サバイブ

とはいえサバイブにはいろんなことが必要なのである

 

そこはしょうがないね

「何がいちばん忌避」かも人間によって違いがあるし

Adoちゃんが顔出しと他人のいるレコーディングを嫌うのは

そこにこそAdoちゃんとしてのアイデンティティがあるからではないか

(他人はそうは思わなくても)

 

オレは顔出ししないこととアーティスト活動は両立すると思っている(じっさい狼の仮面をつけるとか髪で目かくしして目を出さないとかいろんな方法が

ある)が

なぜシルエット檻の中方式にしたのかさっぱりわからぬ

どっちにしろ声で声バレしかけているのも事実である

(本人がラジオでいった)

 

さてまあ水曜日は水曜日だもう冷蔵庫がからっぽだ

でもまあてきとうに保存食糧をくうという手があるでよあめでお

 

今日は図書館がおそいよ!まあ雨んなかだが

それはそれとしていいかもしれないね

毎日スタバにいくわけにはいかないんだから

まさにサバイブ

 

たのしいよていを考える

3 図書館に本返すー名古屋にいって「Here」をみる(どんなものかまるで事前情報なし)

4 大阪にいってライブ(泊まる)

5 大阪で中之島~=~=には行かずそこから東京にむかって東京から千葉

DICでカール・アンドレ展をみる

6 神保町で映画・・は見ない

 

なんにせよ選択である すべてはできない選ぶしかない

たまには新大阪から東京までのぞみにのってみたいね(すぐ着いてしまう!)

地獄的「人間社会」

それこそ「警察は警察官であることを

あたかも市井の人間より偉い立場をもっている人格1ランク上である

かのように勘違いして行動する」(比喩ではなくリアルで)

のと同じように

「市役所における生活保護の担当官は自分が違法行為をしていることを

認識しないであたかも社会正義のために受給者を叱責し違法な一日

千円支給と恫喝をくりかえしそれにたいして違法行為であると認めない」

(比喩ではなく実際の群馬県桐生市の行為)

 

入管における疾患ある人間を監禁放置の上死なせる入管(実際の事件)

とも共通するなにか公的な権力は自分にそなわった拡大自己

であるとみなすタイプの害悪であるが

こういう人間~あるいは人間はこういう立場に立つとそうなる~

しかもそれは公権力だけではなくあらゆる「組織」で

という点では人間の社会は地獄そのもの

 

だなあと思う次第

5月1日(水)

は~~水曜日ですね

5月ですね

フレーズにまどわされてはいけない

あれは宣伝文句だ

「風薫る五月」

 

そういうことで

 

右ひじのヒフ疾患の様子は

よくなっているような気もするが

見た目が変わらぬ

のでまあこれ悪化させないように

するのは大事だがそのためになにをしたらいいのやら

である

アル綿でもかってみるか>?

ヒリっとするだろうね・それは快感でもあるのだが

移住と家建築と移動古書店のような自営業とか

フロが休み(いつもいくフロ)なので

スーパー銭湯いって寝湯でごろーんして

だらーんしていた

 

そしてかえってきて家計簿(4月)まとめて

夕食(温めるだけ)くった

もうねる=~

テレビつまんねえから録画の「美の壺」みてる

「巨石」だそうです

 

なんか石工をやってる人が沢山出てきたが

ついにイサム・ノグチといっしょに石をやってた石工の人が出てきて

この人(和泉正敏さん)はノグチのすすめで石で家を建ててしまった

自宅

でかい石とか石とか石だけでつくった家でこれはすごいね

見てるだけですごい

ちょっと重厚すぎて他の人は住めなそうだけどね

 

美しすぎる空間もまた居住には向いていないのではないか

とかね

 

タイトルに

移住と家建築と移動古書店という3つを書いてみたいが

どれも実現したいが移住あってのものである

その上で家が建てられたらいいなあと移動古書店ができたらいいなあと

思っているわけである

しかし移動古書店のほうが書く生業(たとえば受賞して)よりは

可能性があるかもしれませんね常識的には

しかしそこで常識的なそれではなく

オレは「やりたい順序」で選びたいので書く生業を先にすすめるのである

 

まあそうするしかないね

移住はあくまで「その土地に住む生きる」があってそれあれば

ひとまず家が建たなくてもそれはそれなのだ人間がその土地にいることが

重要なので

でも家がたったらいいね(あこがれ)

移動古書店は是非やりたいとは思うが

なんか職があったほうがいい(バイトで人に使われるよりは)

と思われるって話のないようであって

別にセコマでバイトでもいいわけだが

いろんなところいろんなことに分散させたほうが

たぶん合計がうまくいくのではないか

またかんがえよう

じゃあおやすみ4月はおわり

移住の考察

まあそういう重要な映画

時々あるってことよね

 

午前中仕事ゴミ拾いしながら

移住と定住化とそこで死んでく覚悟について

考えてた

ここでは死にたくない

というこころと

このアパートには永遠にはいられない

のこころ

場所

探すしかないのだ自分の土地をね

プレハブってレンタルのあと返せるの?

お金

相続が原資かなあ(身も蓋もない現実)

そんな他人(親)に依存するのは

イヤだなあ~

 

そんな昼やすむであった

やすむ休憩

 

その後

移動販売古書店のことを

考えるのであった

とまれ

古書販売の警察許可のため場所をいったん

確定する必要があるね

 

今度聞いてみよう知り合いに

映画「PAST LIVES 再会」の感想つづき

PAST LIVESの感想つづきである

 

アトロク2での宇多丸評をきき

尼は泣き坂はまだ中途だが

オレがどこのシーンにいちばん惹かれるのかわかった

それは

NYについたばかりであろうヘソンが

雨ばかりのNYで

ひとりでファストフードでメシにしている(イートイン)

ところのシーンひとりでいる口にドッグみたいななにかをくわえている

それを斜め上のマドの外あたりから撮影しているショット

 

彼はNYにきたとてどうしようもなくてしかもノラ=ナヨンの夫婦に

いくから会おうと連絡しているにもかかわらず「何で来るのかな>?」

「観光?」とか言われている立場である(ナヨンが実際に何を思ったか

にかかわらず)

 

かれは絶対うまくいかない関係性であるにもかかわらずただナヨンの

顔がみたいだけなのである

それでその後どうにもならんこともしっているのである

 

それでもひとりできてしまって

一人で観光でもなく行動している男のアジア人がNYでいかに

たよりなくよるべなくみえるのかがそのファストフードのシーンである

それはオレだ

オレがなんどとなく

これまで何度もあじわって

おそらくこれからも場合によっては何度も味わうであろうとかいの

都会にいて誰ともつながっていない人間のシーンである

 

それを「かなしみ」とかいうのはすごくもんきり型であって

しかし実際に「かなしみを具現化したもの」であることもそうであって

 

哀れというのは違うと思うのである

哀れはおろかさが入っているが

かれはおろかであったとしてもそうしないではいられないのであるから

 

というかかれにしてもそうしないともうそこから一歩も

うごけないのである

(ナヨンはかれが来ても来なくても動ける)

 

そういう非対称性であって

まあユダヤアメリカ人のだんなもナヨンがノラがいないと生きていけない

わけだが

 

なんかこう~

そういう非対称性についての映画なのかなと思うのである

もうヘソンからみてナヨンは上を見上げて仰ぎ見る存在というか

オレなんかがいてもいなくてもなにもかわらないことを

顔をみてみせつけられるだけのことなんだと

 

そういう感じはオレはオレのものとしても感じることができるので

すごくマジそれ痛いし痛いね

と思ったんだ

 

そのくらい大きいなあと思いました

 

それこそなぜThe Breakfast Clubがオレにとってのオレの映画なのか

といえばあそこにいるやつらは全員がオレだからということなんだ

それは感情移入とかではなく

まさに憑依であって演技としてあのような行動がオレもまた同じだ

同じことを考えおなじように思い

あの学校の校舎に誰もいない休日であればおなじように動きたくなり

女子がいれは女子にはなしかけたくなるのである

 

それは感情移入なんかよりもっと強いものなのである

 

おなじように「みなに幸あれ」で古川琴音さんがさいごについにあの

村のやつらと同じようにいけにえの体を器官を縫うシーンで

あそこまでにいたってオレも最終的にはおなじようにあの村の

一員になってしまうんだろうきっとそうとりこまれる的な・・・

と思ってしまったところでもうその映画が一生わすれらんなくなるわけである

 

そのときオレもそうするだろうみたいな気持ちが

ぐわりと湧き上がる瞬間が映画の

そのおそろしさみたいなことだと思うの代理体験としての映画で

あるのにもう代理を越えた力がおしよせるような津波のような

とりこまれる