タイ佛教修学記

佛法を求めてタイで出家した時のこと、出会った人々、 体験と学び、そして心の変遷と私の生き方です。


礼拝

阿羅漢であり正等覚者であるかの世尊を礼拝いたします

ナモータッサ ・ パカワトー ・ アラハトー ・ サンマー・サンプッタッサ(3回)


2024/04/29

人生の交差点にて・・・吉日を選ぶ?

タイの社会では、占いが大変大きな影響力を持っている。


表面的にタイと関わっている範囲ではまったくわからないかもしれないが、一歩深くタイの生活のなかへと入ると、あらゆることがらに占いが関わってくる。


人生のあらゆる場面が占いによって決められているのだ。


具体的に人生のどのような場面に占いが関わってくるのかについては、日本の“それ”と大差はなく、おおむね同じだ。


日本人もタイ人に引けを取らないほど占い好きな国民性だと思う。


日本の国民性とも通じていて非常に親近感を覚える一面だ。



聞くところによると、タイでは“生まれて来る日”まで占いで決めるというのだから驚きだ。


“生まれて来る日”を占いで決めるとは、一体どういうことなのかと不思議に思う方もいると思うが、なんとそのために帝王切開で誕生日を“その日”にするのだそうだ。


現在でもそうしたことが実際にあるらしい。



占いが影響を与えているのは、一般の社会だけではない。


実は、出家の社会においても、その影響を受けているのだ。


元来、仏教では占いを禁じているのだが、実際には占いを得意とする比丘もたくさん存在するし、呪術的なことがらに携わる比丘もごく普通に存在する。


それはそれで、タイの生活のなかに溶け込んだ一場面であり、タイの文化のひとつなのである。



一方で、森林僧院や瞑想実践系の寺院は、そうではない。


仏法の実践たる瞑想に邁進するために、町の寺院よりもはるかに厳しく戒律を遵守しながら、よりブッダの時代に近い生活を目指すことから、占ったり、占ってもらったりするなどは厳禁だ。


占いに携わったり、占いを学んだりするのは、ご法度中のご法度だ。


これは、森林僧院ではタイの“お守り”である『プラクルアン』を頒布していないことにも通じるもので(※註1)、よりブッダの教えに忠実であろうとする姿勢のあらわれに他ならないのである。











私は、出家生活の大半を森林僧院で過ごした。


森林僧院では、出家生活において占いによって特定のことがらが決められるということは一切ない。


ゆえに、占いと関わる機会は全くなかった・・・のではあるが、人生の交差点では必ずといっていいほど占いが影響を与えているタイ社会である。


私にもたった1回だけ、占いと遭遇したエピソードがある。



占いがタブーである森林僧院にも、なかには占いが得意な比丘もいる。


そして、あれやこれやと世話好きな比丘がいるものだ。


私が森林僧院で最後の安居をともに過ごした先輩比丘がまさにそうで、占いや呪術が得意でいろいろな話を聞かせてもらった。


その話については、別の記事にまとめているのでご興味があれば、是非参照していただきたい。



仏教とその実践を学ぶためにタイへ来た私にとっては、全くもって関係のない話ではあるのだが、私が還俗する日を決める際にその先輩比丘がなかば一方的に助言をしてくれたのであった(それを“助言”というかどうかはさて置き・・・)。


どうやらその先輩比丘は、プロの占術師というわけではないらしいが、とにかく占いや呪術に詳しい。


なにやら専門の書籍を数冊もっており、そのなかの1冊をぺらぺらとめくりながら・・・




『還俗すると聞いたが、いつ還俗するんだ?


お前が還俗するとしたら、この日とこの日がいい。


この日に還俗をすれば、お前の人生は大きく飛躍するだろう。』




このような助言をしてくれるのであった・・・。



それにしても、なぜ、還俗する日に吉凶があるのであろうか?


その先輩比丘にたずねてみた。


それは・・・還俗というのは、俗世間へ新たに生まれる日だからなのだそうだ。


いつ新たに生まれるのかによって、その後の人生が上手くいくのか、上手くいかないのかが決まるらしい。


つまり、上手く波に乗ることができる日に、最高・最善、最上のスタートを切ると良いというわけだ。


その先輩比丘によれば、還俗する日は吉日を選ばなければならないそうであるが、出家する日についてはいつでもいいそうだ。


なぜなら、出家というのは最上の善行だから、それを行うのに悪い日はないということだ。



なるほど、還俗は新たな門出。


それについては、一理あると思う。


仏法の生き方を身につけて、俗世間という実践の場でその智慧を磨きながら生きていく。


だからこそ、タイの男性は出家を経験してこそはじめて一人前の『大人』として認められるわけである。


善き在家の仏教徒として生きていくことを決意し、僧院を出る日が還俗する日だ。


確かに、新たな門出に他ならない。


いわば、誕生日だ。



新たに俗世間へと生まれる日であり、新たな門出の日ならば、それは最上の吉日を選びたいというのもごく自然な心情だろう。











ちょうどこの日、布薩の行事があり、僧院長以下、僧院内の比丘全員が布薩堂へと集まった。


その際、僧院長から私に質問が下された。




『もう還俗する日は決まったのか?』




私は、突然の質問に面食らってしまった・・・



なぜ、面食らってしまったのか?


実は、私の出家の時からずっとお世話になってきた瞑想指導上の直接の師に当たる長老と今後のことについて話し合っていた最中だったからだ。


僧院から町へと出る車がいつあるのか、僧院を出たあとのおおよその予定、ビザの有効期限はいつまでか、帰国に要する準備期間はどのくらい必要なのか、帰国に必要な費用の準備については大丈夫なのかなど、実務的な面から私の今後の予定を大変気にかけてくださっていたのであった。


なかでも還俗する日だけは、僧院長に立ち会っていただかなければならず、私だけで勝手に決めるわけにはいかない。


また、還俗する日から全ての予定を組み立てていかなければならない。


そんなところへ先輩比丘が吉日云々を言いだすものだから、ついつい迷いが生じてしまったのだ。



誰しも好んで災難が降りかかる日など選びたくはないだろう。


どうせ選ぶのならものごとが上手く運ぶ最上の吉祥日を選びたいではないか。



裏にはそのような事情があり、突然の僧院長からの質問に面食らってしまったというわけだ。


私は、咄嗟に・・・




『今、相談しています。』




と答えたところ、すぐさま僧院長は、




『誰と相談をしているのだ?』




と返された。


私は、またこの言葉に詰まってしまったのであった。



ここは、森林僧院だ。


森林僧院で占い云々はご法度・・・ところが、先輩比丘から占いで吉日を助言されたとは言えない・・・それが、なかば一方的な助言であることも、先輩比丘がいる建前上、言えるはずがない。


私の直接の師である長老も同席している・・・先輩比丘と占いで還俗日の選定しているとは言えない・・・


なによりも、嘘となるような言葉だけは口が裂けても言えない・・・



さて、困った!



固まった私の表情を察してか、同席していた師である長老は、




『天上界に住んでいる人たちと相談しているのだよね。』




と助け船を出してくださった。




『・・・そうか。』




何をどう納得されたのかは私にはわからないが、師のそのひとことに随分と納得をした表情で僧院長はひとことつぶやき、ガラリと他の連絡事項へと話題が移った。


なんと返事をしてよいのかわからなかったから、とにかく助かった。











その後、師である長老の居室にて、何を返事に困っていたのか、どのような事情だったのかを話した。


すると、師は苦笑いしながら・・・




『あなたは、今、何を学んでいるのですか?


そういうことに惑わされないために学んでいるのでしょう。


何を迷っているのですか?何も迷う必要などないでしょう。』




静かな口調でこのように言われた。



・・・そうであった。



仏法とは、真理であり、真実である。


瞑想とは、ただ事実を事実として知っていくことだ。


そして、きちんと考えて、きちんと行動していくことだ。



どのような人生の困難にも負けない、やすらかなる心であり、またその実践である。


そのような囁きに心を揺らされているようではいけない。



最後の最後までまったく情けない・・・どこまでも修行ができていない私であった。


師のその言葉の前に深く恥じ入るばかりであった。



森林僧院では、この通り占いはどこまでも徹底的に忌避されるため、人生のどの場面においても全く関わることはない。



余談にはなるが、青木保著『タイの僧院にて』(※註2)おいても、占いによって還俗する日が選定されるというこのエピソードと全く同様の話が紹介されている。


著者の青木氏は、実際に占術を得意とするその道では大家である比丘のところで占ってもらい、還俗する日を決めてもらったという話を記している。


町のお寺では、そのようにして還俗する日が決められることが多いのだろう。


森林僧院の生活との違いがよくわかるエピソードのひとつだ。



最終的に、師と話し合いながら、私のビザの有効期限からさかのぼった日から還俗する日が決められた。



それが占術上の吉日なのか凶日なのかは私にはわからない。


そもそも、私にとって還俗とは、挫折そのものでしかないのだから・・・。



問題はあって当たり前のこの人生。


問題があるのが当たり前ならば、問題があったとしてもごくありきたりの風景だ。


ありきたりであるのなら、それはもう普通であって、問題でもなんでもないだろう。



問題と思うも思わないも、わが心次第ではないか。



大切なのは、どのような事象が私の目の前に現れたとしても、冷静さと理性でもって動じることなく対応できることに他ならない。



吉は凶であり、凶は吉だ。


実は、吉も凶もないのだ。



日々是好日なのである。




【参考記事】


※註1:

『タイのプラクルアンのこと』

(2022年12月19日掲載)


『タイの呪術』

(2021年05月09日掲載)



【参考文献】


※註2:

・青木保著『タイの僧院にて』中公文庫 1995年

294頁に還俗する日は『占い僧のところへ行って、しかるべき日時を占ってもらう』そのうえで決めるという記述がある。この書籍は町の寺院での生活について詳しく記述されおり、森林僧院での生活との違いを知ることができる。ただし、約50年前のバンコクの寺院での生活を伝えるものであり、現在の姿とは相違する部分も多くあることと思う。




(『人生の交差点にて・・・吉日を選ぶ?』)






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2024/04/09

再びタイの数珠を使った瞑想再考

 前回掲載した記事(『タイの数珠を使った瞑想再考』)の通り、タイにおける数珠の役割は、“数をかぞえるための道具”ではなく、瞑想を手助けするための道具であった。


“数をかぞえる”という行為も、広い意味においては瞑想の手助けとも言えなくもないのだが、ともかく大乗仏教における数珠とは使い方がまったく違うということである。


具体的な使用方法については、『タイの数珠を使った瞑想再考』をはじめ、その他関連記事(※註1)をご覧いただくとして、他の上座仏教国ではどうなのであろうか。



拙ブログでは、私の実体験に基づいたできる限り生きた情報を心がけているため、タイに関わるテーマに特化して執筆している。


ゆえに、他の上座仏教国について触れることはしてこなかった。


しかし、今回は例外的に、ミャンマーとスリランカについて、私の瞑想体験や現地での見聞に基づくものではないものの、手元にある資料からの推察できる範囲内において、ほんの少しだけ触れてみようと思う。


ミャンマーやスリランカの状況について、瞑想実践経験をお持ちの方や現地を詳しくご存知の方がいらっしゃれば、ぜひともご教示願いたい。







数珠は、ミャンマーにおいてもタイと同様の目的ならびに使用方法にて用いられているということは、ミャンマーでの瞑想実践経験を持っておられる複数の日本人瞑想仲間から確認している。


また、ミャンマーでは在家者も数珠を使うことがあるということを複数のミャンマー仏教関連書籍の記載から読み取ることができる(※註2)。


ひとつだけタイの状況と異なるところは、ミャンマーでは在家者も数珠を使うことがあるという点だ。


ミャンマーの在家者については、書籍には『数珠を使用しながら真言や呪文を唱える』と記載しているものや単に『数珠を使って心を落ち着けることがある』と記載しているものなどがあり、ややばらつきがみられる。


書籍によって違いがありはするものの、ミャンマーでは在家者も数珠を使用することがあり、数珠を使って日常的に心を落ち着けるための何らかの行為を行うことがある、という点は一致している。


ところが、数珠を使って“具体的に”どのようなことを行っているのかという、行為の内容についてまでは言及されていない。


おそらくは、著者の関心が及ばなかったか、書籍の内容から外れることがらのために記載されなかったのではないだろうかと思うのだが、どうであろうか・・・。



タイにおいては、在家で数珠を使用することはまずない。


すでに別の記事で触れているが、出家者であっても数珠の使用は極めて少数派だ。


タイの在家者で数珠が使用されることがあるとすれば、ごく少数の在家の瞑想修行者に限られる。


やはり、一般の日常生活のなかで数珠が使用されることはないといってよい。



さて、もうひとつの上座仏教国であるスリランカについてはどうであろうか?


スリランカについては、残念ながら現地の状況に詳しく、また直接聞き取りができる人物が私の周囲にはいないためわからない。


スリランカの森林僧院などで瞑想修行を積んだ日本人は少なくないとはいうものの、数珠を使った瞑想を実践したことがあるという話は聞かないし、その詳細も全く手掛かりをつかめなかった。


それが在家者にまで幅が広がると、さらに状況がわからない。



ただし、スリランカの仏教においても数珠は存在するようである。


スリランカでは、在家者も数珠を使って心を調えることがあるということが、ブッダの生涯と仏教の教えを説いたスリランカの仏教の絵本から読み取ることができる。




『絵で見る釈尊の生涯』より
(シンハラ語より日本語に翻訳されたもの)


【生肉を銜えた鷹】

『嘴(くちばし)に生肉を銜えた(くわえた)鷹が他の鷹の餌食にされてしまう。逸楽に耽る(ふける)人は、嘴(くちばし)に生肉を銜えた(くわえた)鷹と同じで、始めは喜んでいるが、やがて悲しみがやってくる。』




仏教の教えとその挿絵が上記の画像である。


挿絵を見ていただきたい。


在家者(※註3)が数珠を持ちながら瞑想あるいは心を調えている様子が描かれている。


教えの内容から、気ままに遊び楽しむことに耽っていてはいけない、よく心を調えていくように励みなさい・・・と教えているのだが、その内容というか中身はというか、具体的にどのようにして心を調えていくのかは、挿絵だけではわからず、推測するしかない(スリランカ現地の方であれば、わかっているというのが前提であろうか・・・)。


おそらくは『放逸ならざること』、つまり『節度を保った生活を送る』ということが、逸楽に耽らないことの具体的な内容だろう。


挿絵の様子から『放逸ならざること』=『節度を保った生活を送る』=在家における“修行”=“よく心を調えること”=“なんらかの瞑想的な実践”、ということになるのではなかろうか。



現在でも、スリランカにおいても、もしかしたら、タイやミャンマーと同様、細々と数珠を使った瞑想が続けられているのかもしれないが、詳しく状況を知る者も、詳しく記載された書籍も探し出すことができなかった。


しかし、スリランカの仏教に数珠が存在することと、数珠を使うことがあるということだけは、確かなことだろう。



以上が上記の挿絵から読み取ることができることであるのだが、その具体的な瞑想方法や使用方法までは特定することはできない、といったところだろうか。



果たして、どのような瞑想を行っているのであろうか。


スリランカのお隣はインドだ。


スリランカには、ヒンドゥーの寺院もたくさんある。


当然のことながらヒンドゥーとの接触は濃厚であろうし、その影響も多大に受けているのではないかと思う。



スリランカでは、数珠をどのように使うのであろうか。


そして、どのような心の成長過程をたどるのであろうか。



上座仏教においては、あまり話題にされることのない数珠と数珠を使った瞑想方法。


興味はそそられるばかりである。




【註】

・註1:

関連記事:『タイの数珠を使った瞑想再考』

その他の記事は、関連記事の項目に記載。


・註2:

例えば、池田正隆著『ビルマ仏教 その歴史と儀礼・信仰』のなかに記載がある。


・註3:

挿絵の通り、スリランカにおいても白い服装は、在家の仏教信者の正装であり、寺院や僧院へ赴く際や瞑想実践の際は白い服装を着用する。




【参考文献】


・『絵で見る釈尊の生涯(LIFE OF THE BUDDHA IN PICTURES)』


※上記の書籍は、原典はスリランカのものでシンハラ語と英語の併記によって書かれているが、タイで知り合った知人が日本語へと訳しており、訳者本人より譲り受けたものである。なお、この書籍はマハーチュラロンコン仏教大学チェンマイ校の図書館にも収蔵されている。


・池田正隆著『ビルマ仏教 その歴史と儀礼・信仰』法蔵館 1995年




【関連記事】


『タイの数珠を使った瞑想再考』

(2024年3月19日掲載)


『数珠はいつの時代から仏教にあるのか?~タイの数珠についての一考察~』

(2023年05月19日掲載)


『瞑想の小道具 ~タイのお坊さんは数珠を持たない(再掲載)~』

(2017年06月04日掲載)


『タイのお坊さんは数珠を持たない』

(2012年07月03日掲載)




(『再びタイの数珠を使った瞑想再考』)






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2024/03/19

タイの数珠を使った瞑想再考

タイには、数珠を使った瞑想方法が存在するということは、以前にも記事としてまとめている(関連記事を参照)。


数珠というのは、元来は、真言の数をかぞえるための道具であり、いわゆるカウンターの役割を果たすものだ。


しかし、上座仏教における数珠を使った瞑想では、数をとることはしない。


タイでは、具体的に数珠を使ってどのように瞑想していくのかと言えば、心を集中させていくための“きっかけ”として数珠を使うのである。



ゆえに私は、以前の記事では数珠のことを『瞑想の小道具』であると表現している。



タイの数珠も玉の数は、一応は108つあるが、『数える』ということに大きな意味があるわけではないし、108という数字にも瞑想上の意味はない。


『瞑想の小道具』という役割から言えば、108でなくてもよいわけである。


とは言え、やはり玉の数を108としてしているのだから、何らかの意味やルーツがあるものと思われるが、残念ながらそこまで調べることができなかった。







数珠を使った瞑想方法には、非常にたくさんのバリエーションがある。


その一例を挙げると、数珠を繰りながら、呼吸の回数を数えていくという方法がある。


これは、すでに触れた通り、回数そのものに意味はなく、数字へと注意を向ける。


あるいは、かぞえるという行為そのものに瞑想上の意味はないが、“かぞえる”という“行為”へと注意を向けながら集中させていくという方法だ。



また、プットー、プットー・・・と唱えながら数珠を繰っていく『プットー瞑想』と組み合わせた方法がある。


プットーと唱えるだけで十分だろうと思う人もいるかもしれないが、心が騒々しい時や散漫になっている時などに特に効果を発揮する。


あえて“数珠を繰る”という動作を加えることで、より注意を向けやすくして、強く思考や感情から離して集中させていくことができる。



これらの瞑想方法は、静かに坐して実践しても構わないし、歩いて実践する、いわゆる歩行瞑想のような形で実践してもよい。


実際に坐す瞑想と歩く瞑想とを組み合わせて実践されることが多い。



その他、工夫次第で、数珠はさまざまな使い方が可能である。



呼吸や『プットー』という言葉に“数珠を繰る”という動作を加えることで、思考や感情から離れ、意識を集中させていきやすくするというのが数珠を使った瞑想方法の大きな利点であると言える。








ここまでは、心を集中させていくサマタとしての瞑想という意味合いが濃いものとなるが、数珠を繰りながら指先の感覚そのものを観察をしていくという方向性であれば、ヴィパッサナーの瞑想としての意味合いが濃い使い方となる。


数珠を繰っている感覚に『気づき』を向けて、ひとつひとつ細かく丁寧に観察していくことで、数珠の玉と指先とが触れているその感触や感覚の変化を観ていくのである。


すなわち、『指の瞑想』と全く同じ要領、同じ意味合いであり、どのような時であっても、どのような場所であっても、『気づき』を育てながら、『気づき』をよく維持していくための手段のひとつとしての使い方だ。



先ほども触れた通り、数珠を使った瞑想では、玉の数そのものには瞑想上の意味は持たないため、他のものであっても十分に代用が可能である。


たとえば、身近にあるブレスレットを使えば、大変手軽に数珠を使った瞑想の実践ができる。


近年、身につけている人も多くみられ、より身近な存在で、親しみのある物品のひとつではないだろうか。


よく“手持ち無沙汰”から、手にしたものを“いじる”あの行為をほんの少しだけ工夫すれば、立派な瞑想の実践となる。



それだけではなく、さらに多方面へと応用していくことが可能だ。



手に持つことができるものであれば、目の前にあるものはどのようなものであっても瞑想していくことができるだろう。


“手持ち無沙汰”で暇を持て余すこともなくなる。


ペンで実践することもできるし、スマートフォンをタップするその瞬間に『気づき』、瞑想していくことも可能だ。



本人のやる気次第で、どれだけでも広げていくことができるのである。



このように数珠を使った瞑想は、いつでも、どこでも、如何なる時であろうとも『気づき』を育て、よく保つことを磨いていくための手段のひとつなのである。


心の状態は、いつも同じとは限らないし、ましていつもおだやかであるとは限らない。


むしろ、いつも荒波であり、いつも濁流であり、大いに乱れていることの方がはるかに多い。



現在では、ある特定の瞑想方法のみを専修していくことが主流となっているが、おそらく元来はそうではなかったのであろう。


実際に、その時々・・・その場、その状況、その環境に応じて、数珠を用いた瞑想方法を含めて、いろいろな方法を組み合わせながら、心を落ち着けていき、『気づき』を保ちながらその力を高めていくことが、森の僧院などでは推奨され実践されている。


こうした実践方法は、現在のタイでは、ごく一部の修行寺や森の僧院でしか実践されていない少数派の瞑想方法ではあるが、上座仏教における数珠の歴史の問題はともかく、近代に入ってから創始された体系だった瞑想法が隆盛する以前は、このような細々とした非常に地道な瞑想法が脈々と受け継がれ、実践されてきたのではないだろうかと推測している。


数珠を使った瞑想法は、あくまでも瞑想の入り口としてのものであるので、心がよくと調い、『気づき』の力がしっかりと育てられてきたら、さらに高度な瞑想へと進んでいくというのがその筋道となるのだろう。








これは、私の経験を踏まえた所感にはなるが、実社会のなかを生きる私たちにとっては、なかなか静かな環境を得ることが難しいばかりでなく、『気づき』の力を高めていくことさえも難しい。



私は、実生活のなかでは、その時の心の状況に応じて対応していくこうしたやり方も、十分に意義があるものと感じているし、むしろ適しているのはないかとさえ感じている。



ある特定の瞑想方法のみを専修していく方法ももちろん良いと思う。


それぞれに合った瞑想方法を実践し、それぞれに応じた継続方法を選んでいけばよいのである。




【註】

※マハーシ式の瞑想方法を採用している瞑想センターや僧院などでは、数珠を用いること自体を禁じているところもある。

※近代以降に創始された瞑想方法では、数珠を使うことはない。よって、そうした瞑想方法を採用する瞑想センターや僧院でも、数珠を用いることを禁じていることが多い。

※バンコクを中心とするタイ中央部では、数珠の使用はほとんど見られない。タイ北部(チェンマイ地方)やタイ東北部(イサーン地方)などで見られるにとどまる。




【関連記事】


『数珠はいつの時代から仏教にあるのか?~タイの数珠についての一考察~』

(2023年05月19日掲載)


『瞑想の小道具 ~タイのお坊さんは数珠を持たない(再掲載)~』

(2017年06月04日掲載)


『タイのお坊さんは数珠を持たない』

(2012年07月03日掲載)


『アーナパーナサティ』

※プットー瞑想について記載

(2010年05月17日掲載)




※動画・YouTube



※動画・YouTube





(『タイの数珠を使った瞑想再考』)





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