新型コロナ感染記 マスクをしよう

新型コロナウイルスに感染しました。推定感染日は6月24日(土)。発症は3日後の6月27日(火)。疲れを感じて休養をとったほうが良いと判断し、午後には帰宅して横になって安静にしていましたが、時すでに遅く、夜に発熱しました。熱は38度。28日(水)は終日寝ていました。朝は37.5度。その後15時ころに37.3度に下がり、夜まで37.3度。29日(木)朝に36.7度まで熱が下がったので、近くの医院でPCR検査を受けた結果、陽性でした。その後、30日(金)、7月1日(土)と2日間寝ていました。熱は下がったものの、体がだるく、喉が痛くて、ときどき咳き込んで痰が出るので、ウイルスと免疫系の戦いが続いているのが実感できました。

28日には九大の講義を担当していましたが休講しました。2つ打ち合わせにも欠席。29日は福岡市科学館で大事な会議がありましたが、こちらも欠席。30日の保全生態学セミナーも中止。

私がダウンすると各方面にご迷惑をおかけするので、健康管理には気を使ってきました。結果として、1999年以後発熱したことがなかったのですが、今回はしくじりました。

敗因は、6月24日(土)の東京日帰り出張で、マスクをせずに講演し、その後の分科会でもマスクをせずに議論に参加したことです。5類移行以前は、福岡市の新規陽性者数のデータをグラフにして、感染の動向をチェックし、ときどきtwitterなどにも発信していました。この作業を通じて感染予防の意識を維持していたのですが、5類移行後は感染の動きがデータで見えにくくなり、私の感染予防の意識も知らぬ間に低下していたようです。リスク管理が甘かったと言わざるを得ません。周囲がどうあれ、マスク着用を貫くべきでした。

なお、6月25日(日)の福岡市科学館出勤時は、終日マスクをしていました。前日に東京出張したことを考慮して、できるだけ館長室にいて、子供たちとは話をしないように注意していました。推定感染日の翌日であり、ウイルスがまだ私の体内で十分に増殖できていない状態のため、科学館で私が感染源になった可能性はほぼないと思います。

今回の経験を反省して、会議でのマスク着用は厳守しようと思います。また、東京日帰り出張は疲れますね。今後、日帰りでなければ対応できない依頼は引き受けないことにします。

ワカンダフォーエバー

ブラックパンサー・ワカンダフォーエバーを昨日観た。第一作に続きこれは歴史に名を刻む傑作だ。第一作との大きな違いは女性が中心となる物語である点。さらに、母親の愛が復讐心を癒す力として描かれている。ボーズマンの惜しまれる死去を受けて、物語の中でも主役が交代するが、次代を担うのは女性。

ブラックパンサーが誰かはポスターを観れば明らかだったが、まさかアイアンハートまで女性だとは!リリという名を事前に知っていても想定外だった。そのリリをシュリが助けさらにラモンダ女王が助ける行為が物語を大きく動かす。利他的な行為が争いの火種となり、本来争う必要がない二つの民が争う。

敵役のネイモアは海の民なのに空も飛べる。アイアンハートもパワードスーツで空を飛び、戦闘シーンは圧巻。しかし愛する者を奪われた者どうしの争いなので、勝利に爽快感はない。ネイモアを倒したシュリが最後にとる行動は映画を観て。気高い王であった兄の後を継ぐシュリの成長は葛藤に満ちていた。

前作についで監督をつとめたライアン・クーグラーはまだ36歳。アレックス・ヘイリーの「ルーツ」がヒットしたときまだ生まれていなかった。「ルーツ」やそのリメイク版を観て育った世代が生んだブラックパンサーには、自分たちのルーツの誇り・抵抗の歴史を描いた作品をこえた新たな未来がある。

「ルーツ」の記事を検索し丸谷・木村・山崎対談を見つけた。国への自虐・エスニック意識・自然崇拝を「ルーツ」のヒット理由にあげている点、うなづける部分もあるがブラックパンサーを観てから読むと浅い考察に思われた。過去の過ちを認めそれをどう乗り越えるかが鍵だろう。

『ルーツ』アレックス・ヘイリー|丸谷才一+木村尚三郎+山崎正和の読書鼎談(1/3) - 木村 尚三郎による対談・鼎談 | 好きな書評家、読ませる書評。ALL REVIEWS

今回の作品ではマヤ文明の子孫が登場し、スペイン人による征服の過ちがストレートに描かれている。しかしその過ちを再び繰り返そうとする無益な争いが描かれ、争いの火種となる復讐心を乗り越えるための葛藤が描かれる。アフリカ系国家として最初に独立したハイチが舞台の一つなのは納得。

最後にティ・チャラ2世「トゥーサン」が登場するがこれはハイチ革命指導者の名前。検索したらすでに指摘している人がいた。争う必要のないワカンダとタロカンの争いを招いたのは、合衆国を含む先進国の覇権。次回作はこの難問にどう挑むのか。期待しかない。

【ネタバレ】『ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー』ポストクレジットシーン解説 | THE RIVER - Part 3

すっかり忘れていたけど、シュリ王女の声を演じた百田さんはすばらしかった。最初の声を聞いたときに一瞬百田さんの顔が浮かんだけど、すぐにシュリ王女に没入した。後悔・前進・苦悩・落胆・決意・葛藤・克服とめまぐるしく動く若いシュリの心情を見事に演じていたと思う。想像のはるか上だった。

もがいてもがいて古生物学者

bookman.co.jp

 

夢を追い続ける人には幸運の女神が微笑んで奇跡を運んできてくれる。そんな物語に出会った。ただし、実話である。

 

本書は、恐竜にあこがれた少女が研究者を志し、もがいて、もがいて、ついに夢をかなえるまでの自叙伝だ。読み始めると途中でやめられず、一気に読んだ。

 

著者が恐竜を研究する古生物学者の存在を知って憧れをいだいたのは小学校5年のときだという。あの『ジュラシックパーク』で、女性古生物学者トリケラトプスのうんちに手をつっこむシーンを見て、強く心を揺さぶられたそうだ。

 

「いつか、こんな仕事をしてみたい。恐竜への秘めた思いが、私のなかで膨らんでいった。」

 

うんちに心を揺さぶられて恐竜への夢を心に秘めた少女は、「恐竜のために勉強するぞ」と一念発起するものの、苦手の数学の壁にはばまれて心が折れそうになった。自分の気持ちがどこまで本気なのか、それを見極めるために、高校生になった少女は上野の科学博物館に向かった。

 

「大恐竜展」を見て、ゴンドワナ大陸という未知の世界に再び心を揺さぶられた少女は、科博の冨田幸光先生に手紙を書いた。なんどもなんども書き直した手紙を送ると、ファクシミリで返事が来た。「私は間もなくアメリカに行きますが、10月7日から出勤します。それ以降に電話してみてください。」

 

冨田先生に薦められた早稲田大学に奇跡的に補欠で合格した著者が、アメリカの大学院に留学し、スミソニアン博物館でのポスドク職を射止め、ついに憧れだった科博の地学研究部に職を得るまでの物語は、まるで映画のようだ。

 

著者が歩んだ道を履歴書で見れば、輝かしい経歴だ。しかし、その道はスリルの連続であり、自分の将来に自信が持てないときが何度も訪れた。そのたびに彼女は自分を試す目標を設定し、その目標がクリアできたら次に進もうと考えた。そして目標をすべてクリアできたから、いまの彼女がある。

 

「もがいて、もがいて、古生物学者!!」というタイトルには、著者の万感の思いが込められているのだと思う。

 

わかるなぁ、その気持ち。自分が何ものなのか、自分に何ができるのか、若いときにはわからないもの。学会に出れば、みんな優秀に見える。自分に研究者としての将来があるのだろうか。そう不安になる。それでも、研究がしたい。研究の目標を設定して、それがクリアできなければあきらめよう。そう思って目標に挑み続けているうちに、いつのまにか、自分が歩いた道ができてしまった。

 

そんな研究者の一途な歩みを、著者は軽やかな語り口で、でもたっぷりと思いを込めて綴っている。読み進むと、若いころの著者に「がんばれ~」と声援を送りたくなる。これだけ思いを伝えるのがうまい研究者はめったにいない。きっと、小・中学生だったころの自分をよく覚えていて、そのころの気持ちに思いをはせながら、小・中学生に語りかけるように書いたのだろう。私は福岡市科学館のダーウィンコース・ニュートンコースで、将来科学者をめざす小学校4~6年生を教えているが、彼ら・彼女らにぜひ紹介しよう。

 

著者は研究者に必要な能力として、「学力」「発想力」「プレゼン力」をあげているが、何よりも必要なのは夢を追い続ける力だということが、本書を読めばいやでもわかる。あえてそれを言わずに、「学力」「発想力」「プレゼン力」という頑張れば身に付きそうな能力をあげているところが、著者らしいと思う。ずっと遠くにある抽象的な目標ではなく、実現できそうな目標を掲げて、それをひとつひとつ実現していくことが、実は夢をかなえる近道なのだ。

 

2022年の最初の日に、とても素敵な本に出合えた。著者とは面識がないが、実は昨年オンラインの集まりで会っている。今年はきっと、どこかで会えそうな気がする。

2021年を振り返って

今年は人生最高の一年だった。1月には『Decision Science for Future Earth』を出版。12月30日には15編目の論文が公表された。15編中2編は第一著者。論文の被引用数は1090件で過去最高。昨年4月からスタートした新プロジェクトは8月の中間評価でS評価。保全生態学入門26年ぶり改訂作業もほぼ完了。
 福岡市科学館では、ダーウィンコース中級編、SDGs家族会議、ニュートンコースという小学生とその家族を対象とするプログラムの企画・実施をサポートした。どれもとても挑戦的なプログラムで準備が大変だったけど、子どもたちの成長がまぶしくて達成感があった。ニュートンコースの挑戦は新年も続く。
 一般社団法人九州オープンユニバーシティの事業も確実に前進したと思う。九州大学との連携協定の手続きが進んでおり、2022年4月には協定がスタートする予定。糸島半島を対象にして新しいプロジェクトを開始する計画を相談中。また矢原塾をオンラインで再開準備中。大学院共通教育のテキストも計画中。
 映画では『ラーヤと龍の王国』『アイの歌声を聴かせて』に出会えた。『ラーヤ』は善悪二元論を捨て「敵を信じることが魔法」というすばらしい方向性を打ち出した傑作。『アイ歌』は「誰だって誰かのことを照らしてあげる光」という温かい人間賛歌。また作劇が見事。製作チームの作品への共感も素敵。
 小説では『アイの物語』『詩羽のいる街』に出会えた。『アイの物語』はAIが倫理性を身に着けた世界での人間のあり方を問う作品。人間はみな認知症、というAIの発言には唸った。『詩羽のいる街』は物語の力で世界が変えられると思わせてくれる作品。人と人をつなぐ詩羽の生き方に心を鷲掴みにされた。
 本ではブレグマン『希望の歴史』に出会えた。「ほとんどの人は本質的にかなり善良だ」という主張に高い説得力があることに驚かされた。1月に出版した『Decision Science for Future Earth』第一章では「世界は良くなっている」証拠をあげたが人が善良だとは主張しなかった。人間には確かに希望がある。

アイの歌声を聴かせて

※映画の前半のネタバレがあります。

 

「竜とそばかすの姫」を観終わったときのモヤモヤに比べ、鑑賞後の納得感、満足感、幸福感が高くて、すばらしい作品。ぜひ多くの人に観てほしい映画だ。「竜とそばかすの姫」は母親の死をきっかけに心を閉ざしていた主人公のすずが、デジタル世界Uでの経験を通じて成長していく物語で、すずにはとても共感できる。しかし、すずをとりまく友人や大人たちは成長しないし、人間としての魅力がいまひとつ足りない。そこが「竜とそばかすの姫」の大きな課題だったことが、「アイの歌声を聴かせて」を観て良くわかった。

「アイの歌声を聴かせて」では、主人公のサトミとその幼馴染のトウマ、友人のゴッちゃん、アヤ、サンダーの5人がそれぞれに悩みや課題を抱えている。その5人が、AI女子高生であるシオンの変な行動に振り回されながら、悩みや課題を克服し、成長していく。5人がそれぞれに魅力的であり、5人の心が通い合っていくストーリーにはとても共感できる。柔道の試合に負け続けていたサンダーが、シオンとの稽古のおかげで初めて試合に勝ち、サトミの提案で高校を休んで、サトミの家で祝勝会を開くまでの流れは、青春映画としてとてもすがすがしい。サトミとトウマ、ゴッちゃんとアヤがシオンの仲立ちで距離を縮めていくロマンスに心がときめくほど若くはない私だけど、その私が観てもほっこりする物語だ。

しかし、祝勝会後に校外を歩いているシオンが目撃され、シオンは製造元である星間エレクトロニクス社に回収されてしまう。大切なシオンを失った5人は絶望の淵に立たされる。絶望に追い込まれたのは5人だけではない。シオンの開発をリードしていたのはサトミの母親であり、彼女はプロジェクトを失い、ワインをあおってサトミにもつらくあたってしまう。「話しかけないで、言葉を選ぶ自信がないから・・」と母親に拒まれ、シオンを失い、サトミは自分がしでかした失敗のあまりの重大さに打ちひしがれ、泣き叫ぶ。この絶望的な状況からどう物語が展開するのか、まったく予想できなかった。その後のストーリーはネタバレできない。ぜひ映画館で観てほしい。AIであるシオンが高校に転校してすぐに歌いだし、「サトミを幸せにする」という変な発言をしたナゾが解きあかされ、クライマックスへと続くシークエンスは見事。心を揺さぶられた。ぜひ映画館で観て、泣いてください。最後の展開は現実にはあり得ないが、AIファンタジーとしてのこの作品世界の中では、納得できる結末。

「竜とそばかすの姫」を観たばかりなので、どうしても比べてしまう。どちらも女子高生が主人公であり、歌が軸になっていて、デジタル空間やAIが世界観を形作っている映画だ。「竜とそばかすの姫」はJin Kimがデザインを担当したBelleの魅力的なキャラクター、仮想空間Uの圧倒的なビジュアル、そして中村佳穂さんの達人的な歌が観客の心をわしづかみにする「尖った映画」だ。一方の「アイの歌声を聴かせて」には、そういう尖ったところがあまりない。しかし、鑑賞後の満足感は高いし、あとからじわじわくる映画だ。機会があればぜひもういちど観たい。

鑑賞後のTwitterで<映像と歌では「竜とそばかすの姫」に及ばないがストーリーはずっと良かった。AIシオンが回収されてしまった後の展開は全く予想できなかったが見事に心を揺さぶられた。前半の不自然な伏線を全て回収する展開はすばらしい。土屋太鳳のAI演技は絶妙。歌も良い。>と書いた。最初は「歌では及ばない」と書きながら、最後には「歌も良い」と矛盾したことを書いている。その理由を考えみて、中村佳穂さんの歌と土屋太鳳さんの歌がまったく違うものであることに気付いた。

中村佳穂さんはささやくようなはかなげな歌声と、のびのある力強い歌声を柔軟に使い分ける技を持つプロの歌手だ。その歌唱力はすばらしくて、上級者がいくら努力してもたどりつけない達人のすごさを見せつけてくれる。一方の土屋太鳳さんは俳優であり、AIの声を演じ、そしてAIの歌声を演じている。だから、中村佳穂さんのように感情をほとんど歌声に乗せていない。しかし、プログラムされたAIだからこそのまっすぐさ、一途さ、純粋さをとてもうまく演じている。土屋太鳳さんの歌は演技なのだ。「ごはんが、炊けました」のような合成音を研究して、AIらしい声を工夫したというインタビューを鑑賞後に見て、なるほどそうだったのかと納得した。努力家の土屋さんらしいエピソードだ。「約束のステージ」での、感情をたっぷりこめた歌い方とは全く違っていた。

その土屋太鳳さんの(AIシオンの)歌声が、この映画の軸になっていることは間違いない。土屋さんは歌手としては達人ではないが、演技者としてはやはり達人なのだ。悩んだりためらったりしないAIだからこそのストレートな歌を、うまく演じて歌っている。最初にサトミに呼びかけて歌う「You need a friend~あなたには友達が要る~」(フルバージョン)は、タイトルどおりのストレートな歌詞。「あなたはいま幸せかな? 教えてほしいな」に始まり、「友達がほしいって言わなくちゃ」と続く。この歌詞どおりの嘘のない行動が、サトミたちを変えていく。

中盤、サトミとトウマが手をつなぐシーンで歌われるそのアンサーソングYou've Got Friends~あなたには友達がいる~」は、同じメロディだが、もっとゆっくりとしたテンポで歌われる。歌詞は「あなたはいま幸せかな? 教えてあげるね」に始まり、「誰だって誰かのことを照らしてあげる光だから」と続くものに変えられている。土屋太鳳さんの(AIシオンの)歌い方も、友だちになれたことを祝福する歌い方に変わっている。さきほど「感情を歌声に乗せていない」と書いたが、AIシオンのまっすぐなやさしさはしっかり伝わる歌い方だ。雨の中に立ちすくむゴッちゃんとアヤの誤解を洗い流して心を仲立ちするときにうたう「Umbrella」もやさしい名曲。一方, 負け続きのサンダーに柔道の稽古をつけるときにうたう「Lead your partner  」はジャズ調の軽快な曲。土屋太鳳さんはそれぞれに歌い方を工夫して、AIシオンを見事に演じて歌っている。土屋太鳳さんの歌の演技がこの映画の完成度に大きく寄与しているのは間違いない。

吉浦康裕監督のことはまったく知らなかったのだが、福岡市の出身で、しかもなんと九州芸工大(いまの九大芸術工学部)の出身とのこと。AIが生み出す未来へのポジティブな考えと、誰一人悪人を登場させない作風は、とても好きだ。「アイの歌を聴かせて」はまだ大ヒット作とは言えない状況だが、twitterでは「#細かすぎて伝わらないアイの歌声を聴かせてのここが好き選手権」というハッシュタグが作られて、幸せな感想を交流する場がひろがっている。さらに口コミでこの作品の魅力が伝わり、ロングランになることを祈りたい。

この作品は間違いなく次につながる名作だ。吉浦康裕監督の次回作が楽しみだ。

付記:映画の後半では、劇中アニメ「ムーンプリンセス」が登場し、その主題歌「Feel the moon light~愛の歌を聴かせて~」が流れる(この歌を歌っているのはプロ歌手の咲妃みゆさん)。このアニメがシオンの行動の謎と関わっている、と書いても、映画を観るまでストーリーは予想できないだろう。

竜とそばかすの姫

※思いっきりネタバレありです。

 

人間には自分を犠牲にしてでも他人を助けようとする献身性がある。この人間らしい美徳は、ときには悲劇を生む。主人公すずの母親は、中州に取り残された子供を助けようとして濁流にのまれ、命を落とした。すずは歌が好きな子だったが、母親をなくして以来、人前では歌が歌えなくなった。それは、誰かのために生きるという生き方を拒絶したことのあらわれだった。現実世界で人と関わることを拒んだすずは、父親に対してすら心を閉ざしていた。そんなすずが、数少ない友人の誘いがきっかけで、仮想空間Uのアカウントを得た。この仮想空間では、本人の隠された能力がコンピュータに読み込まれ、アバターにインプットされる。その結果、仮想空間Uの中で、すずはBellの名で自由に歌い、人に歌を届けることができた。そしてBellの歌はたちまち、多くのユーザーの心をとらえ、仮想空間の世界中に多くのファンを生み出した。しかし、彼女の最初のライブコンサートは、竜(Beast)と呼ばれる乱暴者と、竜に制裁を加えようとする監視者たちの乱入によって踏みにじられた。この事件は、すずの献身性をめざめさせた。すずの母親が中州に取り残された子供を見捨てることができなかったように、すずは孤独な竜を放ってはおけなかった。すずは竜の隠れ家である「城」をつきとめ、竜の拒絶に合いながらも、竜の孤独を癒そうとする。やがて竜はすずに心を開いていく。しかし、すずが竜と接近した結果、「城」の位置が監視者たちに知られ、城を守るかわいらしいAIたちは監視団メンバーに攻撃され、城には火が放たれる。仮想空間の「公共」を守ろうとする監視団は暴力的だ。城を失った竜のことが気がかりなすずは、知恵をしぼってインターネット空間を探し、竜の正体である虐待を受けている少年にたどりついた。しかし、少年がすずをBellを語る偽善者だと疑っているうちに、少年との接続は、虐待をする父親によって切られてしまう。「少年にすずがBellだと信じてもらうには、Uの中で素顔をさらして歌うしかない」。幼馴染のしのぶ君にそう言われたすずは、美しいBellのアバターとは違う平凡な素顔を仮想空間Uの中でさらし、歌う。このときすずは、現実世界で現実の少年と関わる一歩を踏み出し、母と同じように自分の身を投げ出して竜に呼びかけた。最初はとまどったUのアバターたち(全世界のユーザーたち)は、すずの飾らない素顔と歌声に心を惹かれ、涙を流す。このシーンは「サマーウォーズ」の仮想空間OZで、アカウントのほとんどを奪われた夏希に全世界のユーザーがアカウントを差し出すシーンと似ている。しかし、「サマーウォーズ」では世界を守るために戦う夏希に対して世界のユーザーが献身したのに対して、この映画では一人の少年を助けるために素顔をさらしたすずに世界のユーザーが涙した。どちらが泣けるかと言えば、「サマーウォーズ」だ。しかしこの映画の共感の質は、ぐっとくる涙よりも、もっと深いものだと感じた。このシーンから、少年の棲む東京の町を探り当て、すずが高知から上京して少年と出会うまでのシークエンスは、かなり都合よく描かれている。この展開に批判的なコメントも目にした。最終的に虐待の問題が解決したわけではなく、その描き方に批判があるのも理解できる。虐待問題に実際に取り組んでいる人がこの映画を見れば、こんな描き方は無責任だと思うだろう。この点は、脚本を工夫したほうが良かったと私も思う。

難点をもうひとつあげれば、すずの父親の描き方は不満だ。少年に会うために夜行列車で上京するすずに対して、「やさしい子に育ってくれてありがとう」っていうのは、かなり無責任。すずを信じて一人で行かせる決断はあると思うが、「自分だけで解決できないときには、すぐに電話しろ」くらいは言えよ、と父親経験者としては思ってしまう。

最後の描き方には、このように難点がある。しかしこの映画は、現実世界で人と関わることを拒んでいた主人公が、母と同じように自分の身を投げ出して誰かを助けようとするに至る成長の物語だ。すずが意を決し、素顔をさらして歌うシーンは、とてもすがすがしい。細田監督が作り出した仮想空間Uの圧倒的なビジュアルと、すず(中村佳穂さん)の圧倒的な歌唱力に支えられた名シーンだ。このシーンにはぐっとくる感動というよりも、主人公の生き方への深い共感を覚えた。

かつて、「サマーウォーズ」を観たあと、ブログにこう書いた。

https://yahara.hatenadiary.org/entry/20090813/1250144029

「しかし、映画を観終わってから、何か物足りなさを感じた。疲れた気持ちで観にいって、元気をもらったかと言えば、そうでもないのだ。「時かけ」のときにも感じた、映画で描かれた世界との距離を、今回も感じてしまった。細田監督が描きたいことと、私が受け取りたいことの間に、ずれがあるのだろう。」

今回は、この「ずれ」をあまり感じなかった。「おおかみこどもの雨と雪」の時点から、細田監督が描きたいことと、私が受け取りたいことが、幸いにして近づいてきたのだと思う。細田監督が実際に子供を育てるなかで積み上げた人生経験によって、映画に深みが生まれているように思う。次回作がさらに楽しみだ。

なお、この映画には、私が調査でしばしば訪問している高知県いの町の仁淀川の風景や、高知市内の鏡川沿いの風景がリアルに描かれていて、その点でも嬉しい映画だった。仁淀川沈下橋を描くのなら、スダレギボウシの花も描いてほしかったと思うのは、欲張りが過ぎるというものだろう。

書評「キリン解剖記」-映画のヒロインのようなキリン研究者の成長物語

「キリンがなくなりました」

私の研究は、動物園のスタッフから届くキリンの訃報から始まる。

・・・この書き出しは、そのまま小説に使えますね。え、あの可愛いキリンが死んだ? そこから始まる研究って何? と、読者はもうすっかり郡司さんがこれから語る物語に引き込まれてしまいます。

「亡くなってしまったキリンの遺体をトラックに載せ、研究施設に運び込む。トラックについているクレーンを使って、遺体を解剖室に下ろす。キリンの首は、長さ2m、重さ150㎏ほど。ヒト用の解剖台にぴったりのサイズだ。」

・・・この描写は、そのまま映画の冒頭シーンに使えます。「キリンの遺体」というミステリー感たっぷりの題材が、解剖室に下ろされる。クレーンやヒト用の解剖台という道具立てもリアルで、物語を盛り上げるビジュアルとして、効果的。これから何が始まるんだろう。

以上に引用した文章は「はじめに」の冒頭です。「はじめに」の後半には、こう書かれています。

「この本は、物心つく前からキリンが大好きだった私が、18歳でキリンの研究者になることを決意し、恩師と出会い、解剖を学び、たくさんのキリンを解剖して「キリンの8番目の“首の骨”を発見し、キリンの研究で博士号を取得するまでの、約9年間の物語だ。」

通常の書評なら、ここから本書の内容を要約し、それにコメントをつけるのですが、本書の要約を書くのは、大ヒット上映中の映画のネタバレをするようなものなので、やりません。興味を魅かれたあなたは、もう買うしかありません。「約9年間の物語」が面白すぎることは保証します。

本書には「約9年間の物語」以外に、幼少時のエピソードが書かれているので、そこを紹介して、さらに期待感をあおることにします。

「キリンが、好きだ。

キリンと出会った瞬間や、始めてキリンを好きだと思った瞬間のことは、よく覚えていない。ただ、一歳半くらいの頃に近所の写真館で撮った記念写真には、2頭のキリンのぬいぐるみに囲まれた私の姿が写っている。」

次のページには、この記念写真が掲載されており、か、かわいい。その隣には、著者が3歳の頃に描いたキリンの絵があり、へ、へた・・・(うさぎとネコはかわいい)。

この写真と絵を見るだけで、ただものではない感と、著者のキリン愛とが伝わってきて、ハートを射抜かれます。

本書には随所にキリンにまつわるコラムが掲載されており、本文だけでなく、こちらも楽しい。最初のコラム「キリンの名前と解剖学者」の冒頭には、まど・みちおさんの詩が引用されています。

きりん  きりん  だれがつけたの?  すずがなるような  ほしがふるような  日曜の朝があけたような

キリン愛がほとばしる書き出しですね。そのあとの、「ぐんじめぐ」は濁音が多く、清音だけの名前に対する憧れがあるというエピソードも、読ませます。

このコラムで紹介されているキリンの名前の由来は、私も初めて知りました。中国名だと思っていたら、キリンの中国名は「長頸鹿」。中国で「麒麟」が使われたのは一回だけで、アフリカに遠征した武将が皇帝に、皇帝のおかげで麒麟(伝説の霊獣)が現れたとゴマをすった記録に登場する。その記録を読んだ江戸時代の蘭学者桂川甫周が、ジラフに麒麟の名をあてたそうです。

桂川甫周は「解体新書」の翻訳に関わった蘭学者であることを紹介し、著者は次の文でコラムを結んでいます。

「甫周が生まれてくるのが200年ほど遅かったら、きっと今頃、私と一緒にキリンの解剖をしていたに違いない。」

ここまでの紹介でおわかりのとおり、著者の郡司芽久さんの文章は魅力的です。つかみも、展開も、結びも、うまい。キリン愛にあふれていますが、それを押し売りせずに、落ち着いた文章で読者にうまく伝えています。

そして何より、郡司さんがキリンの研究を決意してから研究者として悩み、成長する「約9年間の物語」自体が、面白すぎます。小説に書きたくなる出会いと展開があり、映画に作りたくなるビジュアルがあります。郡司さん、小説か映画のヒロインを実演していますよ。

日本学術振興会育志賞を受賞した郡司さんは、講演を聞いた宇宙物理学者から「子供の心のままで大人になれて、幸せですね」という言葉をかけられました。この言葉に対して郡司さんは、「この先生のお言葉は、私のこれまでの人生を柔らかく包み込み、肯定してくれたような温かみがあった。これ以上嬉しい気持ちになる言葉に、私はこの先の人生で出会えるだろうか。」と書いています。

きっと出会えますよ。そしていつの日にか、郡司さんが後輩に、同じように温かいはげましの言葉をかける日が来ることを、心から願っています。