フライデー!
昨日やっと風呂に行ったので今日は
もうどうでもいいというか熱い日になることはわかっているが
しょうがない系である
帰りに図書館Aでもいってブルータスでも読みたい気分だが
あれが月2回刊としていつ発売しているのかいまだに
知らない
いろいろ「これがあればなんとかやっていける」(精神的な意味で)
というものについて昨日あたりから考えている
人間が「~もういやだなあ~|」と思って
それをやめる/続ける
のところには精神が最終的にそう思う/判断するのだと思うのだが
そうなるまでのところに外部)(それをやめる選択肢があることを知っている/それをやめたいといったところで不可能だ)のことがあるので
外部によってそれができないことがわかっている場合には
それをいかにしてなんとか耐え忍ぶしかない(なんとかそれが外部要因の変化によっておわらないものか)と諦念してやりすごす(なるべくなにも感じないようにする)のではないか
オレが想定するシチュは
・シベリア抑留
・小学校(’とくに日本の)
というところである
これを並べて比較するのはおかしいという点もあるが
結果としてシベリア等の抑留者はスターリンの死によって
日本への帰国が実現した(生きてるやつだけ)
小学校はとくに日本では抑圧的にはたらいているのでそこに行きたくない
と言ったところでいかされるのがオチであり6年の収監が終わるまでは終われない
どこか好きなところにいきたいと思っても小学生の身ではいけない
中学生でもいけない
高校生の年齢になってやっと少しは労働の可能性があるゆえどこかで生きていける方法を・・・とか知らないままオレは夢想することがよくあった
ここではないどこかで生きていくためには金(食糧)と家(賃貸)が必要だろう
ということは分かっていたからである
具体的にこの親の家を出ていくためには何が実現すればよかったのか?
といつも考えていたが結局最終的に「学校なるものが終われば”仕事する”人間というものになりそれを世間は社会人と呼んでおりいいだろそれなら」
ということでオレは就職した会社を半年でやめたのだが
それはオレにやめる「自由」があったからそうしたのであって
そこでなんか「親の親権的な」ものがあると信じていた親は怒りみたいのをぶつけてきたのだが
よく考えたらおかしな話でオレの自由に対して
怒るのはおかしい
まあいま考えればショックが怒りの形でしか出せなかった(表現できなかった)のだろうし
ショックというのはそういう選択があることを想像もできなかったから
でしょうからね
株をもってたら下がる前に売るのがオレの考えなので
そのくらいは当たり前だ
なんかいまちょっとした株価・投信価格の下落が
おきているのだがさっそく新NISA元年なのにもう積立を解約する人
がいるらしいよという話が大笑いで
手数料貴族だねえ==~という話である
数年もちこたえるのが投信だし長い目でその資金ほっとける余裕もねえなら
やめちまえという話
オレはノーポジなので気楽だ
あらためてのこの下落ムーブの中にいまいると
思うが
ポジションをもっているのことはろくなもんじゃないね
まさに
「資産」がオレ以外の要素で勝手にあがったりさがったりするなんてね
バカみたい
オレのもっている真の資産はこの脳と手と足とつまり身体
であって仮にいまこれを「占有して使用している」のが真の資産であって
これを活用して脳をうごかして筋肉を使用して50代であろうとなんだろと
筋力はつかえば増加することを身をもってオレがしってることをまさに体験で
証明している感がある
つまりもってるのも増加させてるのもそれを体感(’変化をかんじる)のもすべてオレなのである
資産はもし外部要因によって金の額面がふえたとしてもそれを利確して
使用する(使用するために増やしてるんだろ?)ところまでをやり終えてはじめて「運用と活用」したことになるのだが
それこそオレの親的に「額面が増えた!」だけで嬉しくなっているのは
なにもやり終わっていないということで
いつまた減るのかわかんないし
増えた分を「活用」して自分のため(あるいは自分につながっていると
信じている部分のため)に金の効用を実現するところまでやってはじめて
運用だといえるのではないか
オレはそれが「旅行」とか「本を買う」だと信じているのでそれをしている
すべての旅行と読書はオレにとってかけがえない一回性の体験であり
記憶はのこり
残った中でまたさらに強いものがオレの脳になんかいも訪れるので
それをかみしめながら生きていくことができる
何度でも
それは金を使った費用として交換したその実際に手元からそれがなくなって
なくなったからはじめてそれにかわる「効用」を得ることができた
できたから記憶満足感もここにある(脳にある)のである
おそらくオレの親の思考の心情は
信条は
これとはぜんぜん違う回路なのであるオレには信じがたいものばかりだ
が
人は全員がそれぞれ違うのであると思えばそれもまた実在なのだが
・永遠に生きる(かのように)
・永遠に生きるし健康も保つ(管理 コントロール)
・永遠に生きるがために所属する組織にこだわりをもちそこで指導的立場を確保したら手からはなさない
・永遠に生きるのために資産を永遠に額面でふやしつづける
・永遠に生きるために証券会社と関係をよくする/若い女性が担当について高齢者男性にサービスしてくれる内容を十全に受け入れる
金融商品について吟味するのではなく担当者女性がカイシャで有効にやっていけるようにその商品を唯々諾々
列記していてなんかこう戯画的というか
オレのほうの認識の歪みというか
歪みがあるのはあるが
(感情)
じゃああっちに歪みがないかといえばあっちにもあるわけで
では両方とも歪んでいたらいっそ「基準」などどこにもないわけではないか
なあ
そういう話を書こう