観たのは昨日だが、Amazon Primeでチャン・リュルの「慶州 ヒョンとユニ」。僕はこの映画を観るのはたぶん三回目だと思う。妻が観たいと言い、また観るのか?と正直思ったけど、観始めたら、これがたいへん面白い。

この映画での、ヒョン(パク・ヘイル)の受動性の徹底ぶり…。もちろん彼は過去の記憶をたしかめるために慶州を訪れるのだし、何年も連絡をとっていない先輩の妻(かつての彼女?)を、わざわざ呼びつけたりもするのだけど、それもどこか行きあたりばったりというか、その結果発生する出来事に対して、ひたすら受け身なのだ。それは彼の存在感そのものの問題である。

そもそも、ヒョンは韓国人で、さらに中国語も日本語も解するのである。ところが彼は周囲で発される人々の言動をまるで理解する気がないかのようだ。観光案内所のスタッフに中国語で話かけられた際には、その言葉しか理解出来ないようなふりをしていたわけだし、ユニが日本人の言葉を通訳してくれたときも(正確に伝えていないにもかかわらず)、ユニの言葉を鵜呑みにするふりをしていたわけだ。

慶州の大学の先生と偶然知り合って、様々に話かけられても上の空というか、まあ相手の話題もつまらないからだけど、まるで相手にする気はない。ユニの昔の友人で、明らかにヒョンを怪しんでいる刑事の男に対しても、ヒョンはことさら自分を説明しようとはしない。だからますます怪しい目で見られる。

あとヒョンの服装は、じつにだらしないのだ。上はかろうじてジャケットを着ているけど、下はスウェットにスニーカーで、冒頭、この格好で友人の葬式に出席してるのである。パク・ヘイルという俳優の、身体の男性的立派さが、よけいにだらしなくて無駄にデカくて鬱陶しい、意味不明でヘンなむさ苦しい男性、という感じを強調する。

それにしても、ユニ(シン・ミナ)はいったい、何を考えているのかと思うのだ。彼女の夫は亡くなっていて、彼女は今ひとりで暮らしている。彼女はあきらかにヒョンを許容しているというか、無言のまま、浮かぬ表情のまま、しかしヒョンを他人扱いしない。刑事の男からしたら、そのユニの態度が、余計に苛立たしい。

ユニは無言のまま、ヒョンを自宅まで招こうとしているかのようだ。それは約束だったかのように、そうなる。しかしあからさまに、行為へと誘うのではない。非常に深刻な表情で、しかしおそろしく無防備に、無警戒に、ヒョンを招き入れ、ソファで隣合って座り、ぐっと身体を彼に近づけ、その両耳を触るのだ。あなたは亡くなった夫と、耳が似ているのだと言って。

そのとき刑事の彼は、深夜だというのにとつぜんユニの家に押しかけてきて、ヒョンにパスポートを見せろと言う。あきらかに職権濫用だ。ユニは彼をとがめる。ヒョンはおとなしくパスポートを見せ、刑事はそれをろくにたしかめもせず、おそらくは自己嫌悪と羞恥で、逃げるようにその場を後にする。

突然の闖入者が去って、ユニの態度はなおも変わらない。ひたすら続くこの濃厚なエロ的気配、ユニがドアをわずかに開けたまま寝室へ消える。しかしヒョンはただ、窓の外を見て、かすかに明けかかった夜をやり過ごす。いや、着信していた妻からのメッセージを読む。あなたの不在が寂しく、そして今あなたが何を思っているかという、妻からのメッセージを。

翌朝、ヒョンはひとりで歩いてる。ユニの家を出たあとだろう。きっと何事もなかったのだろう。それどころか、前日までの記憶と現実が少しずつ食い違っているようでもあり、占いの店に前日までいた老人は、何年も前にすでに亡くなっているはずで、だとしたらユニの茶屋はどうなのか。それどころか、昨夜までの経験はほんとうのことだったのか(まさかすべては、ヒョンの想像だったのでは?)。ヒョンは川の音がする方へ走る。その先に自分の思い描く景色がその通りに広がっているのかどうか。

こうして、とりとめのない書き方を続けていても仕方がないのだけど、しかしまさかとは思うが、これって何の根拠もないけど、単にヒョンは死んだ友達の奥さんのことが、何となく気になっていて、あと、それをきっかけに思い出された、いつかの茶屋の女性のことが何となく気になって、ただそれだけを、ぼやっと妄想してるだけの話なんじゃないだろうな…。

最後に、亡くなった友人も含むかつての友人らとお茶屋を訪れる場面があらわれる。しかしお茶を用意してくれているのは、当時はまだここにいるはずのないユニじゃないか。みなが無言で、ユニのお茶の準備を見届けている。そのとき、こらえきれないといった様子で、ヒョンがとつぜん笑いを噴き出す。皆の視線を浴びながら、ヒョンはかろうじて笑いを抑え込む。

それは、すでに知っているからこその笑いなのか、未だ知らないがゆえの笑いなのか。そもそも何がおかしかったのか。

観たのは昨日だが、Amazon Primeで、チャン・リュルの「群山」(2022年)を観る。

詩人のパク・ヘイルが、先輩の元妻ムン・ソリと共に群山と呼ばれる地を訪れ、食事をし、宿に泊まる。二人の関係は、はっきりしないのだが、ムン・ソリは宿の主人を何となく気に入ったようで、パク・ヘイルはそのことが何となく気に入らない。

また宿の主人には娘がいて、彼女は引きこもりの自閉症なのだが、パク・ヘイルにはどこか気を許すような素振りを見せる。パク・ヘイルもそのことを意識する。

このことから、パク・ヘイルはそれなりに散々な目に会うわけだけど、面白いのは彼がひとしきりぐったりさせられた中盤を過ぎたあたりで、ようやくタイトル「群山」が画面に映し出される。

それだけなら今どき珍しくもないのだけど、ハッとするのは、タイトルが消えてから以降、どうも時制が変だぞと思わされ、なるほどこれはつまり、出来事の前半と後半が、まるっきり逆にされているのだなと理解される。

それだけと言えばそれだけなのだが、しかし面白かった。少なくとも後半(つまり時制の初期段階)のパク・ヘイルは、薬局で鎮痛剤を求めた際に従業員の女性にふしぎな親切の施しを受け、その後偶然ムン・ソリと出会い、彼女はずいぶん親しげに、いかにも彼に好意を寄せているかのような態度をとる。食事をしたりカラオケしたり、そのうちに「群山」というキーワードが、カラオケで歌っていた歌詞のなかに出てきて、それで二人は最後、共に群山へ向かうことになるのだ。

だから何なの?って話なのだが、なぜかこれが、しみじみ良い。群山でのパク・ヘイルの不満げな感じ、さらに彼が元の地へ戻ってからの(鎮痛剤を求めた薬局での)出来事など、なかなか寂しくて、でもこの寂しさは、チャン・リュルがテーマとして背負った、一貫した寄る辺なさであり、寂しさでもある。それは自分がこうだと信じていた記憶の、あまりの頼りなさ、そのおぼつかなさで、それはそのまま、自分自身という存在のおぼつかなさでもある。

(ちなみに今日観たのはチャン・リュルの「慶州 ヒョンとユニ」と「福岡」だが、そちらは明日以降に書く)

乃木坂で、マティス展の二回目を観た。

それにしてもいま、こうしてマティスの作品を観るということと、当時つまりその作品が描かれたばかりのときに観るということでは、大きな違いがあるのだろう。

マティスはこの世で、すでに巨匠でありその価値が確定しているという事実を、いったん忘れたとしても、やはり今と昔で、これらの作品を、人が観て感じ取る内実に、違いはあるはずだ。

なぜこのような作品が可能になったのか?それは画家の自信や勇気に起因するのか?あるいは周囲の理解や鼓舞によるのか?

たとえば、絵画は如何にしてであれ、人間による技法と修練の結果として存在する、だから絵画は如何にしてであれ、画家の思考や努力の痕跡が、そのどこかにあらわれるだろう。

マティスもそれはわかっていて、さらにそれが自分の方法によってきちんと伝達されることを、完全に信じている。そう思える根拠というか、それを可能にするだけの、彼の心の拠り所はきっと、自分の内側だけにあるのではななく、十九世紀後半から続く前衛芸術家たちのもたらしたものにも支えられていただろう。

そのときの、マティスの心の拠り所こそ、十九世紀後半以降の絵画の核心であり、モダニズムと呼ばれるものの核心だったのだろうと想像する。

だからマティスの絵画の向こう側に、先達の画家たちが、今の自分が知っているような事とはまるで別の何かとして、そこにはいるのだと、この作品を観る自分がマティスとして、それらを想像しなければいけないのだろう。

マティスの作品を観てよろこびを感じると同時に、その自分自身を頼りなく思う。よろこびは自分の内側だけに広がるもので、それは所詮自分を越えていくことはない。そこには連鎖がないと感じる。

希望は、マティス自身のよろこびを再生させることであり、マティスの心の拠り所としての十九世紀後半を再生させたいと願うことだ。

Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下で濱口竜介「悪は存在しない」(2024年)を観る (以下、ネタバレご注意ください)。オープニングで、明らかに山本達久のドラムとわかる緻密かつ神経的なハイハット音が聴こえてきて、見上げた空を背景に、連なる樹木たちが延々と流れていく、その場面がいつまでも続く…と思ったら、突如として轟音ノイズが湧き上がる…と思ったら、チェンソーの音である。

森の中に男がひとり、丸太を切り分けて、それらをひとつひとつ、拾い上げては切り株台に乗せ、斧を叩き下ろす。割っては次を拾い、また割っては次を拾う。こうしていつしか、薪がネコ車いっぱいになる。仕事がひと段落すると、煙草に火をつけて、深く喫い、白い煙をふーっと吐き出す。白い煙は、森の景色のなかへ漂い、一瞬で消え去る。

薪割りって、どのくらい難しいものだろうか。あの役者は、どのくらい練習して、ああして「この仕事に慣れてる」感を出せるようになるのだろうか。いや、あれはそもそも、「この仕事に慣れてる」感なのだろうか。

主人公が巧(大美賀均)で、おそらくその娘であろう少女が花(西川玲)である。

あの女の子は八歳らしい。実際にもそのくらいの年齢だろうか。無口で、目が大きくて、黒髪が長い。青い上着を着ている。樹木の名前をよく知ってる。お父さんに教えてもらうから、余計にくわしくなる。

どうなのか。この子の、この「神秘的な感じ」は。大昔の、宮崎あおい、か。子供らしさとは何だろうか。お父さんが「この仕事に慣れてる」ように薪を割る感じと、この女子が森の中を歩いている感じは、少し違う。それは最初からそう感じさせられる。(先日観た「秘密の森の、その向こう」の八歳の女子二人を思い出す。これとはかなり違う存在感として…)

序盤から、おそろしく冗長なカット割りが続く。それはいかにも「濱口調」とも言える。元々の「濱口調」な作風に少し戻ったような気もする。水汲み、自動車、銃声、学校の送り迎え。森の中に住む人々の生活感というか、生きるリズム感というか、このくらいの要素を繰り返して生活しているのですよと、そういうことの説明でもあるのだろうとも思う。

森が過度に美的だとも感じた。あの凍った湖は、鹿の飲み水だという。しかしほぼ凍っている。芸術作品のように美しい。しかし、どうなのかなあ…とも思っていた。

そんな森に、ある施設の建設計画がもたらされ、住民への説明会が催される。施設建設側の担当者の説明住民らは納得できず、場は紛糾する。住民側の意見は、端折らずにきちんと捉えられる。このあたりも、まさに濱口感そのもの。

巧は言う。この地はもともと、未開拓の場所を少数の者たちが開拓したので、歴史は浅く、その意味では誰もが移入者である。だから我々とあなた方との間に、本質的な差異はない、と。

村長(だったかな?)の男性は言う。環境保護とか、そんな大げさな話ではない。上に住む者と下に住む者がいて、モノはすべて上から下へ流れるのだから、上の者はそれに配慮しなければ、上には住めないのだ、単にそれだけのことだ、と。

この、先住者と後から(強い資本を後ろ盾にして)やって来ようとする者らとの、軋轢というか共生とか倫理とか、人間同士の問題をどう扱うのかの切り口が、本作のテーマの中心になるのかなと。建設計画担当者の二人、高橋(小坂竜士)と黛(渋谷采郁)の、その後、巧や先住者との関わりによる彼らの心理の変容を見せていくことで、あらたな可能性を探るような展開なのかなと、そこまでの流れではそう思わされるのだが、しかしそれは違うのだ。花(西川玲)の失踪とその後の出来事をきっかけに、それまでの位相が切り裂かれてしまう。もはや、人間の揉め事はどこかへ消え去る。問題はもはや、別次元へ移行してしまう。

思い返せば、はじめから匂わされていたのかもしれない「森の論理」のようなものが、そこに牙を剥いたようのかもしれない。動物が動物を、一瞬でパクっと食べてしまうように、一瞬の後に、すべての生は危機に晒される。というか、それはただの摂理であって、危機でさえなく、それは倫理の果てである。

巧の最後の行動は、ほとんど説明のつかない、やむにやまれぬ衝動なのだろうけど、そこには何らかの、連鎖というか、世界の法則というか、従うべき掟には、従わねばならぬという、瞬時の生物的な判断のゆえだったのではないかと、そんな風にも考えたくなった。

まあ、このラストでは、何とでも言えるし、どうとでも考えられる。際限なく言葉を重ねることはある意味で容易だろう。そもそもタイトル「悪は存在しない」が、そのまま同様に、神も不在であり、それを代替し人間の位相に安定をもたらしてくれる何の摂理も期待できないと、容易に想像させるわけで、その地平であの森を見て、あの間もなく死に至るのだろう手負いの鹿を見るというのは、だからつまり、そのように空しい言葉しか呼んではこないのだ。

ただ、これをやるならもっと手前の掘り下げが、それこそ観客に苦痛を与えるくらいの勢いで、もっと執拗なやり方で準備されるべきなのではないかとか、そういうモヤモヤ感はあった。あるいはもっと人間同士の闘争が、前半にどっしりと腐臭を放ってないといけないのではと。傷を負った(聖なる)鹿に、最後の審判を下してもらった、あの鹿に一任させてしまったところが、あるようにも感じた。
とはいえ、やはり見応えのある作品だった。また機会があれば再見するだろう。

U-NEXTで、アラン・ロブ=グリエ「ヨーロッパ横断特急」(1966年)を観る。麻薬の運び屋が、トランス・ヨーロッパ・エクスプレスに乗って、パリからアントワープまでアタッシュケースを運ぶ。…そんな映画を作ろうと、映画監督と関係者ら計三名が、トランス・ヨーロッパ・エクスプレスの客室で話し合っている。

そんな彼らの検討案が元になっている場面、密売人のエリアス(ジャン=ルイ・トランティニャン)が、露店で鞄を購入し、パリ北駅のロッカー前に立つ男と暗号メッセージを交わし、鞄を交換して特急列車に乗り込むまでの、一連の様子が示される。彼は車内を移動し、関係者三名が話し合っている客室をも通り過ぎる。

映画はもともと、現実の俳優が演技をして、その撮影したフィルムを任意につなぎ合わせて作られている。だから映画がメタ構造の物語を取り扱うなら、たとえば映画構想中のスタッフたちのいる場所に、その構想段階の登場人物が介入してきたとしても、それは映画の撮影においてであれば、何ら驚くべきことではない。

本作はそのことにはおそらく十分自覚的で、本作が目指したことはメタ構造物語というよりは、物語の「登場人物」という不思議な存在について、それをどうにか別の方法と別の視点から取り扱えないかと、それを探る手段としてひとまず、お話そのものの「構想中レイヤー」が設定されたのではないかと考えてみる。

だからこの映画で面白いのは、物語や構造ではなくて、物語や構造を未だ与えられない登場人物の焦りや戸惑い、かすかな狼狽の感じ、これから自分が何をすれば良いのか一瞬先を手探りするような、それは人格への感情移入未満というか、未然の不確かさに関する手触りではないかと思う。

ただし演じる人間を、本当にセリフも与えられないまま撮影現場に投げ出すわけではないはずだ。演じる者は「現実」レベルでは、自分の役割をわかっている。にもかかわらず、そこにはある「支えの無さ」「不安定さ」が現われている気がするのだ。

もしそうなら、現実のアドリブを撮るよりも、「現実」レベルで役者が「支えの無さ」「不安定さ」を感じてない、にもかかわらず、作品によるべなさが漂うことのほうが、凄いと思う。

あるいは、つねに五分前の記憶を無くす人物が主人公の映画でも、同様の感触は得られるのかもしれないけど、その規則をもとに映画を組み立てることが出来てしまうなら、時空そのものは安定している。本作の主人公は、建前としてはマトモ(?)な麻薬の密売人のはずで、だから自分の仕事も段取りもわかっているはずで、始終わかってる風な行動を取る。しかし彼はそれを、ひたすら映画の登場人物の自覚と責任においてやっているだけなのだ。(筒井康隆虚人たち」的なところもあるのか。"今のところまだ何でもない彼は何もしていない。"登場人物。)

もちろん、役割以前の段階に放り出されて戸惑っている映画の登場人物というのは、すでにありふれているとも言えるだろうけど、本作の独自な感触は、登場人物エリアスにも内面があって、それは彼の性的な欲望として常に示される、それが反復されるポルノグラフィー、緊縛された半裸女性のイメージにあるだろう。それによって彼は、構想途中の映画の、未完成な筋書に付き合うことから、何とか脱しようとするかのようだ。

幼稚園時代はM先生、小学一年生ではS先生だった、若い女性という存在にそれで出会った。つまり学校とは、若い女性のいる場所だった。もちろん謎の論理で校内を歩き回る壮年男性たちも、老人らもいた。なにしろ、あの男女らは少なくとも我々子供とは異なる者たちだった。

小学二年のときは、B先生で、女性だったがすでに若くはなく、おそらく母親より少し上くらいと思われる。色々なことに面倒くさそうだったが、諸事てきぱきやる感じで、それはそれで、僕は好ましく感じていた。若い女にはない持ち味だよなとさえ思った。

小学三年とときは、K先生で、容姿や物腰に関しては悪くないと当初思ったものの、ほどなくして、これははずれを引いたなと思った。色々な意味で厄介な女だった。そこそこ容易いのだけど、どこかでご機嫌を取らねばならないところはあった。そういうケアの必要な相手もいるのだと知ったのは、あの教室で僕だけではなかったはず。

思い込みが強くて、感情過多で、それを自分の長所だと思ってるふしがあった。たまに職業差別的なことを口にする人だった。

小学四年になって、W先生、僕にとって初の男性教師だった。男性の面白さをはじめて知る。そして、たまに平手で殴られた。そういうことが、当時はまだ普通だった。それをされて、これが教師に殴られるということかと思い、まるで初体験を経た気になった。面白がったり、たまに殴られたり、そういうことを繰り返した。

卒業式が終わって、教室に戻ってきたら、W先生はとつぜん男泣きをはじめた。声を上げて泣くのである。それで教室中からすすり泣きの声が上がり、僕もその場でずいぶん泣いた。悲しかったから泣いたのだが、同時にこれもまた初体験を経たという感じだった。もちろんまったく泣かない者もいた。笑顔を腕で隠しながら、周囲を見回してる者もいた。それはそれで良かった。人それぞれなのだ。

幼稚園時代が五歳から六歳なら、保育園時代は四歳ということになる。四歳の頃の記憶となると、まとまりのある出来事ではなく、脈絡をうしなった断片のいくつかでしかない。でもそれらが自分にとっては最古の記憶ということになる。

ならば麦茶という飲み物の味を僕は四歳のときに知ったのだなと思う。保育園に備え付けられていたポットの冷えた麦茶を飲んだときの味を、今でも麦茶を飲むたびに思い出せるというか、麦茶の味とはつまり四歳の頃に飲んだあの液体の味であり、それはあの時と今とでまったく変わらない。

(五十年近い時間が間に挟まっているとは思えない)。(作り置きの麦茶は冷蔵庫に入れておくと数日で味が落ちてくるのだが、まだ作りたてで新鮮で香りの消えてない麦茶が、まさに四歳のときに飲んだ麦茶の味なのだ)。(ほとんど「ラスト・エンペラー」のコウロギみたいだ)。

実家で母が作ってくれた味噌汁は、何の変哲もない市販の合わせ味噌だったけど、夏休みに両親の実家に帰省すると、その家の味噌汁は家と違って赤だしなのだった。

たぶんこれは十歳前後の記憶なのだと思うが、朝になって、無理やり起こされて、まだ猛烈な眠気を払いきれないままで、朝食の支度が済んだ机の前に座らされる。目を閉じればすぐにも眠ってしまいそうな眠気のなかで、無理やりご飯を口に運び、赤だしの味噌汁を飲む。

そのとき口に入ってきた味噌汁の味わいも、それを口にするたびに、あの朝の抗いがたい眠気と、そんな口と喉を通り抜けていった味噌汁の味がよみがえってくるというか、僕にとってはこれこそが赤だし味噌汁の味なのだ。

しかし麦茶にしろ赤だし味噌汁にしろ、ここ数年であらためて好きになってきたのが不思議だ。別に郷愁とかそういうのを感じたいわけでは全然なくて、どちらも単にとても美味しいと感じるのだ。