ひどい映画の効用〜『The Son/息子』(2023)

フローリアン・ゼレールの監督デビュー作『ファーザー』は本当にすばらしいと思ったので、これも当然観ているべきなのですが、なぜか嫌な予感がして敬遠したままになっていたところ、最近複数の人に「観ていないの」と言われたのでやっと観ました。私の勘は当たっていて、これは本当にひどい映画でした。なんでこんなことになったんでしょうね。ヒュー・ジャックマンローラ・ダーンヴァネッサ・カービーアンソニー・ホプキンスという超豪華なキャストの熱演が空回りし続けるのを見るのは、本当にいたたまれない経験でした。

ひどい映画の中には、「ひどい映画だね」の一言で済ませればいいものと、何がどうひどいのかを説明するのが生産的な映画があると思いますが、本作が後者であることを期待して、説明してみます。

この映画は、タイトルにある息子(ニコラス)の物語というよりは、父ピーター(ヒュー・ジャックマン)の物語であると言えます。彼自身、父(アンソニー・ホプキンス)への憎しみに苦しみ、父の反復をすまいと苦闘する息子でもあるのですが。

ですからこの映画は男性性の問題を、父となることを通じて検討するものになっているという意味で、私が『新しい声を聞くぼくたち』で論じた(あとは関口洋平さんが『「イクメン」を疑え!』で論じた)イクメン物語の系譜にあると言えます。『クレイマー、クレイマー』から『マリッジ・ストーリー』に至る系譜。

拙著で私は、イクメン物語を二つ(もしくは移行期を含めると三つ)の段階に分けました。『クレイマー、クレイマー』が、仕事人間がイクメンに「なる」物語だとすれば、『マリッジ・ストーリー』はそのような葛藤をプロットの原動力とはしていません。言ってみればある程度のイクメンであることはデフォルト。新しい男性性がすでにヘゲモニックなものになった時代の物語といえます。

『The Son/息子』のダメさは、後者の時代の作品であるふりをしながら、前者の時代の男性性イデオロギーの一番悪い部分を保持していることでしょうか。そしてそのためにベタベタのメロドラマに訴えていること。

ピーターは抑圧的な前時代的な父を反復しないために、息子を愛して良き父になろうと努力します。実際彼は、息子や周りの人たちの感情をおもんばかり、自分の仕事(出馬する政治家のためにワシントンDCに行って働くこと)をあきらめます。

しかし(軽くネタバレですが)、その努力も空しく、悲劇的な結末を迎えてしまいます。これはなぜでしょうか?

ここで、先ほど「前者の時代の男性性イデオロギーの一番悪い部分」と書いたものがせり出してきます。『クレイマー、クレイマー』の問題は、そのミソジニーです。ミソジニーと、その返す刀での男性のメロドラマ的な被害者化。『クレイマー』では、メリル・ストリープ演じるジョアンナがある種のフェミニズム的な衝動で家を捨ててしまうことが物語の発端となり、ダスティン・ホフマン演じるテッドが仕事人間であったことを反省してイクメンになる努力が感動的に描かれ、しかし親権裁判で負けることで彼は被害者的なポジションに置かれます。この、(とりわけフェミニズムと法廷に傷を加えられた)被害者としての男性というモチーフは、この時代から現代に至るまで、男性権利運動のミソジニーの基本形です。(この辺については拙訳のウェンディ・ブラウン『新自由主義の廃墟で』参照。)

『The Son/息子』の物語的葛藤はどこにあるでしょうか? ピーターは良き父になろうと努力し、実際になっている部分もあるのですが、なぜ悲劇が訪れるのでしょうか? もちろん、ピーターが最終的には人生の成功者としての男性性を抑えることができず、息子を理解してやれなかったことが問題にはなるのですが、そこでせり出してくるのは、それをまさに悲劇として提示する際に作動する上記のイデオロギーです。というかこの映画、最初からミソジニーがひどく、主な女性たち(ピーターの離婚相手のケイト(ローラ・ダーン)と再婚相手のベス(ヴァネッサ・カービー))のキャラクター造形は一貫性がなくご都合主義的で、最終的にはピーターの悲劇的男性性の演出のためだけに存在しているようです。ケイトは影響力の強すぎる母(強権的というよりは愛情過多)で、ニコラスは最初反発しているのですが、その葛藤はいつの間にか解消しますし(でも最後の「決断」に彼女は大きな影響を持つ)、ベスは明らかに若く性的な存在であり、思春期のニコラスはそのことに反発するわけです。そしてそのような存在として、ピーターがニコラスの良き父になることを妨害します。ですが最後は聖母のようにピーターを抱擁する。(ちなみにローラ・ダーンはなぜか「イクメン物語」の常連で、『アイ・アム・サム』と『マリッジ・ストーリー』にも出ています。)

この全ては、ピーターを不当に傷ついた、イノセントで悲劇的な男性として仕立てることに貢献しているわけです。この映画が終わった後に残るメッセージがあるとすれば、「こんなにがんばって、無邪気に──イノセントに──新しい男性性を身につけ、良き父になろうと努力したのに、女たちの協力不足で傷つけられたヒュー・ジャックマン」というものです。ひどい映画ですが、現在の男性性をめぐるイデオロギーのある種の核心には触れているでしょう。

 

『闇の奥』についてのメモ

昨日は職場の主催のシンポジウムで帝国主義植民地主義をめぐる5時間+懇親会。大変に濃密でした。

その中で、中井亜佐子さんが『闇の奥』と採取/採掘主義(extractivism)についてお話をされていて、最近考えていたことにとても強く響いたのでメモ。

中井さんの議論をここに正確に再構成はできない/しないですが、お話を伺いながら、最近ナンシー・フレイザーの最新刊などを読みながら考えてきたことがすっきり整理されたような気がしました(気のせいでなければいいですが)。

採取/採掘主義というのは、大まかに整理してしまうと、マルクス主義的な「搾取(exploitation)」に対する、原初的蓄積が現在も進行中であるというローザ・ルクセンブルク、デイヴィッド・ハーヴィー、ハートとネグリフレイザーが大きくは共有している仮説における「収奪(expropriation)」のこと。自然の収奪を考えれば一番分かりやすいですが、資本主義はその内部で完結することはできず、常に外部からの暴力的な収奪が必要でそれに依存している、ということです。自然以外には植民地、女性などがその収奪の対象ということになります。

今回よく分かったのは(そういう議論は中井さんはしていなかったと思うのですが)、搾取と収奪の違いは、「再生産」があるかどうかということでしょう。搾取は(労働力の)再生産を制度化するのに対して、純然たる収奪は再生産のことは考えない。

そう考えると、搾取と収奪の違いというのは、それほど明確ではなくなるかもしれません。植民地のことを考えると、再生産が完全に度外視されることはじつはあまりない。

それで、昨日は植民地主義の話で、現在パレスチナで進行中のことが強く意識されながら議論が進んで行ったのですが、疑問だったのは、イスラエルによるパレスチナ人の大量虐殺は、いったい、収奪であれ搾取であれ、植民地主義と言えるのかどうかということでした。

収奪であれ搾取であれ、それは植民地主義に(同意するかどうかは別として)何らかの経済的合理性を見いだそうとする議論です。現在進行中のものに限らず、ホロコーストにはいったいどのような経済的合理性があるのか。この辺で帝国主義の帰結として全体主義を考えるアーレントなど持ち出す必要もあるのかもしれませんが、私にはそこにどうしても合理性があるようには思えません。

『闇の奥』はそれを描いた作品です。それはまずはベルギー領コンゴでの「収奪(採取主義)」を描きます。象牙が取り尽くされ、像の一頭ももはや登場しないことはそれを物語っているでしょう。ですがこの小説はさらにその先に向かいます。収奪の先にもはや経済的合理性のない狂乱が待ち受けている。クルツのノートのExterminate all the brutesという言葉は、それを表現しています。その意味で『闇の奥』はその半世紀後に起きたことをみごとに予見していると読むことができ、また現在起きていることも予見していたと読むことができそうです。

この「絶滅」は、イスラエルパレスチナの病院、学校、図書館などを狙って破壊していることを考えると、重みを増します。再生産のための制度を積極的に破壊する。今回、鵜飼哲さんがcolonyというのはラテン語の語源経由でcultureにつながっているという指摘をされてはっとしました。確かにcolonyの語源のラテン後colereはcultivateの意味であり、そこからcultureが生まれました。イスラエルが行っていることはcolonyの破壊であり、それが同時にcultureと、それが担う再生産の徹底的な破壊である。それはもはや収奪でさえない(けれども、収奪の限界の向こう側にある)。

このような野蛮に対しては、文化と再生産をいかに守るかということがやはり鍵になりそうです。それも、搾取のための再生産ではないそれです。

『ハイキュー!!』についての暫定的メモ

どうも映画が公開中の『ハイキュー!!』が気になり始め、とりあえずアニメ版を見始めてますが、これは(昨日ちょうど日本スポーツ社会学会のシンポジウムでテーマになった)スポーツと男性性の表象という意味でとても重要な作品かもしれないと思い始めてます。

まだ全然序盤なのですが、この作品は「チームワーク」を主題とするわけですが、チームワークの重要性への目覚めにいたるプロセスが、登場人物たちの「傷」であることが興味深いところです。つまり、登場人物たちはそれぞれに挫折を抱えており、チームとチームワークの可能性と重要性に気づくことによってその挫折と傷を乗り越えていく。自分の傷に向きあい、お互いをケアしあう男性同士の関係性が主題となっているというのは、とても現代的だなと感じています。

その一方で気になるのは、登場人物たちがある意味でとても優等生的なので、部活の中での先輩後輩の秩序などにとても従順に見えること。先輩後輩なんて関係ねえ、下剋上じゃオラオラみたいな男性性が言外に否定される結果、部活の権威主義的な秩序(そこには有害な男性性の問題が舞い戻り得る)は手つかずになってしまうのか、と、まだ視聴途中ながら感じています。

これ、じつのところ『鬼滅の刃』に感じることに近い。『鬼滅』もまた、男の子同士が褒め合ったりまでしながらケアし合う物語だし、主人公の炭治郎の特長は鬼に対してさえ及ぶ共感力だったりする。ですが、突然に「長男だから我慢できた」というような家父長制が舞い戻る瞬間があり、物語全体は家族主義が貫いていたりする。

これが、アンジェラ・マクロビーが新自由主義とポストフェミニズムの「二重拘束double entanglement」と呼んだものなんだろうな、と思っています。

というのは、まだ序盤を観ただけの感想なので、この後続きを観て、評判の高い映画版になんとかたどり着きたい……。『スラムダンク』とか他のスポーツ漫画との比較も必要になるでしょう。

『デューン 砂の惑星PART2』(2024)

原作からデヴィッド・リンチ版と、思い入れの強い作品なので色んな先入観が介在するのですが、ともかくも公開日にIMAXで。IMAX必須。

ヴィルヌーヴ作品って、美しくて完成度が高いけど(そうであるがゆえに)、表面がツルツルでひっかかりがない印象があり、『デューン』については、PART1は完成度は高いと思うし楽しんだのですが、この作品のいかがわしさ、リンチ版を観た時や原作を読んだときの、「なんだかヤバいものを観て/読んでしまった」という感覚が削がれているなあという感覚が拭えなかったのですが、このPART2は、ヴィルヌーヴ流ではあるのですが、これでもかとばかりにその色を濃くしたものになっていて、ここまでやるなら認めるしかない(←何様?)という感じでした。

原作を読んだのが本当に昔なので記憶がないのですが(そういう説明があったかどうかも覚えていないのですが)、今回サンドワームに乗るときの方法はよく分かったのですが、降りるときってどうするのかしらん?

猫の逆襲〜『ARGYLLE/アーガイル』(2024)

『枯れ葉』『落下の解剖学』と、犬映画の攻勢が強まっていた昨今ですが、ついに猫映画の逆襲です。というわけで『アーガイル』。

キングスマン』シリーズのスピンオフですが、私は本シリーズの方は一作目はとても好きなのですがその後はぱっとしないな、と思っていました。ですがこれはいい。複雑だけどもバランスのとれたプロット構成と、バカバカしい設定や展開が絶妙に混ざり合って最終的にはスカッとさせてくれるのは、『キングスマン』第一作を見た時の感覚。以下、猛烈にネタバレです。観る予定の人は絶対に読まないでください。

物語は、スパイ小説作家のエリー・コンウェイが、彼女『アーガイル』シリーズが実際に存在するスパイ組織と陰謀組織に酷似していたために陰謀組織に命を狙われる、というところから始まりますが、その後フィクションと現実が入り交じりつつ新たな真実が二転三転して現れ、最終的にエリーは元二重スパイであり、任務中に重症を負って記憶喪失となった際に陰謀組織ディヴィジョンに洗脳され、作家としての別の人生の記憶を植えつけられていたということが明らかになります。『アーガイル』シリーズは未来予知ではなく、エリー(エージェント名はR. カイル=アーカイル)の過去の記憶に基づくものだったというオチ。

エリーの作中のエージェント・アーガイルはヘンリー・カヴィルが演じるマッチョなハンサムなわけですが、それはエリーが自分の姿を移し替えたものだったわけです。そして序盤からエリーを助けるスパイ、エイダン・ワイルドは、現実にはくたびれたおじさん(でもなんだかんだで強い)なのですが、エリーの作中ではこれまたマッチョなハンサムでアーガイルのバディです。

つまり、あれです、エリーは腐女子なわけです。いや、腐女子とラベルを貼って済ますべきではないかもしれない複雑な性的アンデンティティと性指向がこの映画を駆動している部分はあったのかなと。

ビートルズの「新曲」、'Now and Then'の使われ方、とても効果的でした。この映画のために作られた曲みたい。

で、猫ですが、良かったんですが、ちょっと扱いがハラハラする部分も。

 

犬の年〜『落下の解剖学』(2023)

猫派の私としては複雑な気分ですが、立て続けに素晴らしい犬映画が公開されました。『枯れ葉』に続いて、『落下の解剖学』の盲導犬スヌープ。最高。

というわけで、パルム・ドールとパルム・ドッグをダブル受賞したジュスティーヌ・トリエ監督の『落下の解剖学』。評判に違わぬすばらしい映画でした。以下ネタバレします。

ドイツ人の作家サンドラは、夫サミュエルと、事故で視力障害者となった息子とフランスはローヌ・アルプの山荘に暮らしているが、ある日夫が山荘から謎の転落死を遂げる。状況からサンドラは夫の殺害を疑われて起訴され、裁判となる。残る映画の大部分は裁判ものではあり、確かに新たな事実の露見や真犯人をめぐるサスペンスに観客はぐいぐい引きこまれるものにはなっているのですが、重要なのは、最後まで真犯人が誰かは分からないこと。いや確かに判決は出るし、ある程度の「真実」らしきものは提示されて終わるのですが、そこに残るのは、有罪か無罪かという二項対立では何一つ掬いきれない、この夫婦と家族をめぐる全体的な状況と細部の感情なわけです。

最後の方で弁護士のヴァンサンが、サミュエルの自殺にいたった内面をみごとに弁論するのですが、その直後、閉廷後のざわつきの中でサンドラがヴァンサンに「私の夫はそんな人ではない」と反論している。この場面が多くを語っていたと思います。

裁判とは劇場的であり、したがって裁判が映画そのもののアレゴリーになるというのは常套的かもしれませんが、ここではまさに、語られ、表象されたものの向こう側にこそ真実はある、という、優れて文学的な主題が劇化されたと思います。

ところで、この映画は『ター』を想起しながら観ざるを得ませんでした。サミュエルが残していた、サンドラとの暴力も交えた喧嘩の録音が法廷で流され、スクリーン上ではそれがフラッシュバックで映像化される(が、肝心の暴力の場面は音声だけに戻る)場面は、この作品のテンションを一気に高める名場面だったと思いますが、この喧嘩の内容、まるでひと昔(ふた昔?)前の、仕事ばかりして家庭を顧みない、なんなら不倫もしている夫と、自分でもやりたいことがあるのに家事育児に時間を取られ、夫からの「協力」も得られない妻との間の喧嘩のようでした。ただし、ジェンダーは逆ですが。

ハラスメントものなのだけど、ハラッサーが(レズビアンとはいえ)女性であった『ター』は、正直に言って反動的というか、告発型フェミニズムに対するポピュラー・ミソジニー的な反感のようなものを感じざるを得なかったのですが、『落下の解剖学』はその観点ではどうなるだろう、と考えました。

表面上は、従属化し、仕事の上でも妻に完全に先行された夫のルサンチマンというのは、新たなミソジニーの形態を地で行っているな、と思いました。彼の自殺が真実なのであれ、他殺が真実なのであれ、そのようなルサンチマンミソジニーだけは確固とした柱として残ります。そして、最後に息子のダニエルの証言に表現されていた犬(スヌープ)=サミュエル、という図式はやはり、ケアですり減って死んでいく父、という図式なわけで、ケアリング・マスキュリニティの表象としてはいかにも悲観的だし、下手をすればルサンチマン的になってしまいそうだな、と思わざるを得なかったところです。

『ボーはおそれている』(2023)

この映画についてはこの後映画評を書くので、肝心なことは書きませんが、私、ホラー映画は怖いので好きではなく、アリ・アスター監督の『ヘレディタリー/継承』も『ミッドサマー』もそんなに好きではない、というか『ミッドサマー』なんて『ウィッカーマン』の焼き直しじゃねーかとか思ってしまっているのですが、この作品についてはまったく違う評価です(ついでながら、『ミッドサマー』は『犬神家の一族』へのオマージュとかもあり、当然これまでの「因習村」ものは押さえた上での映画ですが。因習村ものといえば、変化球としては『ホット・ファズ』が大好きですが)。

そもそもホラー映画ではなく、カフカ的不条理の世界での『オデュッセイアー』的帰郷の物語で、かなり面白かったです。3時間という長さですが、求心的な帰郷の物語、主人公と母親の過去がその冒険が進むに従って明らかになるサスペンスとその解消といった構造がかなりしっかりしていて、よくできていると思いました。

これは映画評では書かないと思うのですが、『ガーディアン』紙の映画評はこの映画にロレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』の物語が響いていると指摘しています。確かに、最初はボー自身が誕生する(子宮から出てくる)ところをボー視線で描くのですが、そこでどうやら医者がボーを落としてしまって頭を打つというくだりがある。『トリストラム・シャンディ』では、産婦人科医のへまで鼻を潰されるエピソードですね。そしてナラティヴがいくら進んでも主人公が生まれるところまでさえもなかなかたどり着かないあれも、『ボー』が(求心的とは言ったものの)同じ場所をぐるぐる回って前に進んでいないようなあの感じと共通しているのでしょう。

私がこの映画を気に入った理由はそこなのかもしれません。『トリストラム・シャンディ』大好きなので。

しかし、字幕はずっと「ボウ」だったのはどうしてでしょうね?