止まらない投票率の低下

 日曜日(10月22日)に2つの補欠選挙があった。1つは衆議院長崎4区、もう1つは参議院徳島・高知補選。

 報道はどこも「与党が勝った」「野党が勝った」を大きく取り上げていたが、国政選挙として社会的にいちばんの事件だったのは、どちらも投票率が過去最低だったことだ。補選だからということがあるにしても、低い。

 長崎4区の投票率は42.19%で一昨年の衆議院選挙の長崎4区の投票率と比べ12.89ポイントも低くなった。過去最低だった平成26年衆議院選挙よりも10.25ポイント低くなり、過去最低を更新した。

 徳島・高知では、徳島県が23・92%、高知県は40・75%で、両県とも参院選としては戦後最低になった。

 投票率が下がるのは政治に関心がないか。そうとは言い切れない。政治がまともにならなければ生活がよくならないことくらい、だれもが薄々気づいていることだ。それなのに投票所に行かない。それはいまの与党にも野党にも期待できないという消極的なあきらめが広がっているからではないだろうか。多くの人、特に若い層にはそういう政治がいま行われているように見えるということではないか。高齢者が投票所に行くのにしても、政治意識が高いからというより、長年のしがらみがあるからではないかと疑うと、こちらもあまりまともとは言えない。

マスコミにはどの政党の候補者が勝ったということよりも、なぜ、過半数の選挙人が投票所に向かわないのかという地味な問題にこそ目を向けてほしい。そして、選挙人が投票所に向かうようになるには、何がどう変わればいいのかを探ってほしい。

太田光の長過ぎる弁解の空虚さ

太田光は本当に「旧統一教会」の擁護者なのか 著書で明かしていた“真意”とは

AERAdot. 2022/10/23 11:30

を読んだ。

 

長い。読めば少しは納得できるのかと思ったら、全然そうはならなかった。もともと太田光の変化球的な話の危なさと核心を突いている感じは嫌いではなかったので、読み進むうちに、なるほど、そういうことだったのか、と納得できるところがあればいいと思いながら最後まで読んだのだが、そうはならかった。ただ、感覚的なダメ出しは、その先の議論を止めてしまうので、どこがどう問題なのかを順を追って考えてみることにした。関心のある方はどうぞお付き合いください。

 

≪「サンデージャポン」(TBS系)での世界平和統一家庭連合(旧統一教会)をめぐる発言で、毎回大炎上している爆笑問題太田光。ネットでは「#太田光をテレビに出すな!」がトレンド入りすることもあった。太田は本当に旧統一教会の擁護者なのか。その発言の真意とは。今年9月に発売された著書『芸人人語 コロナ禍・ウクライナ・選挙特番大ひんしゅく編』(朝日新聞出版)の「あとがき」では、旧統一教会に多くの紙幅を割いて言及している。期間限定で特別配信する。≫

 

とあった。発言の真意とは、とあるが、太田光氏はこれまで真意を発言していたのではなかったのか。いや、真意だからこそ、だれに何と言われようが、繰り返し同じことが言えたのではないか。

 

統一教会のことは途中から・・・

 

≪先日行われた参院選のさなか、奈良で演説中の安倍元首相が暗殺された。

手製の銃で安倍氏を撃った山上容疑者は、旧統一教会に恨みがあり、教団の関連団体にビデオメッセージを送った安倍元首相を狙ったと供述しているという。

安倍元首相が亡くなった二日後、通常通り参院選挙の投票が行われた。

私は再び選挙特番のMCをし、今度はおとなしく礼儀正しくやったつもりだが、明くる日のネットニュースでは、「太田炎上せず。期待外れ」と書かれていた。

八月現在。テレビでは連日自民党と旧統一教会の関係が報じられている。

(中略)

現在政治と旧統一教会の繋がりが連日報道される中で、安倍元首相を暗殺した山上容疑者のことはあまり語られなくなった。

当初、「宗教団体に恨みがあった」「政治信条に対する犯行ではない」などと、断片的に警察からリークされていた供述の情報も、あまり出てこなくなった。

テレビは自民党議員と旧統一教会の繋がりの追及に躍起になっている。一方向に過熱するのはテレビの悪い癖だ、と私は思っている。≫

 

悪い癖?

マスコミはいつもそう。マスコミ、特に民放は視聴率をとることが至上命題。昨今のNHK総合も。数の人々にウケようとするマスコミはいつだって一方向に過熱しやすい。それはテレビの悪癖ではなく本質なのだ。これを止めることはできない。私はNHKEテレの番組が割と好きだが、視聴率はどれもかなり低そう。テレビなのにミニコミ的、双方向的な感じがいい。ミニコミはそれに参加する一人一人が顔見せで自分の考えを発信する。そういう仕組みになっていない、無数の人々にウケることを是とする情報伝達方法は、無数の人々一人一人に考える時間を与えないし、責任ある発言、行動する機会も与えない。だから、暴走する危険を常に孕んでいる。

そんなことをいまさら言っても仕方ない。

 

≪山上容疑者の人物像についてはほぼ考察されないまま、断片的に聞こえてくる供述だけをたよりに事件の全体像を決めつけて「政治と宗教」の話にしてしまっていいのか。私には迷いがある。≫

 

この時点で太田氏にはすでに重大な思い違いをしている。

太田氏は山上の人物像に関心があるようだが、彼がどのような人物だったとしても安倍元総理の殺人を正当化することはできない。社会が関心を持つべきなのは、山上が安倍元総理を殺害するに至った動機乃至背景事情だけで十分であり、それを越えて山上の人物像がああだこうだと言い合ったところでなんの意味もない。

 

太田氏が、断片的に聞こえてくる供述だけをたよりに事件の全体像を決めつけて、というのは、明らかに事実誤認。事件の全体像は山上の供述内容だけに基づいて決めつけているのではない。山上のこと、山上の家族のことをよく知っている人たち、旧統一教会の元信者、旧統一教会を長年取材して来たフリージャーナリスト、旧統一教会被害者弁護団の弁護士などが公に語ることで、事件の全体像は明らかになって来たのだ。

 

そこに安倍自民党政治と旧統一教会の異常な関係が見えて来たということなのだ。調べれば調べるほど異常さが鮮明になって来る。旧統一教会が日本人を信者にする過程が宗教法人のすることかと考えると、むしろ、詐欺・脅迫集団と言った方が実態に合っていると思う。ただ日本では、旧統一教会は宗教団体として承認されているので、「政治と宗教」という括り方になるだけのことだ。「政治と宗教」の話にしてしまうのではなく、そういう深刻な問題が骨がらみになっている”宗教”団体と、日本社会はどう向き合うかということなのだ。迷う余地はない。

 

≪山上容疑者の母親は統一教会の信者で、家の財産を全て教団につぎ込み家庭が破壊されたという。そのことで山上容疑者は、教団を恨んでいたという。今回の事件の目的は統一教会を成敗することで、教団と関わりがあると見込んだ安倍元首相を暗殺したのだそうだ。

事件後、様々なことが明るみに出つつある。

統一教会は世界平和統一家庭連合と名称を変更し、今も悪質な霊感商法を続けているとされ、被害者が多くいて、自民党とも関係があったことは事実のようだ。≫

 

≪私も知らなかったことがたくさんあった。そしてそれは、私だけではなく、報道するテレビも放置してきた事柄だ。≫

 

ここを一人の人間の行為のように言うのはまちがっている。テレビ局という組織は放置して来たのではない。テレビという情報媒体としての関心が向かなかっただけのことだ。社会的に重大な問題が起こっていても、マスコミの関心が向かないなんてことは、日々現場仕事をしている弁護士の目からすれば日常的なことで、あえて言うほどのことではない。でも、と言うか、だから、せめて重大な問題だと気づいたときにはしっかり報道しろよな、なのだ。

 

自民党と旧統一教会の関係に問題があるなら、追及すればいい。私が迷うのは、テレビは自分達も追及しなくていいのかということだ。≫

 

ここには論理のすり替えがある。

太田氏が言う、テレビが自分達を追及するとはどういうことなのか。太田氏はそのことを具体的に書いていない。ここにごまかしがある。自分達を追及できない奴が他人をとやかく言うんじゃないという論理らしい。これはテレビ局に「お前ら、黙れ!」と言っているのと同じだ。テレビが黙ったらどうなる。だれが一番喜ぶか。太田氏が気づいていないとは思えない。そこがずるい。

では、テレビが自分達を追及するということはどういうことか。それは旧統一教会の被害者に「報道しなくてごめんなさい」と謝罪することではない。テレビのすべき謝罪は、自分達がもっとずっと前にすべきだった取材報道を遅ればせながら実行することだ。それしかない。自分達が見落として取り組んで来なかったことに取り組むということは、形を変えた自分達に対する追及なのだ。それよりもマシな追及があるのなら、太田氏はそれを説明してほしい。

 

全国霊感商法対策弁護士連絡会全国弁連)の人々の話によれば、彼らはずっと被害をマスコミや政治家に訴え続けてきたという。声を上げ続けてきたという。その声をすくい上げず、大きな問題にしなかったテレビは、自民党議員達と同じではないのか。≫

 

これはさらにひどい論理のすり替えだ。

テレビの怠慢と旧統一教会自民党議員の蜜月関係が同じであるはずがない。呆れる。

 

≪私はテレビが好きだ。私にとって大切なのは、政治でも宗教でもなく「テレビ」だ。≫

 

好きだとか大切だとかは、この際、関係ない。

 

≪今、テレビは迷わず政治を追及している。私はテレビのこの「迷わなさ」が危ういと思っている。≫

 

迷わない(迷いを外に見せない)のがテレビの特性だ。その危うさはテレビに常に付きまとっている。いまさら言うことではない。しかし、そういうテレビでも、取材して事実を発掘する過程にはさまざまな迷いがあるし、それがいまどれほどの報道価値があると判断する過程でも迷いがあるだろう。全く迷いがないというのは、報道に関わっている者たちを見下している太田氏の決めつけだ。

 

≪私の出演している「サンデージャポン」は、二十年以上続いている、政治も社会問題も話題として取り上げる番組だが、今まで一度も統一教会の話題を取り上げた記憶がない。今の若いスタッフには統一教会という名前すら知らないのがほとんどだ。≫

 

マスコミはそのときどきの社会の関心ネタを探して報道しているだけだから、こういうことになるのは当然。

 

≪今のテレビの過熱報道のきっかけが、山上容疑者の元首相暗殺という実力行使であることも私の迷いの原因だ。犯人は、統一教会に恨みがあったと言われている。それが本当だとすれば、山上容疑者は自分の恨みを晴らす為に「言葉」ではなく、「実力行使」に及んだ。≫

 

「実力行使」という言い方はテロを彷彿とさせる。太田氏は山上の行為をテロと言いたいようだ。どのみち、それは犯罪として刑事裁判で責任が問われる。

山上は母親を奪った旧統一教会を恨んでいる。安倍元総理を狙撃した前日にも旧統一教会の事務所の建物を撃っていたことからも明らかだ。

太田氏は続けて、「それが本当だとすれば、山上容疑者は自分の恨みを晴らす為に」と書いているが、これも一方的な決めつけだ。山上が安倍元総理を銃殺したことが恨みを晴らす為だったのなら、恨みを晴らした山上はいま晴れ晴れとした爽やかな気持ちになっているはずではないか。山上がそういう供述をしているという報道はない。山上はかつて自分に優しかった母親を取り戻したかったのに、それがどうしてもできなかった。希望はどんどん細り、ついに絶望になってしまった。社会で生きる希望をすべて失い、自分の人生に見切りをつけた山上にとって、安倍元総理の殺害はもう社会生活を続ける気持ちがなくなった者の、形を変えた自殺なのだ。だから、安倍元総理を狙撃した山上は狙撃後、逃げていない。その場にいた。その場で警察官らに殴り蹴られて重傷を負っても、さらには撃たれて死亡したとしても構わないと思っていたからだ。山上の行動はそのようにみえる。

 

≪供述の言葉が本当なら、今のテレビの動きは、犯人の思惑通りに進んでいる。何かを主張する為の手段が、殺人であっていいのか、テレビはそこに迷いがなくていいのかと思う。≫

 

山上の思惑?

山上の思惑とは何だ。太田氏はだれから山上の思惑を聞いたのか。その内容はどういうものか。太田氏は山上の思惑の内容を書かない。まるで、トランプ元大統領が大好きな陰謀論だ。山上に思惑があったとてしも、だから何なのだ。テレビがもっとずっと早くから報道していたとしても、山上の母親は戻って来なかったかもしれない。しかし、テレビが早くから報道していて旧統一教会が日本でほとんど活動しなくなっていれば、安倍元総理は旧統一教会との協力関係を育んで選挙に利用することなどなく、縁が切れていて、7月のような死を迎えることはなかっただろう。

 

≪今のテレビと社会の動きを、宗教に限らず、潜在的に社会や何かの組織に対して不満を持つ人間が黙って見ている。言葉に無力感を感じ、誰も自分の言葉など聞いてくれない。言葉で訴えることでは何も変わらない。それでも今自分が置かれている状況を何らかの手段をもって変えたいと強く思っている人々が見ている。そういった人間達が、今回の社会の動きを見て、「実力行使は有効である」と考える可能性はある。そういう人達が、第二第三の山上容疑者にならないように、テレビは、「政治と宗教の関係」を追及すると同時に同じ熱を持って、「実力行使」は何の効果もないんだ。ということを、メッセージとして発信し続けなければならないと思う。≫

 

太田氏はどんどん自分の世界にのめり込んでいく。

言葉の無力。そんなことは、だれだって感じていることだ。だれでも切羽詰まるほど悩むことだってある。が、≪そういった人間達が、今回の社会の動きを見て、「実力行使は有効である」と考える可能性はある。≫は、おそろしく抽象的な可能性でしかない。実力行使が有効であるためには、実力行使をした後がどうなるかを実際的に考える知力がなければできない。しかし、それを考える知力がある人は実力行使の無意味がわかるから、実力行使をしない。

太田氏のそもそもの間違いは、山上の思惑=陰謀論に陥っているところに原因がある。山上の犯行に思惑はない。あれは自暴自棄に陥った人間の自殺だ。だから、その先の「有効」性など考えていない。

 

≪大変難しいことだが、テレビはその発信をやめてはならない。自民党や旧統一教会の有害さを追及するのと同時にだ。むしろそれ以上の熱量でだ。

私はそう思う。≫

 

それは報道ではない。太田氏は一体どういうニュースをしろと言いたいのか。

 

全国弁連の人々は、三十年以上にわたり、暴力ではなく、法に訴えてきた。どれほど言葉に絶望しても、言葉を何度も何度も繰り返し、実力行使ではなく、あくまでも言葉でメッセージを出してきた。

今回の犯人の行為はその言葉で闘う人々の努力を踏みにじるものだと私は思う。≫

 

弁護士の活動と山上の行為は次元が全然違う。弁護団は自分達だけががんばってきたなんて言っていない。そもそも被害者救済活動は弁護士だけが取り組んで来たわけでもない。言葉に絶望? いやいや、絶望していないから弁護団活動を続けているんですよ。弁護団から聴き取りをしないで、勝手な憶測で絶望させるな。山上の存在は、被害者家族はここまで追い詰められているという具体例なのだ。弁護士の努力を踏みにじっているというのは、太田氏の曲解、妄想だ。

 

≪これは私の推測に過ぎないが、おそらく全国弁連の人々は、今まで自分達の声が社会に届かなかったことに無力感を感じ、暗殺・テロというたった一つの行為によって社会やテレビの態度が豹変したことに対して、言いようのない悔しさと、苦痛を感じているだろうと思う。自分達の仕事を否定されたに等しいからだ。≫

 

≪これは私の推測に過ぎないが、おそらく≫というくらいなら、弁護団に直接問えばいい。それをしないで、≪私の推測≫を基盤にするのは救いがたい。

 

≪闘う為の武器はあくまで法であり、闘う場所は法廷でなければならない。そのことを一番信じているのが、弁護士の人々だろう。だからこそ、苦しいだろうと思う。その苦悩は記者会見で発せられた「私たちの力不足」という言葉に感じた。それでも、「この機会」を逃してはならないと、「毒を飲み込む」覚悟をしたのではないだろうか。本来なら、犯人の行為を徹底的に否定しなければならない法律家としての自分と、とはいえ、今の機会を逃すわけにはいかないという被害者の側に立ち、真実を追求する自分。≫

 

≪闘う為の武器はあくまで法であり、闘う場所は法廷でなければならない。≫は、支離滅裂だ。これは法律家である弁護士については当てはまるが、被害者家族には当てはまらない。法でもなく法廷でもなく、様々な方法を駆使して母親を取り戻そうとするのは、被害者家族として当然だ。法だ、法廷だ、とは何と的外れな。

≪そのことを一番信じているのが、弁護士の人々だろう。だからこそ、苦しいだろうと思う。その苦悩は記者会見で発せられた「私たちの力不足」という言葉に感じた。≫は、ますます脱線している。弁護士は法を駆使し法廷で戦うのは仕事だからであって、信じているのではない。弁護団の「私たちの力不足」という反省、苦悩は、被害者家族である山上を犯罪者にしてしまったことに向けらている。彼が法廷で闘わなかったことを「私たちの力不足」と言っているのではない。

 

≪その「二つの自分」の葛藤は、私には想像を絶する。迷いも苦悩も覚悟も。彼らの判断はおそらく苦渋の決断だと私は思う。そこには迷いや葛藤もあっただろうと。そして今も葛藤しているのだろうと。≫

 

呆れる。完全に自分だけの世界。

 

≪果たしてテレビはその苦悩を味わっているだろうか。覚悟をしているのだろうか。一瞬たりとも考えただろうか。

今の過熱する報道を見ていると私にはそうは思えない。≫

 

テレビは太田氏が言うような苦悩などする必要はない。テレビは自分がやるべきだと考えたことをやればいい。

 

≪今回の凶行で、山上容疑者が自分達の思いを代わりに遂げてくれたと感じている、容疑者と境遇が似ている二世信者がもしいるとしたら、彼らにテレビは言わなければいけない。彼は英雄でもカリスマでもない。ただの「凡庸な殺人者」に過ぎないと。それは「言葉」を諦めたからだと。彼を英雄視するのは、今まで信じていたカリスマを別のカリスマに代えるだけの行為だと。≫

 

被害者家族は元の生活を取り戻したいだけだ。それさえわかっていない太田氏。「凡庸な殺人者」は、ハンナ・アーレントエルサレムアイヒマン~悪の陳腐さについての報告』(みすず書房)のなかで、エルサレムで行われたアイヒマンの刑事裁判を傍聴していたアーレントが、アイヒマンは稀代の極悪人などではなく凡庸な人だったことを明らかにし、悪の凡庸さの問題性を指摘していることになぞっているようだが、自殺願望の山上と何の罪もないユダヤ人を淡々とガス室送りしていたアイヒマンは全く違う。自分が読書家であることを自慢しているだけ。

 

≪言葉は簡単に人に届かない。社会は簡単に変えられない。幸福は簡単に得られない。簡単に天国へは行けない。たとえそれがどんなに残酷なことであっても。それが現実だ。それでも言葉を繰り返すしかないんだと。≫

 

自己陶酔の世界。

 

≪山上容疑者の供述が本当だとすれば、最初は教団の総裁を狙うはずだったが、諸事情が重なり叶わず、標的を安倍元首相に変えたそうだ。≫

 

≪ここから私が推測するのは、容疑者は状況によって標的を変えられるということだ。≫

 

ここからの妄想がますますひどい。

 

≪仮に安倍元首相の警備が厳重でそこでも目的が果たせないと判断したら、容疑者はまた標的を変え、今度は「教団を許容する社会が悪い」として、何の関係もない街ゆく人々を無差別に殺していた可能性もあるのではないかということだ。あるいは安倍元首相と同じようにメッセージを出していたトランプ元大統領を暗殺した可能性もあるということだ。≫

 

ない。

 

≪仮にそうなった時でも、テレビは今の報道と同じ方向に向かうだろうか。私はそうは思わない。今のテレビは何も自分の頭で考えていないからだ。≫

 

太田氏の≪仮≫は妄想。妄想を前提に論じるのはばかげている。が、どのような事態が起ころうが、テレビはそのときできる報道をすればいい。それだけだ。

 

≪「政治と宗教」というテーマには向かわず、宗教に母親が洗脳され家庭を壊された少年が罪もない社会の人々に向けた自分勝手な逆恨み、あるいは、日本人がアメリカの元大統領を暗殺したことに対する国際的な問題、というようなことに向いたのではないだろうか。≫

 

妄想の暴走。

 

≪山上容疑者の動機は、全く変わらなくてもだ。

我々に伝わってくる容疑者の動機はそれほど定まっていない、標的を変えられるほど、いい加減で、あやふやなものだ。≫

 

いやいや、明確だ。旧統一教会のトップ。それがダメなら、トップに準じる目立った人物。そういう人(たち)に憎しみの焦点は絞られている。

 

≪彼の本当の恨みの矛先は何か?

私は母親だろうと思っている。山上容疑者が向き合うべきは母親だった。彼はそれをごまかしている。≫

 

恨みの矛先は母親を奪った旧統一教会だ。それ以外にはない。太田氏にはまだそれがわからないのか。

 

≪容疑者が感じていたのも「言葉の無力」だ。

言葉が通じなくなった母親。母親の言葉を理解出来なくなった自分。≫

 

「言葉の力」「言葉の無力」の話でまとめたい太田氏の勝手な決めつけ。

 

≪容疑者は、本当は母親の言葉を取り戻したかった。そして自分の言葉を母親に理解させたかった。心の奥まで届けたかった。そういう言葉を持ちたかった。しかしそれはどうしても叶わず、彼は言葉に失望し、諦め、絶望し、言葉を捨てたのだろう。あるいは初めから言葉など信じていなかったのかもしれない。≫

 

勝手に物語を作って悦に入っている。

 

≪この問題は、まだまだ終わらないだろう。≫

 

この問題? まだまだ終わらない?

そもそも太田氏が問題にしていることがズレているから、その終わりが何なのかもわからない。

 

≪この本の中に「ジョーカー」という章がある。その中で私はホアキン・フェニックスのジョーカーよりも、ジャック・ニコルソンのジョーカーの方が好きだと書いた。

ホアキン・フェニックスのジョーカーは、やけに深刻ぶって、シリアスで、ちっとも笑えないからだ。

ジャック・ニコルソンのジョーカーは、コミカルで滑稽で楽しくて笑える。

ホアキン・フェニックスは映画の中で「僕の人生は悲劇だと思っていたけど、喜劇だ」と言う。

主人公が「これは喜劇だ」という映画は、決して喜劇ではない。喜劇映画の主人公はいつも物語の中で何をしてもうまくいかず、スベって転んで悲劇を演じているものだ。

その「悲劇」を客が見て笑い、「喜劇」に変えるのだ。≫

 

私はどちらのジョーカーも観ているが、どちらが「好き」という感覚を持ったことはない。どちらのジョーカーもその映画が作られた時代を反映している。ホアキン・フェニックスを主人公にジョーカーの映画を作った人たちは、観客に笑ってもらうためにこの作品を作ったのではない。そういう時代ではないのだ。お人好しだった主人公が周囲から疎まれ、ばかにされ、唯一心の支えにしていた母親も実の母親ではなかったという現実を突きつけられ、誰を支えに、何を支えに生きて行けばいいのかわからなくなるという絶望の淵に立たされ、自ら、これほどの悲劇は喜劇と呼ぶしかないと、悲しみのどん底を「喜劇」と説明するしかなくなっているのだ。主人公以外の登場人物たちのふるまいをみていると、この人が親切にしてくれていれば、あの人が親切にしてくれていれば、という場面がいくつも出てくる。映画は社会がジョーカーを生んだのだと言っている。映画は最後、ジョーカーだらけになる。ジョーカーに至るまでの悲劇は無数の人たちにもあるというメッセージだろうか。なかなかいい映画だと思った。2度観た。やはりいい映画だと思った。日本ではウケないだろうと思ったが、映画館はまずまずの入りだったし、ホアキン・フェニックスはこの作品でアカデミー賞主演男優賞を受賞した。アカデミー賞もときにはちゃんとした作品を選ぶのだと思った。

太田氏は≪ホアキン・フェニックスのジョーカーは、やけに深刻ぶって、シリアスで、ちっとも笑えない≫と書いている。太田氏は笑えるか笑えないかという二分法でしか考えていないらしい。笑えなくてもいい作品があるという基準を持っていないらしい。

 

≪山上容疑者のものとされるツイッターの中に映画「ジョーカー」の写真を載せたこんな呟きがあった。

「ジョーカーという真摯な絶望を汚す奴は許さない」≫

 

太田氏はなぜこの箇所を引用したのか。なんだ、こんなことを書いて、こいつは。くらいの浅さでしか読んでいないのではないか。山上がこのように書いた気持ちを全く理解していない。理解しようとする気もない。

 

≪ジョーカーも、山上容疑者も、母に裏切られ、孤独で、社会を憎んでいた。≫

 

ジョーカーは母親に裏切られたのではない。実の母親だと思っていた女性からそうではないと聞かされ、心の最後の支えを失ったのだ。山上の母親も山上を裏切ってはいない。母親に戻って来てもらいたいという山上の祈りともいうべき切実な思いを母親に受け止めてもらえない苦しさ。どちらも母親の裏切りではない。

 

≪そしておそらく、自分を「悲劇の主人公」だと思い込んでいた。≫

 

ここでまた太田氏の得意な、「おそらく」。で、「思い込んでいた」という決めつけ。思い込んでいるのは太田氏の方だ。

 

≪確かに気の毒な境遇ではあるが、冷たい言い方かもしれないが、この世界は誰にとっても残酷だ。≫

 

こういう一般論で切り捨てるか。私がかつて法廷でみた、できの悪い検察官、刑事裁判官みたいだ。

 

ホアキンのジョーカーは言う。「自分を偽るのは疲れた。喜劇なんて主観さ。そうだろ? みんなだって。この社会だってそうだ。善悪を主観で決めている。同じさ。自分で決めればいい。笑えるか、笑えないか」

私もこの言葉には全く同感だが、この後ジョーカーは言葉と裏腹に、彼自身笑えない道を選んだ。自分に嘘をついて。そして同じ、社会に不満を覚える人達の救世主となり、もてはやされる。彼はどこまでいっても単なる悦に入った凡庸な悲劇の主人公だ。≫

 

太田氏はジョーカーの言葉には全く同感だと書いたすぐあとに、≪この後ジョーカーは言葉と裏腹に≫と書いているが、ここに太田氏の言語の理解能力の低さが現れている。

言葉は言葉を発した人の真意を常に表しているわけではない。その人がその言葉を発するまでに生きて来た過程を知ることによってその人の発する言葉の意味がより正確にわかる。映画はそれがわかるようにできている。

ジョーカーが≪自分を偽るのは疲れた≫と言っているのを文字どおり受け止めてどうする。ジョーカーは周囲に受け容れられるよう自分なりにいろいろ努力していたのだ。それは偽りではない。そして、何もかもうまくいかなかったという思いに至ったとき、自分の過去の努力を≪自分を偽る≫という言い方をするしか気持ちの納まりようがなかったのだ。

≪喜劇なんて主観さ。≫にしても、主人公はもともと喜劇を共感だと思っていたのだ。それを主観と断定したのは、他者との共感を失ったからだ。その心の変化が太田氏にはわからない。

≪みんなだって。この社会だってそうだ。善悪を主観で決めている。≫も、主人公はもともと善悪を個々人の主観ばらばらでいいなどとは思っていなかった。社会から孤立したと思いつめた時に、≪善悪を主観で決めている≫という決めつけるように変わったのだ。そういう変化が太田氏にはわからない。

だから、≪私もこの言葉には全く同感だが、この後ジョーカーは言葉と裏腹に、≫という逆説になって行く。これは太田氏がジョーカーが言っている言葉を字面でわかったと思い込んでいるだけで、深く理解しようとしなかったことに問題があるのであって、主人公の言葉とその後の行動は完全に連動している。

 

≪「喜劇なんて主観さ」

その通り。≫

 

と太田氏は念を押す。が、そこがそもそも違う。喜劇は共感だ。「劇」とあるとおり、演じる側と見る側があって成り立つ共感の世界だ。ただ一人の内面だけは成り立たない。

 

鈴木宗男参院議員の持論について

デイリースポーツ 2022/10/21 20:13

日本維新の会鈴木宗男参院議員が21日、自身のブログを更新。世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の関連団体が、自民党所属の国会議員に「推薦確認書」に署名を求めたとされる問題に関して、「大きく報道されているが、問題視されることだろうか」と疑問を投げかけた。

 

 鈴木氏は「選挙の際、さまざまな宗教団体はそれぞれ推薦や支持を打ち出す。共通の価値観、考えがあってのことではないか。旧統一教会に限ったことではないのに、どうして差別的とも受け取れる報道になるのかと不思議に思う」と持論を展開した。

 

 さらに「例えば、憲法改正反対の宗教団体が自民党候補者を推薦しているケースもある。勿論、憲法改正推進の宗教団体がそれぞれ推薦している例もある。当然の事を何か問題だと扱う、扱われる状態、状況に、何か腑に落ちない」とつづった。

 

 続けて「合わせて『公正、公平を旨として』と普段強調している政党、政治家が、一方的な判断で批判をする事に釈然としない。これで良いのかと自問自答する次第だ」と述べた。

 

 「信仰と政治倫理の問題は全く別の問題である。いわんや霊感商法、詐欺まがいの悪徳商法に宗教団体が関係することは言語道断である」と反社会的な行為は別と断りつつも、「その上で問題をきちんとわけて議論すべきではないか。興味本位の取り上げは、良い事ではない」と持論を述べた。

 

 実はわたしも鈴木議員と同じようなことを考えた。つまり、自分(の所属する政党)と同じ考え方の団体を推薦するのは当たり前ではないか、と。

 この部分は鈴木議員と同じだ。

 しかし、反社会的な行為は言語道断だが、「問題をきちんとわけて議論すべきではないか」という部分には異論がある。

 まずは2つをわけて考えるのはいい。だが、わけたままではいけない。分けて考えた上で、反社会的活動をしている団体が自分(の所属する政党)の基本政策と同じ考えであれば、推薦していいのかという問題設定をする必要がある。

 旧統一教会自民党の基本政策を提案しているなら、それだけで大問題だが、そこまでは言えないのではないか。そうではなく、旧統一教会自民党の基本政策と同じ考え方を持っているというのはポーズで、実は反社会的活動をするために自民党の基本政策と同じ考え方を持っていると標榜しておいた方が活動しやすいということですり合わせているのだとすればどうか。自民党議員としては反社会的活動を推奨するつもりはないとしても、旧統一教会自民党議員から推薦してもらっているという宣伝を前面に出せる。それは、旧統一教会が本来狙いとする活動をしやすくための“小道具”として大いに機能するだろう。

 鈴木議員が2つを分けて考えるべきだというのはいいとしても、その上で両者の関係を考えなければ、問題の本筋から外れることになるのではないか。

安倍元首相が殺害されたことについて警察に法的責任はないか

安倍晋三元首相が殺害された事件では警察の対応の落ち度が話題になっているが、ここでは過失責任としての落ち度を考えてみたい。

 

2010年11月4日午前4時過ぎ、「夫が殺される!」と訴える妻の110番通報で秋田市内の弁護士宅に駆けつけた長身で屈強な二人の警察官の目前で夫(弁護士)が身長の低い高齢男性の侵入者に手製の凶器(剪定鋏を解体した片刃)で殺害された事件の国賠訴訟での警察(秋田県)の主張からすると、落ち度はない!

 

警察相手の国賠訴訟では、警察の言い分は、常に、そもそも警察官には個々の市民との関係で法的な保護義務がないというところに立っている。

警察官職務執行法第4条では、「警察官は、人の生命若しくは身体に危険を及ぼ・・・す虞のある・・・危険な事態がある場合においては、その場に居合わせた者、・・・その他関係者に必要な警告を発し、及び特に急を要する場合においては、危害を受ける虞のある者に対し、その場の危害を避けしめるために必要な限度でこれを引き留め、若しくは避難させ、又はその場に居合わせた者、・・・その他関係者に対し、危害防止のため通常必要と認められる措置を・・自ら・・・とることができる。」と規定している。

秋田事件の原告は、これは警察官の権限を規定しているだけでなく、実際に市民が危険な場面に遭遇しているときは警察官は危険を回避するための行動をとる法的義務があると主張した。

これに対して、県(警察)は、法律は警察官の権限を規定しているだけで、市民との関係での法的な義務を規定しているのではない。警察官は110番通報で駆けつけたのは通信指令課指令室の命令に従って出向いたのであって、110番通報した市民やその家族との関係で避難させる義務が発生しているわけではない。だから市民が警察官の目前で殺害されたとしても、被害者との関係で警察官の法的な保護義務違反という問題は生じない。

この言い分は、被害者が安倍元首相であっても基本的に同じはずだ。

 

県(警察)は、市民に具体的に生命の危険が発生している場合にはその市民との関係で保護義務が発生するのだとしても、犯人が剪定ばさみを解体した凶器を持って来ていたことを警察官は事前に知らなかったし、気づいたのは弁護士がまさに刺されそうになった瞬間だったから弁護士を避難させる時間的余裕はなく、避難させる義務はないと主張した。

 

秋田地裁判決(2017年10月16日)は、具体的な危険が発生している場合には保護義務が発生するとしたものの、警察官が到着してから凶器で刺されるまでの時間が2分25秒しかなかったから、防ぎようがなく、弁護士を避難させることができなかったとしても過失はないとした。判決は、秋田県では殺人事件がほとんど発生しないことから警察官が慢心するのもやむを得ないとまでいい、警察官の過失を否定した。

 

このとき現場にいた二人の警察官の法廷証言によると、二人とも現場対応に問題があったとして懲戒処分を受けていないし、翌日以降もそれまでどおりに勤務していたとのことだから、警察組織内の評価では二人の警察官に特段の問題はなかったということだ。

 

これを今回の事案に当てはめると、安倍元首相の命も法的には個々の市民の命と同じだから、警察官は警察組織の職務命令によって安倍元首相を守っているだけであって、安部元首相との関係で保護義務(危険から避難させる義務)を負っていたわけではない。

 

ただ、安倍元首相にはSP(Security Police)、警視庁警備部警護課の要人警護任務専従警察官が一人ついていたようだが、この警察官も安倍元首相との関係で法的に保護義務を負っていないのだろうか。

 

安倍元首相に具体的に生命の危険が発生している場合には、近くにいる警察官に安倍元首相との関係で避難させる義務が発生するとしても、安倍元首相を殺害しようとしている犯人が手製の拳銃を持っていたことを現場にいた警察官はだれも事前に知らなかった(気づかなかった)。具体的に生命の危険が発生していることに気づいたのは安倍元首相が撃たれた後であったから、避難させようがなかった。

 

秋田地裁判決の考え方だと、安倍元首相が狙われ、安倍元首相を外した1発目の弾丸が発射されたときと安倍元首相に命中した2発目の弾丸が発射されたときの間は約3秒しかなかったということだから、防ぎようがなく、避難させるための行動をとらなかったとしても、警察官には過失はなかったということになる。奈良県では毎年何件くらいの殺人事件が起こっているのか。発生件数が少なければ、それも警察官に過失がなかったと評価する重要な事情になる。

 

仙台高裁秋田支部判決(2019年2月13日)は、警察官は110番通報で駆けつけた時点から110番通報した者やその家族との関係で避難させる義務を負っており、本件ではいくつもの段階で弁護士を保護することができたのに、失態を重ねたとして、警察官の過失を認定した。

 

高裁判決では原告は逆転勝訴しているが、原告が最も問題にしていたのは現場に来た警察官よりも通信指令室の対応だった。現場の警察官の誤った対応は通信指令室の警察官の対応にこそ問題があり、それが事件現場に臨場する警察官の意識と行動に連動し、一連の行為として過失があると訴えた。

午前4時過ぎ、妻が110番通報したときの受理担当警察官は、必死に助けを求める妻に対して、繰り返し住所や氏名を聞き直し、挙句に「旦那さんはいないんですか」とばかな質問をして妻を苛立たせた。指令担当警察官は妻の訴えを聞いているにもかかわらず、現場に向かう警察官らに「喧嘩口論事件、発生」と伝えた。午前4時過ぎで勤務に疲れている警察官は「喧嘩口論」と聞いて、大した事件ではないと受け止めたに違いない。二人の私服警察官は無言で勝手口から上がり込むと、侵入者から拳銃を取り上げた弁護士を無言で抑え込み、直後に侵入者が弁護士の左胸部を凶器で正面から2度、刺し、2度目の刺突が致命傷となって弁護士は死亡した。この間、二人の警察官はずっと無言のままだった。弁護士に「逃げろ!」と言うでもなく、侵入者に「止せ!」と怒鳴るでもなかった。

指令担当警察官の軽微な事件であるような言い方こそが、事件現場に向かう警察官らの慢心を生み、それが現場に立ち入ったあとの警察官らの落ち度の積み重ねに繋がったことは明らかだ。

しかし、地裁判決も高裁判決も、通信指令室の対応には問題はなかったと評価した。

 

安倍元首相が銃撃を受け殺害された事件では、犯人に撃たれたときの警備体制に問題があった。そもそも360度開けた場所で安倍元首相が台の上に上がって数分間立ち尽くすという状況を警察として認めることが極めて危険だったのではないか。その場合、安倍元首相が360度どこから狙われても守れる体勢を作っていたか。SPは安倍元首相の真後ろに立って反対方向を警戒するという立ち方をしなかったのか。犯人が比較的近い位置から1発目を撃とうとしたときにそれを制止できるよう警察官を配置しなかったのか。1発目の弾丸が安倍元首相を外れたとき、すぐに安倍元首相を伏せさせる警察官を配置しなかったのか。

 

秋田事件の弁護団の考え方からすれば、このようなことも警察の過失として問題にすべきことになるが、警察の考え方ではもちろん、秋田地裁、仙台高裁秋田支部の判決の考え方では警察の過失として問題にならない。このような警察の主張や裁判例の積み重ねが警察の市民に対する責任意識を弱めている。

 

その延長線上でみると、判決で負けたわけでもないのに、警察庁がいま落ち度として認めているのは極めて異例だ。多くのマスコミや一般市民が撮影しているなかで安倍元首相という著名人が幾人もの警察官がいる場であっという間に殺害されたことに、何の落ち度もないという弁解がしにくかったからだろう。また、その落ち度もあくまで警察組織内の仕事のありようとしての落ち度であって、安倍元首相の命との関係で法的な責任(過失責任)があるというものではないだろう。

 

これまでの警備公安事件では、安倍元首相が話しているところを前方からヤジるような事案ばかりだった。それが今回は背後から拳銃で撃つというものだった。警備警察が注意を払うべきはどちらなのか。どちらに重点を置くかで、警察官の配置の仕方、配置された警察官が注意すべきことは全く違ってくる。

安倍元首相銃殺事件が、日本の警備警察活動のあり方の根本的見直しを迫っていることだけは間違いない。

元首相の警備体勢のどこが問題だったかを考える

7月8日、安倍晋三元首相が銃で撃たれる事件が発生した直後から、その場面のスマホ動画がテレビでもインターネットニュースでも流れていた。

画面では、元首相が応援演説をしているところから始まり、1回目の爆発音(発射音)が聞こえ、元首相が後ろをふり返り、直後2回目の爆発音(発射音)が聞こえた瞬間、画面が大きくブレ、安倍元首相は画面に映らなくなった。

もう少し広い範囲が映っている画像では、元首相のすぐ後ろにいた人たちも一斉に後方を振り向いている。そして元首相が倒れたのを見て、近くの人たちが駆け寄り、安倍元首相を撃った男に駆け寄って捕まえる人が1人、2人。

 

俯瞰した場面を見て驚いた。元首相の背後がガラガラに空いているのだ。背後から狙われる。で、元首相の警備はどうなっていたのかがとても気になった。

 

9日朝刊の毎日新聞で、警備経験が豊富な現職の警察幹部が「演説の映像を見た限り、制服警察官が少なく、不審者が近寄れるスペースが広く空いていたように見える。通常なら考えにくい。」と言っているが、まったく同感だ。

 

そして、記事には、「街頭演説における警護の場合、一般的に候補者の前方に集まった聴衆に過激な抗議者がいないかを重視する。」とあるが、この「重視」がそもそもの間違い。前方にいる「過激な抗議者」は、ヤジるか、批判的な横断幕を出すか、卵を投げつけるかくらいのことしかしない。講義された側の命には別状はない。こういう輩は放っておくか、主催者が制止を求めれば足りる。警察が出る必要はほとんどない。

 

問題は背後だ。

記事は、「後方にスペースがあれば、警戒する警察官を多く配置して不審者の接近を阻止するのが不可欠だ。『隙間をつくらないのが警備の基本なのに』と警察幹部は今回の対応に首をかしげる。」とある。

駅前の歩道と応援演説をしていたスペースの間を車が走っていたから、ここを警備で埋めることはできなかった。それは仕方ない。しかし、それで背後の警備はいらないかとなると、そうではない。日本は拳銃の所持が法律で禁止されているから背後から拳銃で撃つ人はいないという前提で警備を考えていたのだとすれば、何ともおめでたい。警備としての実を成していない。目的を達成するためにどこかで拳銃を手に入れる人はいる、と考えた方がよい。現に、2010年11月、秋田市内で起こった弁護士刺殺事件では犯人は暴力団関係者でもない高齢者だったが、手にいれた拳銃で弁護士を撃とうとした場面があった。

拳銃で撃たれる可能性を考えると、車が走る道路を挟んだ歩道側に警備は必要だった。

奈良県警はここにどれほどの人数の警察官を配備していたのだろうか。

 

それと警備警察官が向いている方向が問題だ。

警察官は全員、元首相を背にする姿勢で周囲を監視していたか。警察官の役割は不審者の発見と、その者が危険な行動をとらないかどうかを判別し、制止することにあるから、全員が元首相を背にして周囲の人々を見ている必要があった。

歩道でこの警備をしていれば、今回の事件の被疑者が何か大きな黒い物を持っていることに気づき、犯行を開始する前に声を掛けることも可能だったかもしれない。

 

1発目は元首相に当たらなかった。2発目の前に被害を防ぐことはできなかったか。

1回目の爆発音(発射音)が聞こえ煙が立ち込める。2秒ほどして2回目の爆発音(発射音)。この2秒間に警察官は何をしていたのか。

1回目の爆発音の直後に元首相に体当たりして伏せさせた警察官はいなかった。それは柵の中に警察官がいなかったからだったのか。元首相のすぐ背後に歩道側を向いている警察官がいれば、真正面で起こった異常事態に反応して、元首相をその場に倒す動作をしたに違いない。そうすれば、元首相は転んだ怪我だけで済んだ。

しかし、残念ながら、そこにはそういう警察官がいなかった。

そうだとしても、歩道にいて元首相に背を向けて通行人を監視していた警察官は、目の前にいる被疑者が拳銃を構えるのをみて止めるか、1発目を撃ったところで飛びついて止めるかしていれば、2発目の発射はなく、元首相は死亡どころか怪我も免れた。いや、目の前の警察官にずっと見られている被疑者は撃とうとすることさえできなかったのではないか。

今日、札幌地裁で、警察官の証言の信用性を否定して、原告の慰謝料請求を認める画期的な判決があった。市民が警察相手(手続上は都道府県が被告になる)に起こす国家賠償請求訴訟で勝つことはめずらしいのだが、画期的なのは勝ったことではない。原告と被告で主張が異なる事実経過について、裁判所が、原告が事件当時、記録していた録画と音声を証拠として採用して、これと、原告の証言、原告に関わった警察官らの証言を比較して、原告の証言が録画と音声に合致しているとして、警察官の証言の信用性を否定し、原告の証言を事実と認定したことである。

この点だけをみると、警察の失態が露見し警察が負けたことがニュース、つまり、社会的に意味があるようにみえるかもしれないが、そうではない。

警察官の日常業務は日々、未知の人々との遭遇である。警察官の方が却って被害を受けることもなくはないだろう。しかし、はっきりした客観的な証拠がなければ、警察官と言えども、相手こそが粗暴な行動に出た加害者で自分は被害者だという証明がしにくく、泣き寝入りしなければならなくなることもあるだろう。

それが、この事件のように市民と警察官の動きや周囲の状況が継続的に可視化され、そのときの音声もわかるようになっていれば、手堅く適法に活動をしていた警察官は自分には問題がなく、相手市民にこそ問題があったということを簡単に証明できる。アメリカではすでに地域活動をしている警察官がウェアラブル端末を身に着けて地域を移動することになっており、これにより、警察署から現場の警察官の動きがリアルタイムでわかり、リアルタイムで助言することができる。新人の警察官もリアルタイムで警察署の助言、指示を受けることができ、問題が起こりにくくなる。警察官が対応していた市民側にこそ問題があったなら、そのこともすぐに確認できる。現場の警察官は、現場にいなかった上司に対して、面倒な弁解をするまでもなく、画像と音声で自分の職務活動の適法性を説明できる。

このような撮影は、事件性のない一般市民との関係ではプライバシー侵害になる可能性がないわけではないが、事件性がなければ短期間のうちに廃棄するということを制度化しておけば、プライバシー侵害性は低くなる。

敗訴判決を受けた北海道が控訴し、やがて逆転勝訴することがあったとしても、この判決が示した事実認定の仕方は、今後、他の裁判所でも採用される可能性は十分にあるから、警察活動の実務に影響を与える重要な判決である。

 

警視庁の機動隊員、拳銃で自殺?

7/8(水) 11:18配信(讀賣新聞オンライン)

「8日午前3時半頃、東京都千代田区富士見の路上で、警視庁第5機動隊の男性巡査長(25)が頭から血を流して倒れているのを通行人が発見した。巡査長は病院に搬送されたが、意識不明の重体。頭部に銃弾が貫通した痕があり、近くに拳銃が落ちていた。警視庁は、貸与の拳銃で自殺を図ったとみて調べている。  麹町署幹部によると、巡査長は7日朝から近くの在日本朝鮮人総連合会朝鮮総連)中央本部周辺で警戒勤務中だった。」

 

状況からして事故はあり得ない。他者による殺人事件も考えにくい。自殺にほぼ間違いない。

警察官が自殺するときに警察から貸与されているけん銃を使うという選択をすることは、警察官の上司、警察組織に対する明確な意図を含んでいる。

自殺するほどの悩みを抱えていたことを、周りの警察官がだれも気付かなったとは考えにくい。だれも相談に乗ってくれなかったか。それどころか、だれも(鈍感で?)気付かないような職場だったのだとすれば、この巡査長の職場での人間関係はそんなものなのだろう。そういう職場では、上司が、自殺に追い詰められるほど悩んでいる警察官にけん銃を貸与している。