博士課程を終えました、カナダに行きます🎓🇨🇦

2024年3月21日の学位記授与式を経て、はれて博士(学術)となりました。満28歳なので、30までに博士号を取るという人生の目標のひとつが達成されたことになります。未達成の人生の目標には、海外移住、大きくて優しい犬を飼うなどが含まれます。

とくに、昨年は手続きまわりであちこち走り回ったこともあり、体験記としてまとめておけば誰かの役に立つかもしれないという思いから、筆ならぬMagic Keyboardを手に取りました。とくに人文系の大学院(の、とくに博士課程)は多くの場面で暗中模索になってしまいがちなので、どうでもいいディテールも含めて誰かの役に立つことを願っています。

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    • 海外特別研究員(2024年9月〜)
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美しいもの、もっと美しいもの

  • 美的理由についての前置き
  • 快楽主義
  • エンゲージメント理論
  • 共同体主義理論
  • ネットワーク理論
  • ✂ コメント
    • 参照文献

美的価値についての議論は引き続きたいへん盛り上がっているが、次の事実は意外なほどに無視されている。すなわち、美しさや優美さは比較・ランクづけ可能である。絵の下手な私が模写した《真珠の耳飾りの少女》は、フェルメールによるオリジナルほどには美的価値がない。

「趣味については議論できない」「美は見る人の目の中にある」を真に受けている人は、美的価値に上下があるという観察自体を否定したくなるだろう。「みんな違ってみんな良い」というわけだ。しかし、仮になんらかの観点から私の模写がフェルメールのオリジナルを凌いでいるのだとしても、それと同時に、前者が後者に比べて稚拙であり、覇気がなく、ごくふつうの意味において劣っていることを否定できるわけではない。芸術家やパフォーマーですら創作や上演に際しては、自らの一手一手を美的に評価しており、より力強いブラシストロークやより優美なターンをもたらすよう配慮している。美的価値における優劣が意味をなさないのだとすれば、これらの配慮を理解することは不可能である。

さて、価値があるとはそもそもどういうことか。近年の現代美学において広く受け入れられている分析によれば、価値があるとははなんらかの行為や反応をする理由を与える特徴をもつということだ*1フェルメールのオリジナルは、私の模写にはない精巧さをもつので、美術館に鑑賞しに行ったり、保護・修復・展示したり、見て感動を覚えるだけのより強い理由を与える。そう選択できる場合には合理的なエージェントはみなオリジナルを鑑賞するべきであるし、私の模写ではなくオリジナルを美術館に展示するべきである。オリジナルよりも私の模写に対してより強い感動を覚えるエージェントは、美的理由に照らせば不合理である。

ロビー・クバラ[Robbie Kubala]は近刊の論文「Non-Monotonic Theories of Aesthetic Value」で、このような等級づけ可能性[gradability]に加え、次のような原理を尊重することが、美的価値論にとっての重要な評価基準になることを訴えている。

単調性:対象Oに関してφする美的理由の強さは、Oの美的価値に沿って単調に変化する。
Monotonicity
: The strength of our aesthetic reasons to φ with respect to an object O varies monotonically with the aesthetic value of O.

フェルメールのオリジナル版《真珠の耳飾りの少女》は、私の模写よりも高い美的価値をもつ。したがって、前者を鑑賞する理由は後者を鑑賞する理由よりも強い。ここで、私よりもはるかに手先が器用だが、フェルメールほどではない美術部員が同じ作品を模写したならば、彼女の模写はオリジナルほどではないにせよ私の模写よりも美的価値が高いはずだ。したがって、彼女の模写を鑑賞する理由は、私の模写を鑑賞する理由よりも強く、オリジナルを鑑賞する理由よりも弱い。美的価値の大小が、そのまま、鑑賞する理由の大小となる。一見すると、これはすごく当たり前のことである。

しかし、クバラによれば、美的価値とはなにかに答えようとする理論の多くが、この単調性原理に違反したケースを認めてしまうのだ。具体的には、Nguyen (2019)とStrohl (2022)のエンゲージメント理論、Riggle (2022)の共同体主義理論、Lopes (2018)のネットワーク理論は、それぞれ美的価値と美的理由の強さが不釣り合いに変化するケースを許容してしまう。逆に、今日ひどく攻撃されている快楽主義は、単調性原理を尊重している限りでは理論的アドバンテージをもっている。

以下ではクバラの議論を紹介しよう。同時に、現代の代表的な美的価値論を三つまとめて紹介することになるので、本エントリーはかなりお得である。

*1:具体的にどのような行為や反応をする理由を与えるのが美的価値なのかというのは論争的な点だが、有力な見解のひとつとして、美的価値に駆動されるふるまいはなんらか特定的な意味での「鑑賞[appreciation]」である。クバラも、これに乗っている。

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後期シブリーの美学

フランク・シブリー[Frank Sibley]の名前と結びつけられた仕事として、真っ先に思いつくのは「Aesthetic Concepts」(1959)と、その実質的な続編にあたる「Aesthetic and Nonaesthetic」(1965)だろう。前者は、美学者としてのキャリアの最初期に書かれた論文であり、20世紀美学において最も盛んに検討された論文のひとつとなった。

美的なものの議論においてシブリーの果たした貢献は改めて確認するまでもなく、絶大である。しかし、注目は上のふたつの論文に集中しており、その他の仕事はあまり引用されていない。このふたつは『Philosophical Review』という大手も大手の哲学ジャーナルに掲載されたことからも美学にとどまらない関心を集めたわけだが、その後シブリーは新設されたばかりのコーネル大学哲学科の運営に忙殺されたようで、いくつかのProceedingsや論集への寄稿を除けば、ほとんど論文を書かなくなってしまった*1。未発表のものも含めて、シブリーの書いたものをまとめて読めるのは、論文集『Approach to Aesthetics』が没後に刊行されたおかげである。目次と各章要旨については松永さんのエントリーを参照。

本記事では、シブリーがそのキャリアの最後期において取り組んでいたアイデアを紹介する。論文集で言うと、以下の三部作がこれに該当する。

  • 12章:述定的な形容詞と限定的な形容詞 [Adjectives, Predicative and Attributive]
  • 13章:美的判断:小石、顔、ゴミ捨て場 [Aesthetic Judgements: Pebbles, Faces, and Fields of Litter]
  • 14章:醜に関するいくつかの注記 [Some Notes on Ugliness]

共通して扱っているのは、哲学者ピーター・ギーチ[Peter Geach]が提示した、述定的形容詞と限定的形容詞の区別である。美学そっちのけでこの区別について検証したのが12章、「美しい」という形容詞に関して応用したのが13章、「醜い」という形容詞に関して応用したのが14章である。

どれも生前に出版されることはなく、ひとつ目以外は完成した論文というよりも、ドラフトにとどまっている。査読を通った論文たちではないので、分析哲学者からは引かれにくい、という事情もあるかもしれない。

Approach to Aesthetics』はいまコツコツと翻訳が進んでいるが、私は13章を担当していることもあり、この時期のシブリーのアイデアに興味を持った。結局、シブリーはこの仕事を完遂することができなかったわけだが、そこには検討に値する主張が散らばっている。

  • 述定的vs限定的
  • 「美しい」は述定的か限定的か
  • 「醜い」は述定的か限定的か
  • ✂ コメント
    • 参考文献

*1:教え子のColin Lyasが語るところでは、「Aesthetic Concepts」ですらも、完璧主義者のシブリーは出版をためらっており、知人に進められてしぶしぶPhilosophical Reviewに出したらしい。

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