を最後まで語らせるべきで,それが済んだら,そのとき初めて,彼の立法の提案のうち,どれが役に立ち,どれが困難であるかを,彼ともども調べてみるべきである。」」(746B)

あくまで理想は理想で,現実には実現不可能なものもあると。これに似た言葉は『国家』でも言われていました。
ただ,理想があってこその現実,ということはぶれていないと思います。プラトンは「イデア」を棄てたとしても,「理想」を棄てたわけでは決してなかったのだと思います。かつ,現実に目を向けざるを得なかった。『国家』篇から『法律』篇まで,この両者に挟まれながら,最善の国家を目指したプラトンの苦悩を想像して余りあるところです。

アテナイからの客人「立法者たる者は,これらすべてに眼を向けて,すべての市民に,これらの数の与える秩序からできるかぎり外れることのないように命じるべきです。なぜなら,家政にとっても,国政にとっても,他のどんな技術にとっても,一つの教科として,数の学問ほど大きな力を持つものはないからです。その最大の利点は,生まれつき無気力で愚鈍な人間を目覚めさせ,理解力に富んだ,物覚えのよい,俊敏な者に仕立てあげ,この神的な術知のおかげで,彼が生まれつきの能力を超えた進歩をするということです。」(747A)

「12の部分への分割」が,土地だけではなく貨幣や固体や液体や重さの単位にまで影響を及ぼすが,それを理解するために数学への理解が必要,という意味で言われているのだと思います(但し,「ひとが卑しさと貪欲とを法律と慣習によって取り除くならば,立派な教科となる」が,そうでなければ「知恵の代りに奸智をつくりあげる」とも)。
あんまり厳密な意味は不明ですが同意したくなります。現代で言えば,数学に加えて哲学も加えてもよいのかも。いずれにしても,政治に携わる人,政治の意味を考える人,双方にとって,数学 (や哲学) (的な思考) が重要な役割を果たすと思います。ある事柄についてニュートラルな立場で「それは何なのか」と考えて説明できることは,政治に限らず全体の成熟につながるのではないか?と思います。そうでないと自社の製品がどういう技術に基づいているのかを知らず,ただ口先だけで売るようなものだと思います。

以上で第五巻は終了です。
プラトンは『国家』篇の後,理想の国家に対する考えが変わったと言われることが結構あると思いますが,ここを読むと,意外と変わっていないじゃん,という感想を持ちます。ただ「法律」というものを明確に背後に置いて語っているというところはそもそも異なります。
また「5040」という数字が出てきて,多用されているのも印象的です (『国家』でもいきなり調和級数が出てきたりしてましたが)。それが妥当かどうかは別にして,こういう法律とか政治を背負った内容でも,数学とか技術といったものを決して無関係なものとはせずに,「善さ」を説明するには必要である,という姿勢は全く以て共感します。当時は分ける理由がなかったのだと思いますが。

第六巻に続く。

プラトン『法律』第四巻メモ

プラトン『法律』(プラトン全集 (岩波) 第13巻) 第四巻を読んだときのメモです。

第四巻では,第三巻最後でのクレイニアスによる場面の転換を受けて,空想上の国づくりに着手していきます。しかしいつの間にか,最善の国制は何か?正義とは何か?万物は神が尺度であり,神に気に入られるにはどうすればよいのか?といった話になっていきます。
最後の方では,法律とは強制する内容か (単式),強制と説得を含む内容か (複式),といった話で具体例も挙げられます。

以下,読書時のメモです。

アテナイからの客人「まことに隣接している海というものは,その土地にとって,日々の生活には快適なものであっても,実情は,まったく「塩辛く苦い隣人」なのですからね。というのも海は,その土地を,貿易や小売りのあきないで満たし,ひとの心に,不正直で信頼のおけぬ品性を植えつけ,そのため国民は,お互いの間においても他国の人びとに対しても,ひとしく信頼を欠き,友愛を失ったものとなるからです。」(705A)

第三巻の終わりで「言葉の上で国家を建設する」と言われた流れで,まずどういう場所にその国家が存在するのか,ということが言われます。シムシティの最初に地形を自分を作るようなもので,『国家』よりも『クリティアス』を連想します。
そこでクレイニアスは,海から80スタディオン (14.5キロ),良港に恵まれ,資源にも恵まれ,急峻な地形の土地を想定します。それを受けてアテナイからの客人が言ったのが上記引用です。海の近くでは,どうも外の人間との交わりや交易による金銭のやり取りが多いことにより,品性が下がると考えていたようです。似たような理由で,資源も多すぎない方がよいと言われます。

アテナイからの客人「今度は,代ってあなた方のほうが,当面の立法にさいし,万一にもわたしが,徳を目差さぬものとか,徳の一部だけを目指すようなものを立法することがありはせぬかと,注意深く監視していてほしいのです。というのも,わたしは,次のような法律の制定だけが正しいものだと想定しているのですから。すなわち,なにか立派な結果が不断に付随してくるもの,ただそういうものだけを,ほかのもののなかから,あたかも弓を射る人のようにつねに狙い,それ以外のものは,たとえ富とかそれに類するものがたまたま得られようと,今言われた立派な結果が伴わぬかぎり,そんなものはいっさい無視してしまう,そういう法律なのです。」(705E)

立法というものが,徳の全体に着目してなされるべきである,という考えは第一巻で述べられていました。

アテナイからの客人「その習慣とはたとえば,たびたび船をはなれて打って出ては,再び素早く軍船に退却したり,また敵の攻撃にあったときに踏みとどまってあえて死を選ばないでも,いっこうに恥ずべきことを行なっているとは思わない習慣,いなむしろ,武器を捨てて,彼らの言う,かの「恥ずかしくない逃走」を行なおうとも,もっともらしい言い分けが,即座に生まれてくるような,そういう習慣ですね。」(706C)

海戦では逃走は恥ではない,というような慣習があったことを窺わせます。『楊令伝』で,海戦で船を失って河や海に飛び込んだ兵は敵軍であろうと討たない,という暗黙的なルールが描かれていたことを思い出しました。
さはさりながら,アテナイからの客人は,前に引用したように海の近くに国が位置することの弊害を強調したのと同様,基本的に海戦については見下すようなことを多々述べており,上記の慣習についても感心しないものと述べているし,ホメロスを持ち出して,海戦よりも陸戦の方が誉れ高いということを強調しています(706D)。またサラミスの海戦やアルテミシオンの海戦よりも,マラトンとプラタイアの陸戦の方が,ギリシアを救い立派にしたと言います(707C)。

アテナイからの客人「しかし,それはそれとして,とにかく目下わたしたちが,国土の性質や法律の組み立て方を検討しているのは,国制にそなわる徳を目標としてのことなのです。わたしたちは,世の大多数の人びとのように,ただたんに生きながらえてあることだけが,人間にとって,最も貴いことだとは考えません。むしろ,できるかぎり善き人となり,この世にあるかぎりそのようでありつづけることこそ,最も貴いことと考えています。」(707D)

ここはプラトンらしいですね。『クリトン』の引用が脚注にありましたが,「善く生きる」ということが,この遺作である『法律』で,ソクラテスではなくアテナイからの客人の口から言われることに意味があるという気がします。

アテナイからの客人「では,これにつづく問題をおっしゃってください。あなた方の国に入植するのは,どこの人ですか。」(707E)

土地を決めたら,そこに移住するということになります。この後,移民の種類 (例えば種族 (言語,宗教等) が一つの場合,バラバラの場合など) がいくつか想定されるところがちょっと面白いです。例えば一つの種族の場合は,まとまりはあるが,本国とは異なる新しい法律を受け入れるのは容易ではない。逆にバラバラの場合は,新しい法律を受け入れやすいが,まとまりができるには時間がかかる,など。これは根本的には,第三巻 (681A 辺り) でも話題になった,小さな集団が大きな集団になる時の折り合いの問題とも共通しそうです。

アテナイからの客人「わたしが言おうとしているのは,こういうことです。人間は誰ひとり,何ひとつ立法を行なっているのではない,むしろ,ありとあらゆる偶然や禍が,ありとあらゆる仕かたで起こってきて,それらが,人の世の立法のいっさいを司っているのだ,ということです。」(709A)

立法というのが外的要因によるもの,もっといえば「変化」によるもの,ということでしょうか。
但しこの後では,その偶然や外的要因を認めた上で,その上で真実や技術を身に着けた立法者が必要であると言われます。さらに,そのどうにもならない偶然を自分に有利にするための「祈願」の方法も必要と言われます。まあ偶然をどうにかできると本気でプラトンが考えたとも思えませんが,色んな事象についての原因を変数化して,最善の (利得を最大化する) 方法を追い求めているという印象があります。

クレイニアス「どうやら最善の国家は,僭主制から生じてくるとおっしゃっているようですね。ただし,最優秀の立法者と節度ある僭主とを伴う場合の僭主制ですが。そして,そういう状態から最善の国家への変化は,最も容易に,また最も速やかに行なわれると,おっしゃるのですね。また,つぎに容易な変化は,寡頭制からであり――いやそれともべつのご意見でもおありでしょうか――[さらに第三番目は,民主制からであると]。」
アテナイからの客人「いや,そうではありません。むしろ,その変化のいちばん容易なのは僭主制からで,二番目は,王制の国制から,三番目は,ある種の民主制からなのです。第四番目のもの,つまり寡頭制ですが,これはそうした最善の国家の誕生を,いちばんうけいれにくいでしょう。なぜなら,その国制においては,権力者が最もたくさんいるからです。いいですか,わたしの言わんとするところは,こういうことなのです。最善の国制への変化が実現するのは,真の立法者が自然の恵みによってあらわれて,しかも彼が国家最高の権力者たちとある種の力を共有する場合のことだというのです。そしてその権力者が,僭主制の場合のように,数において最少,力において最大である場合,まさにそのとき,その変化は,通常,速やかにかつ容易に行なわれるものなのです。」(710D)

「最善の国家は僭主制から」というのは,やはり『国家』とはかなり違いますが,実は同じという気もします。王制と僭主制の違いは?という問題もありますが。単純に権力者の力 (の絶対値) と数に着目して,力のベクトルの向きを考えていないところが『国家』との違いかな,と思います。この点は第三巻でも思った点です (693E 近辺)。「絶対値」に着目している限りは,『国家』と変わっていない,という仮説です。次の一節にも当てはまるかもしれません。

アテナイからの客人「つまり,一人の人間において,最大の権力と,思慮や節制の働きとが落ち合って一緒になるとき,そのときこそ,最善の国制と最善の法律の誕生が芽生えてくるのであって,それ以外の方法では,けっして生じてはこないのです。」(712A)

ここは有名な「哲人王」と変わらないですね。理想は不変?
実際,現代でも,民主主義は「一番マシな政体」と言われることはありますが,例えば専制君主がいて,その人の行動の動機が,現代における民主主義政体の一般市民の望み (分かりやすく言えば選挙で勝った政党の公約とか) とたまたま一致するとします。変な利権に満ちたり実は色々と偏りのある国会議員たちを通さずショートカットして実現してくれたら,そっちの方が民主主義を体現しているような気がします。それが完全に夢物語とも言い切れない気もします。ただ真逆になる可能性もあります。『国家』などで思った記憶がありますが,確率的な問題も多分にあるという気もします。

アテナイからの客人「それはね,あなた方,お二人ともがほんとうの意味での国制をもっておられるからですよ。これに対し,今しがたわたしたちの名づけたものは,国制ではありません。むしろ,自分たちのある部分を主人としてその支配をうけ,それに隷属している諸国家の暮し方にすぎません。」(712E)

この前で,クレイニアスとメギロスが,自分たちの国制が,民主制,寡頭制,貴族制,王制,そして僭主制のどれに当たるのか?とアテナイからの客人に聞かれますが,メギロスが色々例を挙げたあげく,はっきりとは限定できない…と答えたのを受けた言葉です。つまり「~制」という区分けは,三角形とか正四面体といったものと同じ空想上あるいは理想的なもので,現実にはそのまんまのものは存在しない,という感じでしょうか。
でも,考えてみれば日本も,天皇制 (=僭主制?王制?) ともいえるし,当然民主制でもありますが,実体は寡頭制・貴族制のようでもあります。ポリモルフィックで,色んな表出のされ方があり,本質は何なのだろう?と思ったりします。

アテナイからの客人「さきほどわたしたちは,共同体建設のことを詳しく語りましたが,その国家よりもなおはるか昔のクロノスの時代に,きわめて幸福な一種の統治,あるいは定住がなされていたと伝えられています。そして今日の国家のいかなるものにせよ,最もすぐれた仕かたで治められているほどのものは,その統治を模倣しているのです。」(713B)

洪水で世界が滅亡して,そこからの話は語られていましたが,それより前にそんな国家があったと。すべての国家はそこを模倣しているというほどの国家について,当然,この後語られます (が短い)。

アテナイからの客人「この物語は,今日もなお真実を保ちながら,こういうことを伝えています。神が,ではなく,誰か死すべきものが支配する国家は,いかなる国家も,不幸や労苦をまぬかれるすべはない,ということです。むしろ,わたしたちは,手段のかぎりをつくして,いわゆるクロノスの時代を模倣すべきであり,そして知性 (ヌゥス) の行なう規制 (ディアノメー) を法律 (ノモス) と名づけて,公的にも私的にも,わたしたちの内部にあって不死につながる [その知性という] ものに服しながら,国家と家をととのえなくてはならないということを,その物語は意味しているのです。」(713E)

クロノスはその国家の支配者として,人間ではなくダイモーンをあてがった,ということが前後で言われます。

アテナイからの客人「というのも,世の人の主張によれば,法律の着目すべき目標は,戦争でもなければ徳の全体でもない。むしろ,現今どんな国制がしかれているにせよ,その国制の支配が永久につづき,破壊されることのないようにと,その国制にとっての利益に,目を向けねばならないというのです。」(714B)

日本の「行政」というものを仮定すれば,まさしくその通りだなとふと思いました (現代と違って三権分立なんて当然ないと思われるので比較はできませんが)。しかし「立法」がその国の体制を維持することが目的になってしまうと,不幸なことが起こるという気もします。しかし次のも含めて,どうもリアリティを感じるところです。

アテナイからの客人「また,自然にかなった「正義」の定義としては,次のように言われるのがいちばんよい,というのです。」
クレイニアス「どのようにですか。」
アテナイからの客人「「正義」とは,強者の利益である,というように。」
クレイニアス「もうすこしはっきりおっしゃってください。」
アテナイからの客人「こう言えばよいでしょう。国家においてはいつでも,かならずや勝者が法律を制定するのだと,彼らは主張するのです。それとも,そうではないでしょうか。」
クレイニアス「お言葉のとおりですね。」
アテナイからの客人「そこで,彼らはこう主張するのです。民衆が――いや,これは何か他の国制でも,あるいは僭主でもいいのですが――勝利をおさめた上で法律を制定する場合,その支配権が持続するようにという自分自身の利益以外に,彼らがみずからすすんで第一番の目標と定めるものが,なにかほかにあると思うか,と。」
クレイニアス「どうしてそんなものがあると思われましょうか。」
アテナイからの客人「したがってまた,その制定されたことを誰か犯すような者がでてくると,制定者は,その制定されたことを「正義」と名づけ,その者を,不正を犯すものとして,懲らしめるのではありませんか。」(714C)

一旦権力を握った支配者が,その権力を持続させることを目的化し,「正義」となしてしまう…。これは非常にありそうなことですが,自分のようなサラリーマンも無縁ではないという気もします。日々働いて給料を貰っているという現状維持のため,会社を絶対視して,会社のためと思いこんで不法や不正を働く,ということも,ありそうな話です。支配者といえども,近視眼的には同じような心持ちに反射的になりがちなのかもしれません。それが積み重なって「正義とは強者の利益」となると考えると,多少は同情的にもなります。
それにしても,「正義とは強者の利益」論については『国家』第一巻でのトラシュマコスの激しい言説を思い出すところです。ただここでは,体制の維持を「正義」と結びつけているのがちょっと印象的なところです。

アテナイからの客人「しかし,わたしたちは今こう主張します。そのようなものはもとより国制ではないし,また,国家全体の公共のためを目的として制定されていないような法律は,まことの法律ではない,と。さらに法律が,一部の人のために制定されるような場合,そうした一部の人は,党派者ではあっても市民ではなく,また,彼らが言うところの,それら法律の正しさなるものは,空しい言葉にすぎないとも,主張します。」(715B)

アテナイからの客人は,まるでソクラテスが乗り移ったかのように決然と言います。力を持っていたとしても,その力を国家全体のために使うために法律を制定するべきであると。
このあと支配者は「法律の従僕」という話もあります。国家における憲法とは,権力を縛るためのものである,という現代でいう「立憲主義」を連想する下りです。

アテナイからの客人「「さて,われわれ人間にとっては,万物の尺度は,なににもまして神であり,その方が,人びとの言うように,誰か人間が尺度であるとするよりも,はるかに妥当なことなのである。」」(716C)

植民者たちに呼びかける,という形になっているので,かぎかっこを二重にしています。
「万物の尺度は,なににもまして神」という箇所は,全集の傍注に「『法律』全巻の根本となる,最も重要な命題」と書いてありました。直接的には首をかしげたくなる部分でもありますが,完全な「神」を措定することで,人間の不完全さを常に前提として立てる,ということなら分かる気もします。
この後,神々に気に入られるような条件が語られます。神々に犠牲や祈りをささげることも当然言われますが,両親への敬いということも,やや意外ながら?重く語られます (意外というのは,「孝」という儒教的な観念を連想する一方,無条件に親や年長者を敬えということはあまりプラトンは書いていなかったと思うので)。『エウテュプロン』で,殺人で親を訴えようとしたエウテュプロンをソクラテスがたしなめる場面をちょっと思い出しました。

アテナイからの客人「「しかし立法者には,法律のなかで,こうしたこと,つまり,一つのことがらについて二つの説をなすということは,許されてはいない。立法者は,一つのことがらにはいつも一つの説を,明らかにしなくてはならない。」」(719D)

アテナイからの客人「「だが,あなたの方は,適度を口にするとき,今しがたのような話し方で,言うべきではない。むしろ,適度とはどういうものなのか,どれだけの量なのか,ということを言わなくてはならない。さもなければ,そうした説は,まだ法律とされてはならないと考えてもらいたい。」」(719E)

ここは詩人 (に成り代わったアテナイからの客人) が立法者に問いかける,という場面なのでかぎかっこを二重にしています。
この前で,詩人は「湧き起こってくる思いを泉のように流れるにまかせている」ため,真実を知らずにいる,ということが言われます。やはり詩人に対しては厳しいですね。しかしその反撃として,では逆に一つに定まるような説を表すための「適度」というものはどういうものか?ということを問いかけます。
「適度」とはどういうものか,というのは第三巻でも,民主主義と君主主義の適度な混合がよいと言われていましたが,妥協という印象はありました。でも「適度」とは何か?が分かればそこは解決するかもしれません。

アテナイからの客人「世の中には,医者もいれば,医者の助手もいます。しかしその後者をも,わたしたちはむろん医者と呼ぶでしょう。」
クレイニアス「もちろんです。」
アテナイからの客人「つまり後者は,自由民であろうと奴隷の身であろうと,医者と呼ばれるわけです。しかし[奴隷の医者 (助手) の方は],主人の指示,観察,経験にもとづいて,その技術を身につけているのであっても,自由民がみずから学ぶときや,自分の弟子たちに教えるときのように,ものごとの本来のあり方に則ってするのではありません。いわゆる医者と呼ばれている者に,以上の二種類があることを,あなたは認めますか。」(720A)

自由民的な医者と,僭主的な (奴隷出身の) 医者という対照が語られます。この後で具体的に説明がされますが,説明もせず横柄な態度で診て処置を施す僭主制的な医者と,よく説明し同意の上で治療を行なう自由民的な医者という感じで語られます。これはすぐ後の「説得」と「強制」(または「威嚇」)の伏線になっています。

アテナイからの客人「よりすぐれた医者なら,これらのどちらの方法で治療を行なうでしょうか。またよりすぐれた体育教師なら,どちらの方法でその訓練を行なうでしょうか。両様の方法を使いながら,一つの医療の効果をあげるのでしょうか。それとも,どちらか一つの方法,しかも二つのうちのより劣った方法で,病人の気持を扱いにくくしながら,行なうのでしょうか。」
クレイニアス「それはあなた,複式の方法を用いる方が,はるかにすぐれているでしょう。」
アテナイからの客人「では,もしよろしければ,その複式のやり方と単式のやり方を,立法の場に適用してみて,それぞれを考察してみようではありませんか。」(720E)

ということで,前述の医者の例だとどちらが優れているか?という話になります。アテナイからの客人が,「両方か,それともより劣った方か」と問うのもちょっと変わっていますが…(より優れた方,というのがない)。
また突然「複式」「単式」という言葉が出てきます。簿記か?と思いました。
この後で,結婚に関する法律の単式と複式の例が語られます (この内容もぶっとんでいるのですが)。複式というのは,「こういう理由なので,こういう内容を守らないと,こういう罰を科す」という説得と威嚇 (強制) の両方が書かれ,単式は,「こういう内容を守らないと,こういう罰を科す」という威嚇 (強制) のみが書かれている,ということのようです。

アテナイからの客人「こうした事情があるにもかかわらず,立法者の誰ひとりとして,いまだかつて心にとめていないと思われる事実があります。立法のためには,説得と共生という二つの方法を,たとえ教養のない大衆を相手にする場合に許される範囲内にせよ,その二つの方法を用いることができるにもかかわらず,一方の方法しか用いていない,という事実です。つまり彼らは,説得の上に強制を混ぜながら立法しているのではなく,ただひたすら強制だけにうったえて,立法しているのですからね。」(722B)

単純に考えて,法律に,なぜそういう法律を作ったのか,なぜ違反すると罰を与えるのか,と付記する (かつ公開される) ことは,後になってその法律の妥当性を検証する際に有用になると思います。法律が時代に合わなくなる,というのはよくありますからね。
悲しいかな,私は法律というものを読んだことが殆どないので,現代の日本における法律が,ここで言う「説得と強制」両方を含むのか,「強制」だけなのか,というのを知りません (この後でも語られるような,前文・序文というものがあって,そこに「説得」の内容が書かれているのが一般的かな?と想像していますが)。
反対に,「強制」しか書かれない法律というのを想像すると,「民は由らしむべし,知らしむべからず」という『論語』の (誤った解釈の?) 一説を思い出しました。当時はみなそうだったとありますが,近代までそういう意識が普通だった,というのは歴史を少し考えれば納得できます。
その意味では,(法律に限らないとも語られているのを含めて) こんな昔からそれを指摘していたプラトンの慧眼は,さすがだと思います。

アテナイからの客人「つぎにわたしが言いたいと思っていることは,何だとお考えになりますか。それはこういうことです。立法者たる者は,いっさいの法律に対して,つねにそれを序文抜きのものにすべきでないのはもとより,個々の条項の場合においても,そうしてはならない,ということです。というのも,そうすることによって,ちょうど先刻 [一例として] 話された二つの法律の相互の間に優劣が見られたように,それと同じだけの優劣が,両者の間で見られることになるでしょうから。」(723B)

法律には序文が必要であり,それは「説得」的なものという位置づけが語られます。かつ,序文にとどまらず,個々の条項についてもそうあるべきと言われます。
ソフトウェア開発の世界の話ですが,ふと Knuth の「文芸的プログラミング」というものを思い出しました。私も昔の本で言及されているのを読んだだけで詳しくは知らないのですが,それはソースコードの1行1行に対応するドキュメントが常にあるようにし,同時に更新していく,というものだったと思います。現実には,なぜそうなっているかというドキュメント (ソースコードのコメント含む) の重要性はよく言われますが,文芸的プログラミング自体はいささか過激で,実際には行なわれていないと思います。他の例で言うと,料理のレシピのそれぞれの手順に,なぜこの材料を使い,分量はこれくらいなのか?ということを常に一緒に書くみたいなものでしょうか。
ここで言われている,常に「説得」を併記するという話は,いわば「思考 (意思決定) プロセスの見える化」にもつながってくる話なのかなと思います。一般論としては程度問題だろうと思われ,法律の各条文がこうあるべきか?は分かりませんし,実際そうなっていないと思います。でも本当はそうあるべきかもしれない,とも思います。プラトン流の「理想」と考えればよいのでしょうか。

クレイニアス「あなたのおっしゃるとおりだと思われます。しかし,それはそれとして,あなた,わたしたちはもうこれ以上,ぐずぐずしながら時を費やさないようにしましょう。むしろもう一度本論に立ちもどって,あなたさえよろしければ,さきほどあなたが,序文としての建前をもってではなしに話しておられたあの箇所から,はじめましょう。」(723D)

アテナイからの客人「すると,神々や神々のあとにつづく者たち,および,存命中の,あるいは他界した親たち,それらに関しては,今も言うように,あのとき充分にわたしたちはその序文をつけたというわけですね。そこであなたは,この序文のうちでなお言い残されているものを,いわば明るみに出すように,命じておられるものと見うけられます。」
クレイニアス「まったくそのとおりです。」
アテナイからの客人「わかりました。では,それらにつづく問題は,自分自身の魂や身体や財産に関し,それに払うべき努力,また控えるべき努力の限度はどのようであるべきか,ということです。」(724A)

ということで,また退屈な話に戻るようです(汗)。本対話篇は「3歩進んで2歩下がる」ということを延々とやっている感じですね。

第四巻メモは以上。
法律というものが,(1)単に「強制」のための内容なのか,それとも (2)「強制」と「説得」を含む内容なのか,というのは興味深い話でした。法律を,単に執行されるものだと考えると (1) でも違和感が少ないのかもしれませんが,自分が立法に関わりかつ執行もされる,というケースを考えると (2) のようになっているべきだ,と思う気がします。日本の民主主義は,本来,選挙権のある全国民が立法に関わっていることになるはずなので,(2) であるべきでしょうか。それとも,殆どの法律が官僚によって作られる現実に即すと,(1) でもいいのでしょうか。
また,では今の日本の法律はどちら側なのか?と思った時,自分が法律というものを殆ど読んだことがないことに気づきました。実際に読んでみて,ここで言われているようなことが当てはまるのかどうか?ということを確かめないといけませんね。

プラトン『法律』第三巻メモ

プラトン『法律』(プラトン全集 (岩波) 第13巻) 第三巻を読んだときのメモです。

第三巻では,国の成り立ちや国制についての話に入ってきます。そうなると当然『国家』や『ポリティコス(政治家)』が連想されます。それらとは何がどう違うのか,或いは違わないのか。
またギリシアとペルシアの歴史についても語られます。高校の世界史に出てきたような言葉も多く出てきますが,それがこの対話篇当時にも歴史として知られていた,というのはちょっとした感慨があります。

以下,読書時のメモです。
ちなみに第三巻はメモは1ページだけにしたのでかなり長くなりました…。

アテナイからの客人「この問題は,これですんだことにしておきましょう。さて,国制の起源ですが,それはそもそも,どこにあったと言うべきでしょうか。思うに,こういうところから考察すれば,最も容易に,最も見事に,それを考察できるのではないでしょうか。」(676A)

なんだか唐突に国制の起源に話題が移るようです。「こういうところ」というのは,「時間の無限の長さと,そのなかで起こるさまざまの変化」と直後に言われます。

アテナイからの客人「ところが,その期間には,幾万ともかぞえきれないたくさんの国家がつぎつぎ生まれ,またそれと同じ割合で,それに劣らぬ数の国家が滅亡したのではないでしょうか。さらにそれらの国家では,繰り返しいたるところで,ありとあらゆる国制が採用されてきたのではありませんか。それは,ときには小さな国家から大きな国家へ,ときには大きな国家から小さな国家へ,また,すぐれた国家から劣った国家へ,劣った国家からすぐれた国家へと,変化してきたのではありませんか。」
クレイニアス「とうぜんのことです。」
アテナイからの客人「そこでわたしたちは,できれば,そうした変化の原因を把握してみようではありませんか。というのも,おそらくそれが,国制のそもそもの成立と推移を,わたしたちにあきらかにしてくれると思いますから。」(676B)

プラトンが生きていた当時でも,「幾万ともかぞえきれない」国家が過去にあった…これは一種の詠嘆でもあると思いますが,2,400年後である現代でもそんなにスケールが変わっていないような気もします。
国制については『国家』『ポリティコス(政治家)』でも論じられたと思いますが,ここでは帰納的というか,歴史上の国家に対して反映や滅亡の原因を分析して,その「変化」をもとに,すぐれた国家になる条件を得ようとしている,というところが新しいという気がします。こんなところでも,前2篇よりも現実的になったのかな?と思うところではあります。
この後,「大昔に洪水のために生じた滅亡」がテーマになり,国家,国制,立法,徳と悪徳などの記憶も全て失われてしまい,何もないところから,またそれらが生じてきた (長い時間を必要とした) 過程が語られます。ちょっと『国家』第2巻~の流れを連想します。

アテナイからの客人「したがって,内乱も戦いも,その期間は,いろいろな理由から消失していたわけです。」
クレイニアス「どんな理由ですか。」
アテナイからの客人「まず第一に彼等は,荒涼としたところにいたので,お互いにやさしい気持を抱き,親切を示し合っていました。つぎに食糧は,彼らが争って手に入れねばならぬものでもありませんでした。」(678E)

アテナイからの客人「しかし富も貧しさも同居していないような共同体にあっては,おそらくこの上ない高雅な性格が生まれてくるでしょう。なぜなら,驕慢も不正も,羨望も嫉妬も,そこには生じてこないからです。」(679C)

アテナイからの客人「そこでわたしたちは,こんなふうに言ってもよいのではないでしょうか。こういう仕かたで生活を送ってきた多くの世代は,洪水以前の世代や今日の世代にくらべて,きっとその技術もつたなく,知識も乏しいものであったにちがいない。他の技術もさることながら,とりわけ今日陸上海上で見られる戦争の技術や,また,その場所を国内にかぎっての戦争の技術,――いわゆる訴訟,内乱のごとく,悪事と不正を互いに働き合う目的で,言葉と行為のいずれによっても策略のかぎりを工夫しているような――,そういう戦争の技術に関しても,乏しいものであったにちがいない。しかし他方,それだけにいっそう人が好く,勇気もあり,またいっそう思慮深く,あらゆる点ではるかに正しくもあったと。」(679D)

洪水で世界がリセットした直後からの話ですが,一見してポジティブな言葉が並んでおり,平和なイメージが湧きます。
初期のプラトンの対話篇,「~とは何か」の追求が行われる場面を何となく思い出します。こういう素朴な生き方をしていた頃から変わっていないことを大切にする…ということは,プラトン対話篇に通底していることのように思います。

アテナイからの客人「さて,わたしたちが以上のことを話題にし,さらにそれにつづくことすべてを話そうとしているのも,その目的は,次のことにあるとしなくてはなりません。当時の人びとにとって,どうして法律が必要となったのか,また,彼らの立法者は誰であったのか,ということを理解するためなのです。」(679E)

法律が導入される前の世界は一種の「モナド」だったのかもしれないと思います。そこに法律という「窓」が必要になったのは何故か?ということがここから語られるようです。

アテナイからの客人「そうした時代の国制は,一般に家父長制 (デュナステイアー) と呼ばれているように思われます。」(680B)

アテナイからの客人「するとそういう国制は,滅亡がつづく困窮状態のため,一軒一軒ごとに分散してしまった者たちの中から,生じてきたのではないでしょうか。その国制にあっては,最長老の者が支配権を握っているのですが,それはその支配権を,父あるいは母から譲りうけたことによるのです。そして [それ以外の者たちは],その長老に服従し,鳥たちのように一つの集団をつくっているのですが,それはつまり,家長の支配に従っているのであり,あらゆる王制のなかで,最も正当な王制の姿をとっているのです。」(680D)

確かに何も無い状態では,身内・家族の年長者が支配権を持つところから始まるという気もしますし,「自然的」という気もします。しかし,完全にニュートラルな状態で,自然と理性に従って,誰が誰に従うべきか?と考えると意外と奥深い問題という気もします。そしてこれは後で (689E以降) 言われます。

アテナイからの客人「さて,その次の段階では,もっと大勢の者たちがひとところに集合し,もっと大きな集団 (ポリス) をつくります。そして,初めて山麓で農耕に向かい,また野獣たちを防ぐための防備の城壁として,粗石だけの一種の囲いをつくるのです。こうして今度は,共有の一つの大きな家をつくりあげるのですね。」
クレイニアス「そのようになるのが,おそらくとうぜんでしょうね。」(680E)

次の段階です。

アテナイからの客人「その大きな家が,初めの小さなものからしだいに大きくなってくる場合,それぞれの小さな集団は,一族ごとに,最長老の支配者と若干の風習――それらは互いの暮し方が隔たっているために,それぞれに固有のものとなっていますが――をたずさえてきます。その風習が固有であるというのも,神々と自分自身に関して彼らの風習としているものが,彼らを生んだ者,育てた者の異なるに応じて異なっており,節度あるものからは節度ある風習が,勇敢なものからは勇敢な風習が,生まれているからなのです。このようなわけで,とうぜんそれぞれの部族は,自分の性向を,その子供や,子供の子供に刻みつけながら,今も言うように,それぞれ固有の掟をひっさげて,より大きな共同体のなかへはいってくることになるのです。」
クレイニアス「どうしてそうでないことがありましょう。」
アテナイからの客人「さらに,それぞれの部族にとって,自分たちの掟は好ましく思われるが,他のものの掟は二次的なものになるのも,やむをえないことでしょう。」
クレイニアス「そのとおりです。」
アテナイからの客人「ではどうやらわたしたちは,知らぬ間に,立法の源に足を踏みいれたようですね。」
クレイニアス「まことにそのようです。」(681A)

ここは今を生きる人間にとってもかなり核心的なことを言っているように思えました。小さな集団が集まって大きな集団になるときに (会社の合併とか,部署の統合とか,あるいは (個人が最小の集団と考えれば) 自分がなにがしかの集まりやサークルに属する場合など,なんにでも当てはまると思います),それぞれの風習や掟が,互いに異なる場合にどうするか。これにどう折り合いをつけるかが,「立法の源」であると示唆されています。こういう誰しもが厄介な問題として直面した経験があることが,立法術の延長線上に位置づけることができる,というのは言われてみれば尤もかもしれませんが言葉にされると新鮮で,プラトンを読む甲斐があると思う瞬間です。

アテナイからの客人「わたしたちは,議論が横道へそれたものだから,さまざまの国制や建国の間をぬってくわしく調べてきたおかげで,それだけの儲けものをしているわけです。わたしたちは,一番目,二番目,三番目の国が,かぎりなく長い時間の間に,思うに,相ついで建国されていくさまを観察してきました。ところが今や四番目のものとして,このラケダイモンの国が――もしお望みなら,民族といってもよいのですが――建国当時の姿を保ち,しかも今は建国を終えたものとして,わたしたちの前に登場してきたのです。」(683A)

一番目,二番目,三番目の国というのは,ここまで話されてきた家父長制 (デュナステイアー),それが集まったもの,そしてその後でさまざまな国制を内包した国制,ということになるようです。この後は (現存の) ラケダイモンの国の成立が話されることになりますが,起源としてはアルゴス,メッセネ,ラケダイモンという3つの国に分かれて建設されたようです。

アテナイからの客人「したがって,そうした備えが将来堅固なものとなり,長期間存続するだろうと当時の人びとが考えたとしても,それはとうぜんのことではなかったでしょうか。それというのも彼らは,互いに数々の苦労と危険をわかち合いもしてきたし,また兄弟を王にいただき,一族によって治められもしてきたのですから。その上さらに,数多くの予言者たち,とりわけデルポイの神アポロンに,おうかがいを立ててきたのですからね。」
メギロス「彼らがそう考えるのもとうぜんのことです。」
アテナイからの客人「ところが,それほどの大きな期待も,今しがた言ったように,その小部分であるあなた方の領土を除いては,どうやら当時,間なしに消え失せたようです。しかもその小部分がまた,今日にいたるまで,他の二部分との争いを,かつてやめたことがありません。これがもし,かりに当時の意図が実現され,みなが和合して一体となっていたのなら,戦いにおいて,それこそ不敗の力を保っていたことでしょうに。」(685D)

かなり省きましたが,3つの国は連携して異国への軍備なども万全であったにもかかわらず,1つの国を除いては亡びたそうです。それがこの後で述べられます (引用は略)。

アテナイからの客人「ではどうでしょう。今の議論によって明らかにされたことこそ,だれにも共通した一つの欲望の形なのでしょうね,議論そのものがそう主張しているように。」
メギロス「どのようなことでしょうか。」
アテナイからの客人「わが魂の要求するままに事が行なわれてほしい,ということです。できれば事のいっさいが,さもなくば,せめて人間にかかわりのある事だけなりとね。」(687C)

ここもかなり省いていますが,軍備にせよ富にせよ,それを所有して何かをなすことが目的ではなく,「所有者がそれを用いることで,自分の欲するもの・ことを手に入れる」ということが潜在的にはそもそもの目的である,ということ?

メギロス「あなたの言おうとしておられることがわかりました。ひとが祈り熱望しなくてはならないのは,万事が自分の願望のままになるということではなく,それよりはむしろ,願望が自分の叡知 (思慮) に従うように,ということでなくてはならない。そしてこの,「知性が身にそなわるように」ということこそ,国家にせよわたしたちの誰ひとりにせよ,祈り求めなくてはならないことなのだ,――こういうことを,あなたは言おうとしておられるように思われます。」(687E)

アテナイからの客人「王たちが没落し,その意図したこともすっかり崩壊した原因は,臆病にあるのでなければ,支配者と支配さるべき者たちが,戦争に関することがらに精通していなかった,ということにあるのでもない。むしろ,それ以外のあらゆる悪徳によって破滅したのであり,とりわけ,人間にかかわりのあることがらのうち最も重要なことがらの無知のために,破滅したのだということです。」(688C)

王の没落,国の崩壊が「人間にかかわりのあることがらのうち最も重要なことがらの無知」のために,4つ存在している徳のうちの戦争とか臆病に関するもの以外に決定的なものがあると。これは前の引用の部分でもありましたが,国を動かすということでも潜在的にはその権力者の欲求によって動かす,ということから個人の徳がそもそもの原因となる,ということでしょうか。

アテナイからの客人「それでは,どんなものが,最大の無知と言われてふさわしいのでしょうか。あなた方お二人とも,わたしの言葉に賛成されるかどうか,考えてみてください。わたしとしては,次のような無知を,それと見なします。」
クレイニアス「どのような無知でしょうか。」
アテナイからの客人「自分ではあるものを,美しいとも善いとも思っているのに,それを愛さずにかえって憎み,反対に,劣悪で不正と思っているものを,愛し迎える,そういう場合の無知なのです。このように,快楽と苦痛が,理 (ことわり) にかなった思わくとの間できたす不調和を,わたしは無知のきわみであると主張します。」(689A)

自分が善いと思っているものと反対のものを愛すのが,ここでの「無知」ということが言われます。快楽と苦痛が,理にかなった思わくとの間できたす不調和…というのも,誰にでも反省することがあると思います。
国家でも同じことで,「大衆が支配者と法律に従わない場合」がそうなると。

アテナイからの客人「それでは,この点については,こういう決定がくだされ,告示がなされたものとしてください。すなわち,以上に意味における無知な市民には,支配権にかかわることは何ひとつゆだねてはならない。むしろ,たとえ彼が,いかに利害の計算にすぐれていようとも,またすべての気のきいたたしなみや,理解の敏捷さにかかわるようないっさいのことに,いかに骨身をけずっていようとも,無知の者としてこれを非難しなくてはならない。他方,これと反対の状態にある者は,たとえ彼らが,俗に言う「読み書きも泳ぎの心得もわきまえぬ」ものであれ,彼らを呼ぶに知者の名をもってすべきであり,またあらゆる支配権を,思慮ある者としてこれにゆだねなくてはならない,という決定です。」(689C)

アテナイからの客人「さて,国家にはかならず,支配者と被支配者とがいなくてはならないでしょう。」
クレイニアス「言うまでもありません。」
アテナイからの客人「よろしい。そこでつぎに,大国小国を問わず,また,家の大小においても同様に,支配し支配される資格には,どのようなものがあり,またどれほどの数があるのでしょうか。」(689E)

この後,支配者と被支配者になるべき組がつぎつぎ言われます。少し前のコメントで予告した部分ですが,まとめると (1) 親ー子供,(2) 高貴ー卑賎,(3) 年長者ー年少者,(4) 主人ー奴隷,(5) 強者ー弱者,(6) 思慮ある者ー知識のない者,(7) 籤に当った者ー外れた者,の7組です。それぞれ同等というわけではなく,それぞれに補足を加えながら (6) が最大のものであると言われます。
一見して (7) 籤に当った者ー外れた者,というのが異色です。「神に選ばれし者」だからとも言われますが,今の日本でも議員選挙で同票なら籤引きで決めたりするのを思い起こしました。

アテナイからの客人「彼らは,かのヘシオドスが『半分はしばしば全体よりすぐれている』と適切にも語っていることに,思い及ばなかったのではないでしょうか。ヘシオドスはこう考えていたのです。全体を獲得することは破滅を招くが,半分なら適度だという場合には,いつでも,適度の方が適度を超えたことよりもはるかにすぐれている。なぜなら,前者はより善いこと,後者はより劣ったことであるから,と。」(690E)

『仕事と日々』からの引用らしいです。中間性を善とした,アリストテレス『ニコマコス倫理学』を連想します。

アテナイからの客人「つぎに,第三番目の救い主は,お国の支配権が依然として乱れを見せ,血気にかられているさまを見て,いわば馬銜を噛ませるように,監督官 (エポロス) の権力を,籤による職権に準じたものとして導入しながら,それに配したのです。」(692A)

スパルタ建国時,なぜ生き残ることができたか?ということが神の力という文脈で語られる部分です。少し前の支配者ー被支配者の関係の「籤に当たったものと外れたもの」を連想します。第3番目と言っていますが,第1番目は王の家系を双子にする (権力を2つに分ける),第2番目は長老会のような有識者会議を作って権力を30人に持たせたことを言っています。

アテナイからの客人「このような点が,クレイニアスにメギロス,古今のいわゆる政治家や立法者たちに対して,わたしたちの非難しうる点なのですが,そのわたしたちの目的は,彼らの失敗の原因を探究することによって,それとは別の,どのような処置をとるべきであったかを,発見することにありました。その処置とはまさしく,今しがたわたしたちの言ったことにほかなりません。つまり,強大な支配権や混合の形をとっていない支配権を,立法によって設立してはならない,ということです。それというのも,わたしたちの意図によれば,国家とは自由なもの,思慮あるもの,みずからのうちに友愛を保つものでなくてはならず,立法者たる者,よくその点に着目して,立法しなくてはならないからです。」(693A)

前半の「失敗」とは,少し前に述べられた「マラトンの戦い」のことのようです。

アテナイからの客人「では聞いてください。国制には,いわばその母ともいうべき二つのものがあり,他の国制は,そこから生まれてきたと言って,まず正しいでしょう。そして,その一方を君主制,他方を民主制と呼ぶのがよく,前者の頂点にはペルシア民族が,後者の頂点にはわたしたち (アテナイ) が立っていると言ってよいでしょう。」(693D)

アテナイからの客人「ところが,今の二国のうち,その一方 (ペルシア) は君主主義を,他方 (アテナイ) は自由主義を,それぞれただそれだけを,必要以上に偏愛し,どちらの国も両者を,適量に保持してはいなかったのです。だがあなた方の国制,つまりラコニア (スパルタ) とクレテの国制は,その点でもっとうまくいっています。」(693E)

君主主義と民主主義を適量に保持するのが理想の国家,と言っていると思います。この辺りは『国家』篇とは結構異なった印象を受けます。というのは『国家』篇での国制は,(ここで言う) 君主主義が強いものとして,優秀者支配制と僭主独裁制を併置していました。また君主主義が多少弱まって民主主義が多少強まったものとしても,貴族政と寡頭制を併置していました。そして民主主義が強いものを民主制としていました。つまり,2次関数の頂点のようなものが民主制で,それよりずっとプラスにいけば貴族政~優秀者支配制,ずっとマイナスにいけば寡頭制と僭主独裁制…というイメージがありました。
しかしここでは,君主主義と民主主義は直線の反対方向に向かうもののように連想されます。つまり1次的で,第3の方向に膨らむものがない,という感じがします。
この後,ペルシアの王3代について言われます。特に,教育がうまくなされなかったので次の代の王で亡んだ,ということが言われます。

アテナイからの客人「まことに,いやしくも国家においては,誰かが並はずれた富をもっているという理由で,格別の名誉があたえられたりしてはならないのです。それはちょうど,もし徳に欠けるところがあれば,たとえその人の足が速く,容姿が美しく,また力が強かろうと,そのために格別の名誉があたえられてはならないし,たとえ徳があるにしても,もしそれに節制が伴わなければ,あたえられてはならないのと,同じことなのですから。」(696B)

わりと印象的な言葉です。この後,「節制が伴わなければ」の部分にメギロスが食いつき,この話題がしばらく続きます。

アテナイからの客人「節制が他のすべての徳から切り離され,ただそれだけが魂にそなわった場合,それは名誉なものと見られて正しいのでしょうか。それとも不名誉なものと見るべきでしょうか。」
メギロス「どう答えるべきか,わたしにはわかりません」
アテナイからの客人「ところが,そのあなたの答えこそ,まことに適切なのです。(略)名誉や不名誉の対象となるものにただ付随するだけのもの,そういうものは,言葉に出して言うべきではなく,言葉には出さず,黙っておく方がふさわしいのですから。」(696D)

節制とはそれ単独では意味をなさないが,徳や悪徳に付随してそれを増幅するものであると言われていると思います。『カルミデス』篇を思い出しました。

アテナイからの客人「では,わたしたちは言います。思うに,国家は,もしそれが人間の力に許されるかぎり安全に保たれ,幸福であろうとするなら,ぜひとも,名誉と不名誉の配分を正しく行なわなくてはならない。ところで,その配分の正しさとは,魂に属する善きもの――その魂には節制が伴う――が,最も貴いもの,第一位のものと見なされ,つぎには,身体に属する美しいもの,善きものが,第二位,さらに,いわゆる財産や金銭に属する善きものが,第三位,というように見なされることである。反対に,立法者にせよ国家にせよ,金銭をとくに重んじて名誉の地位に上げたり,あるいは,名誉の点で下位のものを上位に位置づけたりして,以上の順位から逸脱する場合には,その行ないは,神を敬うものでも,政にかなったものでもないことになるであろう。」(697A)

魂→身体→金銭,の順で名誉なものと言われます。
この後,「あまりにも民衆から自由を奪い去り,限度以上に専制的要素を持ち込み」などによるペルシアの凋落と民衆のモチベーション低下の様子も語られます。

アテナイからの客人「他方,アッティケの国制についても,つづいて同じような仕かたで,次のことを詳述しなければなりません。つまり,反対にいっさいの権威に縛られない完全な自由は,他者の権威に依存しながら適当な限度を守っている自由より,すくなからず劣っている,ということです。」(698A)

ということでペルシアの次は,その反対のアッティケの国制です。少し前にも引用しましたが,ペルシアの君主主義偏重に対して,アッティケの民主主義偏重が言われます。しかし「いっさいの権威に縛られない完全な自由」が,民主制として劣っているという意味なのだとしたら,やはり『国家』篇での民主制とは違う印象です。イデア的なものというより,やはりより現実的な印象です。
この後また,ギリシアがペルシアに攻められた歴史の話がしばらく語られます。

アテナイからの客人「ねえ,あなた方,昔の法律のもとでは,わが国の民衆は,けっして法律の主人ではありませんでした。むしろ,ある意味では,みずからすすんで法律に服従していました。」
メギロス「どのような法律に,とおっしゃるのですか。」
アテナイからの客人「まず第一に,当時の音楽に関する法律に,と申しましょう。もしわたしたちが,自由な生活の極端に増大してきたすがたを,最初から詳しく話そうとするのでしたらね。
それはこうです。当時わたしたちのもとでは,音楽は,それ自身のいくつかの種類や形態に分類されていました。歌の一種類に,神々に捧げる祈りがあり,それは賛歌 (ヒュムノス) という名称で呼ばれていました。(略) さらにまた,これらとは別の種類の歌として,まさに「ノモス」というこの名称で呼ばれるものもありました。もっともこれには,「竪琴に合わせて歌われる」という言葉がそえられていました。」(700A)

歌の種類として「ノモス」と呼ばれるものがあったと。ところで「ノモス」(νόμος) とは勿論法律のことでもあるので,「法律 (ノモス) の語源はこの歌で,ここで「竪琴に合わせて歌われる」と言われているように,そこから何かに「合わせる」,「守る」ものということで法律の意味になったのか?」と考えてしまうところではあります。が,ここでそう言われていないということは (思わせぶりではありますが),そういうわけではないのでしょう。

アテナイからの客人「ところが,その後時代がすすむにつれて,音楽のたしなみにそむいた違法を先導する者として,詩人たちが,――素質の面では詩人の才能をもってはいるが,ムゥサの定めた正しさや法規については無知にひとしい詩人たちが――生まれてきたのでした。彼らは,バッコスの狂乱にふけり,適度を超えて快楽のとりことなり,悲歌 (トレーノス) を賛歌 (ヒュムノス) に,アポロン賛歌 (パイオーン) を酒神歌 (ディテュランボス) に混合し,笛の調べを竪琴の調べで模倣し,ありとあらゆるものを互いに混ぜ合わせながら,無知ゆえにそれと気づくこともなく,音楽に関するこんな誤った意見まで主張したのです。」(700D)

秩序を壊す者として,詩人がまた悪者扱いされています (また,というのは『国家』篇での詩人追放論の印象が強いからですが)。しばらく前,682Aでは,ホメロスの詩を引用しながら「詩人はつねに真実に触れる」とありましたが…。

アテナイからの客人「こうして彼らは,このような作曲をし,それに類した歌詞をそえたりしながら,大衆のなかへ,音楽に関する違法と,充分な判定能力をそなえているかのような思い上がりを,植えつけたのです。その結果,劇場の観客たちは,あたかも自分たちが,音楽における美と美ならざるものとを熟知しているかのように,かつての沈黙から転じて騒々しくなり,かくて,音楽における「最優秀者支配制 」(アリストクラティアー) に代って,かの劣悪なる「劇場支配制」(テアトロクラティアー) が生じたのです。」(700E)

日本でも「劇場型政治」というものが言われて久しいと思いますが,ここの「劇場支配制」(テアトロクラティアー) という言葉はそれを想起させる部分です。尤もここは音楽について言われている場所ではありますが,この直後に「音楽だけであればさほど恐るべきものではないが,ここから万人のうぬぼれや法の無視が生じた」と言われます。そしてこれが,「自由」が発散する源であるということも言われます。
逆説的に言えば,自由を無条件に良しとする立場では,そういう「劇場型」もアリだということになるのかもしれません。しかしその帰結として何が生じるのか?(あるいは何も生じないのか?) と考えると,自由に「適度」が必要と言っているここでのアテナイからの客人の説は常識的なものに思えます。

クレイニアス「ほかでもありませんが,クレテの大部分が,ある植民をおこなおうとくわだてており,事の世話を,クノソスの人びとに委託しているのです。ところが,そのクノソス政府がまた,わたしのほか九人の者に,それを委託したのです。同時に政府はまた,法律についても,もしこのクノソスの法律でわたしたちの気に入るものがあれば,それを取り入れて制定するように,また,たとえ他国の法律でも,[気に入るものがあって] それがすぐれていると思われれば,他国のものであることに頓着せず,それを取り入れて制定するように,命じているのです。
こういうわけですから,さしあたり,わたしにもあなた方にもよいように,こうしてみてはどうでしょうか。これまで話された内容から選択して,いわば根本から建国するつもりで,言葉の上で国家を組み立ててみましょう。そうすれば,わたしたちにとっては,求めていることの吟味になるでしょうし,同時に,わたしはまたわたしなりに,その組み立て方を,将来の国家に役立てることもできるでしょう。」(702C)

ここで話はちょっとした展開を見せます。実はクレイニアスが,法律の起草をクノソス政府から委託されていると。それを踏まえて,今後また国家が「言葉の上で」建設されていくようです。『国家』篇第2巻と少し似た流れですが,どうなるのか。

第三巻のメモは以上。
ギリシア (やペルシア) の過去の国家の成り立ちから始まり,君主主義と民主主義の比較と,それらの適量が最善,という辺りがメインの内容だったかなと思います。まあ,ある意味,それを言っちゃあおしめえよというか,適度ということで一種の妥協をするというのは,「哲人王」と3つの比喩を引っ提げて最善の国制を追い求め,そこからの堕落という流れで種々の国制を論じた『国家』篇の勢いからすると,現実的というか「大人」な印象を受けました。
最後の最後で,クレイニアスによって実際に (実際にといっても本対話篇内部の話だと思いますが) 法律を作ることになっていると言われ,場面の転換になっています。正直,退屈な話が延々と続いてきていて読むのがしんどい,と思っていたところなので,少し面白くなるかな?と第四巻以降が楽しみです。

プラトン『法律』第二巻メモ(2)

プラトン『法律』(プラトン全集 (岩波) 第13巻) 第二巻を読んだときのメモ第二弾。

早速読書中にメモしたところを振り返ります。

アテナイからの客人「するととうぜん,不正な生活は,正しく敬虔な生活よりも,たんに醜く劣悪であるばかりか,じっさいは,はるかに不愉快なものともなるわけです。」
クレイニアス「少なくともこれまでの議論からすれば,そのようですね,あなた。」
アテナイからの客人「だが,たとえ事実が,いまの議論が明示したようではなかったとしても,多少ともなすところのある立法者が,若者のためによかれと思い,あえて彼らに多少の偽りを言う場合,これ以上に有益な偽りを言うことができるでしょうか。若者たちのすべてが,強制的にではなくみずからすすんで,すべての正しいことを行なうようにさせるのに,これ以上有力な偽りを言うことができるでしょうか。」(663D)

この辺りは,言っていることはなるほどという感じですが,会話の前後の脈絡があまりないような気がします。
次もセット。

アテナイからの客人「立法者がよく考察して見つけねばならないことは,ほかでもなく,なにを説得すれば国家に最大の善をなしうるか,ということなのです。またそれに関連し,万全の方策をも見出さねばなりません。いったいどのような方法をもってすれば,国家という共同体全体が,歌,物語,散文のいずれにおいても,生涯を通じてつねに,その問題に関してできるかぎり同一のことを口にするようになるかという,そのための方策をね。だが,これとは多少でも異なった意見をおもちでしたら,これに対して反論してくださって,いっこうに差しつかえありません。」(664A)

教育とは事実を教えるだけではない。「魂の向け変え」ということが『国家』篇で出てきたと思いますが,それを思い出しました。
しかし国家全体が,生涯を通じてつねに,同一のことを口にする…というのは今の感覚では明らかに社会主義的に思えます。最善のものは不変である,と仮定すればその通りなのでしょうが。

アテナイからの客人「では,老人から成る,この,わたしたちの国家の最善ともいうべき部分,それは年齢と思慮の点で,市民のうち最も説得力をもっている部分ですが,その部分は,いったいどこで,その最も美しい歌をうたえば,最大の善をもたらしてくれることになるでしょうか。いやそれとも,最も美しく,最も有益な歌に関するこの上ない権威ともいうべきこの部分を,わたしたちは,そうむざむざと放置しておいてよいでしょうか。」(665D)

飛ばしましたが,この前でムゥサ,アポロン,ディオニュソスに対応する3種の歌舞団として,(1)少年歌舞団,(2)30歳未満の者からなる歌舞団,(3)30歳以上60歳未満の者からなる歌舞団,があって,これらによって「最も楽しい生活と最も善い生活が一致することが神々によって語られている」と言われます。特に(3)の「老人たちから成るディオニュソスの歌舞団」について,どんな役回りなのかという疑問がクレイニアスによって呈されて,色々話されることになります。

アテナイからの客人「ではわたしたちは,彼らを心から歌に向かうようにさせるには,どのような仕かたで元気づければよいのでしょうか。次のような法律を立てるのが,よいのではないでしょうか。
まず第一に,十八歳未満の子供には,彼らが生活の労苦に立ち向かうようになるまでは,若者にありがちの激情的な性情を警戒させ,身心ともに,火に火をそそぐようなことをしてはならないと教えて,酒はまったく飲ませません。
つぎに,三〇歳までの若者に対しては,適度に酒を飲ませるが,酔っぱらうことや深酒は,かたくひかえさせます。
しかし,彼らが四〇歳に達した場合には,共同食事で食事をすませたあと,神々の名を呼び,わけてもディオニュソスを呼びよせて,老人たちのなぐさみでもある秘儀に臨ませるのです。というのも,その秘儀,―これはつまり酒のことですが―,それは,ディオニュソスが,老いのかたくなさに備える薬として,人間たちにあたえてくださったもので,そのおかげでわたしたちは若返り,あたかも火に入れられた鉄がそうなるように,魂の性格は憂いを忘れて頑固から柔軟となり,そのようにして,ずっと扱いやすくなるのですから。」(666A)

ということで,また酒が出てきました。「ディオニュソスの」歌舞団,というあたりから伏線はあったということになります。
ともあれ,ここでは善と楽しさ (快) の一致という流れで,善を広める力を持つが羞恥心がある年長者に楽しさを与えるのが酒,ということになるでしょうか。

アテナイからの客人「ところで,まず初めに,なんらかの楽しさが伴うものにはすべて,とうぜん,こういう事情が見られるのではありませんか。つまり,それの最も重要な要素は,まさにその楽しさそのものだけであるのか,あるいは,ある種の正しさがそれか,または三番目に,有用性がそうなのか,そのいずれかだということです。」(667B)

アテナイからの客人「さらにまた学問にも,楽しさ,つまり快楽が伴っていますが,しかし,その正しさや有用性,善さや立派さをつくり上げているものは,真実性なのです。」(667C)

学問に快楽が伴う,というのはもうすこし詳しく聞きたいところではありますが…。またこの前後には食物,模写の例もあり,それらの場合には,例えば食べる快楽とは副次的なもので,有用性を持つのは食べ物に含まれるものである…といったことが言われます。

アテナイからの客人「そうなると,快楽という尺度で判定されて差しつかえないのは,こういうものだけではないでしょうか。有用性も真実性も類似性も生み出すことなく,また,もとより害をもたらすこともなくつくり出されるもの,いやむしろ,それら (有用性,真実性,類似性) に付随する楽しさ,ただそれだけを目的として生じるもの,そういうものだけではないでしょうか。もしその楽しさに,以上のどれ一つも付随しないときには,これを快楽と名づけるのがいちばんよいでしょうね」(667D)

少しわかりづらい…。前に具体例として挙げられた,食物,学問,模写などは,有用性,真実性,類似性という「良さ」があるので,それは付随する楽しさで判定すべきではない,ということになるのでしょうか。
自分がここで連想したのはゲームです。上記引用の後にも,その快楽が害にも益にもならないものを遊戯と言う,とも言われていますが,まさに快楽を尺度にするのに相応しいのがゲームだという気がします。まあゲームにも歴史を学べたりするもの (学問?) とか感動する RPG (模写?) とか色々あり,ここで引き合いに出せるのはスマホでやる単純なパズルものなど,割と限定されるかもしれません。

アテナイからの客人「すると,今言われたことから,こんなふうに言ってもいいのではないでしょうか。およそいかなる模倣にしても,けっして快楽や真ならざる思わくを尺度として判定されるべきではない,―さらにつけ加えれば,いっさいの「等しさ」もまた同様である,とね―。」(667E)

アテナイからの客人「むしろ,いっさいの模倣は,なによりもまず,真実を尺度として判定さるべきであって,断じて,それ以外のものによってではありません。」
クレイニアス「まったくそのとおりです。」
アテナイからの客人「ところで,音楽はすべて,模倣や模写の技術だと言うのではありませんか。」
クレイニアス「そのとおりです。」
アテナイからの客人「そうすると,音楽は快楽を尺度として判定される,と主張する人があっても,けっしてそのような説をうけいれてはなりませんし,また,かりにそうした音楽があったところで,けっしてそれを卓越したものと見なして,探し求めたりしてはなりません。むしろ,わたしたちの求めるべき音楽は,美の原像との類似性を,よく保存しているものでなくてはならないのです。」(668A)

プラトンは「模倣」をテーマにするのが好きなようで,『国家』第9巻などは印象的です。それでも音楽は模倣,と言われるといつも違和感がありますが…。楽譜とか原曲通りに奏でること,という意味でもないのでしょう。プラトンに慣れている自分としては,何か感動する音楽があるとして,「そのまさに感動する部分」(←美の原像?)をどのくらい含むのか,ということを「類似性」と言っているのではないかと読めます。ただこれを恣意的に設定することが想像できるので,先に書いた違和感になってくるのでしょうか?
ただこれはプラトンの意図とは違うかもしれません。模倣するものとしては,この後にも挙げられるように,リズムや旋律を (善いとされる音楽に) 似せる,という具体的なものが想定されているっぽいので。

アテナイからの客人「こうしたやり方はすべて,敏速,技巧,動物的音声を愛好するあまり,笛や竪琴の音を,踊りや歌の伴奏以外においても用いているわけで,きわめて粗野なものであると。けだし笛,竪琴,いずれにせよ,歌い手ぬきで,ただそれだけを用いるというやり方からは,音楽の教養とはまったく関係のない,金銭目あての巧妙さが生まれてくることになるでしょう。」(669E)

かなり省いていますが,模倣,特に音楽の模倣について長く言及しています。引用した部分では,歌がない音楽を否定している?
この後の部分でも,音楽の「正しさ」の認識の重要さを説きます。「正しさ」というのは,「正当」という意味ではなくて「正統」という意味であるなら,模倣というのも正統性を保つという意味で,理解はできるような気もするのですが,「それがいかに立派につくられているか」(669B) ,これは正当性と言えると思いますが,も分からないといけないと言われています。

アテナイからの客人「どうやらここで,わたしたちは再び,あのことを見出しているようです。つまり,今しがたもわたしたちが元気づけ,また一種の方法をもって強制し,自発的にうたうようにさせているかの歌い手たちは,その一人ひとりが,リズムの歩みや旋律の調べに歩調を合わすことのできる程度までは,音楽教育をうけていなくてはならない,ということです。」(670C)

アテナイからの客人「さて,初めにこの議論が目的としたことは,ディオニュソス歌舞団のための弁護の正当性を立証することにあったわけですが,それは力のかぎり話されました。そこで,それがそのとおり成功していたかどうかを調べてみようではありませんか。
思うに,そういう集会は,いつものことながら,酒が進むにつれて,きまって騒がしくなるものです。それとてしかし,今話題になっている集会ではやむをえぬことだと,わたしたちは初めに前提しておきました。」(671A)

ということで,前に言われていた「老人たちから成るディオニュソスの歌舞団」の教育,なかんずく,酒の力を借りると言われていた点について振り返りが始まります。

アテナイからの客人「わたしたちはまた,こうも言いはしなかったでしょうか。そういう状態になると,酒を飲む人たちの魂は,まるで鉄か何かのように灼熱して柔軟にも若々しくもなるから,したがって,教育や形成の能力とそのすべを身につけた人にとっては,その人たちの指導は,彼らが若かった頃と同じように,容易に行われるのだと。」(671C)

さすがに無茶苦茶だと思いました(汗)。確かに,頑なさを和らげ若々しくなるというのは多少分かりますが,それが教育のため,「正しさ」を身に着けるために役立つと言われると…。マイナス効果の方が大きそうな気がしますが。

アテナイからの客人「酒宴に関する法律を制定するのも,その人の仕事でなくてはなりません。それは,その酒宴の席にある者が,期待にあふれ気が大きくなり,度を越して恥知らずになり,また,沈黙,会話,飲酒,音楽などの順序も,それを交互に行なうことをも守ろうとしなくなると,万事それと反対に振舞う気持をおこさせる法律なのです。そして,そういう感心できぬ大胆さのきざしがあらわれるや,これに戦いを挑むきわめて立派な恐怖,わたしたちが慎みとも羞恥心とも名づけたかの神的な恐怖を,正義の力をかりて,直ちに送りこむことのできる法律なのです。」(671C)

酒のマイナス面を法律によって抑え込む,という恐ろしい発想に思えます。まあここでいう「法律」が不文律的なものを指すのなら,現代でも通じているという気はしますが,「羞恥心という恐怖を,正義の力をかりて送り込む法律」と言われると思想弾圧的なものに繋がりそうに感じさせます。

アテナイからの客人「では,この体育という遊戯の起源もまた,すべての動物が,生まれつき跳びはねる習性をもっていることにあるのです。ところが人間という生きものになると,すでに言ったように,リズムの感覚をそなえているところから,踊りを生み出したのです。他方,[歌の]旋律がまたそのリズムを思い出させ目覚めさせるので,その両者が互いに一緒になって,歌舞としての遊戯を生んだのです。」
クレイニアス「まったくそのとおりです。」(673C)

教育とは音声に関わる部分 (音楽),身体の運動に関わる部分 (体育術) に分かれる,と言われ,今までは前者について詳しく論じたので,今度はぜひ後者をと言われて,話されることになります。
…が,実際には上記引用のあと,忽ち次の飲酒についての仕上げに入ってしまい,身体の運動に関わる部分は全然話されません。どこかテキスト自体が不完全な印象を受けます。

アテナイからの客人「では,もしあなた方お二人さえよろしければ,まず酒の酔いの扱い方について,最後の仕上げをしようではありませんか。」(673D)

アテナイからの客人「もしある国家が,今言われた飲酒のしきたりを真剣な問題と見なし,節制をわきまえるための訓練にする意味で,法律と秩序を守って行なうなら,また,その他の快楽に関しても,同様に同じ原理で,快楽に打ち勝つための方法と見なしてそれを回避しないようにするなら,それらのいっさいを同じ方法で扱わねばなりません。
しかし,もし国家が,その風習を娯楽と見なし,誰でも飲みたい人は,飲みたいときに,誰であれ飲みたい相手と一緒に,飲むことが許されているとするなら―その他酒以外のどんな風習の場合も同様ですが―,わたしは,そういう国家やそういう個人が飲酒に親しむべきであるということには,賛成投票をしないでしょう。むしろクレテ人やラケダイモン人の慣例どころか,カルケドン人の次のような法律に賛意を示すでしょう。」(673E)

ということで酒についての仕上げです。「カルケドン人の法律」というのは,直後に言われますが飲酒についてかなり厳しい制限を課すものです (軍役に服している時はいかなるときも飲んではいけないとか,官職にある者は在職年間は飲んではいけないとか)。
特に目新しい内容はなく,飲酒を一種のテストとして,法律によって制限するということが言われます。

第二巻は以上で終わります。
対話に起伏がなく,淡々と進められる感じで,読むのが退屈に感じられたのがこの巻だったというのが率直な感想です。また最後の方で,音楽について語り終えた後で,「もう半分」の体育術について語ると言いながらあまり語られずに終わったのは違和感を感じました。