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ほぼ日刊イトイ新聞

2024-05-22

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・今日なにをしたか、だったら、
 それなりにいろんな足跡があるから思い出しやすい。
 昨日とか一昨日だったらあやしくなるけど、
 今日のことだったら、なにがあったか思い出せるだろう。

 でも、「今日、どんなことを考えたか?」だとか、
 「今日、どんなことを思ったか?」のほうは、
 それを見ていた証人もいないし、写真にも撮れないので、
 じぶんがなんとか思い出すことしかできない。
 それでもやっぱり、「さっき」のことだったり、
 「今日」のことだったら、なんとかなりそうな気もする。
 さらに、「いま、このとき」に思っていることを、
 その場で書き記しておくことならできる。

 箇条書きにできるような客観的なあなたの記録なら、
 他の人でも残しておける。
 スケジュール表には、ある意味、すべてが書いてある。
 しかし、具体的でなくもやもやしていたり、
 唐突になにか思いついたなんてことだとか
 「感じたこと、思ったこと、考えたこと」は、
 そんなに憶えてはいられないものなのだ。
 でも、「子どものころ、こんなことを思っていた」
 なんてことは、いつまでも忘れなかったりもする。

 事実とか出来事みたいな記録を書くことは、
 わりと、みんながやっていると思うのだけれど、
 感情や思考のほうは、あんまり記録がないものだ。
 そして、忘れられてしまうのだ。
 それを、あえて記すのが「日記」なのかもしれない。
 むろん、どこそこにだれそれと行ったとか、
 具体的な事実を書きながらも、
 「父がふだんにない機嫌のよさでうれしかった」
 なんてことや「夕焼けがさみしかった」だとかも書ける。
 そっちのほうを記すのは、少し気恥ずかしいけれど、
 それこそが書くことで心が見えていくことだし、
 のちのち、最もじぶんが読みたいことなのではないか。
 「ほぼ日手帳」は「日記ではない」のだけれど、
 「日記」のように「感情や思考」を書いたほうが、
 ずいぶんと豊かに使えるんだ、とかススメたくなった。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
ぼくのこの「今日のダーリン」も、日記かもしれませんね。


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