タリホーです。

趣味を中心とした話題に触れていく所存(本格ミステリ・鬼太郎 etc.)

【ACMA:GAME】カゲ踏んで、ドジ踏んで【アクマゲーム #02】

影踏みか~…。やったことがあるような、ないような…?

 

(以下、原作を含むドラマのネタバレあり)

 

話の都合でIQを下げられる原作照朝

ACMA:GAME(2) (週刊少年マガジンコミックス)

2話は原作2巻のエピソードに相当するが、当然ながら原作とドラマとでは展開が大きく異なっているのでその違いについてまず説明しておこう。

 

原作ではマルコから悪魔の鍵を入手した照朝が、さっそく鍵の秘密を探るべく自身の会社の研究室で解析を行うものの、計測器による成分分析どころか質量さえ計測出来ないという人知を超えた悪魔の鍵に改めて驚くことになる。唯一わかったのは特定の赤色レーザーを鍵に当てると謎のマークが浮かび上がるということだけで、このマークを解析するために、照朝は同じ学校の同級生で暗号解析AIを開発した若き天才プログラマーの眞鍋悠季に協力を求めに行く。

ということで原作ではこの2巻で古川琴音さん演じる悠季が初登場するのだが、折悪しく悠季の実家である部品工場の「眞鍋製造」には、兵頭率いる暴力団組員が借金の取り立てに来ているというかなり危険な状況。照朝は親友二人の協力を得て悠季とその家族を助け出そうとする…のだが、作戦が失敗して親友二人は組員にボコボコにされて捕まってしまい窮地に立たされる。絶体絶命のピンチになった照朝はやむなく悪魔の鍵を使用しガドを召喚する…!

 

以上が原作のゲーム開始に至るまでの流れだけど、えーっと、原作を読んだ時の私の所感を述べるよ。

「え、照朝バカなの?」

お前頭脳明晰キャラじゃなかったの?そういうのってわざわざ自分達が乗り込まなくても警察呼べば良いんじゃないの?まぁ確かに一刻の猶予もない状況だったけど、犯行現場撮って「オレは織田グループの会長だぞ!」って水戸黄門ムーブかまして解決出来る訳がないでしょーが!!しかも外にも見張りの組員がいた可能性を考えてないって何じゃそりゃ!1巻のチートキャラ設定は一体何だったの!?

 

こんな具合に、原作者が明らかに次のゲームの展開を作ろうと意図的に照朝にドジを踏ませたせいで当初のチートキャラ設定にブレが生じてしまい、何かこのエピソードだけ照朝のIQが下がった状況になっているのが脚本としてマイナスポイントだと思う。

 

一方ドラマでは、悠季が照朝と斉藤初を仲直りさせるために中学生の時に学校に埋めたタイムカプセルを掘り起こすことを提案、その学校で悪魔の鍵を狙ってやって来た兵頭に悠季と初が襲われたことで、やむなく照朝は悪魔の鍵を使用するという流れになっている。

ちなみに、斉藤初は原作だとまだ登場しておらず、調べた感じだと原作では照朝の同級生でもないし性格も全然違うとのことで、名前だけを借りた別人だと考えるべきだろう。兵頭は暴力団ではないがプロボクサーという設定は原作から継承しているようだ。

 

初回で描けなかった照朝と悠季・初の関係性に比重を置いたプロットとして改変された今回の物語は、原作みたいに照朝がこの回だけバカになるという事態を回避しているという点で実に見事な改変だったと思うし、初が照朝に対して抱いている思いも明らかになっている。父親を殺した相手に復讐する一心で帰国して来た照朝を心配しており、本当は復讐などやめてほしいし、同じビジネスマンとして対等に仕事したいという思いがあるのだけど、ライバル心が邪魔をして素直にそれが言えずつれない態度になるという初の複雑な心理が読み取れた。特に前回の初はほぼ蚊帳の外状態だったから、ここで照朝・悠季・初の関係を明確にしてその友情の深さにスポットライトを当てた内容にしたのは、連続ドラマとしては当然の舵取りだろう。

 

「映影頭踏 Shadow Step

今回のゲームは「映影頭踏」という、相手の影の首から上(頭部)を踏んで2点先取した方が勝ちというこれまたシンプルなゲーム。一応原作はもう少し細かい説明があって、影が建物や他のモノの影に被った場合は、その相手の影を踏んでも無効というルールがあるし、もう一つ影について原作ではルールがあるのだけど、それはネタバレ防止のため今回は伏せておこう。

 

このゲームで照朝はガドから特殊能力を提供され、物体を物理法則に関係なく一分間だけ固定出来る「一分間の絶対固定(リミテッド・パーフェクト)」を使用することが出来るようになる。この能力をいかに駆使してゲームを勝利するかが今後の見所となるが、正直今回は同級生三人組の友情を描くことに比重を置いた結果、ゲームの面白さが半減していて個人的には不満の残る改変だったと厳しめに評価したい。

 

そもそも原作と違い舞台が部品工場から中学校に変更されたので、体力面・俊敏性では兵頭に利があるけど、地の利は照朝たち三人組にあるため、原作と比べると公平性に欠けるというか、本来一対一の個人戦なのに実質団体戦になっているのも改変として悪手だと感じた所だ。原作では上杉潜夜はこの時点で照朝や「映影頭踏」に介入しておらず、あくまでも兵頭と照朝の一騎打ちだからこそ、後には引けぬ緊張感があったのに、団体戦になるとゲームとしてガバガバというか何でもアリになってしまう。最後の最後で悠季と初が兵頭を捕まえて、照朝がその影を踏んで勝利するというあの展開にしても、「それで得点になるんだったらゲームとしてやる意味ある?」って思うし、ガドの裁定にも納得がいかない。

公平性と言えば、ドラマのガドは兵頭に対して誘導的な発言をしていたのも気になる所で、「このままだと照朝たちが通報するから、命を奪うしかないよね~?」と意図的にデスゲームに持ち込んでいる。悪魔の鍵の設定にしても原作と違い所有しているだけで幸運が舞い込み、99本集めればこの世の全てを手に入れられるという付加価値があるのだから、やはり悪魔側の思惑も考えると公平性というのは詭弁みたいなものと考えるべきだろうか?

 

さて、以上のように不満を述べたけど、一方で原作通りやれない理由も何となく推察されるんだよね。原作のゲーム展開を一部ネタバレすることになるが、兵頭は原作でフォークリフトに乗って照朝を追い詰めるという展開があるのだけど、フォークリフトは誰でも乗れる訳ではなく免許がないと運転出来ないし、免許を取るにしても学科講習が7時間、実技講習が24時間で、最短で4日はかかるみたいなので、撮影するにあたって役者の方にこの場面再現のためだけに免許をとってもらうというのは、いくら何でも無茶ぶりというものだろう。

漫画はフィクションだし相手はヤクザだから免許の有無は関係ないけど、実写化するとなると実際に運転するのだから、そこで無免許運転したらアウトなので、今回のような改変をしたのも納得と言えば納得だ。しかし、出来ないにしてもそこは工夫して頭脳プレイで兵頭に勝つ照朝が見たかったな。

 

※原作では照朝だけでなく兵頭や他の観戦者にもこの情報が開示されている。

 

さいごに

ということで今回の感想は以上となるが、ゲームの第二戦目までは良かったんだよ?中学時代の思い出を利用して兵頭の影を踏む所とかは改変としてナイスだったし、照朝がガドを召喚する下りは原作と比べてだいぶ不自然さが解消されていたからね。しかし、第三戦目で潜夜が妨害してきたり、仲間が兵頭の動きを封じて照朝が影を踏むというアレはダメだな。それがOKなら潜夜が照朝を羽交い絞めにして、そこを兵頭が影を踏むということをやっても全然問題なかったのだから、わざわざ照朝の作戦を封じなくても手っ取り早くゲームに勝てたのではないか?と思える余地が生じているのが実に残念だ。

そういう訳で今回は人間ドラマとしての改変は良かったけど、ゲーム展開の改変で大幅減点という感じ。原作未読の方は原作の照朝がどのようにして兵頭を出し抜き彼の影を踏んだのか、是非チェックしてほしい。戦術が見事で面白いぞ。

次回は潜夜との勝負になるが、彼はなかなかクセのあるキャラなので次回は彼のことについて言及しようかな。

タリホー的作品批評のススメ

2018年8月から始めたこのブログも約5年8ヶ月経って、おかげさまで読者登録も50人を超え、先日の投稿記事が500番目となった。

 

昨年、500番目の記事を投稿した辺りで当ブログの執筆スタイルや、執筆する上での注意点について書くと予告したのだが、当ブログは書籍・ドラマ・アニメ・映画といった作品批評がメインなので、作品批評について常日頃気を付けていること、私にとって「作品を批評する」とはどういう意義があるのか、批評する上で参考というか理想としている動画やテレビ番組について、色々語ってみようと思う。

 

神経症的な作品批評がメジャーな現代

批評家自体は昔からずっと存在したものの、昨今はインターネットの普及やSNSの隆盛によって誰もが批評を行ってそれを手軽に読むことが出来る時代だ。それに、電子書籍や有料配信などで最新の流行作品だけでなく、昔の歴史的名作も見ることが出来るのだから、相対的に見ても昔より今の人々の方が目が肥えているんじゃないかと思う。

 

誰もが感想・考察・解説・批評を行って、不特定多数の人間に発信出来るようになった分、評論を生業とする専門家の存在価値が問われるし、2年前に書評家の豊崎由美氏のツイートが炎上した出来事※1を見ても、「高尚なことを評論しているから良いのか?」という疑問が生じた。作品と読者(視聴者)を巡り合わせることが出来たらそれで良いし、他人の批評の巧拙についてとやかく言うのはみっともないと思ったものだ。

 

とは言ったものの、YouTubeSNSにおけるレビュー動画や批評を見ていると最近の批評にはちょっとした偏りというか、ある種の傾向があるような気がする。何と言えば良いのかな、物語の整合性とか演出の意図、作中のアイテムに対する考察とかを細かく拾う、重箱の隅を楊枝でほじくる感じのレビューが目立っている。

これはぶっちゃけ私もやっていることだからあまり偉そうなことは言えないのだけど、(誤解と偏見を恐れずに言うならば)私の感覚としては現代人の作品批評って神経症を患った状態で作品を見ている感じがして、作品に対して寛容な見方が出来なくなっていると正直思うのだ。昔は原作を大胆に改変した映像作品を発表してもあまり炎上しなかったけど、今は下手に改変しようものなら炎上するのは当たり前で、例えば長谷川町子原作の「いじわるばあさん」を実写化した青島幸男版の意地悪ばあさんなんか今だったら間違いなく炎上案件になっていただろう。青島版は当時原作者が否定的なコメントを残した逸話があるが、それでも青島版は人気を博したドラマシリーズだったし、スペシャルドラマが何回も放送されていた。

 

Wの悲劇 角川映画 THE BEST [Blu-ray]

あと薬師丸ひろ子さん主演の映画Wの悲劇なんかも、今だったら間違いなく炎上しただろうね。この原作はミステリ小説なんだけど、映画は原作で起こった事件を劇中劇として描き、舞台女優がスキャンダルに巻き込まれながら成長していく様をメインにした青春映画として改変したのだ。だから謎解き要素はないし原作と別物と言って良いのだけど、中途半端に原作通り映像化して凡作になるよりも、別物になっても良いから傑作を作りたいという潔さがあるし、ある意味賢明な判断だったかもしれない。※2

 

批評する側も神経症的になると作り手も神経質になるというものか、昔に比べると今の作品はメッセージ性を重視したものが多く、特に映画「クレヨンしんちゃん」はそういった時代の影響をモロに受けている。ただドタバタとしたコメディを描くだけではいけない、物語に意味やメッセージがないといけないという、そんな強迫観念が植え付けられているような気がしてならない。

一応言っておくと神経質に作品批評をすること自体は悪くないし、そういう見方をしないと見えてこないこともある。しかしこれはある程度コツというか方法論を自分の中で確立しておかないと、逆に貧相で狭量な見方になってしまう恐れがある。部分にこだわって作品全体を眺められなくなったり、「辻褄が合わないからこれは駄作だ」という短絡的な思考に陥ったりする危険がある。

私も映画やドラマを見た後に感想をよく漁るのだが、ただただ技術面の巧拙ばかりに囚われているレビューはやっぱり面白くないし、そういう批評を見ると勿体なさを感じてしまう。もう一歩踏み込めば、たとえ作品自体が駄作・凡作でも豊かな体験が出来るのに、そこに至らないまま早々に結論を出してしまっているのが多くの現代人における批評の傾向なのだ。

 

※1:豊崎由美氏の書評についてのツイートに対する個人的意見 - タリホーです。

※2:他にも松竹制作の「八つ墓村」はミステリ要素を抜いてホラーに特化した改変が為されているし、こういう改変の例を挙げたら昭和の映画はキリないぞ!

 

批評は「自己との対話」

専門家に限らず多くの人が作品批評をする時に、出来るだけ客観的に作品を眺めようとするが、これは私としてはあまり良くない物の見方だと思う。アカデミックに先行作品と比較して作品を批評・分析するというのは学問として究めるつもりがあるなら客観的に批評をするのは別に構わないが、基本的に作品批評は「自己との対話」、つまり主観的なものであるべきだと考えている。

作品の良し悪しを批判することは誰だって出来るけど、そこから「何故この作品は私に刺さるのか」「何故世間的に大絶賛されている作品が私には合わないのか」を考えるとなると、結局自分と対話しないとその答えは見つからないし、自己との対話の中で導き出された意見の方が独自性や批評としての魅力がある。

 

私を例にして話をするならば、私は「ゲゲゲの鬼太郎」や「地獄先生ぬ~べ~」といった怪異や妖怪を扱った作品は好きだけど、「ポケモン」や「デジモン」には興味が一切湧かない。どちらも怪物(モンスター)を扱っているのにこのような差が出るのは何故だろうか…?と私なりに考えてみたのだが、それは「その怪物に歴史的背景があるかどうか?」※3を私が気にするタイプだからではないかと思うし、原色的なキャラクターがあまり好きではないという嗜好もあるかもしれない。もっと言うと、怪物を捕らえてそれを使役して戦わせることが競技となっている「ポケモン」の世界観に対して子供ながらに人間のエゴや醜さを感じ取ってしまったから避けたという考え方も出来るのだ。

このように自己分析的に作品批評を行うと、自分の好き嫌いの基準とか、自分がこの世界をどのように見ていて、何を理想としているか、どういうことが許せてどういうことが容認出来ないのか、といったことがわかるし、客観的な批評では辿り着けない唯一無二の批評が出来るという点で、自己対話による批評は面白いしやりがいがある。

 

ただし、メリットだけでなくデメリットもあるのが厄介な所で、フロイトの「夢判断」のように、自己対話による批評は自分が普段見て見ぬフリをしたり心の奥底にしまいこんでいたモノを明らかにする行為なので、その結果自分のイヤ~な面や狭量さが露呈したり、自分の性癖を暴露することにもなりかねないので結構恐ろしい。大多数の人の批評が客観止まりなのはこういうデメリットによる所も大きいと思う。

でもやっぱり楽しいんだよね ♡

正論よりも悪口を聞いている方が面白いという感覚があるけどさ、正論はどうしても客観的で総合的な世評になりがちだから面白みに欠けるけど、悪口ってそれを言う人の価値観がモロに出て来るから、悪口の質にもよりけりだけど、正論に比べると悪口の方が魅力的だったりする。悪口は(正論と違い)社会や世界を建設的に良くするものではなく、自分の内側(心)を充実させる方法の一つだと思っているし、単純な悪口は人を傷つけるものになってしまうが、それを自己との対話を通して精製した上で述べるのであれば、それは立派な批評になる。

 

www.youtube.com

悪口に関しては精神科医名越康文先生のこちらの動画を紹介しておくが、やはりレビュー動画でも絶賛より酷評の動画の方が再生数が多いし、悪口には人の結束力を高める作用もあることは確かだ。しかし、批評とするからには単なる袋叩きになってはいけないと思うし、集団リンチ的状況を生み出さないためにも、自己との対話をする、つまり自分自身に対しても批判的な目線を持つという視点を私は心掛けているのだ。

 

※3:「ポケットモンスター」は1996年に発売されたゲームから始まったことから考えるとポケモンは歴史の浅い怪物と言えるのではないだろうか?(めっちゃ失礼だよね、ゴメンね?)

 

教科書ではなく資料集を目指す

私が普段レビューをする時に気を付けているのは、内容が教科書的になってはいけないということだ。教科書は基本的な知識を身に着ける上では非常にまとまっていて効率的な本だけど、知識の幅をそれ以上広げられないという欠点があると思う。

例えば国語の教科書は文章読解や作中人物の心情を把握することに特化しているけど、作中の舞台背景だったり、それを書いた著者がどういう人物かという点については簡単に説明して終わってしまうことがほとんどだ。そういった舞台背景や人物はジャンルとしては歴史や社会といった分野になってしまうので、学校の効率化された授業形態だとなかなか各分野をそれぞれ関連させて知識や思考の幅を広げるのが難しいんじゃないかな~?と思うのだ。今はどうなっているか知らないけど、少なくとも私が学生だった頃の授業では国語から歴史の知識を拾ってその知識の幅を広げることは出来なかったし、大学に進学しないことには、そういう幅の広げ方もわからなかった。

 

教科書は基本的な情報・知識しか書かれてないためすぐ捨ててしまったが、反対に国語便覧や日本史の史料集は今も実家に置いており、今目を通しても面白いと感じる。やはり資料集の方が圧倒的に情報量が多いし、教科書が整理された情報・簡略化された情報なのに対して資料集はそのままの情報(例えば旧仮名遣いで書かれた文章・当時の風景写真や風俗など)が載せられているため、読んでいてインスピレーションが湧いたり、色んな想像が出来る余地があるのだ。

だから私のブログも出来るだけレビューする際は読む側の刺激になるような内容、多面的な見方の助けになるようなことを出来るだけ述べるようにはしているし、私自身が読み返したくなるようなレビューを書けば、他の人が読んでもそれなりに読み応えのあるものになるだろうと思って自分なりに考えながら執筆しているつもりである。

 

性格分類を反映させて

私は先ほど紹介した名越先生切っ掛けで体癖論を知り、最近ではMBTI診断というものもやっている。

 

pr.yakan-hiko.com

www.16personalities.com

こういう性格分類というものは別に「相手の思っていることを見抜いてやる!」という打算的なもの、マウント目的ではなくて、単純にその人がどういう基準で動くのか?といった相互理解やコミュニケーションを円滑にする上で必要かつ有用なツールだと思っている。それに、物語の登場人物は人間もしくは人間的思考回路を持った生物であることがほとんどなのだから、作品の分析や批評にも活かせる。

 

ちなみに私は体癖論だと左右型の4種体癖、MBTI診断では提唱者(INFJ-T)※4という診断になった。提唱者タイプは世界的に見ると珍しいらしく、診断内容を読むと確かに私がこれまで書いたレビューや考察って理想主義的な内容だな~とその診断の正確さに感心するばかりだ。

tariho10281.hatenablog.com

(特にこの6期鬼太郎の座敷童子の時の感想は理想主義的ですよね…ww)

 

それに自分が4種体癖だと実感するのはブログを執筆する際になかなか文章がまとまらない時なんだよね。4種体癖は感情が固まらない傾向が強く、自分の感情を理解するのに時間がかかると言われているのだけど、私自身スラスラ執筆出来ないし批評をする際も「ここでモヤモヤするのは何故だろう…」と悩む時も結構ある。で、消化不良な出来事や嫌なことはずっと覚えていて、モノによっては10年以上前の出来事でも今年あった出来事のように思い出すという未練たらしい面があるから、そこも作品批評をする時に反映されている所が少なからずあると思う。

 

そんな性格だから当然文章で感想を述べるのが私の性に合っていて、動画や配信だとコメントが固まらず結局当たり障りのないことを言ってしまうのは自分でもわかっているから、こうやってじっくり考えながら出来るだけ誤解のない言葉を紡いでいるという感じかな。自分の性格を知っておくのも自分なりの批評をする上で大事だと思うし、他の人の批評を読む時も「あ~この人は論理性を大事にするのだな」とか「この人は楽しければそれでOKって感じだね」とレビュワーの批評のクセを読み取ることが出来てまた別の面白さが出て来ると思う。

 

※4:同じ提唱者でもAタイプとTタイプがあって、Aタイプは自己主張型でストレス耐性があり、Tタイプは繊細で周りの意見に耳を傾けるという違いがある。

ちなみに、日本の芸能人だと江頭2:50さん、ゆうたろう(俳優)さん、大橋和也(なにわ男子)さんがAタイプで、Tタイプはやす子さん、西畑大吾(なにわ男子)さんなどが挙げられる。

 

時間がかかっても「届くべき人に届く」レビューでありたい

レビュー動画と違って個人ブログでの作品批評は多くの人の目に触れないという短所がある。正直言うと私は当ブログでとあるドラマのレビュー記事を投稿して自分としては「よく書けた!」と思っていたにもかかわらず、あまり反響が芳しくなくて意気消沈した記憶がある。それで一時期は「もう真剣に書くだけ無駄やな…」と軽いうつ状態になったこともあったけど、今は気にせず執筆が出来ている。

 

tariho10281.hatenablog.com

その切っ掛けとなったのは昨年投稿したこの記事だけど、投稿した時は特に反応がなかったのに、数ヶ月経ってからこの記事内容に共感した方が Twitter の方で紹介してくださった。この時に「あ、時間がかかっても真摯に書いたものは届くべき所に届くのだ」という悟りを得て、それからは読者の反応とかもあまり気にせブログを書くことが出来るようになった。

何かと時短とかスピード感を求められがちな昨今、自分の意見をすぐに人の目に触れさせようと拡散したり、多くの人に読んでもらうために過剰な文章表現をするブログもあるけれど、私のブログは流行に囚われることなく本気で作品と向き合いたい人に届くことが理想であり、そういう好影響を与える内容の批評をこれからも書いていきたい。

 

さいごに(執筆における憧れ)

長々と語って来たけど、何をするにしてもやっぱり理想や目標、或いは憧れとなる存在を頭の片隅に置いてことを行うのが大事だし、最後に私が作品批評をするにあたって参考にしたり、憧れの対象としているものを紹介するのも悪くないだろう。

 

・シリーズ「深読み読書会」(NHK

私が好きな番組だけど不定期だしあまり再放送はやってない。過去に横溝正史金田一耕助シリーズの代表作や小松左京の『日本沈没』、江戸川乱歩の『孤島の鬼』で読書会をやっているのを視聴したが面白かったし、多角的に作品を評価したり作者が作品に込めた思いを深読みするという試みが私には刺激的だった。

 

・ダークサイドミステリー(NHK

www.nhk.jp

毎年4月~9月の半年間放送されるオカルトや猟奇事件、怪奇文学といった怪しげなものを特集するミステリー探求番組。私も当ブログで「アンデッドガール・マーダーファルス」や「ダークギャザリング」の感想・解説を書いた時にはこの番組の知識が大変参考になった。一応今年も今月から第6シーズンが始まったのだが、BS4Kでの放送みたいでBS(2K)は未定らしい。割と楽しみにしてたので早くBSでも放送してもらいたいものだ。

 

・ゲームさんぽ

2019年にライブドアニュースYouTube チャンネルから始まった企画で、各分野の専門家と共にゲームの音響や照明・建物・キャラクター・家具調度品などを深掘りしていくという従来のゲーム実況では得られない教養を我々視聴者に提供する番組。ある意味私が最も理想とする作品批評の方法だと思う

www.youtube.com

現在はライブドア社から独立してゲームさんぽ専門のチャンネルを開いた方がおり、「ゲームさんぽ」の番組は本家と分家のような状況になっているけど、どちらも面白いのでおススメです。

 

名越康文TV シークレットトーク youtube 分室

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「ゲームさんぽ」と併せておススメしたいのがこちら。当ブログでも過去に何度か紹介したけど、体癖論に関することや人間心理を分析する上で勉強になることが多い。あと私は過去に適応障害で一度心がズタズタになった経験があるため、精神科医の方が発信することって日常生活における心の支えになったり生きる指標になったりとそういう点でも参考になることが多いですね。

 

・ホッカイロレン

www.youtube.com

これまで紹介して来た番組・チャンネルとは毛色が異なるが、作品批評という点で何気にリスペクトしているのがこちらのホッカイロレン氏である。作品批評をしているユーチューバーは数あれど、ホッカイロレン氏はレビュー動画をある種のエンタメとして演出しているのが特徴で、視聴者を楽しませようとする心意気が感じられる。

レビューする対象となる作品も、今話題の映画だけでなく誰も取り扱わないB級・Z級のクソ映画や宗教団体が制作したカルト映画など多岐にわたっており、世評に囚われずに独自の切り口でレビューしている所に好感が持てる。先ほど私が説明した「自己との対話」が出来ていることは、レビュー動画を見ていただければ明らかだ。

論理的に見るか直感的に見るかで評価が変わる【映画「すずめの戸締まり」レビュー】

すずめの戸締まり

先日金曜ロードショーで放送された映画「すずめの戸締まり」を見た。

新海誠監督作品を見るのは本作が初めてで、前作「天気の子」や話題になった「君の名は。」は全く見てないしストーリーも1ミリも知らない。どうも新海監督の作品は登場人物やポスターのイメージから私は勝手に青春モノだと決めつけていて、なおかつ私にとって青春は思い返すものではなく長い人生の通過点に過ぎないという思いがあったから、そういう個人的な事情というか価値観ゆえに敬遠していたのだ。

 

ところが、とあるレビュー動画で本作が陰陽師系の物語であることを耳にして興味がわいた。しかも本作は東日本大震災を題材にしていることは事前知識として知っていたから、その情報も含めて本作が地震というものをどう描いているのか非常に気になったので視聴に至った訳である。

 

先に言っておくとこの映画、私はかなり満足して見ることが出来たし、先日当ブログにアップした映画「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」(注:以下「ゲ謎」)の考察記事(↓)と併せて考えたことを述べたくなった。そして他の方の感想やレビュー動画を見ると高評価だけでなく低評価の意見も結構見かけたので、賛否両論となった原因についても語っていきたい。

 

tariho10281.hatenablog.com

 

(以下、映画本編のネタバレあり)

 

直感で動く主人公

本作は主人公・岩戸すずめが通学の途中で出会った宗像草太という青年と出会ったことを切っ掛けに動く物語。草太は全国各地の後戸(うしろど)と呼ばれる常世の入り口を封印する「閉じ師」の役目を負う者であり、すずめはこの青年と共に各地の後戸を封印する旅に出るというのが大まかなあらすじだ。

前半はダイジンと呼ばれる謎の猫によって子供用のイスに封印されてしまった草太と共に、ダイジンを追いながら各地の後戸の封印をするという展開で、後半からはとある出来事によって犠牲になった草太を助けるために、すずめが生まれ故郷の東北へと向かう流れになっている。一貫して大震災を引き起こす大ミミズを常世に送り返すという目的があるため、意外性や派手な展開というものはあまり感じなかったが、それでも面白いなと感じたのは本作の主人公・すずめのキャラクターが関係している。

 

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©2022「すずめの戸締まり」製作委員会/東宝

序盤、草太と出会った彼女は学校に遅刻することも気にせず元来た道を引き返して草太が向かった廃墟へと行くのだが、これってどう考えても違和感ある場面で、草太がいくら美形の好青年だからと言って、学校をほったらかして彼の元に向かうというのは明らかに異常行動だし、これを「一目惚れ」という恋愛感情ゆえの衝動的な行為だと考えたとしてもおかしい。この違和感は物語の終盤で明かされるすずめの幼少期の体験とつながってくるので、別にマイナスポイントという訳ではないが、この場面を抜きにしてもすずめは頭で考えて行動するというよりも直感で動くタイプの主人公だなと思うし、旅の流れも結構いきあたりばったりだ。

 

そもそも旅をする原因となったのは、要石=ダイジンの封印を解いたすずめ自身のせいでもあるのだけど、封印を解いてしまうあの場面も「水で靴や靴下が濡れるのに気にならないのかな?」とか「よくそんな得体の知れないものを触るよな…」とツッコミポイント満載。ここで主人公に感情移入出来なくなった人もいたのではないかと思うが、実は私、初見の段階では不思議と違和感なくこの場面を見ていたのである。じゃあ何故違和感なく見られたのかと問われるとちょっと返答に困るのだが、これについては後ほど触れる。

 

完全な封印は存在しない

今回の映画を見て思い出したのが、ホラーゲームの「零 zero」だ。このゲームでは人柱を用いて黄泉の門を塞ぐという本作の要石に通じる儀式が存在する。しかし、人柱となる女性に生の未練があったため、儀式は失敗し黄泉の門から瘴気があふれ出し大きな災いに発展するというストーリーが描かれるのだが、正にこれは本作におけるダイジンが逃げ出した動機と共通するポイントだ。

 

人間は大きな災いを回避し大多数の命を救うために、特定の人物を犠牲にしてきた。これが人柱だったり生贄・人身御供となる訳で、その犠牲の上に今日の平和と日常が成り立っているという考えがある。しかし、人間というものは不完全な生き物である以上、完璧な封印は存在しない。「零 zero」で生贄になった女性しかり、本作のダイジンしかり、愛情を求めるがゆえに役割に徹することが出来ない。故に、封印は必ず解かれてしまうし災いから人類は逃れられないというある種の思想だ。

 

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©2022「すずめの戸締まり」製作委員会/東宝

草太がダイジンの力によってイスに封じられ要石の役割を押し付けられてしまったのも以上を踏まえるとそれは不完全な人間では封印に適さない、イスという機能性・役割に徹したモノだからこそ、要石になれたのだという見方も出来るのではないだろうか?

しかし、そのイスは三本脚という不完全なイスだった。新海監督曰くイスが三本脚なのは震災の傷の象徴であり、すずめの心の傷をも表していたということだが、ある意味草太が人間に戻れたのは不完全なイス(=人間の不完全さ)のおかげと言えるだろう。不完全だからこそ災厄が防げないという面もあるが、一方で不完全だからこそ救われたという二重のメッセージが本作から読み取れたような気がする。

 

震災に対するアプローチと受け止め方の是非

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©2022「すずめの戸締まり」製作委員会/東宝

前述したように本作は東日本大震災を作中に取り入れているが、本作における地震はあくまでも大ミミズという超自然的なものであり、「ゲ謎」で描かれたような地下で蠢く死者の怨念(御霊信仰)とは異なるアイデアだ。

 

実際にあった震災を超自然的なモノの仕業として描き、それを封印するという本作のファンタジックなストーリーに対して抵抗感があるとか、わざわざ実際の出来事を取り入れる必要はないといった批判的な意見を見かけたが、確かに10年以上前の出来事とはいえ強烈に記憶に残る災害だったし、このようなセンシティブな題材を扱うならばファンタジーではなくドキュメンタリー形式の方が向いているという意見もあって当然だ。

 

日本において地震は過去の災害ではなく今も、そしてこれからも起こる災害であって、いくら防災の知識・技術が増えたとしても地震そのものを未然に防ぐ技術は未だ人類は持ち合わせていない。

かつてフランスの思想家ジョルジュ・バタイユは『太陽肛門』で「火山は地球にとって肛門の役割をしている」と地球を巨大な人体として捉えたことをこのように述べているが、バタイユの考えに則るならば地震は母親のお腹の中にいる赤ちゃんがポンと足で胎内を蹴るようなものだろう。しかしそのひと蹴りで建物が倒壊し、津波が起こってしまうのだから、自然というものは私たちの都合や理屈に関係なく、容赦なく降りかかる災いであり、地球に棲んでいる以上逃れられない宿命というものだ。

 

だから東日本大震災を題材にしようとしまいと、震災は私たち人類、特に日本人にとって重要なテーマであるのは間違いないし、防ぎきれない災いとそれによって喪われた生命に対してどう折り合いをつけて生きていくのか?という問いを考える上で、本作は決して無意味だと思わないし、実際の震災を題材にしたことに対しても私はそれほど否定的ではないのだ。

 

この辺りの考え方は実際に被災した人とそうでない人とで差が生まれるのは当たり前なので、私の意見が正しいと押し付ける気は毛頭ないことを断った上でここからは話を進めていきたいと思うが、劇中ですずめが「死ぬことが怖くない」と言う場面があったことを覚えているだろうか。これは震災の時に母親が死んで自分が生き残ってしまったという思いがあったから出て来た発言なのだが、「あの人は死んで、自分は生き残ってしまった」という例えようのない罪悪感、隣にいた人がいきなりいなくなるという喪失感をどう乗り越え処理していくのかって本当に難しい問題だし、人だけでなく周囲の環境も一変するのだから「どう生きていけば良いのか?」という問題も出て来る。

 

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©2022「すずめの戸締まり」製作委員会/東宝

この難問に対して映画では常世という時間・空間を超越した世界を活かして過去の自分に対する今の自分(つまり幼少期のすずめから見た未来のすずめ)が救いの言葉を投げかけている。これを私は「生きている限り希望や救いの余地がある」というメッセージとして受け取っているが、これってなかなか受け入れられない人もいる考え方だと思うし、そんな何の保障もない楽観論にすがりつけるほど、人間はたくましく出来ていない。

 

じゃあ「結局考えるだけ無駄な問題だ」とあきらめるのもまた違うと私は思っていて、要は何が言いたいかというと、「何故自分は生きているのか」「いずれ死ぬとわかっていながら何故生き続けなければいけないのか」という問いは人に答えを与えてもらうのではなく自分で模索して腑に落ちたものを答えにすべきだと言いたいのだ。わからないから限界なのではなく、「まだ答えに辿り着けていない」と考えて、その答えを見つけるために生き続ける、これが大事だと思う。

 

そしてそれを見つける上でヒントとなるのは人の営み、つまりは日常の中にそれがあるというのがこの映画を見て感じたポイントだ。本作では特に前半ですずめが旅の道中で地元の人の助けを借りる描写があるけど、そこで出会った人って旅館やスナックといった多数の人と触れ合う仕事に就いている人たちだったし、旅自体は異界に通じる扉を封印するという非日常的体験だけど、その道中で目にしたこと・体験したことは日常的なもので、この日常が心の重石になっているおかげで私たちは死から遠ざかることが出来ると、そうは考えられないだろうか?

これは後戸の封印の場面にも同じことが言えるが、封印する際にその場所でかつて暮らしていた人々のことをイメージしながら扉を閉め鍵をかけていたというのがミソで、日常が扉を塞ぐ重石、ドアストッパーの役目を果たしていると考えられるし、そこから派生して私は日常が死を遠ざけると考えたのである。

 

さいごに

以上、私なりにこの「すずめの戸締まり」がどういうメッセージを視聴者に投げかけた作品なのかレビューしてみたけど、結局この作品って本人の意志を超えた運命によって予めその結末は決まっていた物語なんだよな。だからすずめが要石の封印を解いてしまったことも、そこから旅をして東北へ赴き常世で幼少期の自分と出会うことも、運命として決まっていたことなのだ。

そういや要石の封印を解いた場面で私はあまり違和感を覚えなかったと先ほど述べたが、もしかしたら私はあの時点で彼女の行動が本人の意志を超えたものであることを予感していたのかもしれないね。これは「ゲ謎」をレビューした時に論じた身体的感覚の話にも通ずる所があるから描写としてはおかしくないと思っているし、「人間は頭で考えて行動している」と思っているようでは永遠に理解出来ないだろう。

 

そういう訳で、(記事タイトルにも書いたけど)この映画を論理的に見てしまうと絶対に納得のいかない部分が出て来るし、恐らく批判的な意見を述べている人は本作を理屈っぽく見すぎている可能性があるんじゃないかな?と思った。本来なら論理的に納得のいかない描写ってフィクションとしては難があるのだけど、ストーリーが破綻しているとか、キャラの行動が無茶苦茶という訳ではなかったから、私は本作における非論理的な部分は、登場人物の意志を超えた、運命という大河の流れが生み出したものだとそう評価しておこう。

【ACMA:GAME】原作主人公がスーパーマン過ぎる【アクマゲーム #01】

いきなり私の愚痴から始まるが、先月末に私が勤めている会社で4月から8時間から5時間に勤務時間を変更すると言われた(会社の都合なので別に私が何かやらかしたとかではないです)。それに伴い出勤日数も半減するとのことで当然ながら給料も半分以下になってしまうのだが、それを言われたのが一ヶ月前ならともかく4月直前に言われたので、正直ビックリしたと同時に余りにも納得がいかなったので上の人にクレームを言いに行った。

一応納得のいく答えが得られたので溜飲を下げることは出来たのだけど、収入が減ることに変わりはないし、当分は節約をする必要があるため予定していた太秦映画村行きの計画は泣く泣く中止することに。

 

はぁ~…。映画「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」とのコラボ企画が開催されると知って楽しみにしていたのにさ、給料が減るとなったら行く訳にはいかないでしょ?だってまず太秦映画村に行くまでの交通費でもざっと1000円以上はかかるのに、入場料で2400円、更にグッズやコラボメニューなんかを買えば優に1万円は超えるのだから、気前よく散財なんて無理ですよ。もう、血桜パフェ食べてみたかったのに…。

ク・ソ・が!!(怒)

誰が言ったか知らないけど「人生はクソゲーとはよく言ったモノで、真面目に働いていてもこういう理不尽なイベントが起こるからホント困ったものだ。

 

そしてゲームと言えば、昨日から放送がスタートした日テレ制作の日曜ドラマ「ACMA:GAME アクマゲーム」、間宮さんのファンなら当然リアタイ視聴しましたよね?

聞くところによると、今回のドラマは日テレが力を入れている大型企画のようで、昨今のドラマには珍しいVFXを駆使した原作漫画の実写化。世界配信もされるみたいだからそんな企画の主演に我が推し・間宮祥太朗さんが起用されたというのは実に喜ばしい話だ。

 

とはいえ、放送枠は日曜ドラマ、あの世間を騒がせた「セクシー田中さん」の原作者の自殺の記憶がまだ新しい。今回の実写化に対しても追い風となる好意的な意見だけでなく、原作改変に対して批判的なコメントや炎上を煽るような動画が放送前からネット上でアップされているのも確か。

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当ブログでも過去にこの問題について私なりの意見を述べたけど、では今回のドラマにおける改変についてどう思ったか、本編の内容に触れながらその是非について個人的意見を述べようと思う。

 

(以下、原作を含むドラマのネタバレあり)

 

原作の照朝とドラマの照朝

ACMA:GAME(1) (週刊少年マガジンコミックス)

初回は原作1巻のエピソード。主人公の織田照朝が突如現れたヤクザ一家の御曹司からアクマゲームを仕掛けられるというのがざっくりとしたあらすじだが、このヤクザ一家の御曹司、丸子光秀は原作だとイタリアマフィア「ベルモンドファミリー」の御曹司、マルコ・ベルモンドに相当するキャラクターで、悪魔の鍵を入手した経緯他の企業の財産を奪いまくっている目的は原作とは全く違っている。あいにく原作はまだ3巻までしか読んでいないのでこの辺りの改変については詳しく語れないのだが、ドラマは初回の段階で黒幕となる崩心祷を登場させているから、恐らくその影響で動機や鍵の入手経緯を大幅に変更したのではないかと考えられる。

 

他にも改変ポイントは色々とあるのだが、何と言っても一番注目すべき改変ポイントは、原作の主人公・織田照朝の設定を大きく変えたことである。この改変について先に結論として私の意見を言っておくと、私は今回の改変は好意的に受け取っている。それを説明するために原作とドラマの照朝を比較しよう。

 

原作の照朝は容姿端麗・頭脳明晰・運動神経も抜群の高校三年生で、しかも亡き両親の事業を継承して日本有数の大企業・織田グループの総会長としてその巨大な屋台骨を支えている。更に照朝の下にはCIAさながらのチームがいて彼をサポートしているという、もう余りにも設定盛り過ぎのチートキャラで「なろう系小説」の主人公かよ!と原作を読んだ時に思ったくらいだ。

 

まぁこれは漫画作品なのでこういう過剰なキャラ設定は別に本作に限らず他作品でもよく見られる傾向だし、主人公を頼りないキャラにするよりもスーパーマンとして描いた方が読む側としても安心感があることに加えて、心から応援することも出来る。

設定盛り過ぎのスーパーマンとは言ったけど、原作では一度会社が破綻寸前まで追い込まれたのにもかかわらず三年で一流企業にまで持ち直したそうだから、そう考えると中学三年の時から事業経営のことで血の滲むような経験をしたことは間違いないし、決してチープなスーパーマンでないことだけはハッキリ言っておくよ。

ただこの設定はあくまでも漫画として有効なのであって、これをそのままドラマ化すると余りにも浮世離れした「嘘くさいキャラ」になっていたと私は思うのだ。

 

ではドラマの間宮さんが演じた照朝についてここから言及していくが、ドラマの照朝は父親が亡くなった後、会社の重役に言いくるめられた結果織田グループはその重役に乗っ取られるという悲劇の主人公として描かれており、当初から頭脳明晰だった訳ではなく、海外での艱難辛苦に満ちた放浪の旅によって精神・肉体・頭脳が鍛えられたという形で改変された。それに伴ってか、原作では1巻の時点で悪魔の鍵を所有していなかったのに対し、今回のドラマでは父親から悪魔の鍵を譲り受け、父親を殺した男の正体を追いながら鍵の秘密を探る旅をしていたという設定が追加されている。

この辺りの改変は海外ロケをしたことで視聴者にもその苦労がわかりやすい形で伝わるよう考えられた作りになっていたと思うし、両親を喪い、汚い大人たちによって財産(株式)をむしり取られながらも、父の教えに従い欲に溺れることのない人格者としてアクマゲームに挑むという、実に地に足の着いた主人公として描かれていたので私は非常に好感が持てた。原作の照朝も苦労人だけど、ドラマの照朝も苦労の質が違うというだけで苦労人であることに変わりはないし、視聴者が感情移入出来るキャラになっていたと評価したい。

 

ただここで一点指摘しておく。原作はマルコが一方的に会社に乗り込んでアクマゲームを仕掛けて来たため、照朝は会社とそこで働く社員を守るためにゲームに挑むのだが、今回のドラマでは悪魔の鍵の秘密を探るために照朝自身が丸子をおびき出しているため、原作とドラマとでは照朝がゲームに挑む姿勢や目的が異なっている。

原作の照朝は最初の段階から会社とそこで働く人々の暮らしを守るヒーロー、スーパーマンとして確立して描かれている分、ドラマはまだヒーローとして弱いというか、個人的事情で動いている面が強いし、特別失うものが多い人間でもないので、ここは原作と比べると劣ってしまうと感じたかな。でもこの後の展開次第では背負うモノも増えてくるだろうし、もっとヒーローとしての魅力が出て来るだろうから期待しておこうではないか。

 

「真偽心眼 True or False

本作の肝となるアクマゲームは悪魔がディーラーとなってゲームを取り仕切るのは勿論、従来の「カイジ」や「ライアーゲーム」といったデスゲーム・心理戦・頭脳戦にはない、各プレイヤーが所持する悪魔の能力を用いたゲーム展開が見所となっている。今回行われた「真偽心眼 True or False」も、言ってみれば相手の言ったことがウソかホントか当てるだけのシンプルなゲームだ。それがこれだけ面白いゲームになったのには特殊能力というスパイスが効いているからであり、それをここからは解説しようと思う。

 

まず照朝は相手がどれほどの頭脳の持ち主かを探るために以下の問いを投げかけた。

Q:、このカップの下には五百円玉がある

普通ならカップの下に五百円玉があるかないかを聞かれているだけ…と思ってしまうが、劇中で丸子が指摘したように、

・硬貨がクロスについていくのが見えた→カップの下にはない(ウソ)

カップの下はその延長線上である机の下の床やデスクの中も含む→カップの「下」にある(ホント)

・「今」というのは出題時の0.4秒の間だけを指す→その時点でカップの下にない(ウソ)

という具合に一つの質問にいくつもの企みが仕組まれているのが凄い所で、頭脳戦として読者も考えられる作りになっていたことにまず関心した。

 

そして丸子のターンでは、

Q:この部屋を中心として半径1㎞の球状範囲内コンビニエンスストア4軒以上ある

という問いが提示されたが、出題者側が操作出来る余地がないほぼ絶対的な事実(=ホント)にもかかわらず答えはウソであり、次の照朝のターンで出題された

Q:このクロスの下に爆弾※1がある

照朝と一部の人間しか知り得ない事実(=ホント)なのにウソが正解となった。ここで「絶対的事実がウソとなっている謎」が出て来ることで照朝はピンチに陥るのだが、この矛盾した謎から丸子の真の特殊能力を推理で当てるというこの展開が実に見事。「出題された問題の真偽」だけでなく「特殊能力の真偽」という二重の True or False が仕掛けられていたというこのプロットはミステリとして読者(視聴者)の意表を突く仕掛けになっていたと思う。

私なんかこの特殊能力を完全に鵜呑みにして「部屋寒くして相手の思考を鈍らせるとか、せこい戦術だな…ww」と思っていたので、この真相と推理※2には唸らされたよ。

 

言うまでもなくこのゲームはウソかホントかを当てるだけなので当てずっぽうでも50%の確率で当たるという部分はあるのだが、照朝は推理によって相手の特殊能力を完全に見破った上で最後の問いを投げかけ、結果丸子を欺いてゲームの勝者となる。

最後の問いの決め手は五百円玉が偽物だったというズルいと言えばズルい手なのだが、ここで照朝が最初にした出題を思い出すと、あの問いは「五百円玉の有無を問う問題」であると同時に「五百円玉が本物かどうかを問う問題」でもあった。つまり、カップの下に出題された「今」の時点で五百円玉があったとしても、それが本物でない場合五百円玉はないのと同じだから、照朝としてはそこまで疑ってかかる人物かどうかを見極めるために偽の五百円玉※3を使ったことになる。

 

※1:原作では「銃」であり、会社の下には秘密の武器庫があったのだが、それにしても日本の会社なのに武器庫って、それ銃刀法違反なのでは…??

※2:ドラマではチョコレートの袋が気圧差で膨張しなかった事実を加えて照朝の推理を補強しているのが地味ながらも良く出来た改変になっていた。

※3:ちなみに、紙幣や硬貨と紛らわしい見た目の物品を製造することは通貨及証券模造取締法で禁止されている財務省のHPを参照)ので、くれぐれもマネしないように!

 

さいごに

初回の感想は以上となるが、全体的に見るとドラマは原作通りやると嘘くさくなる設定を地に足の着いた設定としてうまい具合に改変していて、ドラマならではの見せ場(例えばゲーム開始前のギリシャ語の宣誓)もあって原作既読でも退屈しなかった。

 

「セクシー田中さん」の一件で改変について過剰反応気味になっている人も多いのは仕方ないにせよ、個人的に一言物申したいのは、あの一件の何が問題かって原作者の意向・要望を無視した改変が行われたことが問題なのであって、原作者が了解しているのなら改変自体は何の問題もないし、その良し悪しを決めるのは個人の自由だ。だから「私はこの改変は気に入らない」と主張するのはまだしも、それをあげつらって「原作を改変しているからまたドラマ制作陣は原作者を蔑ろにしている!」と扇情的にコメントするのは結局原作にもドラマにも向き合っていない、不誠実で卑怯な物言いだと私は思う。

 

原作者のツイートを見た感じ、少なくとも今回のドラマは脚本で揉めている様子はないしドラマを応援しているみたいなので、私も引き続きこのドラマを応援していきたい。

(勿論、後になって「実は放送当時は言えなかったけど…」というツイートが流れる可能性も考えてはいる)

【4年ぶりの復活】秀逸なクリスティ・オマージュ!【アリバイ崩し承りますスペシャル】

どうも、タリホーです。

当ブログで4年前にレビューしたドラマ「アリバイ崩し承ります」のスペシャルドラマが先日放送されたけど、いや、正直続編が放送されるなんて期待していなかったからスペシャル番組として放送されると聞いて普通に嬉しかったわ。

 

tariho10281.hatenablog.com

以前のレビューはこちら(↑)にまとめているが、連ドラが放送された時点では原作エピソードのほぼ全てを映像化した状態だったし、続編をやるとなると原作者の大山誠一郎氏が新作を量産するのを待つしかなく、実現するとしても1エピソードの執筆にかかる時間から考えて最低でも5年以上はかかるんじゃないかと思っていたので、スペシャルドラマ放送決定の報は正に寝耳に水の嬉しい予想外だった。

しかも本シリーズは短編エピソードだから続編をやるにしても連ドラのシーズン2になると思っていたので、単発のスペシャルドラマ、それも2時間ドラマとして放送されたことも意外だったわ。

 

さて、今回の新作スペシャルだけど、もう既にドラマ本編を見た方ならご存じの通り、アガサ・クリスティの作品をオマージュしたエピソードなのでクリスティのファンとして若干のネタバレをしながら感想を語っていきたいと思う。

 

(以下、ドラマ本編とアガサ・クリスティ『エッジウェア卿の死』について一部ネタバレあり)

 

「時計屋探偵と一族のアリバイ」

時計屋探偵の冒険 アリバイ崩し承ります2

今回映像化されたエピソードは原作『時計屋探偵の冒険 アリバイ崩し承ります2』所収の「時計屋探偵と一族のアリバイ」。資産家の男性が自宅で刺殺され、その甥と姪たちが容疑者として浮上するものの、3人の甥と姪にはアリバイがあって…というのがざっくりとしたあらすじである。

あらすじだけを聞くといわゆる犯人当て(フーダニット)形式の内容だと思うが、すぐに犯人は一人にしぼられてその人物のアリバイ崩しを時乃は行うことに。しかし、そのアリバイ崩しがまさかの失敗!?という形で物語は意外な展開へ向かっていく。

 

このエピソードは2020年6月に『Webジェイ・ノベル』というサイトに初掲載され、私もその時に読んで内容やトリックは知っていたものの、何せ4年近く前に読んだ作品なのでほとんど覚えておらず、実質初見に近い新鮮な気分での視聴となった。

原作は短編のため結構アッサリと解決するのだが、ドラマはテレビ局の密着取材というオリジナルの展開が追加されたり、時乃の高校時代の先輩で現在は医学生として彼女の前に現れる葉加瀬裕次郎というオリジナルキャラを登場させることで尺をのばしている。とはいえ物語としては全然冗長になっていないし、今はすっかり廃れてしまった2時間サスペンスのようにお気軽に見られて、なおかつ本格推理が楽しめるという、なかなか優れた脚本になっていたと素直に評価したい。

 

『エッジウェア卿の死』

エッジウェア卿の死 (クリスティー文庫)

個人的に一番感心したのがドラマ本編でも登場したアガサ・クリスティの長編『エッジウェア卿の死』を絡めた物語の改変だ。

一応『エッジウェア卿の死』を読んだことがない人もいると思うのでこの小説について簡単に解説すると、本作は1933年に発表された作品で、ポアロシリーズとしては7作目の長編に相当する。この時期のクリスティは母親の死や最初の夫アーチボルド・クリスティとの離婚といったトラブルを乗り越え、考古学者であるマックス・マローワンと再婚して約3年経っていた。

私生活が安定したこともあってか、ミステリ作家として勢いづいてきたクリスティはこの翌年の1934年に歴史的名作『オリエント急行の殺人』を発表する。そんな時期に生まれた作品ということもあって、この『エッジウェア卿の死』もなかなかどうして良く出来た秀逸ミステリなのだ。勿論、世間の認知度から考えるとマイナー寄りだし、物語も『アクロイド殺し』や『ABC殺人事件』といった名作群と比べると派手さはないし意外性も正直弱いかな?と感じる所はあるが、クリスティのミスリードの巧みさが遺憾なく発揮された作品なので是非読んでもらいたい。

 

…え?「ドラマでトリックがネタバレされてたから正直読む必要がない」だと?

まぁ確かに〇〇トリックってネタバレはあったけど個人的にはあれはネタバレだけどネタバレじゃないんだよね。というのも『エッジウェア卿の死』は最初の殺人で事件概要がわかった段階で読者は「ああ、これって明らかに〇〇トリックじゃん!」って予想することを見越して作者であるクリスティが更に一段階上の騙しを仕掛けてくる作品なので、別に〇〇トリックだと事前に知っていても問題ないし、むしろその先入観があれば気持ちよく騙される体験が出来るんじゃないかな?

そうそう、Wikipedia ではこの『エッジウェア卿の死』のあらすじが真犯人とトリックを含めて全部ネタバレされているので、未読の方は要注意で!

 

さて、ドラマ本編に話を戻すと、今回のエピソードで用いられたトリックは確かに『エッジウェア卿の死』を彷彿とさせるものだったが、正直原作を読んだ段階ではこのトリックが『エッジウェア卿の死』と同等・同質のものだと気付かなかったので、今回のドラマでクリスティのこの作品を持ち出してきたことに関して、私はハッキリ言って脱帽したというか、脚本家の方がミステリ作品を映像化するにあたってちゃんと勉強しているということが伝わって本当に感心したわ。

 

いや~私もクリスティの作品は結構読み漁って来たから大抵ミステリ小説を読むと「あ、ここはクリスティの『〇〇』をオマージュしたな」という具合にオマージュ要素を見抜くスキルが身に着いているのだけど、今回のドラマを見たらまだまだそのスキルは磨く余地があるなと思ったし、日本のミステリドラマに携わる人の中にも志の高い人がいるとわかって何だか安心したよ。

 

オマージュは一作だけではない!

今回のスペシャルドラマが『エッジウェア卿の死』をリスペクトした作品だということは述べたが、実を言うと今回のドラマにおけるオマージュは『エッジウェア卿の死』だけではない。『エッジウェア卿の死』に加えてもう一作、クリスティの某有名作がオマージュされて今回の物語のトリックとして組み込まれているのだ。

しかし、その作品のタイトルを言ってしまうと間接的にその作品のトリックをネタバレすることになってしまうので、オブラートに包むような形でそのオマージュ要素について言及したい。

 

ミステリ作品において作者は様々なテクニックで読者をミスリードさせるが、そのミスリードの一つに動機のミスリードがある。犯人は自分が疑われないように特定の人物に疑いの目を向ける偽装工作をするというのがよく見られるパターンだが、その中でも自身の犯行動機をカモフラージュするために猟奇殺人鬼の仕業に見せかけたり、わざと連続殺人にして本当のターゲットをわからなくするといった手段が用いられる。今回のドラマでもそういった犯人の真の犯行動機をカモフラージュするための殺人トリックが仕掛けられているのだが、この騙しのテクニックがクリスティの某作品を彷彿とさせるのだ。

その某作品では序盤から登場人物の会話を通して読者に強烈な先入観を植え付けた上で殺人を発生させることで、犯人の真の犯行動機をカモフラージュするという斬新なミスリードがとられていたが、今回のドラマでもその某作品と同様の手法が用いられている。資産家殺しというごくありふれたプロット、これがミスリードに一役買っているのと同時に、その上で犯人の動機につながる情報がさらっと挿入されているのだから実に隙がないし、ミステリとしてもフェアだと感じたのだ。

 

さいごに

以上、今回のスペシャルドラマはクリスティ作品をオマージュした内容になっていて原作以上に面白い出来栄えになっていて素直に感心&満足したし、原作だと途中で存在がかすんでしまった残り二人の容疑者が、ドラマではテレビ局の密着取材のオチ要員として有効活用されていたのも見逃せないポイントだ。短編作品になるとどうしてもトリックがメインになって一部登場人物(容疑者)の扱いや描写が雑になってしまう作品があるけど、そんな「捨て駒」的な容疑者を物語のオチとして改変して利用したのは良かったと思う。まぁ、実際にあんなことが起こったら那野市民どころか、日本全体が大騒ぎになる一大スキャンダルだからオチとしてはリアリティに欠けるのだけど…ww。

 

ところで、今回のドラマは主演の浜辺美波さんのツイートによると2年半前に撮影されたらしいが、そんな前に撮影が済んでいるのに何故今頃になって放送されたのか、気になって仕方がない。今回のドラマのラストの展開から考えると、恐らくテレ朝は連ドラとしてシーズン2を放送する計画があって、その放送の前に今回のスペシャルドラマをやるつもりだったのかもしれないが、思いのほかに原作のストックが貯まらず連ドラの計画がお流れとなり、このままだとスペシャルドラマがお蔵入りになってしまう恐れがあったから、やむなく今になって放送を決意したのかな?と考えてしまった。

個人的にはシーズン2なんて贅沢なことは言わないから、今回のドラマみたいに定期的に単発ドラマを放送して、息の長ーいシリーズになってほしいなと願うばかりだ。

雨穴風お化け屋敷的〇〇村ホラー!?【映画「変な家」レビュー】(一部ネタバレあり)

さーて、ようやく映画「変な家」を観て来たのでレビューしますか!

変な家 文庫版

実はちらっと既に映画を観た人の評価を目にしたのだけど、軒並み低評価が目立っていて「おやおや…?」と不穏な気持ちになったので、(本当は原作を読まずに観ようと思っていたが)原作を全部読んでから鑑賞しました。

ちなみに今回は間宮さんに興味を持ち始めたうちの母親と共に鑑賞しました。どうやら私が知らない間に昨年放送されたドラマ「真夏のシンデレラ」を見ていたようで、CMも含めて彼の男前ぶりに関心を持ったみたいです。別に私が布教したとかそんなんじゃなくですよ。

 

(以下、原作含む映画本編について若干のネタバレあり)

 

作品概要

今回の映画は性別不詳の覆面作家・雨穴氏が2021年に刊行した小説「変な家」が原作になっているが、この小説の始まりは2020年10月までさかのぼる。

 

omocoro.jp

www.youtube.com

ウェブライターとしても活動している雨穴氏はオモコロに投稿した記事を自身の YouTube チャンネルで動画化、その評判を受けて2021年には新たなエピソード・間取りが追加された完全版として書籍化され、2023年に漫画版が発売された。

 

変な家: 1 (HOWLコミックス)

発端となった記事投稿から映画公開に至るまで何と丸4年も経っていないのだから、メディアミックスとしては異常なまでの急発展を遂げた作品と言えるだろう。

 

本作は家の間取りから「その家で何が行われていたのか」を推理するというホラーミステリーであり、従来のホラー及びミステリーでは重視されなかった間取りをお題にした作品という所に新奇性があって、なおかつ妙なリアリティがある。これが本作の魅力と言うべきポイントだ。

 

一応ここで解説すると、従来のミステリー作品においては間取りはメインではなく例えば犯人特定の手がかりだったり、現実世界からかけ離れた異様な世界観を構築する材料という、言うなれば主役ではなく脇役的な扱いが多かった。綾辻行人氏の〈館〉シリーズや島田荘司氏の『斜め屋敷の犯罪』を読めば、ミステリー小説における間取りがどのように扱われているのかわかるし、間取りはあくまでも意外なトリック・意外な犯人を支える部品の一つという感じなのだ。

 

そんな脇役を主役として描いたことが珍しかったのと同時に、本格ミステリー小説にありがちな浮世離れした世界の話ではなく、モキュメンタリー形式で描いたこともこの作品の優れたポイントで、日常の隣にある、でも外からは容易にうかがい知ることの出来ない家の中の闇を間取りという観点から紐解くという所に、単なるフィクションでは味わえない不気味さがある。去年ホラー好き界隈で話題になった『近畿地方のある場所について』もモキュメンタリー形式で書かれた小説だから、モキュメンタリーは日常のすぐそばにある恐怖を描く上で実に有効であり、普段読書をしない若者にも取っつき易かったのもヒットに影響していると考えられるだろう。

 

今回の映画は原作者の雨穴氏に相当する〈雨男〉こと雨宮が主人公で、最近ユーチューバーとして活動がマンネリ化しているという映画オリジナルの設定が用意されている。また、事件の発端となった「変な間取り」を紹介した柳岡も原作では単なる知人だったのに対し、映画では雨宮のマネージャーという形で改変された。他にも改変ポイントは色々とあるがそれについてはこの後の項で語りたい。

 

低評価の理由

さて、まずは何故低評価の意見が多いのかについて私なりに述べようと思うが、率直に言って今回の映画からは原作特有の「らしさ」が感じられないというのが最大の原因だろう。上に掲載した雨穴氏の動画を見ればその「らしさ」がよくわかるのだが、雨穴氏はあまりホラー演出に趣向を凝らすタイプではなく、実に淡々と物語を語るストーリーテラーなのだ。それに雨穴氏はホラー作家という枠組みだけで語れるような人ではなくて、自分で創作したオリジナルのキモい海洋生物を紹介したり、毎年変なおせちアイテム(?)を購入して頭を悩ませたりと、かなり独特というかキワモノ的な世界観を持つクリエイターだから、そういうテイストを期待していたファンも少なからずいたと思う。

しかし、雨穴氏に相当する雨宮にはそういった独特さがまるで皆無であり、「スランプ気味でバズるネタを求めて事件に深入りしてしまうユーチューバー」という凡庸なキャラ設定にされているのだから、真っ先にそこで不満を抱いた人がいても不思議ではない。

 

しかも本作はミステリーよりもホラー演出に気合いの入った作品なので、元の動画のような淡々と恐い事実が明るみになるという感じではなく、いきなりドーン!と音がなったりビクッ!となる演出、要はジャンプスケア系のホラー演出があるため、「雨穴さんの作品だからホラー苦手でも大丈夫だよね~♪」と軽い気持ちで観に行ったら心底怖い思いをする羽目になるだろう。そういう点でも悪い意味で裏切られたと受け取った人がいたと思う。

 

そして本作は「ゾクッとミステリー」という謳い文句で宣伝されていたので、じゃあ肝心のミステリー要素はどうだったかというと、第一の間取りと第二の間取りは(カットされた説明はあったが)大体原作通りでこの辺りまではまずまずといった感じなのだが、映画の後半、つまり第三の間取りに関しては原作で起こった不可解な事故死が完全にカットされて栗原が(ネタバレなので一応伏せ字)仏壇裏の隠し通路(伏せ字ここまで)を見つける下りが推理というより当てずっぽうに近いことになっていたのが個人的には不満だったかな。事件の元凶となったある出来事についてもかなり簡略化されて描かれていたし、そこも本作が凡庸なホラーミステリーになった原因の一つだと思う。

 

では原作通りやれば良かったのか?

低評価の原因について一通り語った所で、じゃあ原作に忠実に映像化していたら面白くなったのかと言うと、私は全くそう思わない

 

原作は大きく四つの章から成っており、第一章から第三章までは間取りから「この家で何が行われたのか?」を推理するパート、そして結末部の第四章で「何故このような行為が行われたのか?」という事件の遠因となる出来事、つまり事件の動機が関係者の口から語られるのだ。

この構成を見てもわかるように、本作は謎解きにおけるカタルシスを重視した作風ではないし、部分的に見れば間取りをテーマにした斬新なミステリー小説だと思うだろうが、総合的に見ると原作「変な家」は江戸川乱歩横溝正史といった昭和の古典ミステリーに近い作品なのだ。だから私のようなミステリーマニアにとっては新進気鋭のミステリーという感じではなく、シャーロック・ホームズが登場する『緋色の研究』や明智小五郎が活躍する『D坂の殺人事件』という古典的名作を読んだ感覚に近い。今現在本格ミステリー作家として第一線で活躍している青崎有吾氏や今村昌弘氏・阿津川辰海氏といった作者の作品と比べるまでもなく、トリックも作品としてのクオリティも古典的というかクラシックな感じなのだ。

 

古典的・クラシックと言うと聞こえは良いが、悪く言うとミステリーとしてはツッコミ所や穴があると言える。今回の映画でミステリー面に不満を持った方が多くいたと思うが、実際の所原作も栗原の推理には結構飛躍的な発想が見られるし、最後の四章で語られた「ある人物の計画」に関してもちょっと都合の良さを感じるポイントがあって手放しで褒められる出来とは言い難い。事件の元凶となった出来事に関する部分も、原作はもっと複雑で複数の思惑が混じっているから、スッキリ謎が解明されないし理解するのにちょっと時間が要ったかな。

 

そもそも今回の「変な家」に限った話ではないが、ミステリー作品を映像化、特に映画化するのは他のジャンルに比べてかなり難しい。映画はドラマや配信動画と違って間にCMが挿まれないし一時停止することも出来ないから、視聴者が劇中の手がかりだったり事件を考える余地が全然ないし、探偵がスラスラ推理を披露してもそれを視聴者が理解する間がないと折角トリックが優れていても意味がない!

それに推理パートは基本これまで起こったことを説明するだけだから、物語として動きがなく下手な監督が撮ると単調な展開になってしまう。トリックを複雑にすると説明が多くなる上に視聴者がついていけなくなるし、かと言って単純にすると面白みに欠けてつまらなくなるのだから、ミステリーの映画化はデメリットが圧倒的に多い。故に、ミステリーを原作通り映像化することは、私に言わせてみれば無理難題・不可能事だと思うし、改変はあって当然だと思う。

 

今回の映画では後半をミステリーではなく〇〇村ホラーとしてかなり大胆な脚色をしているが、これ自体は全然問題ではないし映画としては大きな見せ場になっていて原作では味わえないカタストロフィ(大破局)もあって良かったと思っている。

では「ミステリーとしてイマイチでもホラーとしては良かったのか?」という疑問について答えてみよう。

 

結局従来のB級ホラー映画に

「変な家」に連なる家にまつわるホラー映画として思い出すのは2015年に公開された小野不由美氏原作の残穢 ―住んではいけない部屋―」だ。

残穢【ざんえ】―住んではいけない部屋―

残穢」は家とその土地がテーマの作品で、ざっくり言うと心霊ホラーなのだが、従来のような幽霊がバァ!と驚かす感じの怖さではなく、点と点がつながっていくミステリー的な怖さが味わえる作品だ。そういう点では「変な家」の先輩的作品と言えるかもしれないが、この映画では結局最後の最後で目立った怪奇現象によるホラー演出で締めくくったのでB級ホラーになったというのが個人的な感想だ。

 

基本的にホラー映画は全てスッキリ解決するのではなく最後に何かしら不穏なものを残して終わるというのが王道のオチであり、今回の映画も従来のホラー映画同様そういう不穏な結末で締めている。あ、別にそういうベタなオチがダメだとかそういうことを言いたいのではなく、物語の着地の仕方として中途半端な感じがしたんだよね。

あの最後のオチは原作を読んで原作で説明された登場人物の因果関係を知っていたら何となく意図する所は理解出来るのだけど、原作未読の人にとっては意味がわからないし、ホラーとしてもミステリーとしても、もうちょっと補足説明が必要だったと思うポイントだ。

 

それからネタバレになるけどこの映画、最後に黒板を爪でひっかくような音が結構な音量で流れるのだけど、あれは本っ当に最悪だったわ。この映画を撮った石川淳一監督には届かないと思うけどさ、本当に上質なホラーには恐怖だけが必要なのであって不快感は極力排除すべきものなんだよ。特に本作はミステリーとして銘打っているのだから、ただでさえ観客は騙し討ちを喰らったようなものなのに、最後の最後であの不快な「キィ~」って音を大音量で聞かされたらそら文句の一つも言いたくなるってもんですよ?家のテレビと違って音量調節が出来ないのだからその辺りもっと配慮してもらいたかったですねぇ…。うちの母も「うるさかった」って文句言ってましたよ。

 

さいごに

ということで映画「変な家」はホラーとしてもミステリーとしてもツッコミ所満載でお世辞にも映画化として大成功した作品とは言えないだろう。とはいえ、ミステリーをホラーとして映画化するというのは、松竹で制作された映画「八つ墓村」という前例作品があるし、あの「八つ墓村」に比べたら本作は十分ミステリーとしての面白さはあったと思う。

 

パンフレットによると石川監督は大のホラー映画好きとのことで、自分の好きなものを詰め込んだという情熱は少なくとも伝わって来た。某有名ホラー映画をオマージュしたシーンもあったし、かつて金田一耕助として一世を風靡した石坂浩二さんにあんな役を演じさせたのも、一人の横溝正史ファンとして感慨深いものを感じた。

あと美術スタッフの仕事が本当に見事だった!古い家の床板とか壁の質感がリアルで、主観視点の撮影手法とあいまって圧倒的な没入感があったのもこの映画の評価ポイントだ。間宮さんがインタビューで「この映画はアトラクションみたい」だと言っていたのも納得だし、映画の後半は遊園地のお化け屋敷に入ったようなドキドキに満ちていた。っていうか、折角だしお化け屋敷としてUSJのハロウィンの時期にアトラクションとしてオープンしたら良いんじゃないですかね?

 

そうそう、日本では厳しい評価で迎えられたが、ポルトガルで開催された第44回ポルト国際映画祭で審査員特別賞を受賞していることに触れておかないといけないな。

この評価の違いは何だろうと私なりに考えてみたけど、一番は情報量の差だと思う。ポルトガルの人は原作小説の内容とか、そもそも原作者がどういう人物なのか知らない、前知識の無いまっさらな状態で映画を見て「面白い!」と感じたと推察されるし、日本ではすっかり定番ネタになった土着的なホラーが海外の人にはきっと新鮮に映ったことは想像に難くない。

 

そう考えると、今の日本人って純粋に映画を楽しめない環境に追い込まれているって感じがして、何と言うか映画を観る側も作る側もつくづく損な感じになっていると思わされる。特に今年の1月は「セクシー田中さん」の原作者の自殺が大きな問題として世間を騒がせたし、その影響で原作の改変に関して敏感になっている時期だからまだその風潮が抜けてない時期に映画を公開したことも、本作の低評価につながっているんじゃないかな?と考えた訳だ。

そういう訳だから、今は低評価が目立つ本作も時間が経てばワインのように味わい深い作品として再評価される時が来るだろう。少なくとも私はそれくらいの資質はあったと断言したい。

1回目はホラー、2回目はシュールギャグ【映画「黒い家」レビュー】

どうも、タリホーです。映画「変な家」、公開されましたね。

もう既に劇場で観た人もいると思うし私も週明けに観に行く予定だが、その前にこっちの家をレビューしておきたい。

 

黒い家 [DVD]

それは YouTube の角川シネマコレクションチャンネルで現在期間限定公開(3月29日まで)されている映画「黒い家」だ。原作は貴志祐介氏の同名小説で、第四回日本ホラー小説大賞を受賞している。とはいえ第一回・第三回は大賞受賞作がないため実質的に本作は『パラサイト・イヴ』に次ぐ二番目の大賞作品である。

 

簡単にあらすじを説明すると、本作は保険金詐欺を題材にした作品で、生命保険会社に勤める若槻という社員が、菰田夫妻の子供・和也の首吊り死体を発見する所から物語は始まる。和也には生命保険がかけられており、夫の重徳から保険金の支払いを催促されるのだが、支払いのための調査を進めていると重徳は障害給付金目的で自分の指を切り落とす「指狩り族」の残党であることが判明する。更に調査を進めていくと菰田夫妻には人格的に問題がある疑いも浮上してきて…。

 

とまぁこんな感じで、本作はホラーとしてはサイコスリラーに分類される作品で、私も原作を読んだことがあるが確かに怖い作品だった。今では当たり前になったサイコパスを描いたという点でもエポックメイキングとしての価値があると言えるだろう。

 

(以下、原作を含む映画のネタバレあり)

 

実は原作通りでない

では映画は原作の怖さを再現出来ているのか?という話になるが、正直言うと映画はかなり独特な演出が強いし、脚本も実は原作通りではないため、純粋にホラー映画として評価すると結構微妙に感じるポイントもある。最初に観た時は怖く感じても、二度目に観るとむしろシュールでギャグじゃないのコレ?って思う場面もあるくらいだ。

 

これは脚本を含めた映画の構成の問題だと思うが、原作は当初菰田幸子を夫の重徳の命令で保険金詐欺の片棒を担がされている哀れな女性として見せており、それが実は幸子の方が黒幕でヤバいサイコパスだったというミステリ的などんでん返しがあるのが特徴だった。しかし本作の映画ではあまりそういう趣向は意識されておらず、幸子の方も異常者として最初の登場シーンから描いているから意外性に欠けるし、主犯と思われていた西村雅彦さん演じる重徳も、ヤバい人ではあるけど「怖い人」として描写されているかというとそれは違うかなと思った。知能に問題がある人には見えるけど、誰かをコントロールするようなサイコパス特有のヤバさは感じられないから、やはりその点に関しては原作のどんでん返し的展開を狙った演技プランを監督は求めていなかったと考えるべきだろうか。

 

※中盤の幸子のボウリングの場面を見れば、息子が死んだ直後にボウリングをしている時点でサイコパスであることは明らかなので、やはり監督は原作のサプライズ展開はどうでもよかったんだろうな…。

 

若槻のキャラ設定(演技)に不満あり

これは個人的な不満ポイントだけど、内野聖陽さんが演じた若槻のキャラ設定というか演技プランがホラー作品としては完全に失敗していると感じた。

ホラー作品の主人公は読者や視聴者と同じ立場というか考え方で恐怖に対峙することで、我々も同じ目線・感情で作中・劇中の恐怖を味わえるし、それこそがホラー作品の主人公が果たすべき役割だと思う。でもこの映画における若槻って何か共感しにくいしむしろイラっとさせる要素がある。気弱な性格を表現したつもりかもしれないけど、あのボソボソした話し方は字幕なしだと聞きづらいし、舞台は保険会社なので専門用語とかも当然出て来るのだから、まずこれは内容以前の問題だと思った。

 

あと若槻が水泳をするシーンが途中で何度も入るの、あれも良くないかな。ボウリングをする幸子と対比した演出なのだろうし、ああいうストレスを抱えやすい職業柄スポーツをしてストレスを発散するのは理に適っている。でも、あの場面が入る度に若槻と私との間で心理的距離感が生まれるというか、「運動してリフレッシュ出来ているのだったら、もっと普通にしゃべってよ。台詞が聞き取りにくいんだよ!」って感じたわ。

それから特に酷いのが心理学者の金石と二人きりでストリップ劇場でサイコパスの話をしている場面だな。何だろう、監督としてはサイコパスを異形の人間として語る金石も私たちから見れば十分異常な人間であることを演出で見せたかったのかもしれないけど、あそこで一緒に若槻も踊っているから私は若槻も異常だと感じたし、映画の若槻は私たち観客と同じ感情を共有する主人公ではないと判断した。

 

正直これをホラー映画として、しかもこの後の展開も加味して考えると若槻は観る側が共感・感情移入出来るキャラにしないといけないのに、「若槻も何だかんだ普通じゃないよな」って思わせる演出・キャラ設定にしたから、だから結果的にホラー映画として満足出来ない作品になったと言いたいのである。

 

圧巻の大竹しのぶと家のディティー

以上のように、本作は原作のプロットや主人公の若槻の描写を改変したことでホラー作品として色々難点が生じているのは否めないが、それでも幸子を演じた大竹しのぶさんの怪演は圧巻の一言に尽きる。終盤の若槻との戦闘における「乳しゃぶれぇ!」はまぁ恐怖を通り越してギャグになっていたと思うけど(苦笑)、感情が読めない・理解出来ない人間を見事に演じていたのは流石だ。

 

個人的に幸子に関しては大竹さんの演技もさることながら、菰田夫妻の家からも幸子の異常性が読み取れるのが良いなと思った評価ポイントだ。若槻の恋人である恵がさらわれて若槻が助けに行くシーン(具体的には本編の1時間30分辺り)を見てもらえればわかると思うが、あの家って平屋建ての和風建築なのに、幸子の部屋と思しき和室だけはロイヤル調の椅子や机でレイアウトされているし、棚にはトロフィーが並べられ、天井には小さなシャンデリアが吊るされている。一方それ以外の部屋は廃屋同然の汚さで、床はホコリと新聞にまみれ、風呂場は血がこびりついて黒ずんでいるという具合に、自分の空間だけが綺麗に整理されてそれ以外は無秩序という所に幸子のパーソナリティーがよく表現されていて感心したわ。よく見ると廊下も趣味のボウリングを練習するためのレーンとして細工を凝らしているし、本当に自分本位な性格だったんだなと思わされる。

そういや夫の重徳の服装はボロいというか薄汚さを感じたのに、幸子の服装は一貫して小綺麗だったから、そこからも夫妻の主従関係が読み取れるようになっているよね。

 

さいごに

ということで映画「黒い家」をレビューしてみたが、ホラーとしては良い所も悪い所もあってなかなか評価が難しい作品だと思う。ある意味トラウマを植え付けられた人もいると思うし実際劇中ではエグい描写も散見される。しかし、良くも悪くも完全に肝が冷えるような作品ではないので、案外ホラーが苦手な人にもおススメ出来るかもしれない(まぁ流石に子供には勧めないけど)。

 

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ちなみにこの「黒い家」、2007年に韓国でリメイク化されているが、こちらは結構原作寄りの内容になっていたはずなので、気になる方は是非観てはいかがだろうか?