栄町商店街(兵庫・尼崎)

▼尼崎市には昭和の香りに満ちた魅力的?なアーケード商店街がいくつかあるが、杭瀬のショッピングプラザ栄町商店街はその一つだ。阪神電車の杭瀬駅は梅田から7つ目で各停しか停まらない。杭瀬駅の東側には左門殿川が流れておりここが兵庫県と大阪府の境界となっている。この商店街は栄町商店街、栄町EAST商店街、杭瀬一番街から成り立っており、一つのアーケードでつながっている。東側に位置する栄町EAST商店街、杭瀬一番街は近代的な普通の商店街で大勢の客で賑わっているが、西側の栄町商店街は寂れ果て東側2つの商店街との落差が激しい。

・栄町商店街の西側入口。通路は狭く人通りもまばらでまるで華やかな雰囲気はない。

▼道路を隔てた反対側の木造2階建て建物(松本米穀店)の板壁に貼られたコカ・コーラの大看板が印象的だった。あたりは再開発が進みこの建物だけぽつりと残された感じだ。

▼アーケードの入口付近に公衆浴場があった。雰囲気からして廃業しているのかと思ったがパリパリの現役だった。

▼栄町商店街商店街は衰退が著しかった。老巧化したせいかアーケードはところどころ撤去され、建物がなくなって空地になった箇所もある。

▼過去の繁栄も今は昔、ほとんどの店はシャッターを閉じていた。薄暗い通りを取り残された看板を探しながらうろつく。

▼二階の壁に色あせた福助が貼りついた家があった。かっては呉服屋だったのだろうか?

▼商店街は完全に死んでいるのではなく営業中の店もいくつかあった。

▼西半分の栄町商店街に比べ明るく活気ある東側の栄町EAST商店街、杭瀬一番街。ここはどこにでもある普通のアーケード商店街なので趣味的には面白くない・・

▼国道2号線に架かる歩道橋から杭瀬一番街商店街入口方向を眺める。

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銀座中央街(山口・徳山)

▼山陽本線の徳山駅歩1分の所にあるアーケード商店街は駅からのアクセスが抜群で一昔前は徳山一のショッピングセンターでいつも大勢の人で賑わっていた。しかし今は見る影もない。商店街の核だった百貨店は10年前に姿を消し一部のアーケードも撤去された(一番街の海側にもみなみ銀座商店街と言うアーケード商店街があった)。駅ビルは近代的な駅舎に建て替わり、CCC(蔦屋)の運営するカフェを併設したおしゃれな図書館と直結しているのには驚いた。

▼人通りもまばらな銀南街、2階建てのアーケード商店街で2階へはエスカレーターで上るようになっていた。2階の店は皆廃業?

▼銀南街と一番街(徳山銀座)の間に位置するのが銀座中央街            

・右に銀座中央商店街入口が見える。通路の真ん中に売り物の服を並べるとはいかに客が少ないかの証拠だ。ところどころ建物の取り壊しも進んでいた。

▼戦後闇市起源だけあってここは狭い通路の両側に小さな店が軒を連ねている。ほとんどの店はシャッターを下ろし営業している店は少ない。

▼建物内の雰囲気は少しアメ横や秋葉原なんかに似ていなくもないが・・

▼人であふれたメインストリートの一番街も今は閑古鳥が鳴き寂しい限りだ。

▼駅のホームから海側に広がる周南コンビナート煙を眺める。徳山市内にはこれと言った観光スポットはないが、船で海から工場地帯を眺める周南コンビナート夜景ツアーが人気なのだそうだ。

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天神町銀座商店街(山口・防府)

▼JR防府駅からほど近いく日本3天神の一つ防府天満宮に至る参道は南側は天神町銀座商店街、北側は天神商店街と言う名前の商店街になっており、南の天神町銀座商店街にはアーケードが架かっている。ここは一昔前までは参拝客や買い物客で賑わう市内一の繁華街だったが今は火の消えたような寂れようだ。

・(右)天神町銀座商店街入口

▼陽光が降り注ぐアーケードの中は明るいがほとんどの店はシャッターを下ろし森閑としている。7年前(2017年)にも訪れたことがあるが秋の琺瑯紀行  第3日目 防府探索その時より一段と衰退が進んでいるように思えた。

▼商店街として機能していなくても、散歩や駅に行く通路として利用されているようでこんな張り紙が貼られていた。

▼アーケードのない天満宮側の天神商店街も悲惨な状況だ。(右下)ナショナル自転車の看板のある自転車屋を含めいくつかの店や神社近くのお土産物屋は営業中だった。

▼天満宮の階段から今来た道を振り返る。鳥居の先が天神商店街、天神町銀座商店街に続いている。

▼この道は旧萩往還の一部で、道は商店街を抜け山陽本線のガードをくぐると約2km先の港(三田尻港)まで続いている。いかにも旧道らしい趣があり年季の入った古い建物が所々残っていた。

▼途中にあった醤油、味噌醸造の「一馬本店」の工場。創業時のままか?入口に架けられた看板の「マウチイ」とは何?と思ったが単に一馬を右書きしただけだった。右のでかい醤油瓶は錆びだらけだ。

▼現在の三田尻港は殺風景で風情はなかった。わずかに残る鳥居と常夜灯がここが江戸時代、藩の城のあった萩とを結ぶ萩往還の起点であったことを示していた。

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道場門前商店街(山口)

▼山口線山口駅で下車し、駅前通りを7分ぐらい歩くと、7つの商店街から構成された商店街「道場門前商店街」と交差する。7つのうち西門前、門前、米屋町、中市の各商店街は1本のアーケードでつながっている。

▼旅館やお土産物屋が立ち並び賑やかだった駅周辺は、人流、物流が変わった現在ではすっかり寂れ果てている。(下左)廃業した3階建ての旅館

▼山口氏を代表する商店街だが人影はまばらで活気がない。郊外に大型商業施設ができ、車社会が浸透すると駅前商店街が衰退するのはどこも同じだ。

▼店舗が取り壊され空地となったところもあった。

▼アーケードの西端の西門前商店街はシャッターを下ろしている店が多く寂れている。

▼昭和30年代の初め、自分がいた山陽道筋の田舎町にも毎日何便か白に赤の山口市営バスが来ていた(山口市内からだとかなり長距離だ)。小学校3年生のころだったかクラス全員でこのバスで山口市日帰り旅行に出かけたことがある。山口市は県庁所在地だが、日頃は縁がなく(買い物行楽はもっぱら宇部や下関、小倉、TVもラジオも九州の放送局)、山口市に行ったのはこの時が初めてだった。県庁や博物館を見物したあと、この道場門前商店街にあったデパート(ちまきや)の切手売り場で記念切手(当時は切手収集がブームだった)を買ったことはよく覚えている。当時は商店街は人通りが多くずいぶん賑やかだった。その後田舎町に来る路線は廃止され、山口市営バス自体も消滅した。

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新天町名店街(山口・宇部市)

▼廃墟一歩手前の中央銀天街を出て真締川を渡り(子供のころ橋のたもとでハゼ釣りをした記憶がある)、新天町名店街に向かった。

▼ここもアーケード商店街で昔「大東劇場」と言うデラックスな映画館があった。「ハミングロード新天町」と記されたゲートを入ると中央銀天街よりはましだが人影はない。

▼メインストリートから分岐した商店街は更に悲惨な状況だった。アーケードはぼろぼろになり、取り壊された店舗の跡には雑草が生い茂っていた。

▼通りは神社に接しており、鳥居が立っていた。

▼賑やかだった昭和30年代の新天町(宇部市教育委員会・デジタルアーカイブより)の面影は今いずこ。

▼宇部市にはもう一つ中央銀天街の北側に三炭町商店街と言うアーケード商店街があったので行ってみた。(左上)二股に分かれる右側が三炭町商店街だったはが、アーケードは取り壊され、今は住宅街を貫く単なる小道だ。

▼頭に残る石炭産業華やかりしころの三炭町商店街の光景(宇部市教育委員会・デジタルアーカイブより)。銀天街や新天町に比べ三炭町は日用雑貨を取り扱う店が軒を連ねていた。ここにも洋画専門の映画館があったように記憶しているが。

▼宇部にはアーケードのない商店街もいくつかあったが、今はアーチだけが寂しく残るだけだ。

▼宇部市の中心は今も昔も宇部線宇部新川駅周辺で鉄道が輸送の主役だった時代は通勤通学客で活気あふれていた。昭和39年に宇部駅は宇部新川駅と改称され、山陽本線の西宇部駅が宇部駅となった。駅前広場に面して洋画専門の映画館(東劇)があり。ここでジョンウェイン主演の戦争映画「硫黄島の砂」を見たことを今でも覚えている。(宇部市教育委員会・デジタルアーカイブより)。

▼現在の宇部新川駅(旧宇部駅)、改修され、ずいぶん小ぶりになったが往年の面影は残っている。

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中央銀天街(山口・宇部市)

▼山口県宇部市には昭和32年から34年まで2年間住んでいたことがある。自分がまだ小学生だった時期で石炭産業を中心に宇部は活気があり町には活気があった。公害問題はまだうるさくなく工場の煙突から噴き出す煙が工業発展のシンボルとしてもてはやされていた。子供心に煤塵で家の中がざらざらして閉口したことを思い出す。当時街一番の繁華街は宇部線宇部新川駅(当時の駅名は宇部駅)から宇部興産(現UBE)寄りの中央町一帯でアーケード商店街「中央銀天街」には商店や映画館が立ち並び終日賑わっていた。

自分の頭の中にある中央銀天街(樹林舎2018年刊「宇部山陽小野田の昭和」より)

▼宇部興産の工場前には広大なヤードが広がり、宇部新川駅の一つ先の居能駅から分岐する宇部線貨物支線の宇部港駅があった。ヤードには美祢線⇒山陽本線⇒宇部線を経由して運ばれる石灰石列車を牽くD51,C58や小運転のC12が煙を上げていた。しかし架線の下の蒸機は魅力に乏しく、帰省の都度足が向かうのは北九州や筑豊で鉄道写真に目覚めてからでもほとんど訪れていない。

▼宇部港駅にて(昭和45年3月撮影)、下は宇部、岩鼻間の厚東川鉄橋を行くC58貨物

▼煙を追いかけていることは街歩きに関心はなかったが、今回帰省の際60年ぶりくらいにかって宇部一番の商店街だった中央銀天街を再訪したところもはやシャッター商店街と言うより廃墟化一歩手前な状態と化していたのに衝撃を受けた。

▼車社会の到来により物流人流の変化により地方の商店街はどこも同じような状態だが、宇部銀天街の荒廃ぶりは昨年訪れた大牟田新銀座商店街に勝るとも劣らなかった。石炭産業の消滅が商店街の衰退に一層拍車をかけたのだろう。

▼昼なお暗きアーケードの内部。それでも営業している店が何軒かあったのは奇跡的に思えた。

▼アーケード商店街周辺を歩くと老巧化した木造建物が散在していた。

▼路地の向こうにUBEのプラントが見えるが石灰輸送はトラックに切り替わったため、蒸機がいたヤードも線路も影も形もなくなった。

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鶴橋商店街(東成区、生野区、天王寺区)

▼近鉄線とJR大阪環状線が交差する鶴橋駅周辺は戦後闇市の雰囲気を今にとどめるアーケード商店街(と言うより市場)が迷路のように広がっている。ここは生野コリアンタウンにも近く観光客にも知られたメジャーな観光スポットだが、その規模はアメ横や消失前の旦過市場以上と言っていいだろう。

▼昼なお薄暗い駅近くの通りには韓国系の食材を取り扱う小さな店がごちゃごちゃ軒を並べ、行きかう買い物で混雑している。

▼昔橋のたもとに多くの鶴が集まったことに由来する鶴橋市場のシンボルマークは鶴。何ともあか抜けない広告看板はこの市場の雰囲気にぴったりだ。

▼よく観察するとハングルだけでなく中国語の広告もある。

▼駅から遠ざかると観光客の姿も少なくなり地元向けの普通の店も多くなる。子供のころお馴染みだった極東ノート(会社は倒産し今はない)の看板を久しぶりに見た。

▼昭和20年、30年代をほうふつさせる手書き看板も多く健在だった。これまで訪れた数多くの寂れた商店街と違って鶴橋商店街は規模が大きく活気があった。一度ではとても回り切れないので機会を見つけて是非再訪したい。

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萩之茶屋本通商店街(西成区)、玉出本通商店街(西成区)

▼今池本通商店街を出て堺筋大通を渡ると阪堺電車の今池停留所がある。ここから南海線の萩之茶屋駅にかけてがアーケード商店街「萩之茶屋商店街」となる。ここはあいりん地区のど真ん中にある商店街で路上生活者への炊き出しを行う西成三角公園もすぐ近くだ。飛田本通商店街と同様、あたりには何とも言えない独特の雰囲気が漂っている。

▼(左)堺筋通りに面したど派手な外装の玉出スーパーの先に(右)阪堺電車の高架ガードがある。(下)阪堺電車はここで南海天王寺支線(廃線)をオーバークロスしていた。(下)手元にある昭和40年大阪区分地図には天王寺支線だけでなく今はない南海平野線も描かれている。右上のジュラルミン塀で囲われたあたりに南海電車の駅(今池町駅)があった。当時は大阪で最も治安の悪い地区として知られていたが今は静かなものだ。

▼アパートの広告が貼ってあった。さすがあいりん地区だけあって家賃は格安だ。

▼商店街に人通りは少ない。アーケード自体はリニューアルしているようだが通りには何とも言えない場末感が漂っている。

▼萩之茶屋駅の近くの地下鉄四つ橋線(旧3号線)の花園町駅から2駅先の玉出駅で下車し、目の前を走る国道26号線を北進すると、ド派手スーパー「スーパー玉出」発祥の地「玉出本通商店街」の入口がある。

▼薄暗いアーケードに一歩踏みこめばそこには昭和の世界が広がっている。通りには飲食店だけでなく銀行、パン屋、薬屋、八百屋等の年季の入った普通の店もちゃんと営業中だった。左手の黄色い看板がスーパー玉出の1号店?。

▼途中から分岐する玉二商店街、残念ながらこちらの方はすでにシャッター化が進んでいた。

▼味わい深いこの商店街もあと何年かすれば再開発の波にのまれるのだろうか?

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飛田本通商店街ほか(西成区)

▼大阪を代表する最もディープなアーケード商店街と言えば、あいりん地区(釜ヶ崎)に接した西成区の飛田本通商店街だろう。ここは新世界と飛田遊郭を結ぶ本通りでもあり、他の商店街にはない何とも言えない独特の空気が漂っている。本通だけでなく枝分かれしている部分もアーケードはつながっている(一部阪神高速道路で分断されている)が、場所によって名称が異なる。

▼新今宮側の「動物園一番街」「動物園2番街」、昼間の商店街に人通りは少なくチャリンコに乗った男たちが行き来する。

▼あいりん地区には日雇い労務者向けのドヤ街が密集している。かっては違法な薬物を売買する露天があり大阪で最も物騒な地区として知られていたが、今はずいぶん改善され昼間歩くだけならどおってことはない。シャッターを切っていると労務者風の男から「オッサン何撮ってんのや」と声をかけられたが、咎めるのではなく単に好奇心からのようで一安心する。

▼山王市場通商店街、ただの衰退した商店街と言うより、アーケード全体に何かすえた空気が漂っていると感じるのは気のせいか?

▼途中から分岐する新開筋中央商店街。年季の入った文具店、シャッターを下ろしているのですでに廃業?

▼新開筋商店街。昭和的なプラ看板がを付けた店も多いがほとんどシャッターを下ろしていた。(上)かってはどの街角にもあった東芝ストアーのプラ看板(下)不動産屋の看板に残る「電話売買」、携帯の普及した今では意味が分からない人が多いのでは?

▼飛田本通南商店街、この辺りはカラオケ居酒屋が多い。「めし、とん汁飛田食堂」の角を曲がると紅灯区の飛田新地だ。(ここは撮影禁止)

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新世界市場(浪速区)

▼阪堺電車恵美須町終点から徒歩3分のところにアーケード商店街「新世界市場」がある。観光スポット通天閣のすぐ近くだが、およそ観光客が訪れそうもない寂れた商店街だ。(右)商店街の入口、あか抜けないイラストが描かれている。

▼天井から賑やかしの赤ちょうちんがぶら下がっているが全体的に薄暗く華やかさはない。シャッターを下ろしている店も多かった。

▼メルシアンワインの袖看板。メルシャンワインは今はキリンの子会社だが、この看板の名前はメルシヤンとヤの字が大文字なのでキリンに吸収される前もの(昭和時代)だ。(現社名のメルシャン(株)の「ヤ」は「ャ」と小文字)

▼観光地によくある顔出しパネル。こんな場所で顔出しをする人がいるのか?オロナミンCのキャッチコピーが「元気ハツラツ」から「元気ハツラツぅ?」なんて変ったのはずいぶん前のことだが、こんな昭和的な場所では「元気ハツラツ」のままでいてほしい?

▼コンビニが普及する前はごちゃごちゃしたこんな食料品はどこにもあったのだが・・

▼ピカピカの金属製「火消し壺」を売っていた、昔は陶器製の火消し壺は家庭の必需品だったのだが、今は家庭用ではなくキャンプやバーベキュー用としての需要があるのだろう(たぶん)。

▼新世界「商店街」ではなく新世界「市場」なのが時代を感じる。規模は小さいがなかなか味わい深い商店街だった。

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