一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

なんとなく佳き日

 

 春先から今ごろまでに白花を着ける花木と云えば、近所にはハクモクレン、コブシ、ハナミズキ、タイサンボクなどの、かねがね眼を着けてきた株がある。だがそれらに較べるとややスター性に乏しいものの、私はヤマボウシの花が好きだ。
 といっても花と見える部分は、じつは葉の変化したもので、シベのような中央の小突起部分が花なのだそうだ。虫相手か人相手か、ずいぶん思い切った客寄せをしたものである。

 思惑どおりにゲン担ぎのメンチカツサンドほかを食べ、さて外出してみたら、駅前にふた株だけ立つヤマボウシの片方が、ほぼ満開だった。佳き日の外出に予祝歌を添えられたようで、気分を好くした。
 なにせ出不精の年寄りが、遠出するのだ。先夜は、じつに久かたぶりに新宿へ赴いた。旧い仲間二名との会食のためだ。散会後に社会勉強とセンチメンタル・ジャーニーとを兼ねて歌舞伎町そぞろ歩きを思い立ったのだったが、世相を賑わせるトー横にも大久保公園にも辿り着けなかった。ゴールデン街の古手生残りを三軒ほど歩いただけで、沈没してしまったのである。

 今日はもっと先まで行く。原宿で地下鉄千代田線に乗換えて、乃木坂駅まで。国立新美術館へ赴くつもりだ。いったいいくつくらいの、記憶ある風景と出逢えることだろうか。原宿駅では、明治神宮がわのお召し列車専用プラットホームが、まったく様変りしていた。駅舎の外観もまるで別物となってしまったと聴いている。
 急ぐ旅でもないから、いったん駅を離れて、明治神宮の大鳥居まで行ってみようか。釣り天井の体育館でも眺めてみようか。まさかプールで木原光知子さんが泳いでいたりはしなかろうけれども。南国酒家は健在だろうか。表参道を歩いてみたり、竹下通りを覗いてみたりもしようか。
 しかしなにもせずに、最短コースで地下鉄口をくだった。地下道が予想外に伸びていたり、意表を衝く場所にエレベーターが口を開けていたりして、面喰った。

 「千代田線かあ……」国立新美術館は堪能したものの、来た道をこのまま原宿へ戻るのは、どう考えても気が利かない。六本木も近い。赤坂界隈という手もある。だが街の姿を想い浮べると、もうひとつ歩く気になれない。しばし考えて、千代田線で今度は原宿とは反対方向へ。日比谷だの霞が関だの、地上へ揚って眼にするだろう風景を想像すると、今日の気分にそぐわない。むしろウンザリだ。「湯島かあ、湯島ねえ」なんぞと想いつつも、千駄木駅で下車した。

 
 ペチコートレーンに寄った。谷根千を観光散歩する外国人さんがふいに覗いたりもする、いかにも趣味の好いカフェだ。近隣在住のミュージシャンやら舞台制作者やら、美術デザイナーやらイラストレーターやら、愉快な連中が寄って来る穴場でもある。
 もうなん年前になるだろうか、二か月に一度の「ペチゼミ文学」と称して、文学案内のお喋りに出演させてもらっていた時期がある。たしか二年は続いたはずだ。録音もレジュメ原稿も残してないから、さてなにを喋ったんだったか記憶もまばらだが、なにせ客層が多彩だから、終演後のフリートークもたいそう愉しかった想い出がある。

 今日のシフトは鈴木さんだった。ご無沙汰の挨拶を交した。今も活発にバンド活動しているミュージシャンだ。肩まで伸びた髪を後頭部でひとつに束ねた、いわゆる男ポニーテールが、半分以上白い。ボブ・ディランジョン・レノンを、はて、なん十年唄ってこられたのだろうか。
 本日のケーキセットはアップルパイだという。当然注文した。この店でアップルパイと云ったら、ご近所のマミーズのパイに決ってる。丸ごとのリンゴを四半分にカットしただけではないかと見えるような、ゴロンゴロンしたリンゴが豪快に入っている。私にとっては東京一の大好物アップルパイである。

 で、次の散歩コースが閃いた。ペチコートレーンを失礼して、よみせ通りを歩いて、マミーズへ。週末であればたいてい売切れだが、週日なのが幸いした。
 ロールケーキもショートケーキも、カットでもよろしいが、アップルパイだけはホールで、というのが私のこだわりだ。
 右折して谷中銀座を抜けて、夕焼けだんだんを登って日暮里駅へ。大塚へと向う。アポ無しだから、お留守でも恨みっこなしと思い定めて、先刻観たばかりの『樹影』の画家を突撃訪問した。
 奥様はお留守だったが、ご本人が運好く在宅。ついさっき観てきたとお伝えし、あの横からの陽光は朝陽ではなく西陽に間違いないと、画家本人からの証言を得た。ご招待状のお礼までに、東京一と気に入っているアップルパイを手渡しすることができた。どこかそこいらで珈琲でもと引止められたが、残念ながら夕刻から予定があるため、また近いうちにと約束して辞去せざるをえなかった。

 久しぶりに美術館へ出かけた。懐かしい街を歩き、想い出の店に寄った。ご無沙汰に過した人に挨拶できた。夕方からは、文学雑誌『江古田文学』の年次総会だ。執行部諸兄の日ごろのご苦労が報告され、次年度の事業予定や予算について噺を伺う。その席でも、なん人ものご無沙汰だった人と再会することだろう。
 余人の眼からは取るにも足らぬ些事ばかりだろうが、少しづつではあるが、あれこれ済んでゆく気分もある。なんとなく佳き日だ。

太平洋展

片倉 健『樹影』

 今しも遠い山の端に没しようとする急角度の西陽に照らされた、農村風景だ。作物や草がすっかり刈りあげられた畑や野原に立木がひと株、異様なまでに長い影を、東に延している。、
 人らも家畜たちも機械も、今日を切りあげて帰っていった。大地もまた、一日の役目を了えて、日没までのつかの間をおだやかに安らっているかのようだ。

 空や雲や、植林を一部伐採された山の表現には、なにやら新しい絵画の感覚が紛れこんでいる気がする。近景の畑や野や畑中の小径には、明治の御代に西洋絵画を学びに渡欧した先人たちによる、懐かしい感覚が漂っている気もする。小径の先の道具置場か休息所のような小屋は、どことなし西洋風な気もする。不思議な画だ。
 立木にも小屋にも、大地にも小径にも、小径の両側を区切る灌木たちにも、ほぼ真横からとすらいえる急角度の西陽が、あまねく降りそそぐ。制作中の画家が初めから仕舞まで、終始気を抜かずに格闘した相手は「陽光」だったと思われる。
 一日の労苦は一日をもって足れり。これはこれで、とある理想郷の表現と云える。この画家がかような理想郷を描く資格をもつ人であることを、私は知っている。

 
 太平洋展は具象を極めようと期するらしい作品がほとんどで、観応えがある。それだけに疲れる。抽象性の勝った画やメッセージ性の露わな画の多い展覧会では、いち早く主張だけを拝聴して先へ進むことが可能だが、じっくり具象にあい渉った作品ばかりが大量に続く太平洋展では、画家が語る物語についつい耳を傾けて立ち停まってしまうことが多く、耳も脳も足腰も疲れ果ててしまう。
 今回もようやく到達した出口で、係員さんから「ありがとうございます」とお声をかけらられて、思わず「もうヘトヘトでございます」と応えてしまった。

 国立新美術館は、用途に応じて機能的な直線を旨とすべきところへ、大胆に曲線を採りいれた建築物だ。近未来都市のごとき合理性に、人肌の温もり的な要素を強力に混ぜ込ませてある。つまり抽象であり具象だ。
 巨大美術館につき、いくつもの展覧会が同時開催中だが、太平洋展の隣ではマティス展が催されていた。これまた抽象にして具象の巨匠だ。というより教祖さまの一人だ。おおいに心惹かれたが、私の体力では断念するしかなかった。

  
 大橋径一『狭き門』、村田太郎三『あき』、大橋径一『緋文字』(いずれも部分)

 出品作の九割がたが絵画作品で占められる太平洋展だが、二十数部屋を巡ってきた最後に各ひと部屋づつ、彫刻、染織、版画が展示されてある。眼先が変るだけでなしに、こちらの気分も刷新されるようで心地よい。
 芸術家たちの主張であれ学生作品の挑戦であれ、私は彫刻作品を観ることが好きだ。鑑賞のみならず、変態フェチシズム的興味も旺盛に抱いている。今回は、女体立像三作品の前で長く立ち停まった。いく度かたち還って、眺め直した。

 彫刻家たちには、平伏してお許しを乞わねばならない。いずれも堂々たる女性立像なのである。それはそれで、初めにじっくり観せていただいたのである。不届きはその後だけだ。どうかご容赦を。
 立像正面の至近距離に立って、女性たちと視線を合わせる。一分か二分。ブロンズや木彫が金属や木材であることを止める。モデルさんの肌触りの感触が、最初に伝わり始める。イボやアバタの手触りまで想い浮ぶ。次が体温だ。息遣いと声とのどちらが先かは微妙だ。声については聞えてこない場合もある。匂いまでが伝わってきたら、もういけない。背筋がゾワゾワと粟立つようだし、恐怖心から動悸がし始める。
 とにかくいったん作品の前から離れる。落着いてから、また戻る。

 たんにエロジジイとして申すばかりではない。彫刻家における画竜点睛の問題である。造形感覚だポースのアイデアだ、視線の角度だ表面仕上げだと、専門家ならではの工夫は数かずあったことだろう。だがなによりも、瞳に籠められたモデルさんの(いやおそらくは彫刻家自身の)意思について、彫刻家は繰返し工夫し挑戦し、逡巡し決断したに相違ないのである。鑑賞する者、その瞳と視線を合せずになんとするか。
 また観るがわの問題としては、「見える」と「視る」と「視詰める(凝視する)」とは、それぞれまったく別の行為である。そんな初歩的な自己操作すら自覚せずに、読んだり書いたり眺めたりなんぞ、できるもんではない。
 今、思い至った。鑑賞は私にとってのリハビリであるらしい。大根を煮てもドクダミを引っこ抜いても、同類の精神活動をしているはずなのに、日ごろ馴れっこになって忘れがちでいる。そんな自己操作を思い出させて、はっきり再確認させてくれる行為が、鑑賞ということなのだろう。

行列の尻尾



 メンチカツサンド、ポテサラサンド、チーズ入りくるみパン。

 大事な用件の前には、「カツ」の付く食べものを口にする。じつに愚鈍なゲン担ぎだ。
 旧い仲間の一人に、商売と音楽とに過してきた人生にひと区切りつけて、余生の生甲斐に画を描いている男がある。学生ジャズバンドではギターリストだった。卒業後はジャズバーのマスターとなった。一朝一夕に軌道に乗る業界ではなく、所を移ったり営業方針を変更したり、屋号を替えたりもした。条件の望ましい物件に巡り逢えずに、捨て年月とでもいうか、飲食店の厨房で修業した時期もあった。
 スポーツ好きで、春秋はテニス、冬はスキーと忙しかった。ところが病気に罹って脚の大手術を受け、ステッキを常用する躰となった。鞄にはいつも障害者手帳を忍ばせる身になった。

 そうなってみて、子ども時分には画を描くことが好きだったと、思い出した。テニスやスキーに夢中だったから、長らく忘れていたのだ。飽くまでも我流に過ぎなかった画を、真剣に勉強し始めた。画用紙大の作品だったのが、なん年か経つうちに、二十号五十号と大画面になっていった。勉強の教室だと思って所属していた団体にあっても、入選、推薦、会友というように、立場を昇進させていった。


 彼が所属する団体の作品展示会が開催されている。年に一度の、大巡回展だ。疫病禍中にあっては、観に行けなかった。今年こそは、ぜひとも観たい。

 長年にわたって繁盛させ、池袋の名物店の一軒とまで称ばれた店は、気紛れ大家の横暴とついに折合えず、惜しまれながら閉店した。大塚で小ぢんまり継続させた店は、商業地区一帯の再開発とかで、いっせい立退きとなった。
 質素な暮しのなかで、部屋の建具より巨きいカンバスをどうにかこうにか立てて、四苦八苦して描いた画であることを、私は承知している。描くさなかに全体のバランスを確かめるために、引きで眺めるなんぞということは許されないのだ。ぞんぶんな広さのアトリエで、必要な道具をすべて使って、欲するままの絵の具を揃えて描いた画とは違うのだ。
 なに不自由ない条件あってこそ好い作品が創作されるなんぞということは、むろんありえない。作者の創作観が、いや生きかたそのものが問われるかたちで、作品は出現する。
 疫病に阻まれて、なん年の間が空いてしまったろうか。今年こそ、彼の作品を観たい。私にとって、重要な一日となる。


 行列のできる地元の名店ベーカリーで、行列の尻尾に並ぶ。つねであれば、行列が途切れたころを視はからって出直そうかと考える。隣組のごときごくごく近所の住人としては、労力も時間も、さほどもったいなくはないからだ。
 しかし今朝は違う。どうしてもメンチカツサンドを食べて出かけるつもりだ。断じて行列の尻尾に立つ。

共感



 午前十一時の時報と同時に、拙宅に北接する区立施設の屋上スピーカーから、大音声が鳴り響いた。長らく工事中でビル全体がテント地や黒い遮蔽幕で覆われたままだが、屋上のスピーカーだけは通常の機能を果そうとするらしい。音が割れて、ひどく耳触りの悪い音声だ。
 揺れなかった。消防車や救急車のサイレンも耳に届かなかった。熱中症への注意喚起というほどの陽射しではない。となれば、謎の飛行物体の接近だろうか。警戒警報だろうか。階上の台所で作業中だったが、北側の窓辺へと急ぎ、窓を開けて聴き取ろうとした。アラーム機能のテストだという。なあんだ、演習か。

 十時台のラジオでは、山口百恵特集を流していた。伍代夏子さんと男性アナウンサーとがパーソナリティーで、ご子息の三浦貴大さんと著名指揮者とをゲストに迎えて、百恵ワールドを回想・絶賛していた。宇崎竜童・阿木燿子作品、さだまさし作品、谷村新司作品。まったく雰囲気の異なる曲をそれぞれわが物にして唄いあげ、ヒットさせた山口百恵の声をまとめて続けざまに聴かされると、なるほどたいしたことだったのだと、出演者たちの弁に同感せざるをえなかった。
 番組がひと区切りとなって、時報が告げられ、さて十一時のニュースとなろうとしたとき、不明瞭な大音声による演習告知が近隣の空に向けて発せられたのだった。


 私はと申せば、昨日炊いたままに放置しておいた三合の飯を、冷凍小分けおにぎりとすべく、型として流用している小鉢に盛った飯を、手に水をつけては指先で押しつけたり、軽く握って形を整えたり、ラップでくるんだりの作業をしていた。炊きあがった飯を処理する時間が、昨日はとれなかったからだ。

 昨日はこの粗末な日記をお読みくださってるらしいとあるおかたが、伝手を介してご来訪くださった。私にとっては想い出深き老桜樹が、突然のもらい事故でアッという間に消えてしまったことにお心をお寄せくださり、お見舞いにお越しくださったのだ。
 お上りいただいて、お茶でも差上げるべきところなれど、あいにく茶菓の用意もなく、だいいち近来ますますゴミ屋敷然と化しつつある拙宅には、ろくに寛いでいただく場所もない。なにせ先方は、還暦は超えられたろうが社会生活からまだ降りてはいらっしゃらない、実業界のご婦人である。私なんぞが気づかぬ幾多の点にお眼が届くかたにちがいない。恐縮するには及ぶまいが、粗相もならない。

 仲介の労をおとりくださった古書往来座のお二人ともども、わが定宿である居酒屋へと場所を移した。
 ところがこれがとんだ不首尾だった。つねであれば、いくらか時代遅れの空気が漂う(レトロ感ってんですか、昭和の感じってんでしょうか?)落着いた店なのだが、昨日に限っては、昂声激論の集団いわゆる酒に呑まれる若者たちの団体と鉢合せしてしまった。画に描いたような大衆酒場だから、いろいろな相客を目撃してきたものの、これほど喧しい団体は初めてだった。
 果ては周囲をも憚らぬ喧嘩口論にまで発展する始末で、せっかくのお客人と初対面の会話を進めるには、まことに不都合な空間となってしまった。

 加えて、散会時分が近づいたころになって、急に空模様が怪しくなり、ついには雨が降り始めてしまった。雨具の用意はだれにもない。時間待ちして、やや小降りとなった隙を視はからって、ご挨拶もそこそこに失礼せざるをえなかった。
 いやはや、せっかくお見舞いご来訪くださったお客人に、とんだ無調法の仕儀となってしまった。


 うだつの上らぬ零細出版社社員だったり、フリーランスの下請け原稿書きだったり、大学の非常勤教員だったり、つまりは陽の目を視ることのない片隅社会人だった時分には、不運だの割を喰うだの、シワ寄せに見舞われるだのは日常茶飯事だった。わずかばかりのギャラは、屈辱忍耐料と思って受取っていたもんだ。
 世間から半分おいとましたような暮しとなって、知らず識らずのうちに責任やストレスの少ない暮しに馴れっこになってしまい、たまさかちっぽけな不運や理不尽が重なっただけでも、妙に胸に響いてしまったりするようになったのだろうか。

 アラームテストとかの大音声を聴きながら、地上へと眼を移すと、工事現場の警備員さんが、十一時の一服だろうか。児童公園のベンチで缶ジュースを飲んでいる。
 開店休業と見える工事だが、内部で少しづつは進行しているらしく、視張りも必要だし、稀にやって来る資材車輛の誘導も必要だ。
 彼は今、仕事中だ。

埋れたように

 

 ようやく陽の目を視たユキノシタである。

 東に接する隣家との境界塀ぎわのむしり残しを、数日前に潰したのだったが、ユキノシタだけは、あえてむしらずに目こぼししておいた。似たものがほとんどない特徴ある花を観てから、まとめて始末しても遅くはないからだ。
 春先から今日まで、成長力において傍若無人ドクダミやシダに先を越されて、また彼岸花の葉の鬱蒼たる繁りの陰に隠れて、特徴ある円形の葉がろくに眼に着くことすらなかった。さては姿を消してしまったろうか、昨年のむしりが徹底し過ぎていたろうかと、訝られるほどだった。繁茂する草ぐさの葉を描き分けてみると、十円百円硬貨ほどの幼葉が点々と芽吹いていて、絶滅したわけではなかったと知れるていどだった。

 それがようやくここへ来て、花時を迎えた。虫媒を狙っているものか、風媒が本意なのかは知らぬが、花を着けたからには、次世代を残す気はあるのだろう。そしておおむね意を達したのだろう。今世代最後の檜舞台を踏ませるつもりで、周囲の草ぐさをむしり取っておいたのだ。彼にしてみれば、一年のうちでほんのわずかな日数だけ、だれからも妨害されずに、直射日光を浴びる。それが彼の望むところか否かは、私の知るところではない。あんがい直射日光が苦手で、他人の陰に隠れて過すことを好んでいるのかもしれない。
 だが花を着けての最後の舞いは、人眼に着かぬわけにはゆかない。そして今世代の最期を迎えることになる。近ぢか私がむしり抜くからである。

  
 数日前のこと、旧い仲間が六人ほど集っての小宴が催された。ご店主とも長い付合いだから、仲間七人の宴とも云える。
 いち早く自主定年して、生活拠点を中国に移していた一人が、疫病騒ぎで帰国したきり戻れなくなって数年経ってしまった。もはや中国生活を断念して切上げるほかはなく、これまで住いや荷物の管理を知人に依頼してきたのを、整理し処分し、諸方への礼やら感謝やらの挨拶廻りを済ますべく、近ぢか中国へ渡らねばならぬという。
 かの地では、日本語教師を振出しに、元来本職であるテレビ番組制作にまつわる現地の若手指導など、いくつかの仕事を持ったから、挨拶廻りといっても北京から河北省、上海、杭州と数の多さも地域の広さもなかなかで、短日数では済みそうもないという。そこで壮行の小宴となったわけだ。

 会場は日暮里から根岸へと延びる旧王子街道に面した居酒屋で、近所には羽二重団子の本店ビルがある。落ちこぼれ中高生時分から六十年の付合いにもなる仲間らが、若き日から集ってきた店だから、近隣の風景の変化についても、各人それぞれに想い出はある。
 店の前に立って首を廻らせば、右も左も高層ビル群だ。集合住宅だろうかビジネスビルだろうか。住宅だとすれば、こういう処にはいかなる人が住んでいるのだろうか。見当もつかない。
 向うからこっちを眺めれば、千尋の谷の底に埋れたように見えていることだろう。どっこい、老舗の居酒屋が灯を点けているぞ。看板なんぞない。屋号を染抜いた暖簾もさがってない。長年にわたってしぶとく商売してきた店主がいるとは、新住民には想像もつくまい。そこでは、老いたりとはいえそれぞれ腕に覚えの変態老人集団が、今宵も酒を酌み交しているぞ。
 ここは千尋の谷底なんぞではない。蟻地獄の巣の底だぞ。お気を付けたまえなんぞとは、口が裂けても云わないが。

えんま市



 えんま市(6月14~16日)まで、一か月を切った。村上市の村上大祭、新潟市の蒲原まつりと並んで、新潟三大高市とされる。高市(たかまち)とは縁日のことだ。市内の閻魔堂を中心に四百とも五百ともいわれる露天商が並ぶ。

 そもそもはこの地に馬の市が立って、人と物の集散が盛んになったのが発祥とのことで、見世物や露店が集る形態が整ったのは江戸後期の文政年間ころというから、それからでも二百年の伝統行事だ。
 衣更えの季節にあたるために、呉服太物の取引が盛んだったとの説や、六月中旬という期日が、全国の露天商にとって集りやすかったという説もある。いずれにもせよ、田植えを了えた農民にとって、ひと息つける愉しみな季節ということで、伝統は受継がれてきた。

 昨年のえんま市では、疫病禍が明けたといっても、例年四百とは下らなかった露店の数が、百五十だったという。露店間にはたっぷりと間隔が設けられてあったという。いよいよ今年から、疫病以前の規模と形態とが完全復活するそうだ。

 


 「おゝ、えんま市の季節だ」
 郷里には二十年、横浜と東京を足すと七十年以上もを暮した父でさえ、最晩年まで口にしていた。幼少期によほど心躍った愉しい想い出があったのだろう。
 私はえんま市に参加どころか、見物もしたことがない。私の農村体験は、少しでも親たちの手数を軽減すべく、毎年の夏休み期間中は父の実家と母の実家とに半々づつ、預けっぱなしにされたがゆえのものだ。葱を圃場から本畑へ移植する作業や、小豆畑の草取りなど、夏の作業を知るばかりで、田植えも稲刈りも身をもっては知らない。納屋の修理や川の護岸工事では、材木や石をネコ(一輪車)で運んだ経験がある。豚と山羊への餌配りだの、青大将やヤマカガシの殺しかたなどは教わった。
 えんま市の季節は当然ながら、都会の児童だった。


 毎年この季節になると、従兄が笹団子を贈ってくれる。現在では製法も防腐剤も進歩して、一年を通してお眼にかかれる笹団子だが、ヨモギを摘んで餅に搗きこみ、青あおとした笹の葉にくるむわけだから、元来はこの季節のものである。私の大好物だ。
 近年は「舞茸ごはんの素」を同封してくれる。南魚沼市に本社のある「雪国まいたけ」の商品だ。これも大好物で、従兄からのご恵送に与る以外に、自分でもビッグエーで買うことがある。
 ひと袋が二合炊き分量だ。二合の米を普通に水加減して、「素」ひと袋を投じて掻き混ぜればよい。いたって手軽だ。じつに美味い炊込みご飯が炊ける。

 が、私の舌には、こうまで画然とした味である必要がない。
 私は米三合を研ぐ。酒を差し、鰹節を削って投じる。「素」ひと袋を投じてから、微量の塩と醤油とで整える。醤油だけで事足りるのだが、そこまで色濃くする必要もないから、塩で加減するわけだ。いく度か試みるうちに、私流の加減が安定した。
 やや薄味炊きにしておけば、小分け冷凍したものを粥飯に炊いた場合も、カレーライスやハヤシライスにした場合も、炊込みご飯の味が邪魔にならない。
 という次第で、独居老人の食卓には、うっすら味が付いた舞茸粥とデザートに笹団子というかたちで、えんま市がやって来る。

風景の移ろい



 映像ではどれだけ観せられたものか、見当もつかない。しかし肉眼で、これほど間近に東京ドーム球場を観るのは初めてだ。

 今年に入ってから、六十年前のチームメイトが二人、相次いでシューズを脱いだ。かねてより健康不安を抱えていたとはいえ、ともに医療成果は芳しく、表情には余裕の笑みもあっただけに、急に斃れられてしまった感が拭えなかった。
 心ある同志が骨を折ってくれて、先輩後輩間に回状が廻り、両名ともを偲ぶ追悼会が実現した。通夜にも葬儀にも都合をつけられなかった私にとっては、まことにありがたい催しだった。ご遺族を代表して、両名の令夫人・令嬢をお迎えして、かつてのシューズ仲間・ボール仲間が久びさに顔を揃えた。年齢順での三分の一は、後期高齢者である。

 
 ――彼は卒業後の一時期、役者として芝居に取組んでました。小劇場公演を二作ほど観せてもらいました。うちの一作では、齢下の女優さんとツートップの役どころでしたが、彼女のことをこんなふうに云ってましたっけ。
 「彼女は有望です。将来売れるかもしれません。引きで観ているぶんには、大柄ではありませんけれども、カメラテストのようにフレームを切って、単体で彼女だけを観てみると、じつに巨きいんです」
 人間の資質を視るに、さような視かたがあるのかと、彼から教えられましたっけ。彼女はその後、桐朋学園短大演劇専攻を経て、つかこうへいさんの処で大ブレイクしました。色褪せることのない強烈個性で今もご活躍の、根岸季衣さんです。

 ところでそう云ったご本人も、バスケットボール・プレイヤーとしてけっして大柄ではなかったけれども、その後のご生涯を想い返してみますに、フレームを切って単体で眺めてみると実寸よりも遥かに巨きな人だったのではないでしょうか。
 若き日に、まだ無名の卵に過ぎなかった根岸季衣さんの資質をいち早く視抜いたのは、みずからの志もまたさようであったからに違いないと、今にして思います。

 ――さてもう一方の彼ですが。高校三年時の運動会の「棒倒し」決勝で、彼の組と対戦しました。私は二列縦隊で突撃するわが軍の攻撃隊の先頭です。彼は迎え撃つ敵軍遊撃隊の先頭です。ご承知のとおり攻撃隊の先頭というものは、けっしてスターとはなりえません。敵陣の棒に取り着いて、登ったり揺さぶったりの雄姿が被写体になる連中は、二列縦隊の後部に行列しております。前の半分が敵軍の遊撃隊と刺し違えるように、組んづ解れつ白兵戦を繰広げるなかをすり抜けて、敵陣に到達し襲いかかるのです。いわば前列の負傷兵や屍を踏み越えて、勝利への作戦を完遂させるわけです。
 彼は徹底したマンツーマン方式で、私を潰しに来ました。柔道技かレスリング技かは知りませんが。私は完全に抑え込まれてしまいました。緒戦は時間切れ無判定で、再戦となり、仕切り直しの突撃で、やはり彼に抑え込まれてしまいました。
 運動会「棒倒し」の想い出としては、グラウンドに顔を擦りつけられた記憶しか、私には残っておりません。

 「あれから半世紀あまりも、俺はお前を憎き宿敵と思って生きてきたのだぞ」
 昨年の OB 会の席で、面と向って云ってやりました。むろん本気じゃありません。彼との長き友誼あっての思い出噺です。
 波乱万丈といえた彼の人生にあって、常日頃は思い返すことなどない、あまりに些細な場面でしたろう。しかし忘れ果てたわけではなく、私から云われて懐かしく愉快に蘇った記憶だったのでしょう。ワッハッハと声を挙げて笑いました。愉快そうに、無邪気に、彼はしばらく笑い続けました。
 それが彼との最期になりました。わが意を得たとでもいおうか、心底愉快とでもいおうか、無邪気そのものの笑顔でした。
 出逢いは中学一年生の入部時ですから、短くない付合いです。その最期が、あの晴れやかな笑顔だったということが、なにがなし私の慰めとも救いともなっている気がいたします。


 会場は「後楽園飯店」と回状にあった。「飯店」は日本語の食事処だろうか、中国語のホテルの意味だろうか。いずれにもせよ私には、場違い・身分違いの高級そうな処らしい。「後楽園ホール」のビルだというから、球場の裏手の、たぶんあのあたりだろうと、見当をつけた。しかしもはや私に見覚えのある風景なんぞ、微塵も残っていなかろう。
 一時間以上の余裕をもって、家を出た。案の定、迷子になった。丸ノ内線後楽園駅から、南北線春日駅水道橋駅と、だいぶ散策した。あげくに駐車場の誘導係として仕事中だった制服姿の青年に、道を訊ねた。巨大なビルの一階を、大きく湾曲したトンネルのようにくぐって、橋に沿ってと教わったとおりに辿った。あれっ、さっき通ったすぐ近くじゃないかな、とも思った。
 だって、後楽園ホールだというのに、ファイティング原田を応援に来た時とは、まったく異なる風景なんだもん。