主な単著

 『「公共性」論』honto電子書籍
 『ナウシカ解読 増補版』honto電子書籍



『不平等との闘い』正誤(初版):

21頁「『 人間 不平等 起源 論』 では ルソー は、…… ホッブズ 自身 の 議論 も また 興味深い もの です。」まるまる削除。(2016年6月17日)
178頁3行目の後に以下を挿入。
「またマル1とマル2´の場合と同様に、マル3´とくらべたとき、マル4´では定常状態への収束が遅く、生産水準が永続的に低くなってしまいます。出発点での分配が不平等であればあるほど、より一層収束が遅く、生産水準の低下がひどくなるのも同様です。」(2016年7月19日)

『AI時代の労働の哲学』正誤(初版):

165頁 ×「対外の問題は」 → ○「大概の問題は」(第二版以降修正)

『社会倫理学講義』正誤(初版)

22頁 ×「原題の経済学」 → ○「現代の経済学」

新しい終末論(ないしそれに代わる歴史目的論)としての長期主義

 マッカスキルを読んで面白いと思ったのは、長期主義は新しいタイプの終末論というか、歴史目的論だなというところ。コジェーヴを引き継いだフランシス・フクヤマの「歴史の終わり」論なんかもあるし、そうするとそれらを踏まえた東浩紀動物化論も終末論と言えるのかもしれないが、分析的伝統に立った哲学的倫理学においてこういう形で歴史哲学の復権が起こるとすると面白い。
 もちろん終末論といってよいかどうかはわからないが人類絶滅の可能性、存亡リスクについてはかねてからボストロムが論じてきたところではあり、その背景には当然終末論法、そして人間原理宇宙論がある。ただボストロム自身は存亡リスクを深刻に受け止めている一方で終末論法自体は受容していなかったのではないか。
 人間原理は(語弊のある言い方をすれば)この現時点における人類文明を(人によってはその一員である論者自身の実存を)開闢いらいの全宇宙史の帰結として位置づける。これをやりようによってはヘーゲルの歴史の理性と同型のものとして解釈することだってできるわけで、そうするとまさにそれは現在を歴史の終わり、全自然史の目的として特権化することになる。ただ長期主義の面白いところは、現在を「歴史の終わり」としてそこで話を止めるのではなく、むしろその先の長い未来をこそ主題化することだ。
 にもかかわらずマッカスキルは、この私たちの現在をある意味で特権化する。つまり産業革命前後から今日まで、人類社会は人口や生産力で測ってパーセントのオーダーでの成長を遂げてきたわけであるが、これは過去の人類史で言えばほんのつい最近のことであるのみならず、未来においてもこれほどの高成長は持続しえない、というのである。マッカスキルは古いタイプの保守的エコロジストではなく、人類の宇宙進出の可能性も考慮に入れている。しかし仮にそうだとしても、パーセントのオーダーでの成長は早晩止まらざるを得ない、と論じるのだ。思えばかつてドーキンスも『利己的な遺伝子』でパーセントのオーダーでの人口増加が続けばあっという間に既知の宇宙が充満してしまう、と指摘していたが、マッカスキルはもう少し真面目な計算で同様の指摘を行う。彼の指摘を真に受けるなら、パーセントのオーダーでの成長が可能な未来はせいぜい数百年のオーダーということになる。仮にこの見立てが厳しすぎたとしても、一桁上げても数千年であり、宇宙論どころか地球物理学的にも大した時間ではない。
 既に宇宙論の研究者によって、宇宙膨張ゆえに観測可能な宇宙の範囲自体がやがて相対的に狭まり、あらゆる天体はやがて光速を超えて我々から遠ざかって観測不可能になり、観測可能――つまりは到達可能な範囲は局所銀河群に限られしまう、と我々は指摘されていたはずである。ということは仮に人類が滅びずに何億年というオーダーで生き延び、宇宙に広がっていったとしても、いずれは利用可能な物理的資源の限界にぶつかるということである。もちろんその利用効率を上げていくことは可能だろうが、それにも上限が存在する可能性は高い。
 だからマッカスキルの長期主義は、かつての終末論とは別の形での歴史の目的論、現在という時代の特権化を行う論法として注目に値する。これまでの歴史の目的論はほとんどの場合現在ないし至近の未来を「歴史の終わり」、ひとつの大事業としての人類史の到達目標として特権化するものであった。長期主義はそれとはやや異なるタイプの歴史哲学を提示しようとしている。

 

 

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『消え去る立法者』合評会(9月9日・慶応義塾大学三田キャンパス)を終えて(続々)

 繰り返しになるが、社会契約論の図式は、神の立法とはことなり人々の合意へと国家の存在理由をおおいに「民主化」しているように見えるが、「あらかじめ先取りされた、予定された結果としての目的が原因となる」という目的論的図式は共有している。モンテスキューもルソーも、近代社会契約論が、自然状態という原因から現在の国家、法秩序という結果が生じるそのメカニズムをこのような目的論的図式にはめ込んだことを、想定された原因の中にあらかじめ結果を読み込む回顧的錯覚として批判し、それに換えて、歴史の中にこうした目的論的図式に収まらない、人間の力も思惑も超えた客観的な因果連関の力を見出す。しかしそれだけでは、そのような客観的な因果連関、言い換えるならば自然法則の力と、人間の自由意志とそれによる自発的行為の力の関係がよくわからなくなる。両者の関係をそれほど突き詰めず、前者と両立する範囲での後者、という形で立法、統治を位置づけるのがモンテスキューであるとするならば、神のごとき全知とそれゆえの無力、自己抑制を兼ね備えた立法者の中に、両者の根底的な無関係さ、無縁さを描き出したのがルソーである。
 さてそう考えるならば『人間不平等起源論』への回答として書かれたスミス『国富論』は、またこの立法者像を含んだ『社会契約論』のオルタナティヴであり、モンテスキューよりもう少し具体的な形での立法論を展開した、つまり「みえざる手」という言葉とともに、本来人間の希望や思惑とは無関係なはずの歴史の因果連関の力が、実際には、人間の意図どおり、ではもちろんなくとも、人間が意図的にもたらそうとした結果、ないしそれそのものではないがそれと同程度に人間にとっては都合の良い結果をある程度まではもたらしてくれる、と論じたのである。
 17,8世紀の、スミスが「重商主義」と呼んだ政治経済学、あるいはドイツ官房学、そしてルソーが『百科全書』によせた『政治経済論』はおおむね立法者、統治者の「みえる手」によってコントロールされる身体としての社会の経営、つまりは「国家の家政」であったが、フィジオクラシーにおいて予感され、スミスにおいて決定的になった新しい経済学、これは木庭顕によってのちの狭義の社会学と併せて(広義の)社会学と呼ばれるわけだが、それはもはや国家の身体ではなく、固有の運動法則にしたがう自律的な存在としての社会、のちにヘーゲルが「国家」と区別されたものとしての「市民社会」と呼ぶものを対象としている。ルソーはそれを格差と不平等のゆえに批判し、国家の課題をその不平等の克服に置いたのだが、スミスはそうした不平等ごと市民社会を肯定する。それが最底辺までをも底上げして社会を豊かにし、そのことによって不平等が引き起こしかねない紛争を抑え、平和をもたらすがゆえに。
 19世紀以降の社会主義者たちは、スミスの肯定にもかかわらず、やはりルソーの問題提起を受け止めて、不平等を是正し、社会的連帯を打ち立てようとするが、その果てに現れたマルクスは、ルソーもスミスも生真面目にかつ過激に受け止めた挙句、恐るべき方向に踏み出す。
 ルソーの立法者の形象はいかにも、不可能な課題の前に立ちすくむ人間を象徴するかのごときものだったが、それは見方を変えてみれば、人間の希望も思惑も超えたところで独自の法則性をもって立ちはだかる社会に対して、それでもなお立ち向かい介入しようとする人間の自由意志と、その集団的表れとしての政治というものの表現でもある。そしてルソーほど悲劇的にではないが、モンテスキューにせよスミスにせよ、因果性の隙間やあるいはその前提のレベルではたらく政治――というより政策かもしれないが――の余地を認めていた。これに対してマルクスは、ルソーもスミスもあまりに真に受けた挙句に、ある意味で政治を、自由そのものを否定することになってしまうのである。
 どういうことか? マルクスは政治を突き動かす理念や利害の根拠を、人々の物質的存在、経済的な生活基盤に求める。そしてこの経済の運動、歴史的発展のロジックこそ、まさに人間の希望も思惑も超えた因果連関としてはたらくがゆえに、人々の政治活動を導く理念も利害も、この経済の論理によって――より具体的には階級的立場によってきめられてしまうのだ、と論じるのである。単純に言えば生産手段の所有者が政治的支配階級となる。だから市民革命前は封建領主が、その後は有産市民が権力を握るのであり、国家とは、人が社会契約論に求めたような、あらゆる階級にまたがるあらゆる人々の共同体などではなく、またその共通利害、公共の利益のための装置でもなく、ただ支配階級の利益のための道具なのだ、と。かくて法と政治は経済、物質的生産力という土台に規定された上部構造、従属変数とされてしまうのである。
 狭義の社会学、それをうけた20世紀の実証的政治学の集団理論はそうしたマルクス主義への反動であり、経済と政治、市民社会と国家の関係において一方向的な因果的決定を見るのではなく、双方向的な相互作用を見て取ろうとする。事態の記述としてはもちろんその方が正確なのだが、そのことによって理論的明快さ、説明力をかえって失う。それゆえに20世紀末以降は、これらはマルクス的な決定論ではなく、禁欲的な実証主義を採用し、「経済がすべてを決定する」とはいわず「経済学の目から見えるもの以外についてはとりあえず沈黙する」合理的選択理論、ゲーム理論によって主役の座を奪われるのである。

 

 

 

 

 

『消え去る立法者』合評会(9月9日・慶応義塾大学三田キャンパス)を終えて(続)

 もう少し「回顧的倒錯」の話をしよう。
 遡るならばニーチェということになるのだろうけれど、フーコーの受容とともに我々は「系譜学」という方法になじんだ。永井均の言い回しを借りればそれは「現在の自己を成り立たせていると現在信じられてはいないが、実はそうである過去」「思い出として現存することを拒否された過去」についての言説であり、とりあえずは「現在の自己を成り立たせていると現在信じられている過去」「「思い出」という形をとって現存しているもの」についての言説としての解釈学と対比される。王寺が読むモンテスキュー、ルソーが批判する社会契約説は、まさにこの解釈学としてはたらきながら、現在を過去に投影してありもしない偽の起源をでっちあげる――そのようにして現在を正統化しようとする――「回顧的倒錯」である。
 ただ王寺によればそこでモンテスキュー、ルソーはそうした起源の捏造によるその結果としての現在の正統化、を批判するために、系譜学的に「現在の自己を成り立たせていると現在信じられている過去」を発掘して現在を異化するわけではない。社会契約論がやろうとしたことは、ただ単に因果的な歴史物語を提示するだけではなく、それは社会秩序を樹立しようという意志に導かれたものである、という目的論的図式をそこに重ね合わせるものであった。モンテスキューもルソーもともにこの因果的説明と目的論的正統化の癒着を拒絶し、両者を切り離す。その上でまずは、人間の意志や希望など裏切る形で展開する、歴史の因果的展開のどうしようもなさを冷徹に認識するところから始める。そしてモンテスキューの立法論は、いかなる法も政策も、この客観的な因果メカニズムを無視してはむなしいだけのものであり、むしろその重さを足場として社会秩序は形成されるのだ、とする。それに対してルソーは、この因果秩序の更に根底に潜む人間的自然に反しないような社会契約であれば支持するに値する、とし、その実現可能性について壮大な思弁を展開する。
 どういうことかといえば、目的論的正統化の図式を温存させたままでは、それと因果的説明をきちんと区別しないままでは、系譜学は別の起源の提示によって別の目的論的正統化の言説を語るだけに終わってしまう、ということだ。(実は現代の「分析的ニーチェ研究」におけるニーチェも、このような因果性の水準でものを考える自然主義者として描かれるという。)
 そうすると、因果連関と、個人によるものであれ集団の社会契約によるものであれ、自由意志に基づく意図的、目的的行為とは全く別の水準に属するものとして分離されてしまう。モンテスキューの立法論も、ルソーのそれも、そのような水準で捉えられている。だからモンテスキューのそれは乱暴に言えば「保守主義」的なものにとどまるのであり、他方でルソーの立法者は、到達点の『社会契約論』においては、アテナイのソロンのように、あるいはのちの人類学が収集する神話伝承の中に頻々と登場する「外来王」のように、神のごとき英知を持って優れた法を人民に与えながら、その法を人民に強制する権限を持たない。『社会契約論』の世界では適切な手続を通じて人民が到達した合意は定義上正しいものでしかありえない。しかしそのような合意の結果として立てられた法が、冷徹な自然の因果連関によって許容されるものかどうかなどわからない。そのような合理的な法は神のごとき英知を持った誰かが外側から押し付けるしかないが、それが本当に押し付けられたら――強制されたら、それは正しいものとはなりえない。
 スコットランド啓蒙とフランス重農主義からスミスを介して19世紀経済学へと流れ込んだのは、モンテスキューのそれにむしろ近い、幸運にも人間にとって受容可能な因果連関が世界を支配しており、立法はそこをファインチューニングすればよい、というヴィジョンであったのに対して、ルソーから社会主義者たちを介してマルクスへと流れ込んだのは、その暴力的な因果連関の逃れがたさを理解した上で、それでも世界を不平等へと引き裂くその力にいかにあらがうか、という課題であった、とまずは言えよう。ただそこで不幸があったとすれば、その課題はマルクスにおいて――少なくともその継承者たちにおいて、少なくともルソーまではそうであったように政治の課題としてではなく、階級闘争という戦争によって達成されるべき課題とされてしまった、あるいは、まさに因果連関そのものとして(歴史の鉄の法則性として)達成されるべきものとされてしまったことである。

 

 

『消え去る立法者』合評会(9月9日・慶応義塾大学三田キャンパス)を終えて

 王寺賢太『消え去る立法者』はディドロ研究者として世界の最前線を担う著者がディドロについて論じるための前振りとしてモンテスキュー、ルソーに遡ったもので、同じ主題を継承してディドロを論じる続篇が予告はされているものの、その概略は終章に提示されている。
 また同時にこの本は柄谷行人の薫陶を受けた季節外れのアルチュセール主義者の元左翼青年の初の単著であり、そう考えるとアルチュセールの処女作たるモンテスキュー論と、ルソー、マルクスについての講演を収めた日本オリジナルの一冊『政治と歴史』の反復ともいえる。すなわち王寺もまたアルチュセール同様にモンテスキューの功績を「科学の対象としての歴史」の発見者、近代自然法学における自然状態とそこでの社会契約というアイディアを「回顧的錯覚」と批判しつつ、そうした正当化の操作を受け付けずまた必要ともしない水準の(のちのデュルケーム的に言えば)社会的事実を見出したことに求める。またそうした社会契約への「回顧的錯覚」との批判をモンテスキューと共有しつつ、あくまでもこの社会的事実の水準を踏まえた統治を論じる秩序主義者モンテスキューを拒否して、つまり社会的事実の多様性と歴史的ダイナミズムをただ所与として受け入れたモンテスキューとは異なり、そうしたダイナミズムを生み出す根源、いわば真の「自然状態」に降り立ってそこから社会契約を論じようとした存在としてルソーを読み解く姿勢も、王寺はアルチュセールから継承している。
 では王寺にはオリジナリティはないのか、その独自性はここ半世紀の間に向上した歴史学的・文献学的水準を踏まえてアルチュセールによる読みをヴァージョンアップしたところにしかないのか、と言えばもちろんそんなことはない。アルチュセールは「モンテスキューは新大陸を発見しながら引き返した」とし、その新大陸を真に開拓したのは革命家マルクスである、とする。日本語版アンソロジー『政治と歴史』の構成はまさにそうなっている。歴史の新大陸を発見しつつ引き返したモンテスキュー、その岩盤を測定したルソー、実際に上陸して新たな植民地を作ったマルクス、という三題噺だ。しかし王寺の場合ここでオチをつけるのはマルクスではなくディドロなのである。
 何十年もまじめに付き合った挙句ついに「哲学者としてはつまらん」「救えるとしたらフィクション」とディドロについてこぼす王寺だが、思想家、書き手としてはともかく、王寺がその一端を示唆するディドロのおっちょこちょいな活躍ぶりは、天才であったにもかかわらず性格に難がありまくりで書物以外での影響を世にまともに与えられなかったろうルソーとはややことなる相貌を帯びる。終章で王寺が紹介するのは、南米パラグアイでのイエズス会による先住民の「文明化」プロジェクトであり、また続篇での主題化が展望されるのは、エカチェリーナのロシアへのコンサルティングである。一方で暴力によらず、あくまで自由意志と自発性を尊重しての、先住民の草の根の自立への迂遠な準備としてイエズス会布教区を褒め殺し、他方で啓蒙専制君主の剛腕に期待するディドロの姿は、当然に二十世紀の第三世界革命論者を予告するようなものではなく、むしろその夢の破綻、世界革命の展望も、従属理論的な自力更生の夢も破れた後の、一方で当事者主体、貧困者・先住民主体の「参加型開発」論者を、他方で世銀など国際援助機関で跳梁するテクノクラートを思わせるものである。ここに底意地の悪いアイロニーを読み取らねばならない。