タイの社会では、占いが大変大きな影響力を持っている。
表面的にタイと関わっている範囲ではまったくわからないかもしれないが、一歩深くタイの生活のなかへと入ると、あらゆることがらに占いが関わってくる。
人生のあらゆる場面が占いによって決められているのだ。
具体的に人生のどのような場面に占いが関わってくるのかについては、日本の“それ”と大差はなく、おおむね同じだ。
日本人もタイ人に引けを取らないほど占い好きな国民性だと思う。
日本の国民性とも通じていて非常に親近感を覚える一面だ。
聞くところによると、タイでは“生まれて来る日”まで占いで決めるというのだから驚きだ。
“生まれて来る日”を占いで決めるとは、一体どういうことなのかと不思議に思う方もいると思うが、なんとそのために帝王切開で誕生日を“その日”にするのだそうだ。
現在でもそうしたことが実際にあるらしい。
占いが影響を与えているのは、一般の社会だけではない。
実は、出家の社会においても、その影響を受けているのだ。
元来、仏教では占いを禁じているのだが、実際には占いを得意とする比丘もたくさん存在するし、呪術的なことがらに携わる比丘もごく普通に存在する。
それはそれで、タイの生活のなかに溶け込んだ一場面であり、タイの文化のひとつなのである。
一方で、森林僧院や瞑想実践系の寺院は、そうではない。
仏法の実践たる瞑想に邁進するために、町の寺院よりもはるかに厳しく戒律を遵守しながら、よりブッダの時代に近い生活を目指すことから、占ったり、占ってもらったりするなどは厳禁だ。
占いに携わったり、占いを学んだりするのは、ご法度中のご法度だ。
これは、森林僧院ではタイの“お守り”である『プラクルアン』を頒布していないことにも通じるもので(※註1)、よりブッダの教えに忠実であろうとする姿勢のあらわれに他ならないのである。
私は、出家生活の大半を森林僧院で過ごした。
森林僧院では、出家生活において占いによって特定のことがらが決められるということは一切ない。
ゆえに、占いと関わる機会は全くなかった・・・のではあるが、人生の交差点では必ずといっていいほど占いが影響を与えているタイ社会である。
私にもたった1回だけ、占いと遭遇したエピソードがある。
占いがタブーである森林僧院にも、なかには占いが得意な比丘もいる。
そして、あれやこれやと世話好きな比丘がいるものだ。
私が森林僧院で最後の安居をともに過ごした先輩比丘がまさにそうで、占いや呪術が得意でいろいろな話を聞かせてもらった。
その話については、別の記事にまとめているのでご興味があれば、是非参照していただきたい。
仏教とその実践を学ぶためにタイへ来た私にとっては、全くもって関係のない話ではあるのだが、私が還俗する日を決める際にその先輩比丘がなかば一方的に助言をしてくれたのであった(それを“助言”というかどうかはさて置き・・・)。
どうやらその先輩比丘は、プロの占術師というわけではないらしいが、とにかく占いや呪術に詳しい。
なにやら専門の書籍を数冊もっており、そのなかの1冊をぺらぺらとめくりながら・・・
『還俗すると聞いたが、いつ還俗するんだ?
お前が還俗するとしたら、この日とこの日がいい。
この日に還俗をすれば、お前の人生は大きく飛躍するだろう。』
このような助言をしてくれるのであった・・・。
それにしても、なぜ、還俗する日に吉凶があるのであろうか?
その先輩比丘にたずねてみた。
それは・・・還俗というのは、俗世間へ新たに生まれる日だからなのだそうだ。
いつ新たに生まれるのかによって、その後の人生が上手くいくのか、上手くいかないのかが決まるらしい。
つまり、上手く波に乗ることができる日に、最高・最善、最上のスタートを切ると良いというわけだ。
その先輩比丘によれば、還俗する日は吉日を選ばなければならないそうであるが、出家する日についてはいつでもいいそうだ。
なぜなら、出家というのは最上の善行だから、それを行うのに悪い日はないということだ。
なるほど、還俗は新たな門出。
それについては、一理あると思う。
仏法の生き方を身につけて、俗世間という実践の場でその智慧を磨きながら生きていく。
だからこそ、タイの男性は出家を経験してこそはじめて一人前の『大人』として認められるわけである。
善き在家の仏教徒として生きていくことを決意し、僧院を出る日が還俗する日だ。
確かに、新たな門出に他ならない。
いわば、誕生日だ。
新たに俗世間へと生まれる日であり、新たな門出の日ならば、それは最上の吉日を選びたいというのもごく自然な心情だろう。
ちょうどこの日、布薩の行事があり、僧院長以下、僧院内の比丘全員が布薩堂へと集まった。
その際、僧院長から私に質問が下された。
『もう還俗する日は決まったのか?』
私は、突然の質問に面食らってしまった・・・
なぜ、面食らってしまったのか?
実は、私の出家の時からずっとお世話になってきた瞑想指導上の直接の師に当たる長老と今後のことについて話し合っていた最中だったからだ。
僧院から町へと出る車がいつあるのか、僧院を出たあとのおおよその予定、ビザの有効期限はいつまでか、帰国に要する準備期間はどのくらい必要なのか、帰国に必要な費用の準備については大丈夫なのかなど、実務的な面から私の今後の予定を大変気にかけてくださっていたのであった。
なかでも還俗する日だけは、僧院長に立ち会っていただかなければならず、私だけで勝手に決めるわけにはいかない。
また、還俗する日から全ての予定を組み立てていかなければならない。
そんなところへ先輩比丘が吉日云々を言いだすものだから、ついつい迷いが生じてしまったのだ。
誰しも好んで災難が降りかかる日など選びたくはないだろう。
どうせ選ぶのならものごとが上手く運ぶ最上の吉祥日を選びたいではないか。
裏にはそのような事情があり、突然の僧院長からの質問に面食らってしまったというわけだ。
私は、咄嗟に・・・
『今、相談しています。』
と答えたところ、すぐさま僧院長は、
『誰と相談をしているのだ?』
と返された。
私は、またこの言葉に詰まってしまったのであった。
ここは、森林僧院だ。
森林僧院で占い云々はご法度・・・ところが、先輩比丘から占いで吉日を助言されたとは言えない・・・それが、なかば一方的な助言であることも、先輩比丘がいる建前上、言えるはずがない。
私の直接の師である長老も同席している・・・先輩比丘と占いで還俗日の選定しているとは言えない・・・
なによりも、嘘となるような言葉だけは口が裂けても言えない・・・
さて、困った!
固まった私の表情を察してか、同席していた師である長老は、
『天上界に住んでいる人たちと相談しているのだよね。』
と助け船を出してくださった。
『・・・そうか。』
何をどう納得されたのかは私にはわからないが、師のそのひとことに随分と納得をした表情で僧院長はひとことつぶやき、ガラリと他の連絡事項へと話題が移った。
なんと返事をしてよいのかわからなかったから、とにかく助かった。
その後、師である長老の居室にて、何を返事に困っていたのか、どのような事情だったのかを話した。
すると、師は苦笑いしながら・・・
『あなたは、今、何を学んでいるのですか?
そういうことに惑わされないために学んでいるのでしょう。
何を迷っているのですか?何も迷う必要などないでしょう。』
静かな口調でこのように言われた。
・・・そうであった。
仏法とは、真理であり、真実である。
瞑想とは、ただ事実を事実として知っていくことだ。
そして、きちんと考えて、きちんと行動していくことだ。
どのような人生の困難にも負けない、やすらかなる心であり、またその実践である。
そのような囁きに心を揺らされているようではいけない。
最後の最後までまったく情けない・・・どこまでも修行ができていない私であった。
師のその言葉の前に深く恥じ入るばかりであった。
森林僧院では、この通り占いはどこまでも徹底的に忌避されるため、人生のどの場面においても全く関わることはない。
余談にはなるが、青木保著『タイの僧院にて』(※註2)おいても、占いによって還俗する日が選定されるというこのエピソードと全く同様の話が紹介されている。
著者の青木氏は、実際に占術を得意とするその道では大家である比丘のところで占ってもらい、還俗する日を決めてもらったという話を記している。
町のお寺では、そのようにして還俗する日が決められることが多いのだろう。
森林僧院の生活との違いがよくわかるエピソードのひとつだ。
最終的に、師と話し合いながら、私のビザの有効期限からさかのぼった日から還俗する日が決められた。
それが占術上の吉日なのか凶日なのかは私にはわからない。
そもそも、私にとって還俗とは、挫折そのものでしかないのだから・・・。
問題はあって当たり前のこの人生。
問題があるのが当たり前ならば、問題があったとしてもごくありきたりの風景だ。
ありきたりであるのなら、それはもう普通であって、問題でもなんでもないだろう。
問題と思うも思わないも、わが心次第ではないか。
大切なのは、どのような事象が私の目の前に現れたとしても、冷静さと理性でもって動じることなく対応できることに他ならない。
吉は凶であり、凶は吉だ。
実は、吉も凶もないのだ。
日々是好日なのである。
【参考記事】
※註1:
(2022年12月19日掲載)
(2021年05月09日掲載)
【参考文献】
※註2:
・青木保著『タイの僧院にて』中公文庫 1995年
294頁に還俗する日は『占い僧のところへ行って、しかるべき日時を占ってもらう』そのうえで決めるという記述がある。この書籍は町の寺院での生活について詳しく記述されおり、森林僧院での生活との違いを知ることができる。ただし、約50年前のバンコクの寺院での生活を伝えるものであり、現在の姿とは相違する部分も多くあることと思う。
(『人生の交差点にて・・・吉日を選ぶ?』)
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