2024年4月1日月曜日

日本語が通じない英語学校の日本人スタッフ

 気がついたらもう4月。申し訳ないことに、久しぶりの更新かつ新年度早々の投稿は、とってもネガティブなお話。今日はエイプリル・フールの日なので、嘘でも書いたんじゃないかと思われそうですが、嘘だったら良かったのに...というような出来事。

遡ること3週間。先月(2024年3月)初旬から我が家のゲストハウスを、近所の英語学校に短期留学する日本人の生徒さんに貸し出すことになりました。日本は春休み。この時期に高校生や大学生の方々が増えて、学校の宿泊設備のキャパを超えてしまうから。

この日本人経営の英語学校は、コロナ禍前からのお付き合い。経営者のYさんと知り合って、もう6〜7年越しになります。コロナで一旦は撤退したものの、昨年からここネグロス島シライ市内も戻られて、我が家から徒歩15分ほどの場所の商業ビルのワンフロアを使って業務再開。ピーク時には外部の宿泊施設も借りるほどの盛況というわけです。

ここまでは私にとっても良い話で、臨時収入にはなるし、若い日本人の方々と接点ができて刺激にもなる。学生さんは3名で、一人学校側から面倒見役の女性スタッフが来るとのこと。トラブルの元になったのは、このスタッフ。

20代で、就職して数年の日本の会社を辞めてネグロス島へ。仮にAさんとしておきます。Aさんは学生に先立って前夜からゲストハウス入りというので、大慌てで大掃除。自分で言うのも何ですが、2LDKで家具や食器、家電製品付き。片田舎のシライ市にあっては、日本での宿泊と大差のない居心地だろうと思います。加えて庭も含めて念入りに掃除を済ませて待ってました。

ところが待てど暮らせどAさんは来ない、連絡もない。まるでダメなフィリピン人メイドさんみたい。翌日やっと来たと思ったら、ヘソ出しルックの短パン姿でお出まし。別に就活ではないのでスーツで来いとは言いませんが、この後空港に生徒さんを迎えに行く仕事があるはずなのに。私は上司でもないので黙ってましたが、この第一印象での違和感は、不幸にも勘違いじゃなかったことが明らかに。

そして空港から学生さんが到着し、順調な滑り出しのはずが、いきなり夜間のゲート施錠忘れ。裏庭に建てられたゲストハウスは、建物としては母屋と完全に独立しているものの、同じ敷地内でこちらのゲートから母屋の庭に入ることもできる作り。なので当初は、鍵の開・施錠は私でやろうと思ったんですが「責任をもって管理します」と言うので任せてました。それがこの結果。

追い討ちをかけるように、翌日も施錠してなかったし、さらに昼間は落とし金具も横バーもしないから、季節風に煽られてゲートがフルオープン状態。外から敷地内まる見えで、不審者でも野良犬でも入りたい放題。

どうやら根本的に、フィリピンの治安のレベルが理解できないらしい。ガードマンのいるビレッジ(宅地)内で、長閑で平和に見えるものの、実際に泥棒被害(大した物ではないにせよ)はあったし、狂犬病のリスクだってあります。

もちろんその都度、注意はしてたんですよ。言葉を選んで紳士的に。ところが困ったことに日本語が通じないのか、あるいは異次元の解釈をしているのか、まったく改善の兆しが見られない。別にそれほど難しい事をお願いしてるわけじゃないんですけどね。

さすがに1週間この状況だったので、経営者のYさんに直訴。日本人同士で言葉が通じないようなので、人を代えてくださいと頼んでみました。確か、もう一人インターンの方がおられました。それが無理なら、せめて私に門扉の開閉と鍵の管理を任せてくださいと。

まぁ人は代えられないというのは仕方ないにしても、頑ななまでにスタッフによる管理にこだわって、深夜零時の門限の提案も却下。というのは生徒さんの夜遊び黙認で、午前様の3時頃帰宅ということがあったんですよ。

約1時間弱の話し合いの結果、鍵を学校側が用意するナンバーボタン式のもと交換し、今後は責任を持って(こればっかり)施錠時には鍵が閉まった状態のスマホ写真を、メッセンジャーで関係者と共用する、という対応に。

さてこれで一件落着かと思ったら、舌の根も乾かぬうちに、またもゲート開けっぱなし再発。たまたま見つけたメイドさんが、びっくりして言いに来ました。つまりフィリピン人でも驚く不用心さ。あの話し合いは何だったんでしょうか?

とうとう堪忍袋の緒が切れて、件のスタッフさんに歯に衣着せぬ言葉で注意。それでも怒鳴りつけたり感情的にならないよう自制したんですが、言うに事欠いて「私も暇じゃありませんから」「元々、貸し出すべきじゃなかったんでしょう。」だって。まぁ門扉の建て付けが悪くて、暑いと膨張して外からは閉めにくくなることはありましたが、そんなの私に一声かけてくれれば済む話。ここまで相互理解ができないと、もう出て行ってもらうしかありません。

実は、これだけではなく、室内のドアノブは二つも壊してくれるし、備品の水タンクのキャップを勝手に不要と思い込んで捨ててしまうし。洒落にならなかったのは、体調不良で寝込んでた女子高校生の生徒さんを、半日も一人にしていたこと。こちらには何の連絡もなかったので、もし母屋も留守にしてたら、病人を門扉が未施錠の状態で放置するところでした。

結局、3週間の予定が半分の10日ほどでレンタルハウスはおしまい。追い出した格好になったので、宿泊費も電気・水道代も頂けません。元々、相場の半額ぐらいの良心的な価格だったんですけどね。一応、移動先の手配も考えて「すぐ出て行け」じゃなくて、24時間の猶予は与えたものの、生徒さんには悪いことしてしまいました。とは言え、ストレスで、以前の鬱病の時みたいに、胸の圧迫感や神経性と思われる腹痛が出始めたので、もうこっちもいっぱいいっぱい。今にして思えば、彼女の口からは一度も「ごめんなさい」とか「すみません」という言葉は聞かれませんでした。

ということで、ストレスの元凶が視界から去って、体調は戻ったものの、良好な関係を保っていたはずの英語学校のYさんとは、行き掛かりながら絶縁となってしまったのは、とても残念なことでした。あ〜あ。


2024年3月12日火曜日

差別の話

 この何ヶ月か、たまたま差別に関する話が私の耳目に触れたので、今日は、それについて考えたことを書いてみます。

当たり前のことながら、人種、出自、心身のハンディキャップ、性別、性的志向などなど、どんなことでも差別は絶対にダメです。「それは差別じゃなくて区別だ」なんて屁理屈をコネたってダメなものはダメ。判断するのは簡単で、自分がその当事者だったらどう感じるかを想像してみればよろしい。

日本のように、比較的似たような顔つきで、一応は標準日本語を理解する人が多い国では、白人と黒人、あるいはアジア人との間にある深い溝は、実感として分かりにくいかも知れません。それでも、中国・韓国系の人たちに対する根深い嫌悪や偏見は無くならないし、被差別部落やジェンダーなどなど、厳然と差別は存在します。

それを図らずも顕在化させたのが、今年(2024年)1月のミス日本選出にまつわる一連の騒動。いろんなメディアで報道されたので、ご存じの方も多いでしょう。グランプリに輝いたのが、ウクライナ人を実の両親に持つ、椎野カロリーナさん。確かに見た目は白人女性。ただし父母が離婚し、母親の再婚相手が日本人だったことから、幼少時に日本に移住し帰化。日本語も普通に話されます。


出典:New York Post

さらにミス日本に応募しようというぐらいですから、とびきりの美人さん。美しさを競うコンテストで日本国籍を有する美人が選ばれたんだから、外野が騒ぐようなことではないはずが、批判的な意見...というか完全なやっかみが集中。案の定「純日本人ではない、ハーフですらない云々」なんて馬鹿げた言い草。

そもそも今日本に住んでる人々って、その多くがモンゴルやシベリア、中国・朝鮮半島、あるいは東南アジアや太平洋の島々からの渡来人の末裔。間違いなく全員が雑種。結局のところ日本人の定義は、国籍の有無しかないはずなんですよ。この件に関しては、どんな理屈をこじつけても、ルッキズム(外観至上主義)以外の何物でもありません。

特に在外邦人で、配偶者がフィリピン人、子供がそのハーフという私にすれば、否応なく考え続けてきた問題。それだけではないにしろ、息子がフィリピン人の母を持つことを理由に、謂れなき差別やいじめを受けることが心配で、フィリピン・ネグロス島に移住したとも言えるぐらい。

有難いことに、このフィリピンの片田舎では、日本人だからと、差別的な扱いを受けたことはありません。息子に訊いてみても無かったとのこと。ただそれは、永年に渡る日本政府からの国際援助や、最近のアニメやマンガの影響で形成された、良好な対日感情によるところが大きい。加えて、元々マレー・インド・中国・スペイン系など、いろんな顔つきの人がいますからね。

もちろんフィリピンにだって、私たちが直接被害を受けていないだけで、差別はあるでしょう。例えばムスリムや少数民族への偏見や、絶望的なまでに大きい貧富の差など。差別が皆無のユートピアなんて世界中どこに行っても見つからないと思います。

そして先日の米国アカデミー賞の受賞式での出来事。昨年(2023年)に、主演女優賞と助演男優賞に選ばれたマレーシア出身のミッシェル・ヨーさんと、ベトナム出身のキー・ホイ・クァンさん。このお二人が慣例に従って、今年の同賞の受賞者に黄金のオスカー像を手渡すプレゼンテーター。その受け渡しの際の、二人の白人受賞者の態度が失礼だったと話題になっています。

主演女優賞のエマ・ストーンの場合はちょっと微妙ながら、助演男優賞のロバート・ダウニー・jr.は、キー・ホイ・クァンさんと目も合わさず握手も謝辞もなし。さすがにこれはアカんでしょう。たとえ心の中にアジア人嫌悪があったとしても、仮にも演技のプロなんだから最低限の礼儀と感謝は表現すべき。ヒット作で演じているスーパーヒーロー役が、イメージダウンも甚だしい。

ちなみにツイッターで、欧米に住む邦人の投稿によると、白人からこんな態度を取られるのは決して珍しいことではないらしい。19世紀や20世紀初頭の暴力的人種差別ではないものの、まるでその場にいないかのごとく無視されたり。配偶者の家族からも日常的に同様の仕打ちを受けている人もいるぐらい。

正直なところ、私にだって心の奥底には、一部のフィリピン人への差別的感情がないかと問われれば、絶対に無いとは言い切れません。それどころか、同世代の日本人男性に対しても偏見を持ってしまうこともあります。問題は、それを態度や言葉に出すか出さないか。一番タチが悪いのが、自分でも気づかないまま差別的言動を取ってしまうことでしょう。これは本当に気をつけないといけません。



2024年3月1日金曜日

花粉症ならぬシダ胞子症?

 うっかりブログ更新サボってたら2月が逃げてもう3月になってしまいました。1年の1/6が終わっちゃったんですね。相変わらず光陰矢の如し。今年は閏年で1日多いんですが、まったく何の突っ張りにもなってない感じ。

さて、最近のフィリピン。またもや強烈なエル・ニーニョが起こっているらしく、米生産の落ち込みが懸念される状況。すでに、ベトナムを始めとする東南アジア各国からの米輸出の増強を計画中、という報道も入って来てます。ここネグロス島でも、まだ旱魃という感じではなく、時折の夕立ちがあり、曇りがちだったり小雨の日があるものの、やっぱり日差しが強くなってきて、乾季を先取りしたような天候が多い。

そんな晴れて空気が乾いた日に、なぜか花粉症のような洟水やくしゃみに悩まされている私。ちょうど日本もスギ花粉の飛散が真っ盛りなのは、SNS経由での日本の知人・友人の投稿で知ってます。まさかそれとは関係ないだろうし、こっちの薬局で処方箋なしで買えるデコルジェンという薬でかなり楽になるので、生活に支障が出るほどではありません。ただ、やっぱり服用すると眠くなるし、こんな鬱陶しい症状はないに越したことはない。

実は、日本では花粉症を発症していなかったのに、フィリピン移住後も時々こうなる。今まではてっきり、ネグロス全島を覆い尽くすように栽培されているサトウキビ、その焼畑の煙が原因だと思ってました。ところが数日前、どうやら真犯人らしきヤツの正体を垣間見る出来事が。

発端は昨年末から始めた庭いじり。自分でも何とも爺い臭いというか、年相応とも言えるんですが、そもそもは私ではなく家内の趣味。コロナ禍で外出の機会が減ったので、植木を相手にしたわけです。これは家内だけでなく、周囲の友人や親戚も植木に凝る人が増えました。

まぁそれは良いとして、元来、部屋の片付けとか整理整頓が苦手な家内。案の定、どんどん数を増やして株分けしまくって、気がついたら庭中が「緑の魔境」状態。整然と並んでいれば、緑が多くてリラックスできるんでしょうけど、高温多雨の熱帯気候。場所によっては足の踏み場のないカオス。

ついに我慢できなくなって、鉢植えからはみ出した植物を花壇を作って植え替えたり、ものすごい繁殖力で、ジャングルに戻ったような熱帯植物を大伐採。メイドのグレイスおばさんの協力を得て、裏庭に繁茂したシダの群落をデッカい植木鋏で片っ端から刈っていると、何やら茶色い粉が舞い上がりました。これがシダの葉の裏側に蓄えられていた胞子。

粉の舞い方が、映像でみるスギ花粉にそっくりで、ひょっとしてヤバいかも...と思ったら、その日は、いつになく激しいくしゃみ。24時間で限度の3回もデコルジェンを服用するハメに。翌日は、マスクと帽子着用で、残ったシダを親の仇のように全部刈り上げたら、しつこかった洟水がほぼ収束。やっぱりお前が犯人やったんか?


シダの胞子
出典:Adobe Stock

ネットで調べたら、シダの胞子ってアレルギーを引き起こしやすいものとのこと。もちろん病院に行って検査したわけではないので、焼畑の煙説も否定できないけれど、ここまでタイミングがぴったりだと、断定してもいいように思います。今にして思えば、庭のシダが大繁殖したのと、くしゃみ・洟水が頻繁になったのは、だいたいシンクロしてたし。

ということで、見てくれだけではなく、自分の健康のためという大義名分を得たので、もうしばらくは、私の庭いじりが続きそうです。



2024年2月12日月曜日

アクシデント三連発

 週末金曜日の2月9日は、春節で全国が休日となったフィリピン。それも過ぎてもうすぐバレンタイン・デーという今、やっと今年(2024年)2本目の投稿です。前回は、ネタが無くなってきたので「週刊」にしようかなんて書きましたけど、どうも「月刊」すら怪しくなってきました。正直に言うと、無くなってきたのはネタよりも集中力なんですよね。

このブログだけでなく、リアルの生活でもあちこちで言いまくっている、自分の還暦について。やや白髪が目立ち始めたものの、まだまだ毛染めの必要がない頭髪と、日々の自転車漕ぎや筋トレのお陰で腹が出てないせいか、ここフィリピンにあっては、20年はサバを読める年齢。でも六十余年の歳月が過ぎ去ったのは厳然たる事実のようです。

やっぱり、50代以前と同じ体力ではないので、何をやっても長めの休憩が不可欠。自分で料理して食事を終えると、つい横になってしまって寝落ちもしばしば。気がつくとブログを書く時間もやる気も失せている始末。

フィリピン移住以来の趣味であるイラスト描きと、コロナ禍の外出禁止が契機で始めたボイス・トレーニング、週一のイロンゴ語レッスン及び宿題準備もあります。そして前述の筋トレなどは続いているので、今までがやることが多過ぎたのかも知れません。まぁ、ついSNSやネットフリックスで時間を溶かしたりしてるのも、大きいんですが。

実は、体力や集中力だけでなく、昨年末にはマジで年齢を感じる出来事が連続しました。と言うのは、転倒二回に調理中の怪我が一回。

最初は自転車。何もないところで転んだのではなく、近所の家で放し飼いにされている犬が2頭。朝、私が機嫌良く自転車漕いでると、こいつらが突然吠えながら追いかけて来たんですよ。ただの威嚇なのは分かっていて、そのままやりすごせば良かったものを、ついカッとなって急反転して逆に追いかけてやろうとしたら、バランスを失って派手に転倒。左の肘と膝を擦りむいてしまいました。病院に行くような怪我ではなかったものの、擦過傷ってなかなか治らず、完全にかさぶたが取れるまで3週間ぐらいかかりました。

その後、イロンゴ語レッスンで、家庭教師のバンビに「犬に吠えられて自転車でコケた」と言ったら「狂犬病の予防注射はしましたか?」と真顔で心配されてしまった。もちろん犬に噛まれたのではないんですが、ちょっと話を端折りすぎましたね。

次に転んだのが寝室。最近小用が近くて、時々まだ暗い時間に目が覚めてトイレに行くことがあって、その日も午前3時頃にゴソゴソ起きだしました。いつもと違ったのは、ズボラして枕元の灯りを点けなかったこと。そしたら寝床に戻る際に蹴つまずいて、ベッドサイドに置いたキャビネットの角っこに顔面を強打。まるでパッキャオのパンチを喰らったように、頬骨のあたりから出血して、痛みのあまりそのまましばらく、うずくまるほど。

仕方がないので家内を起こし、赤チンを塗ってもらいました。恐る々る鏡を見たら、案の定そこには、負け試合直後のボクサーが。朝になっても痛みがひどいようなら、病院行きかと心配しましたが、幸いただの打撲で済んだようです。ただ、軽く眼底出血したようで、明るいところで蚊が飛んでいるように見える「飛蚊症」状態。これも次第に薄くなって、今ではほとんど気にならなくなってます。

そして最後が、調理中の怪我。最低でも月に一回は作っているお好み焼きで、キャベツを刻んでいる時のこと。これもいつもと違って、日本のアマゾンで買って配達してもらった新しいピーラー(皮むき器)のデビュー。すごく切れ味が良くて嬉しがってキャベツの千切りを量産中、キャベツを持っている方の手の小指が刃先触れてしまいました。

これが、ほとんど痛みを感じなかった割には、自分でも驚くほどの出血。大急ぎで洗浄して、バンドエイド二枚で止血。そのまま調理は続けましたが、後になってジンジンする痛さ。傷口は小さくて目立たないほどなのに、相当深く切っていたらしい。ただ、擦過傷と違って、数日で傷は塞がりました。

というわけで、いろいろ痛い目にあったので、今年の抱負は「無理をしない」に決定。それでなくても医療面で不安材料の多いフィリピン。いくら若く見えても、不注意からの怪我や病気は避けた方が吉。フィジカルな面だけでなくメンタルも同様。旧正月も早々に、言い訳から入ってしまいました。でもこのブログは、もうちょっと頻繁に更新しますね。1ヶ月以上も放置したので、一応ネタはいくつかありますので。



2024年1月4日木曜日

フィリピン・パナイ島の大停電

 遅まきながら、新年明けましておめでとうございます。

最後に更新したのが昨年の12月14日。かれこれ3週間の放置になってしまいました。一旦間が空いてしまうと、なかなか再開できないんですよね。今年はもう「週間ネグロス島移住日記」にしようかと思ってます。本当に毎日書いてた時期もあったんですが、さすがに10年以上になるし、生活スタイルも安定し切っているので、そうそうネタもないんですよね。

それにしても日本では、年明け早々から地震に飛行機事故。これは驚きました。ここフィリピンでもテレビやネットで大々的に報道。久しぶりにNHKワールド付けっ放しでテレビの前に釘付けになりました。

通常は、アナウンサーもスタジオも海外向けの英語版なんですが、この手の大災害の場合は、日本国内向けの放送が同時通訳付きで配信されます。なのでネットで話題になった、アナウンサーの意図的な感情的で命令・断定口調のアナウンスが背後に聞こえておりました。これも驚きましたね。東日本大震災時の教訓からということで、確かに遠く離れたフィリピンにいても「これはタダ事ではない」感がひしひしと伝わってきて、ちょっと怖かったほど。

そして立て続けの羽田空港での日航機炎上事故。こちらはNHKではなく、たまたま家族が見ていたCNNフィリピンのニュースで知りました。燃えながら着陸する旅客機の映像はあまりにショッキング。でもすぐに乗員乗客が全員脱出との報が入り胸を撫で下ろしたり。その時はまだ海上保安庁の飛行機の乗員についての情報がなく、後になって6名中5名が亡くなり、地震のあった能登半島への救援物資を運んでいたと知りました。実に辛い話ですね。

さらに、これまたネットで騒ぎになった、日航の事故に関する記者会見。普通これだけの事故で乗客を無事避難させたんですから、まずは驚きや賞賛があって、日頃の準備や訓練について深掘りするはず。ところが大手新聞の記者からは、まだ調査も始まってないのに、糾弾じみた質問がばかりだったらしい。おそらく記者たちの頭の中には、まずセンセーショナルな見出しがあって、それに沿った言質を取りたいということなんでしょうね。日本の新聞が軒並み発行部数を減らしているのも、然もありなんという気がします。

それに比べて、ここフィリピンでは例年通りの正月を迎えて...と書きたいところなんですが、1月2日、私たちの住むネグロス島の隣島パナイで、大規模な停電が発生。数時間程度の局所的停電はブラウン・アウトと呼ばれ、多い時には、1ヶ月に数回程度はあります。ところが今回は、広域停電のブラック・アウト。しかも24時間以上も続き、これを書いている1月4日午後も全面復旧には至らず、パナイ島の学校は臨時休校。数百万もの人々に影響が出ていることを考えると、地震や航空機事故に匹敵するインパクトです。


エアコン・扇風機が使えないため
屋外で涼むパナイ島イロイロ市民
出典:ABS-CBN

ここネグロスもまったく影響がなかったわけではなく、停電が始まった時間帯には、突発的な電圧の低下がありました。完全な電力停止まではいかなくても、照明が急に暗くなったり扇風機の回転数が落ちたり。しばらくの間は、いつ停電になるのかとヒヤヒヤ。

厄介なのは、複数の発電所が停止したことの原因が、まだ分かってないこと。西ビサヤのリージョン(日本の近畿や関東のような「地方」に相当)レベルの大停電なので、原因究明できてないということは、ひょっとするとネグロスにも波及するかも知れません。台風や地震があったわけでもないのに、勘弁してほしい。

ということで、気分的には暗くなりがちではありますが、1月2日には、家内が早々の初出勤で、3日からは息子も元気に高校へ登校。今シーズンは二人ともクリスマス前から休みだったので、ほぼ10連休。やっとそれが終わって、私の弁当作りも通常運転に戻りました。12月の一時的な天候不順もすっかり回復し、安定した乾季の夏空が続くネグロス島の年始です。



2023年12月14日木曜日

お試し介護移住 その4「誰にでもお勧めではないけれど」

 これまで3回に渡って投稿してきた、両親のお試し介護移住シリーズ。今回は最終回です。

いろいろあった15日間のフィリピン・ネグロス島滞在ですが、通しで見ると、まぁ上出来だったと思います。暑さには少々文句も出ましたが、父母のために用意したゲストハウスは、居心地が良さそうだし、食事も特に問題なし。毎日、お気に入りの嫁や孫と話ができて、若干の認知症気味の母も、明らかに表情が豊かになり、笑顔が増えました。これは私の感覚だけでなく、日本から付き添ってきた弟もそう思ったようです。

滞在中、たまたま家内の誕生日が重なり、例によって親戚を招いてのホーム・パーティ。ある程度の予想はしてたものの、家内の父、弟とその家族、叔母、従弟、誰もが母を見る目の実に優しいこと。特に比較的年齢の近い、70代の叔母には、数年前に夫を亡くしているせいか、母の食事の介助をする父の姿が、何とも微笑ましく見えたらしい。

ちなみに、一日だけ州都バコロドに出掛けて、外食やショッピングをした際に使った車椅子は、従弟のパウロが手配してくれました。彼は本職の看護師なので、そういう分野でも頼りになります。また、レストランやショッピングモールでも、店員の対応がとても手厚い。やっぱりフィリピンの良さは、なまじっかのお金を持っていたり、若くて元気な時より、他人の助けが必要になってから、実感しますね。

そんなこんなで、帰りの飛行機も遅延や欠航もなく、往時と同じく家内が同行して無事帰国。その家内も、数日の日本観光を楽しんで、12月の始めにネグロスへ戻ってきました。心配していたマニラでの乗り換えもスムーズだったとのこと。

さて、80代になってからの海外移住。一般論としては、もちろん誰にでも勧められるわけではありません。まず、飛行機に乗ることすらできないほど認知症が進んでいたり、完全に寝た切りになってからは、まず無理でしょう。そして、本人たちがそれを望まないことには、何も始まりません。

事の経緯をまったく知らない人からすれば「そんな高齢の日本人が海外移住なんて不可能」と決めつけそうです。実際、この話を日本でしたら、大抵の人はそういう反応。それどころか、高齢者ではない普通の海外移住でも、足下に「不可能」と断じてしまう人が多いのも事実。私も40代の頃に、散々言われたものです。かつての上司など「出来もせんことを吹聴するな」と怒り出したほど。

しかしながら、少なくとも飛行機に乗るぐらいの体力が残っていれば、いくつかの条件をクリアすることで、日本よりも快適な余生を送れそうというのが、今回のお試しを通じての私の感想。

快適な住まい、食事、介護する側との良好な人間関係さえなんとかなれば、寒い冬がなく、社会全体として高齢者に優しいフィリピンは、老後を過ごすには悪くない場所。もちろん経済的な裏付けは重要ですが、現在70〜80代で、それなりの年金を貰ってる世代なら、少なくとも物価の安いネグロス島なら大丈夫。

唯一のリスクは、容態が急変したような場合。残念ながら、生死にかかわるような状況だと、日本には比ぶべくもないフィリピンの医療レベル。両親の場合は、もう十分に生きたから、延命治療など不要と明言しているので、その点は「これも寿命」と割り切れます。そもそも、お金がかかりすぎて、植物状態で生かし続けるなんでできないでしょう。

というわけで、まだ詳細な時期は未定ながら、おそらく来年2024年には、両親の本格移住という運びになりそうです。



2023年12月11日月曜日

お試し介護移住 その3「やっぱりストレス」

 前回からの続きで、両親の介護移住について。

お陰さまで無事、日本からフィリピン・ネグロス島の家に到着した父母。かつて住んでいた日本の実家を再現した、一戸建ての2LDKも気に入ってもらえたようです。再現したとは言え間取りのみなので、木造の安普請だったオリジナルに比べると、鉄筋コンクリートだし天井も高め。建築が仕事の父は、すぐに意図を理解しましたが、それでなくても認知能力がやや下がり気味の母は、イマイチ分かっていないらしく「えらい豪邸や」と感心するのみだったのには、一抹の寂しさ。

さて、住まいに関しては、一応の合格点だったと思いますが、問題は気候や食事、その他の細々とした日常生活について。

寒くなってきた11月の日本から、日中の最高気温が普通に30度を超えるネグロスだし、飼い犬のゴマは無駄吠えが多い。体調崩すんじゃないか、眠れないんじゃないかとの私の心配を他所に、二人ともよく食べるし、睡眠も問題ない様子。もちろん80代の後半なので、食べる量は大したことはないけれど、肉・魚・野菜。皿に取った分はきれいに平らげ、好き嫌いがないのは助かります。さすが子供の頃に食糧難を体験した昭和十年代生まれ。

まぁ食事に関しては不肖の息子である私が、それなりに日本的な献立を毎日用意しているので、大丈夫だろうとは思ってました。食事の次に気になってなのは、NHKを始めとする日本のテレビ放送が視聴できないこと。NHKの日本語放送が受信できるスカイ・ケーブルが来ているのは、隣街の州都バコロドまで。

ところが昨年の私の一時帰国の際、実家のテレビにクロームキャストを接続しておいたのが功を奏して、父はユーチューブのニュースや、ネットフリックスの映画などは、自力で見ることができる。むしろ、同じ機材が揃っているテレビを見て、大喜びしたぐらい。母も最近はNHKの朝の連続テレビ小説も見ないし、紅白にも興味なし。

他には、シャワーで使うようにと、わざわざ日本のアマゾンで購入した、浴室専用の椅子も結局不要だったりで、事前にあれこれ悩んでいた件は、概ね杞憂。危うくトイレに手摺りを取り付けてしまうところでした。

たった2週間余りの滞在だったので、本格的な移住となったら、これ以外の問題がいろいろと顕在化するんでしょうけど、どっちかと言うと大変だったのは、受け入れる側の私の方。よく二世帯居住では、水回りを分けることが肝要なんて話を聞きます。我が家の場合は、水回りどころか、完全に分離独立した家二軒。ここまでやっても、やっぱり私にはストレスがかかりました。

まぁ、ほぼ10年も家族三人だけで、一般的な日本の住宅に比べれば、かなり広い家に慣れてしまったせいでしょうか。実の親であっても、自分のテリトリーに二人が加わるだけで、心理的には負担があるものらしい。さらに、「美味しい美味しい」と食べてくれる食事も「きちんと用意しないといけない」なんて変な義務感が生じてしまい、最後の方はちょっと疲弊気味でした。う〜ん、これは力み過ぎたようです。

このブログの読者の中には、身内の顔さえ分からなくなったガチの認知症や、まったくの寝たきりになってしまった親御さんを、介護されている方がいらっしゃるかも知れません。たとえ健康だったとしても、人間関係が上手くいかず、精神的に疲れ切ってしまうケースもあるでしょう。それに比べれば私の両親は、はるかに扱いやすいと言えそうです。

ただ、子供の頃から圧倒的に接する機会が多かった、元来すごいお喋りだった母は、会話を成り立たせるのが困難な状況。素直に言うことは聞いてくれるし、自分の置かれた状況は理解しているとは思うものの、向こうから話しかけることはありません。

これに対して、身体も頭もまだまだ大丈夫な父。弱ってしまった母を積極的に面倒を見てくれるのは大助かりな反面、若い頃から相変わらずのコミュ障ぶり。例えば、一言「散歩に行ってくる」と言えばいいのに、黙って一人で出掛けて小一時間も帰ってこなかったり。職場ではちゃんと会話していたのに、なぜか家族を相手にすると、コミュニケーション能力が半減しちゃうようです。

こういう状況について、その都度目くじらを立てていては身が持たないし、今頃になって父の性格が変わるはずもないので、こちらの対応を改めるしかなさそうです。つまり、自分でできることはやってもらうということ。独立した台所もあるので、朝食ぐらいは両親で完結してもらうほうが良いでしょう。毎度の上げ膳据え膳では、私も疲れるし両親も居心地が良くなさそう。これは夫婦でも同様で、同居していても、それなりの距離を取るのは、とても大事なんですね。

そして大きいのは、家内の存在。平日の昼間は働いているけれど、夕食は全員一緒。自分から両親へ話題を振る配慮があり、両親もそんな義理の娘に心を開いています。一般的にフィリピンでは、年寄りに優しく介護も自宅でというのが当たり前とされてますが、家内の態度を見ていると、なるほどなぁと感心します。もちろんフィリピンでも、不仲な嫁姑はいくらでもいるので、これは持って生まれた、家内の人徳なんでしょうね。

ということで、まだまだ改善の余地が大有りのお試し介護移住。それでも来年以降(時期は未定)の本格移住に向けて、だいたいの感触がつかめました。次回も続きます。