1960年代スイスが舞台のレズビアンロマンス~The Good Women

 スモックアリー劇場でThe Good Womenを見てきた。出演者であるレナ・リドルとフェイス・マッキューン、演出家のソフィ・マースデンが作った台本で、登場人物はリドル演じるドイツから移民してきたアルコール依存症気味の主婦トゥルーディと、マッキューン演じる料理番組ホストのベティだけである。ふとしたことからふたりが出会い、夫とうまくいっていないトゥルーディは家出してベティの家に転がりこむ。何事もきちんとしていないと気が済まないベティはちょっと破天荒なトゥルーディを愛するようになるが、なかなかふたりの関係はうまく前に進まない。

 スイスは1970年代まで女性に選挙権がなかったというくらいで非常に抑圧的な国で、それを背景にした作品である。ひとつだけのセットで、そこがベティの家になったり撮影スタジオになったりする。ふたりの全く性格が違う女性がだんだん近づいていく静かで心温まるレズビアンロマンス描写と、真面目なベティが最後に料理番組で全てをブチまけるラストのメリハリがしっかりしていて、とても楽しめる小品だ。

女ハムレットの復讐~『マッドマックス:フュリオサ』

 『マッドマックス:フュリオサ』を見てきた。言わずと知れたジョージ・ミラーのマッドマックスシリーズの最新作である。『マッドマックス 怒りのデス・ロード』のプリークェルである。

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 お話は文明崩壊後、緑の場所に住んでいる幼いフュリオサ(アリーラ・ブラウン)がうっかりしていてバイカーホード(バイカーギャング的なもの)に誘拐されるところから始まる。母親のメリー・ジャバサ(チャーリー・フレイザー)が追跡するが、結局つかまってメリーはディメンタス(クリス・ヘムズワース)率いるバイカーホードに殺害されてしまう。フュリオサは一言も口をきかなくなるが、ディメンタスの養女として育てられることになる。やがてフュリオサは政略結婚を見据えてイモータン・ジョー(ラッキー・ヒューム)に譲り渡されるが、逃げ出して男装し(このへんで演じている役者がアニャ・テイラー=ジョイになる)、ウォー・リグの車隊の司令官であるジャック(トム・バーク)について車のことを学ぶ。

 フュリオサが『マッドマックス 怒りのデス・ロード』にたどり着くまでいかに苦労してきたかということを見せるもので、全編、女性の静かな怒りに満ちた復讐劇である。フュリオサは寡黙な女性で、小さい時は自ら口をきかなくなるくらいであまりセリフがないのだが、中に自分が受けた抑圧への怒りがふつふつとみなぎっており、耐えて復讐の準備をする。激しいカーアクションとか砂漠などのマッドマックスシリーズっぽい要素を削ぎ落とすと、パク・チャヌクあたりの映画に出てきてもおかしくないようなヒロインだ。機をうかがい、耐えながら母を殺した相手(義理の父に近い存在)に復讐するまでの話なのでちょっと『ハムレット』みたいな感じで、不機嫌そうになるほど魅力があるアニャ・テイラー=ジョイには是非『ハムレット』をやってほしいと思った(もちろんハムレット役で)。私は職業病で王子様とか王女様が親の復讐をする話に弱いので、当然大変面白かった。

 新しいキャラクターとしてディメンタス役のクリス・ヘムズワースも見ていて楽しい…というか、バイカーギャングの独裁的で残虐なトップのくせに妙に愛想がよくてスタイルにもこだわるところがあり、着ているものはヘアメタルのスターみたいだし、『華氏451度』に出てきそうな歩く辞書のヒストリーマン(ジョージ・シェフツォフ)を連れていて何かあるたびに知識をみんなに披露させていたり、複雑な美的センスがある。イモータン・ジョーなどに比べるとはるかにユーモアのセンスがあるのだが、政治家としてはそんなに秀でていないところもあり、部下たちが不満を募らせて暴れてしまい、その責任を他人になすりつけてごまかそうとするなど、わりといい加減である。なお、バイカーホードのまとまりがあんまりないのはけっこういいと思った…というか、正直バイカーギャングがそんなに一糸乱れぬ忠誠心で仕事をするとは思えないので、仲間割れの描写などはむしろリアルな気がした。

 そういうわけで非常に面白かったのだが、3箇所くらい気になったことがあった。ひとつめは『マッドマックス 怒りのデス・ロード』を見ていないとほとんど面白くないのでは…というところがけっこう多いところである。「ここがあの作品につながるのか」というところがたくさんある。2つめは既に言われているが、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』に比べるとCGの映像が洗練されていないと思えるところがある。3つめは『マッドマックス 怒りのデス・ロード』に比べると全体的に暮らしぶりの描写の解像度が少々低いように思える…というか、男装している間フュリオサはどうやって生理を隠していたんだろうとか、子どものフュリオサが逃げた後にイモータン・ジョーは探させなかったんだろうかとか、いくつか見ていて疑問に思うところがあった。まあ『マッドマックス 怒りのデス・ロード』はアクション映画史上に残るよくできた作品なので、それに比べて見劣りするのはしょうがないとは言えるが…

インセルを諷刺した鋭いコメディ~The Last Incel

 スモックアリー劇場でThe Last Incelを見てきた。ジェイミー・サイクス作・演出による芝居である。登場人物は5人のみ、60分の小規模なプロダクションである。

 4人のインセルがZoomでチャットをしているという設定の話で、全員四角い枠を持っており、これがPCの画面という設定である。途中でこの枠を持ってみんなで踊ったりするところもあり、ミュージカルみたいになるところもある。4人はインセルということで日々女性に対する敵意を語り合っていたが、メンバーのひとりであるアインシュタイン(Niall Johnson)の誕生日の前日、たまたま別のメンバーであるCuckboy (Fiachra Corkery) が女性とセックスしていたことがわかり、さらにはまだその女性マーカレット (Justie Stafford) が部屋にいてチャットに入ってきた…というところから始まるコメディである。

 マーガレットがチャットを見つけた時、インセルたちがアルコール依存症のサポートグループのふりをするところがとにかくおかしい。本人たちもインセルなのが女性にバレるとまずいとは思っているんだな…ということが感じられて笑ってしまう。マーガレットはジャーナリストで、これがアルコール依存症のミーティングではないことを見破っていろいろ取材のようなことをするのだが、その間にだんだんインセルメンバーたちの不安やトラウマが暴かれて、インセルコミュニティの矛盾したロジックも示されていくという展開である。鋭い諷刺でインセルカルチャーを批判しているが、薄っぺらくインセルを笑うみたいな話でもなく、スピーディでけっこう面白かった。

現代的に換骨奪胎されたゴーリキー~アビー座『太陽の子』(Children of the Sun)

 アビー座で『太陽の子』(Children of the Sun)を見てきた。ゴーリキーの戯曲をヒラリー・ファニンが翻案したもので、リン・パーカー演出、ラフ・マジック劇団による上演である。そもそも私はゴーリキーの芝居は『どん底』以外見たことも読んだこともないと思うので、全く予備知識のない状態で見た。 

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 第一幕はまるでチェーホフみたいなロシアの富裕層の没落ものである。三層になったセットで、それぞれの層は棚みたいになっており、いろいろ日常生活で使うものが突っ込まれている。序盤はかなりいろいろ椅子などの家具があり、そこで全然機能していない上流階級の家族のいざこざが描かれる。一番上の左に穴…というかワームホール的なものがあり、第二幕ではこの三層のセットからロシアの富裕層の居間が取っ払われて抽象的なディストピア空間のようなものが出現し、そこで著者のゴーリキー本人まで登場していろいろなモノローグが語られる。

 第一幕は主人公のプロタソフ(スチュアート・グレアム)に叶わぬ思いを寄せるリッチな寡婦ラニア(フィオナ・ベル)がかなりエネルギッシュで面白く、真面目なシーンでもひとりだけツッコミを入れて笑わせてくれる。メラニアは後半でも違う設定でプロタソフへの想いを寄せ続けている。一方で家庭内暴力のくだりはかなり怖い…というかけっこうイヤな感じがするし、終盤のサッカークラブを買うモノローグははっきりとロマン・アブラモヴィッチに言及していたりして、不穏なところも多い。あまりわかりやすいとは言えないと思うが、非常に野心的なプロダクションだと思った。

「素面のダブリン市民」第2回は住宅問題です

 「素面のダブリン市民」連載第2回は住宅問題です。いかにダブリンの住宅事情がやばいか、EUの選挙や住宅問題を扱った映画、本、博物館、私の経験などをまじえて書いています(家賃だけで破産しそうなんでどうか皆様、私の著書を買ってくだされ…)。6月のEU選挙ではアイルランドでホームレスの市民も投票します。

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スペイン風邪流行期のダブリンの産科を扱った芝居~ゲイト劇場『星のせいにして』

 ゲイト劇場でエマ・ドナヒューの小説を本人が戯曲化した『星のせいにして』(The Pull of the Stars)を見てきた。ルイーズ・ロウ演出でオールフィメールキャストである。

 舞台は1918年、スペインかぜが大流行中のダブリンの産科病室である。助産師のジュリア(サラ・モリス)は2人の妊婦の面倒を見ていたが、そこにブライディ(ガリア・コンロイ)がさらにもうひとり、非常に具合の悪そうな妊婦を運び込んでくる。手の足りないジュリアはブライディをアシスタントにして妊婦たちの面倒を見るが…

 オールフィメールキャストで、時代ものだが戦争やパンデミックといった非常に現代的な内容を扱っている(小説の執筆は新型コロナが流行る直前の時期らしい)。産科病室に入院している妊婦の間にも格差があり、そこが非常に丁寧に描かれている。デラ(インディア・マレン)はプロテスタントでミドルクラスだが、出産にまるっきり無知な若いメアリ(キアラ・バーン)はたぶんカトリックで貧しく、この2人の間には当然、政治的にも対立がある。夫がいないオナー(ユーナ・キャヴァナ)はさらに貧しく、たぶん精神疾患か障害を抱えている上、ひどい肺炎にかかっている。病室を監督しているキャスリーン・リン医師(メーヴ・フィッツジェラルド)は実在の人物で、アイルランド発の女性医師でレズビアン政治活動家だったそうで、イースター蜂起に参加したせいで保守的なデラにテロリスト呼ばわりされている。優しくて寛容そうなジュリアにもいろいろ見えていないことがあり、そんなジュリアが境遇の違うブライディを愛することで幸せが見えてきそうになる…のだが、最後はとても悲劇的な終わり方をする。ハッピーエンドにならないレズビアンロマンスを扱っているという点ではちょっと悲惨な気はするのだが、笑うところもあるし、ジュリアの最後の選択肢が心に残る作品である。

白人ばかりの劇場で見る南アフリカのひとり芝居~『カフカの猿』

 オクスフォードのオールド・ファイア・ステーションで『カフカの猿』を見た。これはカフカの「あるアカデミーへの報告」をファラ・O・ファラが戯曲化した南アフリカの作品で、トニー・ボナニ・ミヤンボによるひとり芝居である。2015年に初演されて以降、ロングランしているそうだ。同じタイトルの芝居が日本で上演されたことがあるのだが、たぶん別の話だと思う。

 後ろに学会バナーがあるだけのシンプルなところでやるひとり芝居で、上演時間も1時間に満たない。主人公はアフリカのゴンベでつかまった猿なのだが、檻から出るため人間に同化した暮らしをするようになり、今では人間になって、このたび学会に呼ばれて講演をすることになった…という設定である。しかしながら主人公は既に自分は人間であるため、現在の視点を通してしか自分の猿としての過去を語れない…みたいなことを認識しており、最初からそれを明確にして話している。

 ミヤンボは黒人男性で、劇場は私以外、たぶん見たところほぼ全員白人だったため、なんかもう劇場にいるだけで居心地が悪くなるような芝居なのだが、たぶんこれはそれが狙いなのと思う。黒人は猿と結びつけられて差別されてきたので、黒人男性が人間になった猿を演じるというのは、キャスティングの時点で奴隷制とか南アフリカアパルトヘイトその他、いろいろなアフリカの植民地政策、差別を思わせるものである。さらに途中でけっこう主人公が猿っぽい動きをするところがあり、この主人公は自由を得るために自分のかつての習慣を抑えつけて暮らしている一方、周りが望む時は猿らしさを見せて期待に応えることもしているんだろう…みたいなことが頭に浮かんでなかなかキツいところがある。

 この主人公は、昼の間は人間にまじって暮らしているものの、夜になると雌のチンパンジーがいる家に帰って、猿としての「喜び」を得るらしいのだが、昼の間はこのチンパンジーに会いたくないらしい。これは移民先で現地に同化した人の経験を鋭く描いている表現だと思う。夫婦で言葉が通じないところに移民し、夫は現地語を学んで同化して外で活躍しているが、妻のほうは現地語がわからず家にこもっている…みたいな現実にも存在する状況につながっている。シュールな寓話だが、現実世界を深刻に諷刺した作品でもある。