一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

息切れの言訳

 

 先延ばしできぬ作業だ。

 昨夜半、小雨が降った。土も草の葉も、しっとり濡れている。こんな日に草むしりすれば、軍手は湿り気を帯びた泥まみれになる。汚れは手指にも通るし、作業後の軍手洗いにも往生する。しかし空模様は曇り気味で、暑気当りの懸念はなさそうだ。いちおう草むしり日和ではある。

 建屋東側の塀ぎわ通路。めったに来訪者などない家ではあるが、門扉から入られたご来訪者がひょいと身を傾ければ、奥まで視とおせてしまう通路である。
 裏手にはガスメーターが設置されてあるから、検針員さんが定期的に通過なさる。歩きにくいほどの雑草繁茂では申しわけない。外聞をいっこうに気にしない質ではあるが、きまり悪いだの面目ないだのをあえて云うとすれば、この通路ということになる。

 地回り三人ヤクザのごとき、例のドクダミ・シダ・ヤブガラシの草藪だった時代もあった。目こぼしだらけの粗雑草むしりながら、節季節季ごとにこの三年。ようやく可愛らしい新芽だけが生えてくる状態となった。
 そうなれば、目ざとく隙をついた連中が、どこかから飛んでくる。今年は膝丈から腰丈にまで及ぼうかという長身の連中がやって来て、頭頂に小さな黄色い花を着けたりしている。そろそろよろしかろう。消えていただく。


 この一帯の公認植物は、彼岸花のみである。古手のクマザサなども大きな顔をしてはいるが、公認していない。退治するのに手間がかかるので、先延ばししてあるだけだ。
 他にこの一帯には、ユキノシタがもうなん年も棲息している。他に比べようもない、独特な形の可憐な花を咲かせる。まだ花芽を挙げてきてはいないけれども。
 葉は天ぷらに揚げて食べられる。昨年は食べ過ぎて腹具合を悪くした。おそらくはユキノシタのせいではなく、油に当ったのだったろう。だいたい野生植物の天ぷらを興に乗って食い過ぎた私が悪い。

 そんなこんなで、いわばユキノシタは、この一帯の準公認植物の地位を確立しつつあるといえる。かといって人間の通行に邪魔になる株は、引抜かねばならない。ドクダミやシダとともに、容赦なく引抜いてゆく。
 様子の好さそうな株が集中した、畳半畳敷き程度の場所を残した。ここをユキノシタの本籍地とした。

 左隣に五十センチ平方の空地ができた。かつてネズミモチの出先分家株があった場所で、根ごと掘起して処分した。その後はドクダミとシダしか芽吹いてこなかった箇所だ。
 そこにスコップで穴を掘った。前夜の雨のおかげで、穴掘り作業は楽だ。冷蔵庫から古いほうの生ゴミ袋を出してきて、中身を放りこむ。じゃが芋や人参の剥き皮、茄子と胡瓜のヘタ、カボチャの種とワタ、キャベツの外側などだ。キャベツは袋詰めするさいに細かく刻んである。途中で少量の土をかけて、スコップの先で突いて馴染ませる。地中微生物の活動開始を少しでも容易にしたい。

 掘って埋めると、どうしても土嵩が減り、窪地となりやすい。なにか補っておかねばならない。今回は枯枝を使うことにした。ネズミモチの切株から生え出たヒコバエを剪定鋏で詰んで、枯枝山としておいた。今はヒコバエを出さなくなった切株がまだ元気だった時分だから、一年半は経っていよう。枯葉はとうに離れて、枝のみになってある。その山から視つくろってきて、剪定鋏でおおよそ十センチていどに断ってゆき、生ゴミの上に敷詰め、土をかけた。
 土に湿り気はあるが、これはまた別問題だ。如雨露でたっぷり水をかける。乾燥調節を期待して、枯草山からひと抱えを持ってきて、絡まりをほぐしながら、埋め戻し箇所を覆った。
 こうしておけば、なにか生えてきても地表が柔らかいから容易に引っこ抜ける。地中深くには障らない。最低一年間は、この場所を掘返さぬようにしたい。

 本日の作業時間は、軍手洗いも含めて五十分。一年前よりも、息切れ度合が増している気がする。起抜けで朝飯前の作業だからと、自分に言訳した。

ガラスの粉

水上 勉(1919 - 2004)

 昭和二十年八月十五日の正午ころ、水上勉青年は晴れわたった若狭湾の眺望が眼下いっぱいに開ける峠のいただきで、石地蔵の脇に腰を降して、弁当の握り飯を頬張っていた。

 村内にチブス罹患者が出た。当村への疎開者の妻だった。疎開してきて間もなく、夫は召集され、妻と子どもが残されていた。応召した夫は水上青年の友人で、疎開の仲立ちをしたいきさつもあることから、水上青年は急遽職場への欠勤連絡をして、自分で責任を取るしかなかった。
 感染症に対応できる病院は四里離れた小浜にしかない。列車はつねにすし詰めで、移動理由その他を明らかにしなければ切符を売ってもらえぬ状況だった。病院で証明書をもらって駅へ提出した。しかし伝染病患者を乗せるわけにはゆかぬとかで、切符を売ってはもらえなかった。水上青年と大工職の父とで、戸板に乗せた患者をリヤカーに固定させて、小浜まで運ぶほかなかった。

 若狭湾リアス式海岸で、いくつかの岬と入江が続き、いくつもの磯と潮だまりとが繰返される。海岸近くを走る鉄道はトンネルをくぐるが、リヤカーは峠越えの坂道をいく度も登り降りした。
 「ツトムゥ、ここいらにしようかい」
 地蔵さまの峠で休んだ。岩場の湧水で手拭いをゆるく絞り、汗みずくの患者の躰を拭いた。顔をまっ赤に上気させて玉の汗を噴き続ける患者に、ほとんど意識はなかった。石地蔵の脇に腰を降して、二人は麦飯の結びを頬張った。
 父と息子は、天皇詔勅を聴かなかった。終戦のことなど知らなかった。

 後年大作家となった青年は、こう書き残した。
 〈「日本のいちばん長い日」とか「歴史的な日」とかいうのは、観念というものであって、人は「歴史的な日」などを生きるものではない。人は、いつも怨憎愛楽の人事の日々の、具体を生きる。〉
 『寺泊』(筑摩書房、1977)に収録された『リヤカーを曳いて』という作品に回想されてある。


 この逸話を、私は水上勉の肉声で聴いている。新潮社主催の文化講演会だったと記憶する。年月日は確定しがたいが、上記の文章が書かれた前後と推測される。新潮社の PR 雑誌『波』と同社主催の月例講演会に注目して、毎回のように新宿紀伊国屋ホールへと足繁く通っていた時分だ。
 俯き加減の眼もとに長い前髪が再三降りかかる。そのたびに、掻きむしるようなやや荒っぽい手つきで掻きあげ、恥らい気味の謙虚な風情で語り続ける。独特な風格を漂わせて、美しい説得力がある語り口調だった。

 その日の天候と若狭の海とを、文章では別の表現となっているが、口頭ではこうおっしゃった。
 「海面にガラスの粉を撒き散らしたように、キラキラキラーっとしてですねえ~」
 あっ、小説家の言葉だ、と客席の私は直覚した。今ならとうてい感じ取れまい。私の耳もまだ若く、いくらか感度があった時分のことだ。
 これが若狭言葉というものなのだろうか。その地の方言について、私はなにも知らない。私がどうにか使いこなせる日本語では、「がらすの」となる。作家は澄んだ低音で「らすのな」と発音なさった。圧倒されるほどに、ものすごい現実味だった。

 実例を示して論証するとなれば、とんでもなく長ながしい論文を書かねばならぬから、いっさい割愛するけれども(というか尻尾を巻いて退散するけれども)、『五番町夕霧楼』だって『越前竹人形』だって、いや『飢餓海峡』ですらが、つまりは「らすのな」の美意識に支えられてあって、それを感じ取れなければ、この作家に近づけないのではあるまいか。国民的ベストセラー作家という平凡月並な読みかたより先へは進めないのではあるまいか。
 若造が、ずいぶん背伸びした、生意気な直覚をしたもんだが、今考え直してみても、さほど遠く外してはいない気がする。多くのベストセラー小説に眩惑されながらも、かろうじて「ガラスの粉」を聴きとって記憶した若き日の自分を、ほんの少し認めてやってもいいような気がしている。

カレー連想



 思い出したように作ってみた惣菜は、その後なん度か補充に補充を繰返して、作り続けるという悪癖がある。

 しばらく間遠になっていたので、カレーを作る。ラジオか CD を聴きながらの気楽な夜鍋作業には真向きだ。思いのほか、好い味に仕上った。なんたって S&B だぜぃ、と独り言ちる。
 ビッグエーの棚にはいく種類かのカレールウが品揃えされてあるけれども、かならず最安値の商品を買う。味を比べるなんぞという齢は、とうに過ぎた。先日、SB 食品の商品が値引きされた日があって、最安値商品と同価格だった。利幅を抑えての眼玉サービスだったものか、卸し段階での在庫調整期に当ったものか、理由は判らなかったが、ともあれ同価格ならばと、買っておいたのだった。

 じゃが芋と人参と玉ねぎをそれぞれ油通し。それに、残っていた竹輪の最後の一本の匂いがそろそろ強くなってきたので、刻んで入れてしまう。隠し味は、おろし生姜とマーガリンだ。どちらも常識的に思い浮ぶよりは多量に投じる。肉類はいっさい入らない。以前の眼分量は忘れてしまったが、得意技のヤマ勘と度胸である。たいていの場合は結果オーライだ。
 カレーライスにもカレーうどんにも、する気はない。小鉢によそって一菜とする。間食としてひと匙ふた匙づつ立食いすることも多い。それで三日くらいは保たせる算段だ。


 「あん時、瀬古が云ったっけなぁ」
 SB 食品からマラソン瀬古利彦選手へ。古びた脳のなかで固定化した連想経路とは、なんとも奇怪なものだ。

 一九八〇年モスクワ・オリンピックのマラソン競技を目指す世界の選手のなかで、瀬古利彦は間違いなく優勝候補の筆頭だった。だが前年十二月に、ソ連アフガニスタンへ軍事侵攻した。西側諸国やイスラム教国など、多くの国ぐにが抗議の意思を表明し、オリンピックへの選手派遣をボイコットした。
 日本国内でも議論は沸騰した。看過できぬとする説と、政治とスポーツとは別だとする説とに、国論が二分された恰好だった。この日を目指して長らく精進してきた選手が可哀相だとの説も、当然ながら多かった。結局は西側諸国というよりはアメリカへの配慮が勝ち、日本はアメリカと足並みをそろえて、モスクワを全面的にボイコットした。
 国家としては抗議の意思表示しながらも、選手の参加は容認するというヨーロッパの国ぐにもあった。選手団の先頭に国旗はなく、各国のスポーツ協会旗などが翻った。

 もしも瀬古利彦がモスクワを走っていたら……虚しい歴史の if である。競技者として絶頂点を迎えていた名選手は、少なくなかった。もしも山下泰裕がモスクワの畳に立っていたら、あるいはもしも三屋裕子がモスクワのコートでブロックやクイックに跳んでいたら。
 名選手たちの執念は凄まじかった。気持を切替え、肉体をいったん戻してから創り直し始めて、四年後のロサンゼルス・オリンピックまで精進を持続させたのである。
 山下泰裕三屋裕子も、ロサンゼルスでメダリストとなった。だが瀬古利彦は敗れた。

 敗者にも容赦なくマイクが向けられた。今の心境はどうか、今後の目標はどうかと。この四年のあいだに、大きな故障から辛抱強い復活という、とてつもないドラマが瀬古利彦にはあった。だが彼は、それらをひと言も口にはしなかった。
 「結婚します。これでぼくは、結婚します」
 意表を衝かれるほど場違いな、すっ頓狂にすら聞える応えだった。この日を目処として絶望的に持続されてきた、禁欲と忍耐、自重と内省の日々がどれほど苛酷なものであったかを、その奇異な応答は如実に表現していた。テレビ画面のこちらがわで、私は残酷で痛ましい光景を眼にしているような気がしていた。

 「あん時、瀬古が云ったっけなぁ」
 ちょうど四十年前の、ある光景の記憶である。

弘法の道



 長年参詣してきながら、弘法さんの銅像を真正面から撮ったのは、初めてのような気がする。

 母命日は六日、父命日は月違いの二十六日だ。強くこだわっているわけではないが、月詣りは六の日と習慣化してきた。だが昨日はことのほか寝起きが悪く、気分もよろしくなく、今日に日延べした。だれと約束したわけでもないから、へっちゃらだ。
 降り出しそうな空模様だが、明日の気分は判らないので、出かける。降ってきたところで大雨にはなりそうもないから、へっちゃらだ。例のごとく、花長さんから金剛院さまへ。
 先月は菜の花路を歩いておられた弘法さんが、今朝は道端の野草がいっせいに花を着けた畑中の道を歩いておられた。

 境内は花盛りだ。ツツジを準主役に、石楠花、牡丹といった千両役者が芸を競う。異彩を放つ儲け役はコデマリで、今まさに満開にして、たわわに枝垂れている。
 桜も木蓮も了ったはずの花木類はと観回すと、白い花を枝も見えぬほど満開にさせた樹がひと株、ツツジの植込みから身を突出している。観慣れぬ樹だ。近づいてみると、粗雑に括った白糸を、毛並みも揃えずチリチリにしたままのような花が、細い枝にびっしり群がり着いている。アオダモだろうか。いずれにせよわが散歩コースでは観かけぬ花だ。
 手桶に水を汲んで花を挿してから、庫裏へご挨拶に寄って、線香を分けていただく。


 花長さんでは毎度、その日の入荷を睨んでもっともお値打ち価格の花束を、一対視つくろっていただく。片方には母が好んだ藍紫が入り、もう片方には父が好んだ無邪気な赤が入った。満足である。
 まったくの無風で、掃除にも供え作業にも大助かりだ。降りだしそうだった空も、どうやら晴れてゆくようだ。

 生前わが両親とご縁あったかたのご墓所を巡り、歴代ご住職と六地蔵と無縁仏合祀観音を巡る。そして本堂と大師堂にては光明真言。いつもの順路を経て、弘法さん銅像前へと戻った。
 斜め下から観あげてみたり、横から覗いてみたり、いろいろに眺めてきた弘法さんに、真正面遠距離にて正対するのは、思えば初めてかもしれない。俺も齢をとったのかな、という気が一瞬した。
 山門を出て、不動堂にていつもの一円参詣。人さまからはさようとも思われておりませぬけれども、私はまだ闘っておりますと報告した。

 
 神社へと足を向ける。大鳥居前にも中鳥居前にも、来月の獅子舞奉納日を告知する幟旗が立てられてある。獅子舞はこの街の無形民俗文化財だ。そういえば商店街の要所にも、同じ紫色の幟が立っていたと思い当った。

 穏やかな日だ。身辺事情も国内外事情も穏やかでないのに、あい済まぬような、バチ当りのような気が起きる。つい先日、友人の卜占家が教えてくれた、冥王星水瓶座の説を思い出す。二百年に一度の大混乱期が近づいているという。
 川口青果店が店を開けるころだ。カボチャを買って帰ろうかと思い立った。

知る道すじ



 原典の正確な意味は知らない。『礼記』に当ってみたが、前後を軽く眺めた程度では、歯が立たなかった。学識不足もさることながら、それ以上に、反復を重ねて理解に至ろうとする情熱が欠けていたのだろう。

 古典の文言を理解する第一の要諦は、反復である。頭脳の感性のと云ったところで、反復による体得には遠く及ばない。
 数えきれぬ「自説」「曲解」に見舞われながら、なおも生残った果てにわが眼前にある言葉だ。ただならぬ生命力をもっている。私もまた屋上屋を架するがごとくに、わが反復をとおして私感を形成しておけばよろしい。

 訓の正邪なんぞは学者による参考書にしたがっておけばよろしいが、含意については、だれしもに思い当ることのひとつやふたつはあるに違いない、おおいに援用の利く文言だ。
 半世紀も前、学友の郷里へ誘われて、笠間の土産物店で湯呑を買った。色も肌合いも気に入っていた。五年使ったころふいに、そういえば手触りが変ってきたかと気づいた。一人で笠間へ旅して、かなり探したあげくに同じ手の型違いをようやく視つけた。帰って手持ちの品と較べてみると、艶といい持った感触といい、新旧ずいぶん異なるものとなっていた。以後、双方を愛用した。

 二十年近く前だったろうか、両方とも使わなくなった。限界が見えてしまった気に陥ったのだ。
 土産物屋の片ぺんたる雑器に過ぎぬが、けな気に尽してくれて、精一杯佳くなってくれた。が、この雑器の可能性は気の毒だがここまでではないかと、思えてしまったのだ。いや違う。そんな不遜な、器に対して失敬な噺ではなくて、これで十分だ、私には過ぎた器だった。だが哀しいかな、厳粛にも、もはやここまでではないか。いや違う。今後は日常的に用いる機会がなくなるとも、私と二器との間柄には揺るぎもないと、お互い自信を持てたではないか。そんな気分だった。
 食器棚の奥に、今もふたつ並べて伏せてある。

 串田孫一モンテーニュやアランを中心とするフランス哲学の人。世間には、山と旅の随筆家として人気が高かった。慶應義塾の人で、堀田善衞、芥川比呂志戸板康二、池田彌三郎らを調べていると、交友圏の人としてその名を眼にする。
 舞台俳優にして演出家であり演劇運動指導者でもある串田和美さんのお父上である。

 『礼記』の言葉は串田孫一のお気に入りだったらしく、同じ文言を書いた別色紙を古書市で視かけたことがある。失敬ながら、書としての出来は、こちらが上と感じた。
 もう二十年以上も、わが部屋の壁にご逗留中。理解及ばぬままに、誤読を愉しんでいる。

畏れながらお不動さま

     

 神仏には贔屓を設けないことにしている。いかなる神さまにたいしても仏さまにたいしても、等分の敬意をはらい、同程度に無知無学だ。
 神仏おしなべてに共通して、というより横並び一線の神仏がたを超えた向うに「天」という観念があって、そちらはかなり尊重している。それをこそ惟神(かむながら)の道と云うのだ、あるいは原始的太陽神だアニミズムだと、あれこれ教えてくださる人も書物もある。が、よく解った気にはなれない。

 金剛院さまご門前の、駐車駐輪広場の一画に、小ぢんまりした不動堂がある。堂内のご本尊不動明王のほかに、結界内には観音石像が立ち、結界前には道しるべを兼ねたお地蔵さまが立っている。わが町の野仏からもっとも好きな一体を選べと問われたら、私はこの江戸時代の道路標識のような石地蔵を選ぶ。
 お不動さまは闘いの守り本尊だから、通りかかったおりには必ず一礼する。賽銭箱には一円を投じる。たった一円だ。
 これはお不動さまだけではない。つねの散歩コースには八幡さまがあり、お稲荷さまがあり、御嶽神社があり、別のお不動さまもある。その他いろいろおられる。すべてに一礼、そして等しく一円づつ投じることにしている。もっとも貧しき者、もっとも微弱なる信仰心による一燈といった気分だ。

 一円賽銭は寺社にご迷惑だと指摘するネット投稿を眼にしたことがある。賽銭箱を開き、帳面付けし、口座入金するのに、どれだけの手間と経費とがかかると思っているのかとのご指摘だった。さかしらの浅知恵と感じた。
 賽銭箱を開けたら、私が投じた一円玉一個のみが出てきたなどということが、あるはずないではないか。
 金額についての費用対効果だけではない。信仰心なんぞという大袈裟なものではなく、たんなる人の心持といったものへの、あまりに幼稚な理解ではなかろうか。
 気に入った寺社の賽銭箱に百円硬貨を投じるよりは、散歩の道すがら十か所の賽銭箱の前で十日間合掌したほうが、よっぽど神仏の趣旨に叶うと思っている。

 今朝、金剛院さまご門前のお不動さまにお詣りしたら、観音さまが手に持った蓮の葉の上に、またお地蔵さまの地を擦らんばかりの衣の裾に、それぞれ一円硬貨が供えられてあった。私と似たような心持のかたが、通りかかられたものだろうか。初めてではない。これまでいく度も眼にしてきた情景だ。
 これが盗まれたり、いたずらされたりしないところが、日本文化の達成である。王朝女官であれば「いみじう心ゆかしく思ほゆ」と云った。『方丈記』であれば「あはれにもゆかしくこそありけれ」と云ったろう。

 
 朝っぱらからなに用あって駅前まで出かけたかというと、交番に用事があった。「交通事故証明書」なるものを警察署から発行してもらうための、申請用紙をいただくためである。振替用紙の形式をとった申請書に必要事項を書込んで、郵便局にて手数料支払いせよとのことだ。
 陸送トラックが道路中央を通らずに、拙宅がわギリギリを通過しようとして、桜の老木を幹からへし折った。倒れた巨木の重量でブロック塀を取壊さねばならなくなった。
 先方の保険会社は、道路脇に桜の樹なんぞあるのが悪いとおっしゃる。過失責任割合は先方4の私6だとおっしゃる。私の年金およそ一年分を支払えとおっしゃる。
 畏れながらお不動さま、私はな~んにも、しちゃあいませんぜ。

晴れぬ日に



 天丼って、どんなんだっけか……。

 昨夜半からの雨がやまない。大降りの時間はなかったように思える。厚みのある湿り気が、のべつじんわりと圧迫してくる感じだ。
 どことなく気が重い。元気が出ない。むろん日光浴どころか、草むしりもできやしない。こんなときは、台所にかぎる。切れかかっていた主食の冷凍飯を補充すべく、飯を炊く。
 解凍飯による粥飯が日常だから、たまには炊きたてを食おうかと思い立つ。野菜を揚げて、天丼でもと。ふいに天丼と思い立ったのはなぜだろうか。自分にも解らない。ふだん口にしない食べものだからだ。店屋物としても、スーパーの弁当としても、カツ丼を選ぶのがつねだ。好き嫌いで申せば、天丼も大好物だけれども。

 わが生育期の食生活環境において、天丼は分不相応な高級食だった。店屋物といえば、ザルそばか中華そばだった。たまたま大切な来客があったかして、大人たちが天丼をあつらえた日があった。
 「美味いもんだな」
 食いものについては物を云ったことのない父が、食後にボソッと呟いた。私は玉子丼を平らげて大満足でいた。

 会社員として、仕事含みで会食した時代には、ずいぶん天丼を食った。天ぷら専門店の天丼は、そりゃあ格別だった。が、味より話題が大切な場面ばかりだったから、さしたる有難味も感じなかった。勘定は会社の経費だったし。
 独りで外食する機会には、チェーン店「てんや」を利用した。池袋でも赤坂でも、高円寺でも西荻窪でも、「てんや」の看板が眼に入ると安心した。値段のわりには美味い天丼が食えて、いつも満足した。
 しかし最後に「てんや」に入店してからなん年も経つ。ましてや天ぷら専門店など、最後に入店したのがいつだったか、とうに記憶がない。

 さて本日のわが天タネは、人参とブロッコリーの茎の掻揚だ。小ぶり竹輪が一本残っていたから、縦に割り横に断って、四つにした。野菜揚げであれば低温油にてじっくり揚げでよろしかろうが、さて竹輪をどうしたもんか。懸念したとおり、揚げ過ぎた。自信がないから、どうしても衣が生っぽくなるのを怖れてしまう。次回への申し送り事項だ。
 天つゆもヤマ勘。毎回わずかづつ味が異なる。たいした問題ではない。そんなことより、天つゆと天丼のタレとは同じでよろしいのか、別ものか。これも次回への持越し課題だ。


 食後の一服、そしてインスタント珈琲。ラジオから国会中継が流れてくる。政治資金の帳面をどうしたもんか。大阪万博の建設工事は間に合うのか。大問題なのだろう、きっと。私には遠い遠い世界の噺に聞える。
 それよりも、過日友人の卜占家から教わった噺のほうが、私には気懸りだ。冥王星水瓶座に入り、併せて太陽系惑星が大縦列する年に当るそうだ。およそ二百年少々に一度のことだという。林立していたものがガラガラと崩壊して、平べったい世界となり、秩序の枠組みが根本的に変る時代に入るとのことだ。天体の配置が同様だった前回は、フランス革命アメリカ独立戦争の時代だという。

 卜占の神秘性をことさらに持ち回る気性ではないが、興味はある。人間の知りえたことなんぞは宇宙の微小なひとかけらに過ぎないと、痛切に感じるからだ。
 「人間の知は、無限の無知の闇に取囲まれている」
 大学一年坊主のときに、哲学の教授からきつくきつく教えられたことだ。ふだんは忘れているが、こんな私にもほんの数度はあった人生の曲り角で、いつも思い出された言葉だ。ご恩ある一語である。

 冷凍飯のための小分けおにぎりを結ぶ。同工異曲の写真をこの三年でなんカット撮ったのだろうか。
 ジトジト降り続く日に、所在なく引きこもって、知を想う。