ポストフェミニズムに関するブログ

ポストフェミニズムに関する基礎文献を紹介するブログ。時々(とくに大学の授業期間中は)ポスフェミに関する話題を書き綴ったり、高橋幸の研究ノート=備忘録になったりもします。『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど :ポストフェミニズムと「女らしさ」のゆくえ』(晃洋書房、2020)、発売中。

最近の仕事(オンラインで読めるもの)

文春オンラインさんに載せていただいたジェンダーギャップ指数に関する解説記事。頑張りました。

bunshun.jp

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沖縄タイムス 2023年12月17日 記事「美の価値観 押し付けないで」

「外見」や「見た目」をめぐるさまざまな生きづらさの事例を記事として紹介されています。そのなかに高橋のコメントも掲載していただきました。とってもよいバランス&記事文章であると思います!ぜひお読みください。

とくに、高橋コメントのなかの以下の部分が重要だと、高橋本人は思っております。伝わりやすい言葉にまとめて下さった記者さん、すごいです。

「美を磨くのは自己実現の一つ。全く悪いことじゃない」。それがときに生きづらさにつながるのは、他人から「望まない形で勝手に」「画一的な序列で」評価され、押し付けられたと感じる時、と分析する。……他人の外見に何かを思ったとしても、その評価を口に出すことに対しては「ちょっと待って」とくぎを刺す。「『これは社会で美しいと決まっている』といった思い込みを、無意識のうちに他人に押し付けていないか。自分の外見をどう評価するかは、本人が決めること。他人が勝手に決めつけないで」。

→他者の外見に対する評価を口にすることができるのは、一種の権力であるという話は、かつて吉澤夏子さんがミスコン論のなかで指摘していたことでした。吉澤さんは、男性が持っている女性の外見を評価する権限のことを「アドヴァンテージ」と呼び、これもまた男女不平等をもたらす権力構造を成すものになっていると論じていました。

この話、すごく重要なんだよなとずっと思っていました。

今回、吉澤さんのこの議論を応用する形でルッキズムの何が問題なのかを一歩明瞭に言えたことは、良かったなと思いました。すなわち、他者の外見について何かを感じたり思ったりすることと、それを口に出すこととを区別した上で、「口に出すこと」、「相手に言うこと」に関して立ち止まって考えてみようよという形のコメントをできたことはけっこう良かったなと個人的には思っています。

・もう少し踏み込んでいうならば、私個人としましては、親が子どもに「あんたはちょっとぽっちゃりさんだよね」とか、「あんたはあの子より、顔の造形は良くはないわね」とか言うのも、問題なのではないかと思っています。身体は自己愛の基盤です。身体に対する評価(外見評価)は深刻な傷つきをもたらします。その身体をどう評価するかの権限は本人にあるのであって、たとえ親密な人でも(親密だからこそ)容易にそこに踏み込んではいけないように思います。外見に対する評価(感じ方)を本人に伝えることに対してはもっと慎重になるべきなのでは、という提言です。 

沖縄タイムス「美の価値観 押し付けないで」2023年12月17日記事.pdf - Google ドライブ

 

読売新聞 夕刊 2022年9月6日記事「大学ミスコン 脱「見た目」」

山口優夢記者によるバランスの良いすばらしい記事です。これを読めばミスコンのいまが分かります! 私はコメントでちょっとだけ登場しています。

9月6日夕刊・ミスコン記事.jpg - Google ドライブ

 

慶應新聞 「ミスコンを問う」 

慶應塾生新聞会の山下和奏記者に取材していただきました。私がこれまでミスコンについて書いてきた論点がギュッとまとまった、すばらしい記事ですので、ぜひご覧ください。

www.jukushin.com

www.jukushin.com

 

『DRESS』さんに掲載していただいた、インタビュー記事、2本立てです。ライターの福田フクスケさんにインタビューしていただき、記事の構成もしていただきました。すばらしい構成力ですので、その点もぜひご堪能ください。
「『東ラブ』赤名リカはなぜ支持された? 大ヒットドラマで読み解く恋愛観の歴史」  2022年4月20日  
「『逃げ恥』に見る“男らしさ”の変化とは? ヒットコンテンツで読み解く恋愛観の歴史」2022年4月27日  
 
「「アイドル・フェミニズム」新論1 ハロプロもAKBも地下ドルも…アイドルとフェミニズムは矛盾しない! “主体的”なアイドルであることの尊さ」(インタビュー記事) 後編もあります。 
 
上智大が性別規定廃止 ミスコンはどこへ行く」, 高橋幸, 2020, 『文藝春秋オピニオン2021年の論点100』, pp.160-161.

 

「現代のミスコン/ミスターコンを、「ジェンダー論」の専門家はどう考えるか: ルッキズムって、結局何ですか?」, 高橋幸, 2020, 
『現代ビジネス』( https://gendai.ismedia.jp/articles/-/74818 ) 

gendai.ismedia.jp

 

 『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど』著者・高橋幸氏インタビュー #1 女の子が“モテ”を連呼した2000年代 「エビちゃんブーム」には何が託されていたのか(インタビュー記事) , 高橋幸, 2020, 『文春オンライン』

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フェミニズム離れ」する若い女子が抱いている違和感の正体
ハッシュタグ運動から見えること. 高橋幸, 2019, 『現代ビジネス』

gendai.ismedia.jp

 

その他、リサーチマップ( 高橋 幸 (Yuki Takahashi) - 論文 - researchmap )からいくつかの論文はダウンロードできます。

口頭発表資料( 高橋 幸 (Yuki Takahashi) - 講演・口頭発表等 - researchmap )は、パワポスライドなので、分かりやすい人には分かりやすいかもです。

 

 

被災経験の共同記憶化に関する一考察:『東北通信』No.1(高橋幸)

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石巻に来て1年。住みながら色々見聞きしたことをもとに、つれづれなるままに書き留めてみようかなと思って書き始めます、東北通信。個人プロジェクトです(所属等とは関係ありません)。

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東日本大震災の「被災地」である沿岸の各地域ではしっかりした震災遺構や伝承館もできあがり、日々、圏域内外の人々を集めている。

その展示物で今回の東日本大震災津波がどう語られているのかを見てみると、明治29年の明治三陸津波昭和8年の昭和三陸津波昭和35年チリ地震津波との連続性のなかに今回の大津波を位置づけて提示するものが多い。つまり、「円環的な時間」観のもと、「ずいぶん前からずっと繰り返されてきた津波が今回もまたやってきたのだ」という歴史的な位置づけを与えながら、死者・行方不明者2万2318名(12都道府県、震災関連死も含む、令和5年現在)を出した今回の津波被害を解説するという語りである。

このような語り方は、おそらく地元住民にとって納得のいくものであり、重要な視点だと感じられたのだろうと思う。そして、それは第一に重要なことだと思う。理不尽な暴力であるところの地震津波災害の被害を受けた当事者(おもに地元住民)が、ひどい暴力を受けてしまったということに対してどう折り合いをつけていけるのか、その事実をどう自分なりに理解したうえで、前を向いて生きていけるのか(生き延びていくことができるか)という点が、何よりもまず、しっかり考えるべき重要な点だと思うので、ここにこだわりたいのだが、住民の方々を支えた共有理解の仕方が、この被災地の展示物に表れている円環的な時間観のもとで今回の津波も捉えるというあり方だったのだろうと私は思っている(語り部の方のお話を聞いたり、地元の色々な方のお話を聞いたりした限りでであり、体系的に調査とかをしたわけではないのだけれど)。

たしかに、「津波はこれまでも来ていたし、これからもまたきっと、必ず来る。その時のために、将来世代のために、今回のことを教訓にしよう」という、過去から未来につながる、繰り返されるであろう津波という捉え方をすることで、将来世代のためにという形での連帯も成立する。

被害に対するやり場のない怒りや無念さを昇華し、将来世代のためにという思いで連帯して、コミュニティの結束をもう一度作り直していく。そのとき、この円環的時間観のもとで津波を捉えることは、よい共有理解の形だったのだと思う。

・繰り返されてきた津波被害という歴史を新たに思い出し、その地に蓄積されてきた人々の思いと、この地で生きていく知恵や術を掘り起こし、共同体が培ってきた習俗を掘り起こすことにつながり、そのようなエネルギーや活動そのものが、新たに共同体を復興させ、レジリエンスの高い共同体を作り直していく力になっているということ(例えば、気仙沼の「椿の会」の活動)も、注目すべき重要なことであるように思う。

 

そのようなことはよく理解した上でなのだが、東日本大震災をこのような円環的時間の中に位置づけて理解してしまうことの問題もあるような気がしてきている。

その問題の一つは、このような捉え方のもとでは、「2011年に起こった東日本大震災の被害がここまで甚大になったのは、20世紀後半から21世紀初頭にかけての産業構造が要求した国土開発のあり方、自然と社会のあり方がある」という点が見落とされがちになってしまう点にある。

円環的時間のもとでは、暗黙の裡に「同じ」自然現象が繰り返し起こると捉えてしまう。しかし、私たちの社会と自然との関係のあり方は、明治、昭和の頃とは全く違っており、災害の質も規模も全くもって異なっている。いま考える必要があるのは、社会から切り離して自然を考えるのではなく、20世紀後半の高度経済成長期とその後の社会と自然のあり方をその二元論を越えて考えていけるような思想である。現状だと、二次的自然に関しても、一時的自然を語る時に用いられてきた文体や論理で語ってしまっている感があって、大変もやもやする。

被災経験を、SDGsカーボンニュートラルや海水面上昇問題などのグローバル目標(指標)と結びつけていくことで、震災・津波被災地は独自の立場を打ち出せる潜在力を持っているが、現状では、その可能性はあまり生かされていないように見える。二次的自然と人間と動物と植生との関係を語る思想のことを、さしあたり私は人新世の社会学と呼んでいるのだが、そのような人新世という枠組みで考えていくのが重要なのではないかなと思っています。*1

 

東日本大震災をこのような円環的時間の中に位置づけて理解してしまうことの問題の二つ目は(うーん、問題というか、なんかとても気持ち悪いなと思っているだけとも言えるのですが)、円環的時間観のもとで津波という自然災害を捉えるまなざしが、「自然と密接な関係を築きながら、その地でたくましく生きてきた東北の人々」という、中央(東京)との対比で「東北」を捉えるまなざしと奇妙に共鳴してしまっている点です。見田宗介は、近代の時間観が「直線的」であるとし、それに対して前近代は円環的な時間の中を生きていたと論じた。

東北に住む人だけでなく、外部から来た訪問者にとっても、東北という土地を襲った震災被害を捉えるときに「円環的な時間観(津波はかつても来ていたし、これからもくる)」という語りが納得しやすいものとしてあるのだとすれば、それは東北がより「自然」的で、前近代的な時空間の中にあるという発想と合致し、相性が良いからだろう。

つまり、「東北」と言い、そこに何か独特の特徴を見出そうとするときのまなざしが、東京中心主義的。私の肌感覚では、実は東北に住んでいる人も、東北について語る時には、この東京中心主義的な枠組みを内面化して語ることが多い。

 

しかし、実際の東北の現状に即した語りが必要だし、見いだしたいと個人的には思っている。例えば、現在の東北地方の産業構造や、被災後にどんな新しい取り組みがなされているのかなど、東北の「現在」の最前線をきちんと踏まえて「東北」を議論すべきだと思っています。我が同志の左翼知識人たちは、震災後の新しい取り組みを「ショックドクトリン」(ナオミ・クライン)だと批判し去ることで安心していてはだめなのですよ、と思う。

・『「辺境」からはじまる―東京/東北論』(赤坂憲雄小熊英二・山下祐介・佐藤彰彦・本多創史・仁平典宏・大堀研・小山田和代・茅野恒秀・山内明美 、2012)を読んで違和感を持ったので、上記のような思いをさらに強くしました。「植民地化されてきた東北」という「社会学の常識」になった語り口はどこまで有効なのかについては、真摯に真剣に考えた方がいいと思う。労働力を、女郎を、米を、そして電力を、「中央」に供給してきた抑圧された東北という捉え方の延長線上で、現在の東北(のそれぞれの地域)の現状が捉えられるのかどうかには大いに疑問。

例えば、東北がコメの供給地帯となってきたことは確かだが、それは明治から昭和期における米価の大暴落による困窮・貧困化に抵抗する手段を、東北地方が持ちえなかったという経済構造の問題なのであって、それを「東京による植民地化」であり、「原発」もまたその支配形態の継続だというふうにイデオロギー的に言ったところで、何も分かったことにはならないよなぁというかんじがしています。(上記本の人たち全員が、そういうイデオロギーを言っているということではないのですが、上記本の全体としての議論の立て付け(枠組み)がそういう構造になっているように読めて、うーんじゃっかん古い・・・?と思ったという次第です。)

 

まとめ

おもに伝承館の掲示物における「この土地は、江戸や明治期からずっと変わらぬ津波被害を受け、それに対処しながらたくましく生活を築いてきました」というような表象が、二次的自然(人新世の自然)を無視してロマンティックな自然表象になっていることに違和感があり、さらにそれが「中央」との対比で「東北」を捉えるさいのまなざしと奇妙に共鳴してしまっている点が、少し気持ち悪いような気がしているという話でした。

昭和の三陸津波との比較で今回の津波を捉えるならば、

●「石巻工業港」が整備されてあったことで、今回の津波被害は前回とはどう異なったのか。

●「明治の大開発」の失敗事例として放置されてきた野蒜(のびる)海岸の沿岸部は3.11で凄惨な被害を受けたところですが(そして、震災後、皇后陛下が「のびる」について和歌も詠んでいます)、このような社会的・国家的な力の痕跡についての歴史をたどりながら、津波について考える、というようなアプローチがあってもいいのではないかと思ったりしています。

 

言ってしまった以上、この方向で色々考え、調べ、引き続き、色々なところに勉強させていただきに行こうと思っています。2年目も頑張ろう。

 

最後になってしまって恐縮ですが、

気仙沼のリアス・アーク美術館と、石巻市震災遺構門脇小学校に併設のミュージアムの展示は、まじですごいので、ぜひ一度見に来て下さい。

現代アートや「アートとコミュニティ」に関心がある人にもおすすめです。

*1:女川原子力発電所が3.11でも安全にコントロールされたこともあって、石巻というこの土地に住んでいると、原発に関しては「with原発」であり、どのようにして原発と共存していくかという問いの立て方が、最も適切な感じがしている。原発立地給付金が毎年各家庭に配られ、女川原発PRセンター発行の広報紙が毎月、家のポストに投函され、「●●検査をしましたが、異常はありませんでした」という内容と、原発で働く人たちのインタビューとか、原発子育て支援政策などが届く。原発事故時の広域避難経路確保のために作った大きな橋が完成しましたというようなことも大々的に報告される。

石巻圏におけるwith原発的な現状についても、そのうち踏み込んで考えてみたい。

「アイポリだからダメ」という批判は底が浅すぎるのでは、という話—ネグリ&ハート『アセンブリ』第4章のポピュリズムに関する議論の検討から

ytakahashi0505.hatenablog.com

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上記の続きですが、このエントリー単独でも読めます。

引き続き、読んでいる本はこれです。

アセンブリ 新たな民主主義の編成

階級闘争かアイポリか」から「再分配か承認か」へ(フレイザー&ホネット)
左翼運動は19世紀後半から20世紀前半にかけての階級闘争(労働運動)から、20世紀後半のアイデンティティ・ポリティクスへと整理されることが多いです。それまでは労働者階級がその階級的連帯に基づいて労働運動を行ってきたが、20世紀後半には反人種差別運動、民族解放(民族自決)運動、フェミニズム、性的マイノリティ解放運動などのアイデンティティに基づき、その差別的状況に異議申し立てをする「新しい社会運動」が広がったというまとめ方です((ただし、この1969年からの「新しい社会運動」にはエコロジー運動や反グローバリズム・反資本主義運動などもあるので、アイデンティティに基づいた運動だけになったというわけではないのですが))。。
この階級闘争からアイポリへという定式化は、フレイザーとホネットの『再配分か承認か?』 (叢書ウニベルシタス, 2012)論争などでも基本的な理解として共有されています。ホネットが「承認」をめぐる闘争の重要性を主張し、フレイザーは「承認だけでなく再分配も重要」と主張した論争です。「論争」とはされていますが、結局のところ両者ともに「相手の話はまぁ納得はできるよね」という地点にたどり着いているように見えます。したがって、この論争(および本)は、フランクフルト学派の系譜に位置する二人が協働で批評理論の現代的有効性を指し示したものだと、私は思っています。
ちなみに、フレイザーは「現在時点での落としどころ」を見つけるのがうまい理論家です。ジュディス・バトラーとベンハビブの論争(これはどこまで行っても平行線をたどって両者が分かり合うことがなかった論争でした)でも、フレイザーは両者の論点をくみ取った、現実的な良い整理をしています。

Feminist Contentions: A Philosophical Exchange (English Edition)

それはさておき。

まとめると、フレイザーとホネットの『再分配か承認か』とは「階級闘争からアイポリへ」という教科書的整理を再考して、「財(雇用、経済力)」と「社会的承認(権威、名誉、社会的に下位化されないこと)」の二変数で運動のあり方を整理する図式を提示したの議論だったと言えます。
アイデンティティと結びついた所有
さて、このような既存の議論の文脈を踏まえた上で、ネグリ&ハートを見てみましょう。かれらは主に欧米の右派ポピュリズム(白人労働者による排外主義的・ナショナリズム的・人種差別的ポピュリズムのこと)を分析しながら、右派ポピュリズムにはアイデンティティと結びついた所有というあり方」があると指摘しています。すなわち、白人というアイデンティティに依拠して財(雇用、経済力、富)や社会的承認(権威、名誉)を要求するのが右派ポピュリズムだという議論です。
「(右翼)ポピュリズムアイデンティティへの愛(私たちの見るところ、政治的愛のおぞましくも破壊的な形態)に根ざしているのは紛れもない真実だが、アイデンティティの背後には所有権が潜んでいるのだ」(p.82)
アイデンティティは所有権への特権的な権利とアクセスを提供するものである」(p.83)
「この難題(右翼ポピュリズムとは何かという問題)を解きほぐすための一つの方法は、右翼ポピュリズムにとって本質的な所有(所有財産・所有権)という線を辿ることであるが、その線全体に人種的アイデンティティが染み込んでいる」(p.82)
このように、ネグリ&ハートはアイポリというのは「アイデンティティに依拠した正当な所有の権利」を要求するものであり、アイデンティティと所有とが密接に結びついている運動なのだよ、ということを指摘しています。これまで、「経済問題(階級闘争)か承認の問題(アイポリ)か」—さらに言えば、これは下部構造か上部構造かの二分法の発想に基づいているわけですが—という形で議論されてきた文脈に対して、「いや、アイポリというのは、アイデンティティに結び付いた所有の問題なのだよ」という指摘をしています。これは新鮮ですし、重要です。
上記の引用箇所前後でのネグリ&ハートの主要内容というのは、白人というアイデンティティに基づいた右派ポピュリズムは、そのアイデンティティを根拠にして財(所有)や承認のより多くの分配を要求するものだが、それを社会的正義と捉えることはできないというものであす。もう一歩、言うならば、ネグリ&ハートの主張は、そもそも私的所有(という財の分配)を求める運動自体を克服する必要があり、「社会的所有による平等な安心の確保(生活基盤の確保)」という方向へと社会制度を変えていく運動を目指そうよ、というものです。
 
これらは基本的にけっこう納得できる話だと思います。少なくとも私は納得しています。このような議論を受けて、ここでさらに考えてみたいのは、フェミニズムや反人種差別運動もまた、ある意味では「アイデンティティを根拠にして財(所有)や承認のより多くの分配を要求するもの」だったのではないか?ということです。
もちろん、フェミニズムや反レイシズム運動の主眼は、アイデンティティの正当な社会的承認を回復することです(だから、具体的には、女性が社会的に表象されるときには何かと性的なものと結びつけられがちという社会的な意味の秩序のあり方や、「性的存在としての女性」が下位化されがちな文化的コードのあり方を「性差別」として批判し、それを通した女性解放運動をしてきました)。ただし、同時にリベラルフェミニズムを中心として、リベラリズムの原則に基づきながら、属性(アイデンティティ)に結びついて成り立ってきた財の分配の不平等性を告発をしてきたのも事実です。現在だと、女性管理職率や女性国会議員割合の低さ、女性大統領率の低さを「性差別」として社会問題化するジェンダーギャップ指数的発想がその典型例です。
その意味で、近代の間ずっとアイデンティティはある財へのアクセスへの正当な権限を成立させる論理として機能してきていたといえます。
 
だから、右派ポピュリズムの問題点を批判しようとするときに、「アイデンティティに依拠して財への正当なアクセスを要求する」という論理自体を批判するのは、有効ではありません。左翼運動も含めた階級闘争、アイポリの社会運動がこの論理で動いてきたので、単純に言って、これを批判すると現在の左翼運動も不可能になります。
・右派ポピュリズムの批判すべき点は、アイデンティティに結び付いている財という原理に基づいた相対的剥奪感によるポピュリズム運動が展開されており、排外主義やナショナリズム、自民族中心主義を動員し、そこからエネルギーを得て運動を展開しているところです。
 
財の公正な分配を社会的正義とするリベラリズムの原則の下では、アイデンティティが所有と結びついて「正義」を主張し、正義を求める社会運動はアイデンティティポリティクスになるという論理があります。だからこそ、リベラリズムの原則が右派左派問わず受け入れられている現在、アイデンティティポリティクスが隆盛を誇っているのであります((・エコロジー運動は本来、アイポリにはならないはずですが、グレタの下に「若者」が集って、学校ボイコットをするなどの活動をしており、将来を担っていく「若者」というアイデンティティに基づいた運動の形をとって盛り上がりました。このようなあたりからも、やはりアイポリは現在のポピュリズム的な社会運動の主流形式であると言えるように思います。そして、個人的には、これからもまだまだ、あと30~40年くらいの間は、アイポリが主流になって多くの社会運動が展開されるのではないかと思います。))。
 
ということで、右派ポピュリズム成立後の、#MeToo的な左派ポピュリズムも含めた現在の社会運動の状況を冷静にこのように捉えるならば、まずは「財の分配」をも求める運動(かつて階級闘争とよばれたもの)をも含むより包摂的な概念」として「アイデンティティ・ポリティクス」を考え直す作業が現在の喫緊の課題なのではないでしょうか。
・私がここで勝手に言い始めている「包摂的なアイポリ」は、おそらく最終的には、ほぼネグリ&ハートの言う「マルチチュード」と同じようなものになると思うのですが。
 
ちなみに、ポストモダン思想を潜り抜けた左翼知識人の中には、「アイポリだからダメ」というお題目をくりかえして思考停止している人が多数います。なぜ「アイポリはダメ」なのかというと、だいたい理由は2つくらいで、第一に、「アイデンティティ」とは社会的構築にすぎず、形而上学的実体であり、唯物論的立場を取る(べき)左派論者としては、「アイデンティティ」なるものを議論の基盤として取り入れるわけにはいかないから。
第二に、アイポリをする集団は、集団内部に対して同質化・均質化圧力をかけがちだから、です。(集団内部への均質化圧力の反動として「集団外部に対してむやみに強固な敵対性の態度を強めがち」というのも、私個人としては大きな問題だと思うのですが、既存の左翼運動の理論ではその点は、あまり問題視されていないようです。ラディカルデモクラシーが「敵対性」を戦略として重視してきたという文脈なども関係しているのかもしれません)。
(・この理由の議論のところ、出典引けよ!って感じですが、すいません、また今度。いまは急ぎなので……。)
 
しかし、まず、第一の点に対する反論ですが、
アイデンティティは「形而上学的実体である」とか「虚構である」とか言って済ませられる人というのは、その人がマジョリティで、アイデンティティに関する痛みを抱えずに済んだからなのではという気がします。
アイデンティティというか社会的属性(アトリビュート)といった方がいいかもしれませんが、その属性をもって生まれてきてしまったがために、その属性を自らの「アイデンティティ」として引き受けた上で生きてこざるを得なかった人にとって、アイデンティティは「虚構」などではありえません。一歩ゆずって「虚構」なのだとしても、それは痛みを伴い、苦悩をもたらし、人を死に追いやるような現実的な力です。今のところ私は、そのような「私が私であることを認めてもらえない傷つきの感覚から成る、自分が守るべき何か」を「アイデンティティ」と呼ぶ以外に言葉が見つかりません。
アイデンティティ・ポリティクスといった時の「アイデンティティ」とはこの意味で考え直す余地があるのではないかというのが、私(=高橋)の立場です。
 
つぎに、第二の点に対する反論で、これは上記のような「アイデンティティ」理解を踏まえた話になります。ここで私が言っている「アイデンティティ」というのは、原理的には、個人ごとに異なるようなもの(ゲオルク・ジンメルの言う「個性的法則」のようなもの)です。これは、女性という社会的カテゴリーでくくられる人たちと共有できる「部分」を持ちますが、全面的に理解し合えるわけではありません。さしあたり「女性」属性で連帯できる人とも、違いはいくつもあるからです。同様にして、現在さしあたり「集団外部」の人と私からは見えている人とも、共感でき連帯できる「断片」があるかもしれません。その人とじっくり話してみることで、連帯できる部分は明日にでも見つかる可能性があります。
アイデンティティ」および「アイデンティティに基づく連帯」をこのようなものとして理解するならば、アイデンティティに基づく政治は、集団内部への均質化要求や集団外部への排他的敵対性という形を取りえない。
このように、真に個別的なアイデンティティ——それは個人単位のこともあるし、集団単位で形成される「アイデンティティ」であることもあるが——という考え方を取る場合、あんいに「アイポリだから良くない」とは言えないということになります。
 
MeTooというのは、この痛みによってつながった運動だったというところが重要です。それはバトラーの言うヴァルネラビリティに基づいた連帯でした。バトラーは、痛みうる有機的身体を持ち、かつ根源的なよるべなさ(生まれたときに他者のケアを受けなければ生存できないこと)を抱えた社会的動物である人間が持つ、存在条件としてのヴァルネラビリティこそが倫理が立ち上がる場であると論じていました。
性暴力という存在に対する暴力に対する痛みで連帯して作り出されたのが#MeTooだった。
だから、#MeTooをアイポリだから良くないとし、それ以上考えずにすませてしまうような議論は底が浅いし、もったいないのでは、と思います。
 

ドゥルーズ=ガタリは「欲望」をどのように理論化しているのか——欠如モデルとは異なる欲望機械モデル

「欲望の欠如モデル」ではなく「欲望機械モデル」へ

ドゥルーズ=ガタリが『アンチ・オイディプス』で提示した欲望のモデルは、「欠如によって駆動される欲望」ではなく、欲望機械の作動として欲望を捉えるものである。この点がとくに重要だと思っているので、この点だけまとめます。読んでいくテキストは『アンチ・オイディプス上・下』(河出文庫, 2006)です。

アンチ・オイディプス(上)資本主義と分裂症 (河出文庫)

アンチ・オイディプス(下)資本主義と分裂症 (河出文庫)

欠如によって駆動される欲望のことをドゥルーズ=ガタリは、レヴィナスに倣って「欲求(besoin, ブゾワン)」と呼ぶ。このような欲求は、「欠如している欲求の対象」を「幻想」として思い描いた上で、それを欲するという形を取るものであり、このような欲求は幻想と現実の二元論を生み出すものである。

・例えば、ラカンジジェクは、人は到達できない幻想(対象a、完全な満足、享楽など)を追い求める欲望に駆動され続ける存在だとする。これが欲望の欠如モデルである。

それに対して、ドゥルーズ=ガタリは、欲望機械の作動として欲望を捉えようとする。

なぜそうするのかというと、それによって「幻想/現実」という観念論的二元論ではないマテリアリズム一元論で欲望を捉える視点を切り拓くことができるからである。

「欲望の生産性は、欲求という基礎のうえに、欲求が対象を欠いているという関係の上に成立し続けることになる(支えの理論)。要するに、ひとが欲望的生産を幻想の生産に還元するとき、彼は観念論的原理からあらゆる帰結を引き出すことで満足していることになる。この原理は欲望を欠如として定義するだけで、生産として「産業的な」生産として定義しない。」(上, p.57)

では、欲望機械とは何なのでしょうか?

欲望機械とは、生産の働きを接続していく根源的な生産のことであると定義されています。

「たえず生産の働きを生産し、この生産の働きを生産物に接木してゆくという規則こそが、欲望機械、あるいは根源的な生産の特性なのである」(上, p.25)

「欲望することはすなわち生産すること、現実に生産すること」(上, p.59)

「欲望的生産とは、欲望の諸機械のことであるが、これらの諸機械は、構造にも人物にも還元されえないものであり、象徴界想像界も越えて、あるいはそれらの下に、<現実的なもの>そのものを構成するのである」(上, p.102)

そして、この欲望機械は幻想を生産するのではなく、現実を生産するのだというのがかれらの主張です。

「一方に現実の社会的生産、他方に幻想の欲望的生産があるわけではない」(上, p.61)

欲望の生産は現実の生産であり社会的生産であるというのが、ドゥルーズ=ガタリの主張です。かれらはフロイトマルクスを対立させるのではなく両立させることによってはじめて「唯物論精神分析」が確立すると述べており、それを目指していた。そのために、このような機械としての欲望(社会的生産としての欲望生産)のあり方を考えていたということができる。

フロイトマルクスを対立させる必要はないのだ」(上, p.61)

唯物論的精神医学を真に打ち立てるには「欲望的生産」というカテゴリーが欠けていた」(上, p.63)

欠如の欲望モデルはエディプス的欲望、欲望機械の作動としての欲望は政治経済的リビドー

このような「唯物論精神分析」とかれらが呼ぶマテリアル一元論的な欲望論を基盤にしながらドゥルーズ=ガタリが論じるのは、欲望とはエディプス的欲望に還元されるようなものではなく、欲望とはまずもって政治経済的なリビドーであるということ。これが本書タイトル『アンチ・オイディプス』の意味です。

・私はこの考え方はけっこうしっくりきています。リビドーを私たちを動かす原動力のようなものとして捉える場合、それは性的な欲求というよりも、もう少し政治経済的なものであるような気がする。自己肯定感を挙げたいとか、生存が脅かされないような安心できる居場所・収入(社会的地位)を確保したいとか、皆に好かれたいとか注目を集めたいとかすごいと言われたいなどの承認欲求など。性的な欲求を基本原理としてあらゆる欲求を説明することの方がムリがあるし、エディプスコンプレックスは昔から全然ぴんと来ない(自分のセクシュアリティや欲望を説明できていると思えない)と常々思っていたので、欲望とは政治経済的なリビドーであるという定式化は普通に納得できる話だなと思っています。

ドゥルーズ=ガタリにおいては、性愛的欲望もまた政治経済的なリビドーの一つとして捉えられる、という論理関係になっています。

あらゆる性的現象が経済的事柄でもあることは、全く真実なのだ」(上, p.32)

「性愛は、別の「経済」や別の「政治」を示しているのではなく、政治経済そのもののリビドー的無意識を示している。欲望機械のエネルギーであるリビドーは、階級や人種などのあらゆる社会的差異を性的なものとして備給する。それは無意識における性的差異の壁を保証しようとする、あるいは逆にこの壁を爆破し、非人間的な性においてこの壁を廃棄してしまおうとする。」(下, p.344)

そして、このような欲望機械は(幻想ではなく)現実を生産するプロセスであり、したがって「欲望の生産」は「社会的生産」でもある。

欲望が何かを生産するとすれば、それは現実を生産するのだ。……欲望はこうした諸々の受動的総合の総体であり、これが部分対象を、またもろもろの流れと身体を、機械として組織し、みずから生産の単位として作動する。現実的なものは欲望から生ずるのであって、それは無意識の自己生産にほかならない欲望の受動的総合の結果である。欲望には何も欠けていないし、対象も欠けていない。……欲望とその対象とは一体をなし、それは機械の機械として、機械をなしている(上, p.58)

*「欲望の生産」は「社会的生産」であるという話は、ネグリ&ハートの『アセンブリ』での「社会的生産」の議論を考える時に重要になってくる点です。ネグリ&ハートが「社会的生産に基づいた社会的所有(コモン)を!」と主張するとき、ドゥルーズ=ガタリの「社会的生産」の意味で、この語を用いているので。

ということで、結局のところ唯物論精神分析が目指してりうのは、こういう分析。

「これはイデオロギーの問題ではない。……個人であれ、集団であれ、何らかの主体が明らかに自身の階級的利害に反して行動し、あるいは自分たち自身の客観的状況からすれば当然対決すべき階級の利益や理想に逆に同調するとき、彼らはだまされた、大衆は騙された、というだけでは十分な説明にはならない。それは、誤解とか錯覚と言ったイデオロギー的問題ではなく、欲望の問題である。そして欲望は下部構造の一部なのである。……無意識的備給は、欲望の立場、総合の使用法にしたがって行われ、これらは個人的であれ、集団的であれ、欲望する主体の利害とは、全く異なったものである。」(上, p.201)

「欲望の問題は「それが何を意味しているのか」ではなくて、それがどのように作動しているかである。」(上, p.209)

まとめ

ドゥルーズ=ガタリの欲望論とは、欲望を欠如によって駆動されるようなものとしてではなく、政治経済的リビドーからなる欲望機械として捉えたところに、大きな特徴があります。かれらは、それこそがエディプス的欲望理解を越えた政治経済的欲望(ファシズムとかポピュリズムとか)を分析できる唯物論精神分析をもたらすと考えていたのだとまとめることができます。

以前、Xでこのように呟いていたので、とりあえず何が分かったのかをまとめてみました。

(上記掲載のページ数は以下の本のものです。)

 

 

<コモン>は近代の「所有」概念をどう組み替えるのか——『アセンブリ』第2部「社会的生産」の骨子まとめ

ytakahashi0505.hatenablog.com

からの続きですが、本記事だけ読むこともできます。読んでいる本はこれです。

アセンブリ 新たな民主主義の編成

個人単位の私的所有から社会的所有へ

<コモン>とは社会的富の共同統治を目的とするものである。したがって、<コモン>の議論は、個人が持っているものを(所有権という概念のもとに守られてきたもの)を放棄して他者と分かち合おうとか、個人の労働による成果物を他者に譲ろうというようなことを提唱しているものではない。

<コモン>の思想は、所有権使用権意思決定権を分けて考えていく発想を持っており、いずれの権利においても、それらを一人の人が握る「排除的性格」を取り除き、共同計画、共同決定、共同統治を目指すところにその特徴があります。この共同性は民主性とほぼ言い換え可能なものと考えられているようです。

コモンの定義が良くまとまっているところを抜粋しておくと、

「平等で開かれた富の共有様式を確立し、社会的富へのアクセス、その使用、管理運営、分配について共同で民主的に決定する権利を設立する」こと(p.141)

「コモンとはすなわち、地球の富や社会的富といった、私たちが分かち合い、その使用を共同で管理運営するもののことである。」(p.5)

「コモンの権利とは、民主的な意志決定手続きによる、富への開かれた平等なアクセス権のことだ」(p.124)

と説明されています。

「社会的富」とは?

冒頭で、コモンとは社会的富の共同統治なのだとまとめました。では、社会的富とは?

かれらによれば社会的富として、第一に「地球とその生態系」がある。これは「私たちが全員その損傷と破壊によって影響を受ける」という点で「避けがたく<コモン>である。」「私的所有あるいは国益の論理がそれらを保護すると信じることはできない」その代わりに、「集団決定を集団で行うような仕方」が必要である。(p.141)

第二に、「アイディア、コード、イメージ、文化的生産物のような非物質的な富の諸形態」がある(知識資本主義とかコミュニケーション資本主義とかコード資本主義とかが着目しているもの)。」これらは、所有諸関係によって課される「排除」(所有権が一人の人に握られ他の人のあらゆる権限が排除されていること)に「激しく抵抗」するものであり、コモンとして考えた方が良い。(p.141)

第三に、上記の非物質的な富に限らない、多様な協同的な社会的労働によって生産されるもので、都市計画や福祉・健康・教育・住宅等の社会的サービスなど。これも、計画の決定自体が可能な限り民主的になされるべきだし、「全員の利益のために用いられ、民主的意志決定に従うように変革されなければならない」(p.141-142)。

なるほどと思いました。最近の左翼が言う新しいコミュニズムというのは、基本個人的な所有権で成り立っている近代社会の制度と秩序を維持しつつ、こうやって部分的に社会的共有の領域を指し示し、その管理・統治方法を変えることで、社会的領域を広げていくということなのだと考えられます。現実的であり、けっこう良い方法だと思います。

 

また、ネグリ&ハートは、コモンの原則の浸透による私的所有の制限こそが、人間の根源的な可傷性(よるべなさ)という存在様態を踏まえた、真の安全性(セキュリティ)を確立する方法だとしています。そもそも個人を単位とする私的所有の原理では労働契約の不安定性や福祉削減によって生活をおびやかされるという「不安定性(プレカリティ)」の問題するのが難しい。既存左翼は再度、福祉の拡充を、生活保障を、社会権の保証をということを主張してきたけど、冷戦下ならまだしも社会主義国家が崩壊して資本主義の勝利となったこの世界でそれは、現実的な解ではない。そこで、ネグリ&ハートが提起しているのが、そもそもコモンによる富の共同管理・共同統治という形で、人々の生を守っていくという制度なのでは、ということ。 

バトラーは、プレカリアス(不安定)な生は、可傷性(vulnerability)を抱えているが、この可傷性こそが社会的紐帯(連帯)の基礎になりうるのだと、自身の著書『アセンブリ』で述べていました。「私たちの誰もが可傷的存在である」とは、私たちの誰もが根源的な依存なしには生きられない存在であるということです。幼児期や老後に他者からのケアを必要としているだけでなく、成人期にも他者から気にかけてもらい、人間らしい扱いを受けることを、私たちは必要としています。そのような人間の可傷性や不安定性を踏まえた「真の安全性と繁栄を与えうる社会的諸制度」は、「コモンの諸制度」として構築される必要があるのだ(p.149)というのが、彼らの主張になっています。

で、具体的にこの構想をどう社会に実装し、具体的にどういう制度を推進していくかは、われわれに託されています。(日本の現状で何ができるかについては、これから色々ともに考えていきましょう。)

コモンの思想の有効性・意義

私個人としては、「国家による規制=強制(不自由)であり、私的所有の支配=自由」(p.149)という古典的自由主義の発想とは異なる形で「自由」を理論的に基礎づけながら考えていくことのできる思想に、<コモン>はなりうると思ったので、この議論が重要だなと思っています。

真の安全性(セキュリティ)が社会的生活や繁栄、人々の幸福の基礎条件だという話は、普通のことですが、とても重要。日本に生きていると、さしあたり水が確保できないかもとか、空気がなくなるかもといったことは、一般的には「不安」にすら思わずにすんでいます。さらに言えば、ここまで資本主義が広がり、おカネなしに生活できる人がほとんど存在しなくなっているこの社会においては、経済力や雇用に関しても日本における「水」や「空気」と同等レベルの基礎的安心を確保できるべきなのではないだろうか? むしろそうなっていないことの方がおかしいのでは、というようなことを思いました。ユニバーサルベーシックインカムの実現は、基本的なこととして必要ですよね。

まとめ

ネグリ&ハートの本書でのスタンスを一言で言うなら、現代の金融資本主義や新自由主義の仕組みを理解し、それを乗っ取る形で、社会主義的理想を実現していこうというもの。この方向性は思想としても実践としても可能性があると、私は思います。

「私的所有こそが安全性や生活必需品へのアクセスを阻む、主要な障害を成すものなのである。……協働による生産を通じた孤立からの脱出であり、平等で連帯した社会的実存なのである」(p.62)

・ただし、ここでポイントになってくるのは、基本的に「協働はめんどくさい」ということです。個人の所有権の範囲で好き勝手にできる方が楽なのであって、他者と調整しながら協働するのは、感情労働だし、疲れるし、めんどくさい。だから、協働のための活動にもきちんと報酬(分かりやすく明瞭な金銭的報酬)を付けるという制度の確立が良いと思います。具体的に、そしてあえてラディカルに言ってみると、地域の会合やタウンミーティングへの参加に時給を付け、PTA活動に時給を付けるみたいな考え方ですね。

資本主義への包摂や金銭媒介を忌避する左翼的立場を取っていると、思いつきにくい案ですが、「社会的生産」という考え方を媒介して見ると、例えばこういうことも考えることはできるな、と思った次第。協働は「社会的生産」だとするネグリ&ハートの概念はその意味でも使えるなー!と思っています。

・あと、人々は基本的には個人の私的生活内での満足に関心の中心があるけれども、人々の需要を読んでお金を稼ごうという気持ちになる時に「社会」に興味を持つ。このような社会の需要に合致したサービスやモノを提供することは、人々の欲望の形に合致した快楽(享楽)を提供することであり、それは「同じ享楽を共有するもの同士」という連帯を形成する基盤になる。例えば、温泉をコモンとして管理することで、温泉業者の協議会とはまた異なる新しい形のコミュニティが生まれる、みたいなこととかがあると思う。 

 

ネグリ&ハートの『アセンブリ』(2017=2022)まとめ—左翼たちよ「棘を抜いて傷を癒そう」

どんなテーマを扱っている本なのか

アラブの春、ポデモス(スペイン)、シリザ(ギリシャ)等々の顛末をみながら、これからの左翼運動のあり方を真剣に、最前線で、考えている本です。

ネグリ&ハートといえば『<帝国> ―—グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』(2003)や『マルチチュード ―—<帝国>時代の戦争と民主主義 』(2005)で、アイデンティティ・ポリティクスを批判し、マルチチュードの運動を提唱してきたことで有名です。実際、シングルイシューの関心を持つ有象無象の人がSNS等で情報収集して集まり、一時的に連帯して大規模デモを実現させる「マルチチュード」。この「群衆」とも「公衆」とも異なる新しい「マルチチュード」という概念は、2000年代頃からの運動を記述するのに有効であり、多くの論者によって用いられる概念となってきました。

この時期のかれらが批判していたアイポリ(アイデンティティ・ポリティクス)とは、一つのアイデンティティ固執、それを均質的なものとみなしてそれに同一化することを個々人に要求し、そのような連帯に基づいて政治的な要求をすることです。そのようなアイポリを越えて、マルチチュードの運動を!というのが、かれらの主張でした。

本書『アセンブリ』では、さらにこの”一時的な祝祭空間を作り出すマルチチュード”が(散発的な)運動体である状態を越えて、実際の日常的社会を回していけるような実効力のある組織として機能するにはどうしたらいいかという問題を考えています。

とくに、ボナパルティズムに陥らない左翼的指導者とはどのようなものかという問題、言い換えると、権力奪取後も、民主的であり続けられるような組織はいかにして可能なのかという問題が扱われています。

これまで「マルチチュード」は「リーダーレス」な水平的・ネットワーク的組織ということが強調されてきたが、「いわゆる指導者なき(リーダーレス)運動」は、自然発生的なものでは決してなく、高度に組織されたものなのである。(p.ⅵ)
マルチチュードを集合させる「指導者」は政治的な起業家(アントレプレナー)でなければならないのだ。彼らは人々を寄せ集め、新たな社会的結合を作り出し、互いに共同しあえるように規律化する。(p.3)

左翼組織の指導者(リーダー)というのは「マルチチュードの民主的な起業家活動」(p.9)であるというのがかれらの提起です。「新自由主義で称揚されてきたアントレプレナー」とは異なる「アントレプレナーオルタナティブ」として、左翼組織指導者を捉え、その可能性を模索しています。

ネオリベ批判をする左翼は、基本「アントレプレナー(起業家)」という言葉を聞いた瞬間に、反射的に「起業家とはネオリベに取り込まれた人たち」と糾弾しがちです。その理由は、「アントレプレナー」が決断力、実力、選択、自己責任などを引き受ける現代のネオリベラルな成功者像(IT企業創業者とか)として広がったためだったりします(例えばアンジェラ・マクロビーがThe Aftermath of Feminism, 2008とかで言っています、他にも多数こういう議論をしている人がいる)。また、ニューパブリックマネージメントなどを通して、地方自治体の公的機関が果たすべきケア等の仕事が、民間NPOなどに委託され、その受注先としてNPOや社会的起業家などがあったりしたことも左翼がアントレプレナーをポジティブに捉えることを躊躇してきたことに関わっていそうです(でも、後者の文脈において、福祉を外部化する自治体を批判するのは分かるけど、そこで受注先のアントレプレナーを批判するのは論理的に言っておかしいですよね)。このような状況の中で、ネグリ&ハートが「アントレプレナー」こそが現代では重要で、これがマルチチュードを引っ張るリーダーの像なのだという方向の議論に一歩踏み出してくれたのは、とてもありがたいことだと、高橋個人は思っています。

・というのも、私の世代、私のまわり(同世代からその下の世代)には優秀な社会的起業家が多く、かれらがどんなに奮闘して頑張っており、実際社会的課題をビジネスとして解決しているかを知っているからです。社会的起業活動は、現実的に社会課題に対処し、社会を変えていく有効なやり方だと思っているので、左翼組織のリーダーをアントレプレナーとして捉えるのは、とても筋が良いと私は思います。こういうことを断言してしまうと、上の世代の左翼からイヤミを言われるだろうけど*1

議論の骨格を成す論点1——革命運動や解放運動の歴史が辿ってきた左翼組織のリーダーシップの問題 

運動のなかでリーダー的役割を果たすような知識人は何をすべきなのかと言うと、

学者は象牙の塔に閉じこもるべきだとか、理解不能な専門用語で書くべきだとか言うことではなく、…...運動の中から現れ出た、理論的知識と政治的意志決定に寄与したり、それらの価値を増大させたりしながら、共同調査のプロセスに協働的に関与すべきだ(p.30)

納得できる提言だと思いました。実際、すでに現在40代から50代の先輩社会学者で、こういう仕事の仕方をしている人はけっこういるなと思いました。例えば、アクションリサーチ(平井太郎さんが色々書いている)とかも、このような方向性の中で可能性を持つ研究方法の一つだと思います。次のようにも論じられています。

「民主的かつ水平的な社会運動」(すなわちマルチチュードのこと)は「社会的領域全体を把握して、持続的な政治プロジェクトを丹念に作り上げる力」を発展させている(p.39)。したがって、知識人や幹部が組み立てた「戦略」で運動をするといった中央集権的やり方ではなく、「運動に戦略を、指導に戦術を」(p.39)というように、従来の役割を逆転させて捉えることが重要だ。

そして、「マルチチュードの戦略的能力を発展させることに力を注ぐべき」(p.42)である。

指導者が立てた戦略で運動体を動かすのではなく、運動体を成す個々人の議論や相互作用から出てきた戦略で運動体が動いていくという方向性が重要だよね、という話で、納得*2

・今回の本書のネグリ&ハートの左翼組織論は、少しリーダー論に偏っているようです。私個人としましては、マルチチュードを形成するメンバー間の相互作用がどのように一つの「組織」への求心力として作用し、そして組織の統合を保ち続けられるのか、その可能条件やメカニズムの解明が重要な気がしています。が、そのあたりのことは「指針は示した、あとは組織論の人とか運動論の人とかに任せた!」という感じなのだろうと思います。

議論の骨格を成す論点2——公(public)の復権ではなく共(common)へ

本書『アセンブリ』の重要な点は、コモンの創出を提唱しているところです。公(パブリック)の復権ではなく、コモンという、私的所有を組み替えた新たな「社会的所有」を提唱しています。近年の新しい左翼はこのようなコモンを目指すことを「新しいコミュニズム」と言ったりしていますよね。

ネグリ&ハートによれば「コモン」とは、

「集合的な自己統治の能力の育成と発達」(p.ⅷ)であり、

「コモンとはすなわち、地球の富や社会的富といった、私たちが分かち合い、その使用を共同で管理運営するもののことである。」(p.5)

「コモンの権利とは、民主的な意志決定手続きによる、富への開かれた平等なアクセス権のことだ」(p.124)

と定義されています。

とりあえず一般的な「コモン」の議論で言われているのは、SNSなどのプラットフォーム。これが<コモン>として、国家の管理でも私企業の管理でもない、社会的な共同管理・共同統治の下に置かれるべきだという話は、分かりやすいし賛同の多い意見だと思います。

ネグリ&ハートの議論が面白いのは、かれらの見立てでは、現在の資本主義の発展によって、生産様式が「社会的」になっている(「社会的生産」の領域の拡大)。だから、新たな「社会的共有(コモン)」の創設が可能だし必要だとされているところです。

詳しく見ていきましょう。

「資本主義的発展が私的所有の基盤を掘り崩し、オープン共有可能な<共>的な富(common wealth)の諸形態に適した潜勢力が作り出される」(p.ⅸ)

「資本はあらゆる社会的協働形態がより大きくなっていくことを必要としており、それらの形態には政治的な組織化と政治組織の基盤を形成することのできる潜勢力が宿されている」(p.ⅸ)

生産様式が社会的になっているから、そこでのつながりがマルチチュードの「潜勢力」にもなりうるはずだという論理展開になっています。

ところで、「生産様式が社会的になる」とはどういうことなのか? かれらによると、

生産が<共(コモン)>になりつつあると言うとき、……それが意味するのは、生産原理とその重心が変移し価値創造がネットワーク状につながった主体性を活性化し、それがともに生み出すものを捕獲し、吸い上げ、そして共有することをますます含意するようになっている、ということなのだ。(p.52)

と説明されています。例えば、SNSインフルエンサーがフォロワーとのコミュニケーションの中で、フォロワーの需要をくみ取りながら新たな商品を作り、その商品を組み込んだ彼女のライフログみたいなyoutube動画が享楽されるのと同時に、その動画が拡散して商品が売れ、その商品やインフルエンサー個人の物語が人々に共有されてコミュニケーションされていく......というようなことが、「ネットワーク状につながった主体」による「価値創造」によって資本主義が回っている、ということにあたると、さしあたり解釈することができそうです。

そして、このような価値創造をもたらす社会的つながりが、マルチチュード(政治的社会的運動体)をもたらす潜勢力にもなりうるんだという話だと私は理解しました。

もちろん現代の全ての労働が社会的労働になっているわけではなく、むしろそれはごく一部なのですが、「社会的生産」の領域が広がりつつあり、その協働のネットワークが「社会的ユニオン」や「社会的ストライキ」をもたらす潜勢力になりうる(ちなみに、その社会的ユニオンやストライキをもたらしうるのが「マルチチュードの起業家活動」です、p.200)という論理自体は、現実的な現代の運動の可能性とロジックを描いているのではないかと思いました。これが、社会的生産に基づいた社会的共有(コモン)の創設へという議論の骨子です。

 

この話の筋が面白い理由は、第一に、既存のネオリベ批判を越えた、建設的な未来像の方針の提示になっているからです。ネオリベ批判のひとつに民営化批判というのがあります。国営だったものが民営化され、公的なものが市場原理に飲み込まれていくことを問題視してきました。国鉄民営化反対、郵政反対、水道事業民営化反対などなど。このような民営化を進める与党を批判する左翼は、「じゃああんたは何を求めているの?」と聞かれると、公的なものの領域を守れ、福祉を手厚くして再分配をきちんとせよ、大きな福祉国家を維持せよという社会民主主義的な主張を述べてきました。

それに対して、ネグリ&ハートは、公的なもの(国家の領域)の復権という方向ではなく、<共(コモン)>という、私的所有を組み替えた新たな社会的所有というあり方を提起しています。私もこの方向の方がいいと思います。(社民党の国会での議席が3とかしかない現在の日本において、社会民主主義的な主張をすることにはあまり希望が持てないというのもあります。)

さらに、この議論が面白い第二の理由は、コモンの構想は、既存の私的所有概念や主権概念の組み直しを必要とするということをネグリ&ハートが論じているところにあります。この点は、社会思想史的に重要ですが、長くなるので別エントリーにします。

さいごに

結局のところ、この分厚い本が主張していることを一言で言うならば、「左翼は権力を奪取せよ、しかしこれまでとは別の仕方で」ということです。左翼は権力を奪取すると、権威主義的な既存政党のような組織になってしまったり、政権運営能力がないことが明らかになってしまったり、できる経済政策の自由の幅はそんなにないということが明らかになったりですし、選挙のたびに負けることが多いので敗北感からの諦めに満ちてしまうことも多いです。それに対して、ネグリ&ハートは「棘を抜いて傷を癒そう」と述べます。これは、けっこう私には刺さりました。以下の箇所を夕方にビールを飲みながら、ちょっと油断して読み直していたら、思わず涙が出ました。そういう刺さり方でした。

「人々を活気づける解放運動の残した苦さ」「失敗に終わった革命プロジェクトや、有望ではあったが内部で腐敗し、分裂した組織の残した苦々しさ」「私たちは組織に対するこうした反発を理解できるし、これらの敗北の多くを通じて、彼ら/彼女らと一緒に生きてきた。だが、敗北に打ち負かされてしまうことなく、敗北を認識しなければならないのだ。棘を抜いて傷を癒そう。……組織を拒否する社会運動はたんに無益なものであるばかりか、それ自身にとってもその他の組織や人々にとっても危険なものなのである」(p.22)

次のエントリーでは、所有概念と主権概念をどう組み直すべきだとネグリ&ハートが主張しているのかをまとめます。

ytakahashi0505.hatenablog.com

*1:ということで、日本の社会的起業家やNPOは、もっと報酬面で評価されるべきであり、社会的課題解決をしているという意義の度合いに応じて、もっと金持ちになるべきだと思います。今の状況は、かれらの優秀さと労働量、社会的意義の大きさ(地域の人々からの感謝され度)に照らして金銭的報酬が少ないという意味で不公正です。かれらがお金持ちになれるような社会制度を備えればこそ、そのようなビジネスに取り組む若者も出てくるので、報酬面は重要です。今のところこのNPO周りの報酬改善策として思いついているのは2つで、一つは補助金助成金を1年単位で使う必要があるという制度の見直し。もう一つは寄付金に関する税制上の扱いの是正。税控除等を効かせることで日本の寄付文化の規模を大きくし、政治家への献金・寄付ではなくNPO等の社会的団体への寄付額を大きくする必要があると思う

*2:→そうなると、かつて盛んに称揚されたジジェクが提唱するようなシニカルなイデオロギー理解(メタ的な視点に立ったイデオロギー理解)とかはどこまで有効なのか?という問題が出てくるような気がします。シニカルなイデオロギー理解とは、イデオロギーは、その真偽はともかく、人々がそれを信じていると人々が信じられる限りで機能しているものであるというようなもの。